悪役令嬢ですらない、エンディングでキーッとハンカチを噛むモブ子に転生したので、せいぜい派手に悔しがってやろうと思います
――あれっ? ここってゲームの世界じゃない?
「学園恋物語バルバロイ」というゲームがある。中世ファンタジー風世界の学園を舞台にしたいわゆる「乙女ゲー」。プレイヤーはヒロインを操作して、王子や貴族と学園でイチャコラして結ばれるというありがちなやつ。私はどうやら、この「バルバロイ」の世界に転生してしまったようだ。
なぜそれに気づいたのか?
まず、私の名前である。
あああ。
なんか、急に叫んだ変な人みたいだけど、「あああ」。これが私の名前らしい。学友たちは「マリアンヌ」だの「マーガレット」だのカタカナの欧風な名前がついてるというのに、なぜ私だけひらがな。世界観ぶち壊しだけど、周りの人間は誰もその違和感に気づかないようだ。
最後にプレイした時、酔っ払ってて。
キャラメイクがめんどくさくって、ついこんな名前を――。
……。
ま、いいや。
悔やんでも始まらない。
前世の私はふつーのOLをやっていた。可もなく不可もなく恋人もなく、な前世に未練なんてない。ゲーム知識を活かして「あああ」としての人生を楽しむことにしよう。推しキャラに会えるかもしれないし。
――ところで。
私はいったい「誰」に転生したのだろう?
普通に考えれば、主人公であるヒロインに転生というのが妥当なところだ。
しかし、学院寮の部屋の鏡に映る顔が、違う。
ヒロインの顔じゃない。
「えっ……誰なの? これ」
これといって特徴のない少女の顔がそこには映っている。ブスでもないけど美人でもない。「オール3」をそのままビジュアル化したような容姿だ。
こんなキャラ、いたっけ?
いろいろ頭を悩ませて、ようやくわたしはひとりのキャラクターのことを思い出した。
公爵令嬢エリス・マーガロイド。
……の、取り巻き。
エリスの取り巻き、腰ぎんちゃくのひとりに、確かこんな顔の女の子がいたはずだ。
エリスは悪役令嬢である。およそどのルートでもヒロインの邪魔をしてきて、ヒーローを奪おうとする。
私はその悪役令嬢の取り巻きとして、エンディングのイベントスチルに登場する。
このゲームの顔であり、私の推しでもある「キース王子」と結ばれたヒロイン、その隣で恋に破れて打ちひしがれる悪役令嬢――の、さらに隣で、悔しそうにハンカチを噛んでいる名も無きモブ。
そのモブ子が、どうやら「私」のようなのだ。
「なぁんだ、がっかり」
せめて名前のある役が良かった。
せっかく転生したのに。
ヒロインとは言わない。悪役令嬢にでも転生できていたなら、ゲーム知識を活かして推しと結ばれるルートもあったでしょうに。名前もない、メインキャラとも絡まないモブでは何をどうしたものやら?
とりあえず。
自分の役割を全うするところから始めましょう。
この部屋の日めくりカレンダーが正しければ、今は帝国暦210年の3月2日。卒業式の前日だ。明日の卒業式で、ヒロインはもっとも「親愛度」が高いヒーローから告白されることになる。悪役令嬢エリスは、その告白直前にしゃしゃり出てきてヒロインを罵倒し、ヒーローの怒りを買い、これまでの数々の嫌がらせを断罪されて「ざまぁ」される。
私の出番は、その後だ。
せいぜい、思いっきり悔しがってやりましょう。
◆
で。
心の底から悔しがってみせるにはどうすれば良いのか?
大切なのは「感情移入」だ。
「なんで王子があんな女と結ばれるのよッ、許せないわキーッ!」「王子にふさわしいのはエリス様なのにっ!」という気持ち、悪役令嬢エリスへの強い同情があれば、きっと、味のついてないハンカチでも美味しく噛むことができるはず。
理屈のうえでは、そのはずなんだけど。
「……うーん……」
自信がない。
エリス様に同情する自信がない
だって、彼女ときたら、正真正銘の「ドクズ」なんだもの!
