19:攫われたのは……
キールと共に過ごす中で、シャーロットは順調に愛を育んでいると感じていた。
朝は共に起きて――たまにシャーロットの方が寝過ごしてしまうが、概ね共に起きている――。食事を共にし、お茶の時にはキールはわざわざ屋敷に戻ってきてくれる。眠る前にも語り合い、そして彼の腕の中で眠る……。
これぞまさに愛し合う夫婦だ。きっと男女の愛と言えるだろう。
仮に男女としての進展が無かったとしても、互いを尊重し合うパートナーとして仲良くやっていける。
幸せだ。これからの日々がより輝かしいものだと自信を持って言える。不安なんて微塵も感じていない。
そんなある日、シャーロットは屋敷の庭でディムと話をしながらキールの帰宅を待っていた。
既に日は落ちかけ庭の景色もゆっくりと夜の闇に溶け込みつつある。それもまた趣があって美しい。
「旦那様も屋敷を美しく飾った方が良いという意識はあるようですが、どうしたら良いのか分からないんでしょうね」
「そうねぇ。先日も玄関の花を変えるのにどんなお花が良いか相談したら、しばらく悩んだ後に『綺麗でよく咲いてる花』と仰っていたわ」
「国境には花を愛でる暇なんてありませんからね」
仕方ないと言いながらも、ディムの声色はキールの貴族らしからぬ言動を楽しんでいる色がある。
そんな彼に釣られるようにシャーロットも笑い、ふと、屋敷の門の先に見知った姿を見つけた。
「キール様だわ!」
シャーロットが弾んだ声を出す。
もっともディムは遠目ゆえにまだ見えていないようで、眉根を寄せて目を凝らし、「そう、ですかね……?」とあやふやだ。
だがシャーロットにはキールだと分かる。真っすぐにこちらに歩いてくる姿、その歩み、遠目ゆえに顔こそ見えないが間違えるわけがない。
そんなキールはシャーロットが気付いたとはまだ分かっていないのか、ゆったりとした足取りで屋敷へと近付いてくる。
だが途中、通りがかった馬車が隣で停止すると足を止めた。
なにかを話しているようだが、次第に様子がおかしくなり、言い争うように馬車の中に向けて話し……、
そして扉から伸びた手に腕を掴まれ、半ば強引に馬車に引きずり込まれて行った。
馬車が何事も無かったかのように走り去っていく……。
「キール様……?」
目にした光景が理解出来ず、シャーロットはただポツリと呟いた。
◆◆◆
「キール殿が攫われた?」
信じられないと言いたげな声色で尋ねてきたのは兄のロジェ。
彼の問いに、シャーロットは顔色を青ざめさせたままコクリと頷いた。
場所はアランス家の一室。
キールが連れていかれたのを目の当たりにしたシャーロットは生家アランス家に助けを求めた。
生憎と両親は不在だったが兄のロジェと妹のアナスタシアは家におり、動揺と混乱と不安で綯い交ぜになっていたシャーロットも二人に宥められ事情を説明するぐらいには落ち着きを取り戻せた。
そうして一部始終を話し先程のロジェの発言である。信じられないと言いたげな彼の言葉に、それでもシャーロットははっきりと頷いて返した。
「あの時、キール様は馬車から伸びた手に腕を掴まれ、強引に馬車に乗せられていました。遠目ゆえに話の内容までは聞こえていませんが、キール様が不本意だったのは確かです」
もしも同意のもと馬車に乗るとしたなら、キールならばシャーロットに一言告げるはずだ。
「すぐに帰るから待っていてくれ」「長くなりそうだから食事は先に済ませておいてくれ」そんな言葉を残していくだろう。
屋敷まで目と鼻の先だったのだから告げるのは容易。仮に一言残すことも出来ないほどの急用だというのなら、彼が馬車に乗るのを渋っていたことがおかしくなる。
「だからキール様はご自身の意思ではなく、無理やりに馬車に乗せられたんです」
「確かに、キール殿なら何かしら伝えてから行くだろうな。だがあのキール・フレヴァンを攫う奴なんて居るかな」
ロジェが考えを巡らせる。口調こそ普段通りで軽いが、それでも真剣に考えているのだろう黙り込んで視線を他所へと向けた。
