07:気配を消す奥様
翌朝、さっそくシャーロットはアランス家へと向かった。
やはり兄のロジェはまだ眠っていたが、事情を知った妹アナスタシアや両親が遠慮無しに起こしてくれた。半ば強引な起こし方だったが、説明を聞いたロジェはこれまたやはり「可愛い妹夫婦のためなら」と笑って許してくれた。
そうして参考になりそうな本をいくつか貸してもらう。それを持って意気揚々と帰り、今日は天気が良いからと庭で本を読んでいた。
さすがは騎士の読む本だ。内容は今までシャーロットが読んできた本とは全く違う。
「足音を潜めて相手に近付く……。気配を消すのは難しくても、これならすぐにでも出来そうだわ。……あら、あそこに居るのは」
中庭の一角を歩いているのはキールだ。
どうやら庭の改装を相談しているのか、庭師のディムと並びながら歩き、時に草花を覗いたりしている。
彼の姿を見つけ、シャーロットはさっそくと立ち上がった。その際に椅子がガタと音を立てたので慌てて椅子を押さえる。
そうしてそろりそろりとキール達に近付き……、
「シャーロット、そこに居たのか。今ちょうど庭について話をしていたんだが、貴女の意見も聞かせて欲しい」
と、くるりと振り返るや話しかけてくるキールに対して、シャーロットはむぅと眉根を寄せた。
「……どうしたんだ?」
「私、いま足音を忍ばせてキール様に近付いていたんです。それなのにキール様ってば驚くどころか当然のように振り返って話しかけてくるなんて……」
「足音を? どうしてそんなことを」
「気配を消すためです。まず初歩からこなしていこうと思いまして」
得意げにシャーロットが語り、持っていた書物を彼に見せた。
「これは……。懐かしい、騎士隊に入隊した当時に読むように言われたな。ロジェ殿に借りたのか?」
「はい。まずは基礎を学ぶべきだと言われて先程まで読んでいました」
「そうか、ロジェ殿はわざわざ新しいのを用意してくれたんだな」
シャーロットから本を受け取ったキールが軽く眺めながら「優しい方だ」とロジェを褒める。
本の目新しさから新品と判断したのだろう。
確かに、ロジェから借りた本は綺麗でどのページも折れや劣化は見られない。本屋に置いてあっても誰も疑問に思わず手に取るだろう。
もっとも……、
「それはお兄様が騎士になった日に買ったものです」
「……読んだ形跡が見られないんだが」
「読んでないからですね」
はっきりとシャーロットが断言すれば、キールが僅かに言葉を詰まらせ……、無言でそっとシャーロットの手に本を戻してきた。
「それで、この本を読んで足音を忍ばせて俺に近付いたのか」
「はい。後ろから声を掛けて驚かせようと思ったんです。初手は失敗ですが、まだめげませんよ」
たった一度の失敗でどうして挫ける必要が有るのか。
そうシャーロットは気合いに満ちたまま「ではまたお茶の時間に」と品良く頭を下げて戻っていった。
もちろんそろりそろりと足音を忍ばせながら。
今回はキールには気付かれてしまったが、こういう事は常日頃から意識して行うことで身に着くのだ。
それから数時間後、シャーロットは屋敷内を歩くキールの姿を見つけた。
お茶の時間だ。
多忙な彼だが、食事やお茶と言った時間はきちんと取っている。もっとも正しくは、多忙ゆえにせめてその時間だけは必ず取るように決めている、といったところか。
これはシャーロットと過ごすためである。
庭師のディム曰く、シャーロットが来る前のキールは元より多忙なところに更に自ら仕事を抱え込む傾向にあり、食事も仕事の片手間に済ませ、お茶を飲んで一休憩などもってのほかだったらしい。
「私との時間をわざわざ取ってくださるなんて優しい方」
キールの後ろ姿を見つめ、シャーロットはほぅと吐息を漏らした。
だが次の瞬間にはキリリと表情を真剣なものに変える。
「ですが今だけは驚いてもらいます!」
お覚悟を! と小声ながらに宣言し、シャーロットはキールの後を追いかけた。
もちろん今回も足音を忍ばせて。そろりそろりと通路を歩き、背後から声を掛けて彼を驚かせるのだ。
一度失敗したものの、あれ以降シャーロットは足音を忍ばせる特訓をしていた。
自室内を何周もし、時には屋敷内を歩き、庭にも出てみた。慣れぬ歩き方を続けるのは大変だったし足は疲れたが、そのかいあってコツは掴めた気がする。
現に今も足音はたっていない
実際には質の良い絨毯が敷かれているため足音を立てるほうが難しいのだが、シャーロットはそれに気付かずそろりそろりとキールへと近付いた。
ゆっくりと、
足元に意識を集中して、
だが上半身が疎かになって物音をたてては意味が無いので、そちらも気を付けながら、
一歩一歩、慎重に。
…………その歩みの遅さと言ったら無い。
「キール様との距離が……!」
誤算! とシャーロットが心の中で声をあげる。