私が今までやってきた乙女ゲーのなかには、同情できる悪役令嬢もいた。ヒロインより人気が出ちゃう悪役令嬢すらいたりするのだけど――このエリス様ときたら、好きになれる要素がまるでない。
学院に編入してきたヒロインとのファーストコンタクト、つまり初登場シーンからして「あら? こんなところにセミの死骸が落ちてると思ったら、なあんだクソ庶民じゃないの!」と、いきなりプレイヤーの分身をカメムシ目セミ科の昆虫に例えてくるハイセンスを発揮してくれて、この時点でもう「ないわー」って感じなんだけれど、クリア2周目では「ヘラブナの死骸」3周目では「ミドリガメの死骸」という風に昆虫→魚→爬虫類と謎のステップアップを果たし、シナリオライターのこだわりを感じさせてくれる。何故そこにこだわってしまったの?
まぁ、そんな感じだったから、人気は皆無だった。エリス様のグッズ、いつもアニメ●トで売れ残ってたし。ていうか出す方も出す方よメーカーさん。なぜいけると思ってしまったの?
「…………」
ともかく、直接本人と話してみましょう。
実際話してみたら、ゲームとは違って良い人だったっていう可能性もあるわけだし。
私は前世で頭に叩き込んだイベントタイムテーブルを参照し、エリス様がこの時期もっとも出現しやすい「学院の庭園」へと向かった。
果たしてそこには、優雅にティーカップをつまみ余裕しゃくしゃくな感じのエリス・マーガロイド公爵令嬢がいらっしゃって――。
「あらあら。クラゲの死骸が歩いてくるわぁと思ったら、なんだ、あああさんですのね」
えっ……。
取り巻きの私もクラゲなんですか。
ていうか、セミからさらに退化してませんか? なにゆえ。
「フフ、そんな顔しないで。軽いジョークですわよ、あさん」
たった3文字の名前なんだから、短縮しないでほしい。
「ところで、例のことはやってくださいまして?」
「例のこと?」
「昨日あなたに頼んだでしょう? もう忘れてしまったの?」
「はあ」
転生したのは、本日のことですので。
「あのドロボー猫の靴に画びょうを入れておくことです」
「……」
いじめのセンスがSYOUWAだわ、エリス様。
こんなテキスト、私は知らなかった。シナリオ達成率は100%のはずだけど、読み落としていたのか。
「エリス様、つかぬことを伺いますがドロボー猫とは?」
「そんなの決まってますわ。麗しのキース王子に言い寄る、あのクソ庶民マロンのことです」
マロンというのが、プレイヤーであるヒロインの名前らしい。
そのプレイヤーが今回めざしているのは、やっぱりキース王子のエンディングのようだ。
「申し訳ありません。まだ準備が」
「はあ? 何をモタモタしているのよこのクラゲ野郎。くーらーげーやーろー! アタシの腰ぎんちゃくをやるしか能のないモブクソ女がぁ!」
すらすらと繰り出される罵詈雑言。さすがにムッときた。思わず「エリス様こそ。近所のアニメ●トでアクスタ20円で投げ売りされてましてよこの不良在庫令嬢!」とか言って差し上げようかと思ったけど、まぁ通じないですし、やめましょう。
「仕方ありませんわね。別のモブにやらせましょう。……ああそうだ。どうせなら画びょうじゃなくて馬のフンでも詰めてやろうかしら。ふふふ、そうよそうしましょう。くっさい足で卒業式に出るといいわアッハッハ!!」
「…………」
どうしよう。
私、この人に感情移入する自信、ない。
