06:その日の夜
共に暮らしはじめて最初の夜。
「一緒に寝てはくださらないんですか?」
シャーロットが枕を抱きしめながら尋ねたのは、キールの部屋の前でのこと。部屋の主はシャーロットの訪問と更にはこの言葉に驚いたように目を丸くさせている。
キールは既にラフな寝間着に着替えており彼が就寝直前だったと一目で分かる。ちなみにシャーロットも寝間着を着ているが、屋敷の中とはいえ人目があるからと丈の長いカーディガンを羽織っている。
「一緒に、とは、俺とか?」
「はい。私てっきり寝る前にメイドが案内に来てくれるか、もしくはキール様自ら迎えに来てくださるかと思っていたんです……」
夕食後、シャーロットとキールは互いの自室へと向かった。
そこでシャーロットは家から持ってきた本を読み進めつつ、その時をそわそわと待っていたのだ。正直なところ本の内容は殆ど頭に入っていない。
「その時が来たら、キール様のお部屋に……。そして……」
言いかけ、シャーロットはポッと頬を赤くさせた。それだけでは足りず抱きしめていた枕に顔を埋める。
この態度でキールも察したのかはっと息を呑み、露骨に顔を背けるとコホンと咳払いをした。彼の頬も赤くなっており「そ、それで」と話を進めようとする声はだいぶ上擦っている。
「それで、メイドが来ないから自ら来たという事か」
「キール様のお考えを知りたくて。……どうか初夜を無理強いするはしたない女と思わないでくださいね」
「そんな事を貴女に思うわけがない。ただ、『愛することが出来ない』と言った俺には夜を共にする資格なんて無いんだ。……それに、どうにも他人の気配があると眠れなくて」
「気配ですか?」
枕に埋めていた顔をそろそろと上げながらシャーロットが問う。
なぜこの話題で『気配』なんて単語が出るのだろうか。そう首を傾げながら問えば、キールが申し訳なさそうに頭を掻きながら「実は」と話し始めた。
曰く、キールが長く警備に勤めていた国境は常に荒事が絶えず、誰もが気を張り詰め警戒しながら生活していたという。
そんな生活を続けていたせいかキールは人の気配に敏感になり、とりわけ休息時は物音一つでも目を覚まし、共に戦い抜いた仲間以外の気配には跳ね起きて反射的に剣を手にするほど。
そもそも国境に居た時の休息とは体力と精神の回復のためであり、今もその感覚が抜けないのだという。
伴侶と共に柔らかなベッドでぐっすりと眠る……、というのが想像出来ない。
「すまない、シャーロット嬢。貴女に気を遣わせてしまった」
「そんなに謝らないでください。理由があれば仕方ない事です。……ですが、気配」
ふむ、とシャーロットは考え込んだ。
シャーロットの真剣な空気に当てられたのか、キールも表情を真剣な顔つきに変えて深く一度頷いた。「善処するつもりだ」という彼の言葉は嘘偽りないものだろう。
「それでしたら私も努力します!」
「貴女が? これは俺の問題だから貴女が努力する事なんて無いだろう?」
「いいえ、夫婦とは互いに努力し合って問題を乗り越えるものなのです。そうすることで愛はポンポンと溢れるのです」
「前に聞いた時と愛が溢れる音が違うな?」
「愛とは形を変えるもの。時には弾けるように湧き上がるのです」
「そうか、そういうものなのか」
なるほど、とキールがシャーロットの言い分に対して頷いて返す。
だがそれでも疑問は残るようで「それで、どうするんだ?」と尋ねてきた。この質問に、シャーロットがぐっと拳を握る。
「私、気配を消せるようになってみせます!!」
シャーロットが意気込んで告げれば、キールが一瞬言葉を詰まらせ……、辛うじて絞り出したと言いたげな声で「気配を?」と尋ね返してきた。
「キール様が他人の気配が気になって眠れないと仰るのなら、私が気配を消せるようになれば良いんです!」
「いや、貴女にそんな努力を強いるわけには……。そもそも気配を消すなんて」
「夫婦の問題は共に努力するものです! それに、武術の心得がある者は気配を消す事も出来ると聞きました。以前にお兄様が騎士の心得としてヘイホー!というものを読んでいましたから、あれをお借りして必ずや気配を消す術を得てみせます!」
シャーロットの胸にはやる気が満ち溢れ、拳を握る代わりに枕を強く握りしめた。今が夜でなければすぐにでもアランス家に向かって兄から参考書物を借りて特訓を始めただろう。
そんな気合いたっぷりなシャーロットに面食らったのかキールはまたも言葉を詰まらせ、次いで軽く息を吐いた。彼の肩の力が抜けるのが見て分かる。表情も穏やかで、まるで子供を愛でるかのようだ。
「……一緒に努力してくれるのか、シャーロット嬢」
「もちろんです。私、必ずや気配を消す術を得ますので、そうしたら一緒に寝ましょうね」
「あぁ、そうだな。俺も努力をするよ」
一緒に頑張ろうとキールに問われ、シャーロットはもちろんだと深く頷いて返した。
彼と共に頑張るのだと考えればやる気が更に満ちてくる。明日は早く起きてアランス家に向かおうと心に決めた。――朝早いと兄はまだ寝ているかもしれないが、多少無理して起こしても可愛い妹夫婦のためだと許してくれるだろう――
次いで枕をぎゅっと抱きしめながら上目遣いでキールを見つめれば、シャーロットが何か言いたげなことを察し、彼は首を傾げ「どうした?」と尋ねてきた。
「私、このお屋敷の奥様です」
「ん? あぁ、そうだな」
「なのでいつまでもお嬢様ではありませんよ」
そうシャーロットが告げれば、キールはしばし首を傾げ、合点がいったと言いたげに「あぁ」と声を漏らした。
「そうだったな。すまないシャーロット。俺は貴女に諭されてばかりだ」
「気になさらないでください。こうやってお互いを知り、相手の望みを叶え、叶えるために共に努力するのもまた愛です。今も私からは愛がコロリコロリと溢れております」
「また愛が溢れる音が変わったな」
「愛とは時に細かく転がるものでもあります」
「なるほど、そういうものでもあるのか」
ふむふむとキールが頷き、穏やかに微笑むと「シャーロットは物知りだ」と褒めてくれた。
「では今夜は自室に戻りますね。キール様、おやすみなさいませ」
「おやすみ、シャーロット」
就寝の挨拶を交わし、シャーロットは自室へと戻っていった。
◆◆◆
丈の長いカーディガンの裾を揺らしながら歩くシャーロットの背を見つめ、キールは溜息を吐いた。
表情は穏やかなものから申し訳なさそうなものへと変わっており、体躯の良い彼らしからぬ消え入りそうな声で「シャーロット……」と伴侶の名を呟く。
「俺のせいですまない……」
風に消えそうな程の小さな謝罪。
その声は通路の先を歩くシャーロットには届かなかった。
……が、たまたまメイドとすれ違ったシャーロットの気合いたっぷりの、
「私、明日からヘイホー!を読んで修行に励みますので、準備をお願いしますね! 淑女たるもの、気配の一つや二つ消してみせます! ……二つ!?誰の気配!?」
という宣言はフレヴァン家の通路によく響き、これには思わずキールも苦笑を浮かべてしまった。