シャーロットはそんなロジェをじっと見つめ、だが胸に満ちる不安に押し負けると耐えられず俯いてしまった。
馬車を追いかければ良かった。キールの姿を見つけた時に声を掛ければ良かった。呆然とし、ディムに名を呼ばれてようやく我に返った自分の迂闊さが悔やまれる。
「キール様……」
小さく呟いたシャーロットの声は弱々しく、隣に座っていたアナスタシアが案じて手を握ってきた。
優しく擦ってくるのはシャーロットの手が冷たくなっているからだろうか。焦燥感ばかりが募って自分の事も分からない。
「いったい誰が、どうしてキール様を……」
「仮にフレヴァン家やアランス家の資産が目当ての誘拐なら、攫うのはキール殿よりシャーロットだろうな。仮にキール殿の事を知らなかったとしても彼を見れば攫う気なんて失せるはずだ」
キールは背が高く、鍛えているだけあって体躯も良い。なによりあの時の彼は騎士服を着ていたのだ。
その姿は勇ましいの一言に尽きる。『国境の氷壁』の異名を知らなくとも攫うのは容易ではないと一目で分かるはずだ。
対してシャーロットは小柄でふわふわとした、いかにもな令嬢。物騒な話だがどちらを攫うのが楽かなど考えるまでもない。
「それなのにキール様を攫った。キール様個人に用があるという事でしょうか」
「その可能性もあるが、もしかしたら……」
ロジェの話の最中、コンコンと室内にノックの音が響いた。
自然と誰もが扉へと視線を向け、代表してロジェが入室の許可を出せばゆっくりと扉が開かれる。
入ってきたのはメイドのティニー。彼女を見てシャーロットが「ティニー?」と疑問を抱いて名前を呼んだのは、彼女は屋敷で留守番をしているはずだからだ。
「どうしたの? 何かあった?」
「先程お屋敷にグランド様がいらっしゃいまして……。独断で申し訳ありませんがお連れいたしました」
「グランド様が?」
シャーロットが問うのとほぼ同時にグランドが姿を現した。
その表情は険しく、元より迫力のある顔付きを更に渋くさせて一目で只事ではないと分かる。
現にグランドは挨拶をする余裕もないと部屋に入るなりすぐさま口を開いた。
「キール隊長に急ぎ伝えたい事があったのですが見つからず、既に帰宅したのかとご自宅に向かいました。そこでティニーから隊長の不在と、それと……、隊長が何者かに攫われたと聞きました」
「それでここに来たのね」
今に至るまでを手早く話すグランドに、シャーロットはが納得して頷く。
次いで聞こえてきた「申し訳ありません」という言葉にそちらへと向けば、ティニーが眉尻を下げて頭を下げていた。
キールが攫われた事に関して、混乱を防ぐためにも屋敷内の者達には他言無用を言い渡しておいた。他に知っているのはシャーロット自ら相談したロジェとアナスタシアだけである。
誰かが訪問してきても、キールとシャーロットは食事に出かけて戻りは遅くなると伝えるように命じている。
ティニーはその指示を破り、グランドに事情を説明し、更には彼をここまで連れてきたのだ。命令違反を詫びるティニーに、シャーロットはもちろん咎めることなくむしろ感謝を返した。
確かに大事にするまいと考え他言無用を言い渡したが、彼女は問題解決のために判断したのだ。それを咎める必要がどこにある。
宥めながら告げればティニーが僅かに安堵した。そうして再び話し手がグランドに戻る。
「キール隊長が攫われたと聞いて、もしやと思いまして」
「それはつまり……、思い当たる節があるということ?」
「はい。といっても確信があるわけではありません。それにあくまで俺の憶測です。ですが、もしかしたら……」
迂闊な発言はするまいと考えてか、もしくは公爵家の面々を前に緊張しているのか、グランドは言葉を選ぶように話している。
仕方ないとはいえじれったく思っていると、やりとりを聞いていたロジェが「ニコラ・フレヴァンか」とキールの父の名を口にした。