この人が王子に断罪されても「ざまぁ」と思いこそすれ、悔しがる自信なんてないわ。
――けれど、悪役令嬢って普通は「こう」よね。
悪役だからこそ「悪役令嬢」って呼ばれてるわけで。実はいい人だったら「実はいい人だった令嬢」になっちゃうわけで。
悪役は、やっぱり「悪」なんだなぁって。
「ちょっと何ボーッと突っ立ってんのよクラゲモブ。さっさと別のモブにそう命令してきて。おら、3歩以上は駆け足! かーけーあーし!」
「はーい」
言われた通り、駆け足で彼女の前から立ち去った。
もちろん、命令は守る気なし。
アクスタ投げ売り令嬢に肩入れする理由はどこにもナッシング。
◆
悪役令嬢のもとから逃走して、ではこれからどうするかというと――。
「……」
そうね、ヒロインにつきましょう。
名前はマロン、だったわね。
明日エンディングだっていうのに今さらかもしれないけど、私の人生はその後も続く。キース王子と結ばれてゆくゆくはこの国の「姫」となる彼女と友誼を結んでおくことは、決して無駄にはならないと思う。
放課後の学院を歩き回って、三年生の教室にひとり座っていたヒロインを見つけて声をかけた。
「マロンさん。ごきげんよう」
返事がない。
彼女はノートに顔を埋めるような勢いでカリカリ書き込みながら、ぶつぶつ低い声で呟いている。
「あの、マロンさん?」
もう一度声をかけると、ようやく彼女は面倒くさそうに顔をあげた。
「誰? あなた。今忙しいんだけど」
「あっごめんなさい……」
おかしい。
ヒロインは誰にでも優しい少女のはずだけど、なんだかトゲトゲしい。
「明日は卒業式だから、寂しくなって。良かったらお話でもしない?」
「しません。名無しのモブがいちいち話しかけないでくれる? イベントじゃないんだから時間の無駄だわ」
「……えっ?」
いま、彼女、イベントって言った?
「まさか、マロンさんも現実世界から転生してきたの?」
「ふうん。あなたもそうなのね」
私は驚いているけど、彼女は淡々としている。
「じゃあなおさら邪魔しないで。明日のイベントスケジュールを立てるのに忙しいの。全部のスチルを回収するのは大変なんだから。わかるでしょう?」
ゲームの最終日である卒業式には、様々なヒーローのイベントが多発する。そのすべてを回収するのはとても難易度が高く、私はいつも一人か二人のイベントだけ見て終わりにしてしまう。
「まさかマロンさん、全部のイベントを見ようとしているの?」
「そのまさかだけど」
「そんなの無理なんじゃ」
「無理じゃないわ。完璧なフラグ構築と完全なスケジュールさえできればね」
彼女の暗い瞳がかすかに光る。
「私、イベントは確実にコンプする主義なの。それがリアルだろうがゲームだろうが関係ない。私にとって『バルバロイ』は遊びじゃないの。ドゥーユーアンダスタン?」
なんて言いながらメガネクイクイしてるけど、あなた、メガネかけてないじゃない……。
つまりところ、彼女は「ガチ勢」らしい。完璧にゲームクリア、イベントフルコンプしないと気がすまないタイプ。私みたいな「エンジョイ勢」とは相容れない。
その時、彼女のお腹がぐう、と音を鳴らした。思わぬところで人間味を見せる彼女、赤面くらいしてくれるかしらと思ったけれど、やっぱりエアメガネをくいくいさせて言った。
「そろそろ食物連鎖しておかなきゃ」
「食物連鎖?」
「俗に食事とも言うわね」
じゃあ食事って言って? 怖い言い方しないで?