慎重に歩くシャーロットを他所にキールは足早に屋敷内を進んでおり、それどころかあっさりと一室に入ってしまった。背後から声を掛けるどころではない。
そのうえティートロリーを押したメイドのティニーにまで追い付かれてしまう。
主人を追い抜くことに抵抗があるのか、ティニーは不思議そうな顔をしながらもシャーロットに並ぶとゆっくりとティートロリーを押して並走しだした。
「やはり一日にして物にしようなんて浅はかだったわ……」
「よく分かりませんが、どうかお気を落とさず」
よく分かっていないティニーに励まされながら、シャーロットは一瞬俯き……、
「でもキール様が振り返らなかったという事は、私に気付かなかったという事よね。つまり成長はしているんだわ!」
と、前向きな思考に切り替えてパッと顔をあげた。
ティニーがやはりよく分からないながらに「ようございました」と成長を祝ってくれた。
それ以降もシャーロットはずっと足音を消してそろりそろりと歩いていた。
お茶の後は自室と屋敷内で訓練し、夕食の場にもそろりそろりと歩いて向かった。もちろん食べ終えて自室に戻る際も忘れない。
◆◆◆
そんな一日を終え、翌日。
シャーロットがそろりそろりと屋敷内を歩きながら朝食の場に向かっていると、背後から名前を呼ばれた。
不意に聞こえて来た声に驚き、思わず「きゃっ!」と声を上げて飛び上がってしまう。
「す、すまない、シャーロット。驚かせてしまったか」
謝罪をするのはキールだ。
「いえ、私の方こそ驚いてしまって申し訳ありません。集中して歩いていたものですから、つい」
「そうか。しかし今日も足音を消して歩いていたんだな。貴女は根気強い方だ」
昨日シャーロットは一日中ずっと足音を潜めて歩いていた。その姿をキールは何度も目撃している。
そして昨日だけでは終わらず今日も続けているのだ。
キールがその根気強い姿勢を褒めれば、シャーロットは「そんな事はありません」と否定をした。
「今日は違うんです」
「違う? だがさっき足音を潜めて歩いていたじゃないか」
不思議そうに尋ねてくるキールに、シャーロットはふぅと深く溜息を吐き……、
「今日は、筋肉痛で上手く歩けないんです……」
と、物憂げな声で答えた。
昨日一日、慣れぬ歩き方を続けていた。音をたてるまいと慎重に足を動かし、一歩ずつゆっくりと地面を踏み、またゆっくりと足を上げ……。
その歩き方で部屋や屋敷中、時には庭にも出ていたのだ。
おかげで、今朝シャーロットは酷い筋肉痛でベッドから降りる事もままならなかった。
とりわけ酷いのは酷使した足だ。力を入れると太腿と脹脛に言い知れぬ痛みが走り、それを庇うように動こうとすると今度は腹筋が痛む。
そんな体でもなんとかベッドから降り、着替えや身支度を済ませ、朝食の場に行こうと通路を歩いていたのだ。
シャーロットがそれを語れば、話を聞いていたキールはなんとも言えない表情を浮かべた。
「それは……、俺のせいで苦労をさせて申し訳ない」
「キール様が謝ることではありません。これは夫婦の問題を乗り越えるために必要な痛み、愛の代償です」
「愛とはそういうものなのか?」
「そういうものです。あと私の今までの運動不足によるものでもあります」
「そうか……。でも俺のせいでもあるから、せめて俺もゆっくり歩こう」
そろりそろりと今回は筋肉を気遣って歩くシャーロットの歩みは遅い。昨日の足音を潜めて歩く時よりも遅い。
そんなシャーロットに並び、キールは一歩進むとシャーロットを待ち、また一歩進み、待ち……、と、シャーロットに負けぬ遅々とした歩みを見せた。
屋敷は大豪邸というわけではないが、それでも相応の広さはある。朝食の場に行くにはこの歩みでは時間が掛かりそうだ。
「いけません、キール様。朝食が冷めてしまいます」
「俺は食事には拘らないから問題ない。それに、愛を知らないとはいえ、俺のために努力してくれるシャーロットを労うぐらいの甲斐性はあるさ」
「キール様……。でしたら、エスコートをお願いできますか?」
キールの優しさを感じながらシャーロットがそっと手を出せば、意図を察した彼が手を取ってくれた。
節が太く、厚みがあり、硬い、大きな手。筋肉痛で歩くのもままならないから尚のこと、なんて頼りがいのある手だろうか。
その手に支えられながらシャーロットは一歩また一歩と進んだ。朝起きた時は筋肉痛で参ってしまったが、今となっては筋肉痛万歳だ。――もちろん今後は筋肉痛にならないよう、適度な運動と無理のない程度の練習を心掛ける予定だが――
「これはエスコートというより歩行補助と言うんじゃないか?」
「エスコートです」
「そうか、シャーロットが言うならきっとエスコートなんだろう」
シャーロットがきっぱりと断言すれば、これ以上の反論はするまいと考えたのかキールが素直に認めた。
そうして彼がまた一歩進む。
歩幅が違う上に筋肉痛のシャーロットは支えられながらちょこちょこと彼に付いて歩いていった。