「ゲームならプロテインバーでもかじりながらやれたのに。リアルな中世ときたらいちいち食堂にいって食事を摂らなくてはならないなんてね。パンを持ち出そうとしたら教師からお行儀が悪いとか言われてまったく知ったことじゃないのよそんなもの多大なロスだわこれだからリアルはクソなのよクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ」
呪詛の言葉をまき散らしながら、彼女は足早に教室を出て行った。
ある意味振り切っているけど、振り切れすぎてて、尊敬すら覚えるけど、もうあそこまで行くと、私みたいな普通のプレイヤーとはまったく別のゲームをやってるみたいだ。
友達にはなれなさそう、ね。
◆
学院の校舎を出て、私は中庭にやってきた。
「はあ……」
これからどうしましょう。
とりあえずの目標を失って、どうにもこうにも、することがない。ヒロインはハッピーエンド、悪役令嬢はバッドエンドを迎えてひとまずの「終わり」が来るけれど、モブの終わりってなんだろう? このゲームのスタッフはそこまで考えて制作したのだろうか? 5000円もする分厚い公式設定資料集にも、モブ子の行く末なんて書いてなかった。どうしよう。
とぼとぼ歩いていると、広場中央噴水のふちに誰かが腰掛けているのを見つけた。
キース・シュライン王子だ。
心臓が胸のなかでドキン、と飛び跳ねる。
なにしろ彼、キース王子は、私の一番の推しだからだ。
こんなイベントは起きなかったはずだけれど――でも、今の私はヒロインではなく「モブ子」なのだから、ヒロインには起きないイベントが起きてもおかしくない。
それにしても。
こうしてリアルで直に見ると、本当に信じられないほどの美形青年だ。顔つきは凛々しく男らしいのに、切れ長の目のまつげは長く、静かな湖のような蒼い瞳――現実世界のアイドルや俳優なんて及びもしない本物の美形。ぞくりとするほどの色気がその憂いを帯びた横顔にあった。
自分の推しをこうして間近に見られるなんて。
幸せ――というより、現実感がない。ふわふわした気分だった。
その時、彼がこちらを振り向いた。
「やあ。君は……確か、エリス嬢の友人だね?」
「は、はい。あああと申します殿下」
私の顔なんかを覚えてることに驚きつつ、私はお辞儀をした。
「あああ嬢。良かったら話し相手になってくれないか」
「えっ?」
「見ての通り、ヒマを持て余していてね。付き合ってもらえると嬉しい」
緊張しながら隣に座った。ヒーロー中のヒーロー、パッケージのセンターに描かれている王子様、グッズも大人気で1500円のアクスタが3万円のプレミア値で取引されている彼が、グッズすらないモブの私にいったいなんの話があるのだろう?
「つかぬことを聞いてすまないが」
「はい、殿下」
「愛するということは『作業』なのだろうか?」
意外すぎる問いかけに、私はまじまじと王子の顔を見返した。
「いや、その……」
王子は顔を赤くして、気まずそうにえへんえへんと咳払いした。そんな表情をすると、美形が急に童顔に見えてくる。
「すまない。急にわけのわからない質問をして」
「はい、驚きました」
素直な感想を口にすると、王子は苦笑いを浮かべた。
「今から話すことは、誰にも言わないでもらいたいのだが――約束してもらえるだろうか」
戸惑いつつも頷くと、王子はゆっくりと話し始めた。
「私には今、好きな女性がいる」
「はい」
確かめるまでもなく、ヒロインであるマロンのことだろう。
「その彼女とは、この学院で交際して仲を深めてきた。楽しい時間を共有したり、時には苦難を共にした。今はもう、彼女と学院内で会うだけで、この頬が赤く染まるようになってしまった」
「ええ」
わかりますとも。卒業直前のこの時期、好感度はマックスのはず。
「だがな、そんな風に頬を染めつつ――本当の恋をしているという感じがしない。心のどこかは冷めているのだ」
「冷めている?」
「純粋な恋愛とは違う、誰かの作為を感じるのだ。何か仕組まれているような気がしてならないのだ。何者かが書いている戯曲で王子という『役』を演じさせられているだけにすぎないのではないか? 誰かに仕組まれた恋は、本当の恋なのだろうか? そんな風に感じられてならない……」
その真剣な声色に、真剣すぎる表情に――言葉を失ってしまう。
王子は、自分がゲームのキャラクターであることに「違和感」を覚えているのだ。
こんなことって、ある?
……いや、別に不思議なことじゃない。
私だって「現実世界の人間」という意識を持って、この世界に存在しているのだから。
王子が「ゲーム世界の人間」という意識を持って、この世界に存在していても不思議じゃない。
「……ハハ。私はおかしなことを言っているな。笑ってくれて構わないぞ」
首を振って金色の髪を揺らし、王子はため息をついた。
「いいえ。私は笑いません。殿下」
「――」
「笑いませんとも!」
殿下を励ますために、私は声に元気をこめた。
「実は殿下。殿下は私の推しなのです」
「オシ?」
「はい。推し。私の生まれ故郷の言葉で『応援したい人』という意味です」
七人いるメインヒーローの中で、私がダントツで好きなのが、彼、キース王子だ。彼のイラストが発表された時、ひと目ぼれして、絶対このゲームを買おうと決心した。各店舗の予約特典を手に入れるために限定版を5本買った。関連グッズもほぼ揃えた。3年前の話だ。今は当時ほどの情熱はないけれど、それでも推す気持ちは変わらない。
キース王子は、ヒロインと結ばれることによって幸せになる。
躊躇っていた王位に就くことを決意して、万人に愛される王様となり豊かな国を築き、姫と末永く幸せに暮らすのだ。
推しには幸せになって欲しい。
だから――。
「殿下、幸せになることを躊躇ってはいけません。殿下が幸せになることで、とても多くの人々が幸せになれるのです」
王子の蒼い瞳が私を見つめる。
「その多くの人々のなかに、あなたは含まれているのだろうか? あああ嬢」
「――ええ、もちろん!」
王子はぎゅっと唇を引き結び、何かを決意するように深く頷いた。
「ありがとう。君がくれた言葉の意味、考えてみる。――本当にありがとう」
二度も礼を告げると、王子は金色の髪を夕陽のなかにきらめかせて歩き去った。
――ふう。
緊張したけど、言うだけのことは言ったと思う。
「……よしっ」
声を出して、私は気合いを入れた。
推しが、自分の役を全うするのなら、
私も、自分の役を演じきろう。
悪役令嬢の隣のモブとして、せいいっぱい、キーッ、とハンカチを噛みしめてみせよう。
モブという役を全うすること。
たぶんそれが、この世界で、推しのためにできる精一杯のことだから。
◆
そして翌日。
卒業式はつつがなく終了して、場所を学院の講堂に移してアフターパーティーへと移行した。
ここでキース王子は求婚の証である赤い薔薇を意中の女性――つまりヒロインに手渡して、二人は結ばれる。会場中が祝福の拍手をして、悪役令嬢が泡を吹き、その取り巻きがハンカチを噛んでキーッと悔しがるなか、二人は手に手を取って講堂を去って行く。エンディングテーマが流れてスタッフロールが始まる――というのが、「異世界恋物語バルバロイ」のキースEDのおおまかな流れだ。
さあ――。
やってみせようじゃないの。
立食形式のパーティーということで、みんなグラスを片手に思い思いに歓談をしている。私もオレンジジュースを片手に持ちつつ、悪役令嬢エリスのそばに控えて準備する。
エリスはいま、ちょうどヒロイン・マロンに最後のイヤミを言っているところだった。
「あらマロンさん。そんなクソダサなドレスでよくこのパーティーに顔を出せましたわね? とっとと帰宅されてはいかが?」
オーッホッホッ、と高笑いが講堂に響く。しかしマロンには全然効いてなくて――というか、マジで聞いてないみたいで、私は彼女の耳の穴に粘土が詰められているのを発見した。さすがガチ勢、準備いいなあ。
その時、会場内がざわつきはじめた。
人垣が割れて、道ができる。
薔薇の花束を携えたキース王子が、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「ぐふふふ」
下品な声でエリスが笑った。当然自分がもらうものと思い込んでいるのである。そしてその隣で密かにほくそ笑むマロン――この人の笑うところ、初めて見た。そうよね、この時点でもう、ハッピーエンド確定だものね。彼女の完璧なフラグ管理が実ったというわけだ。
この後、薔薇の花束はマロンの手に渡り、エリスはぽかんと口を開けて立ち尽くした後――泡を吹いて気絶する。
私がハンカチを噛むタイミングは、気絶する直前がベスト? それとも気絶した後? エンディングのテキストではそこまではわからない。悪役令嬢の取り巻きモブがテキストで描写されるはずもないのだ。だから、独自解釈のアドリブでやるしかない。
王子が悪役令嬢の前に来る。
だが――素通りする。
王子がヒロインの前にたどり着いた。
ヒロインはにっこりと笑みを浮かべ、悪役令嬢の顔には驚愕が浮かび上がる。
ところが――。
王子は、ヒロインの前も素通りして、私の前で立ち止まった。
「……え?」
ぽかんとする私に、真っ赤な薔薇の花束が差し出されて――。
「あああ嬢。君にこの花束を捧げたい」
会場中がしん、と静まりかえった。
ヒロインも、悪役令嬢も、学友たちも、臨席した貴族や王族たちも――その場に居合わせたあらゆる人間たちが動きを止めて、私と王子を見つめている。何が起きたのかわからない、そんな雰囲気が会場に流れている。
だけど、それは、こっちが聞きたい。
私が聞きたい。
いったい、何が起きたの?
「私と一緒に来て欲しいのだ」
白い頬を花束と同じ色に染めながら、キース王子は言った。
「昨日の君の言葉を、ひと晩ゆっくり考えてみたのだ。『幸せになることを躊躇ってはいけない』と。その言葉に感動した。だから、こうするのが今の私にとっては最善であると思った」
私は首を振った。
「で、ですが王子? 私とは昨日少し会話した程度ですよ。そんな私のことをなぜ?」
「ああ。いっときの熱病、いずれは冷めてしまうかもしれない」
「そ、そうです。今だけの感情でパートナーを定めるべきではありません」
「だが――少なくとも、『今、この時』は本物であると断言できる。純粋な想いであると言い切れる。何者かに仕組まれたニセモノの想いよりは、よっぽど良いではないか?」
王子がちらりとヒロインを見る。彼女は凍てついたように動かない。
私はといえば――情けないことに、王子の顔に見とれてしまってる。一大決心をする時の男のひとの顔とは、こんな風に勇ましいのか、凛々しいのか――なんて、恋人のいなかった前世では味わったことのない想いに打たれて、固まってしまっている。
しかも彼は、私の推しなのだ。
顔も、そして性格も、何からなにまで、私の好みで――。
「さあ、受け取ってくれ」
私に花束が捧げられた。
反射的につい、受け取ってしまうと、王子はひざまずいて私の手の甲に接吻をした。
求婚の接吻だった。
会場から大きなどよめきが起きる。「あの令嬢は誰だ?」「いや、知らぬ」「どこの貴族令嬢なのだ?」そんな声が聞こえる。そういえば私、自分の家柄のこととか何も知らない。だってモブだし、貴族でも庶民でも関係ないと思っていた。
ヒロインのマロンが、ぶつぶつ何かを言いながら虚空を指で連打している。
「やり直しやり直し再起動再起動再起動再起動リセットリセットリセットリセット」
どうやらリセットボタンを探しているようだ。その目はうつろで、血走っている。ゲームってここまでガチでやらないといけないのかしら、なんて思う。
そして悪役令嬢エリスは、ハンカチを取り出してキーッとか言いながら噛みしめて――あんたがやるんかいって、突っ込みたくなった。私の役目、奪われている?
「さあ行こう!」
私の手を取って、王子は走り出した。
――本当についていっていいのだろうか?
よくよく考えれば、王子と結ばれるってことはこの国の王妃になるってことだし、それはそれで大変そう。私はむしろ庶民として田舎でスローライフするのがあってるんじゃないか――なんて色々な想いが頭をよぎるけれど、王子の広い背中を見つめていると、手を振りほどく気にはなれなかった。
――ま、いっか。
――その時はその時よね。
王子の言う通り、「今、この時」の気持ちを優先しよう。
……でも。
「もう、この手を離さないぞ。あああ」
――やっぱり、名前は、ちゃんとつければ良かったな。
お読みいただき、ありがとうございました!