9.旅立ち
魔族のたくらみを阻止した翌朝。
俺はプリシラのお屋敷の前に立っていた。
「本当に……本当に、行ってしまわれるのですか?」
公爵令嬢のプリシラが、悲しそうな目で俺を見上げてくる。
その涙にぬれた目を見ていると、なんだか申し訳ない気持ちになるが、俺は考えを変えない。
「ああ。あんまりよそ者が長居してても、迷惑だろうし」
「そんなまさか! 迷惑なわけがありません!」
プリシラが俺の手を強く握る。
やわらかい、女の子の手だ。
けれど力いっぱい握ってくる。まるで、俺を離したくない、
そう思ってるようだ。
「リーフさんはグラハム家の命の恩人で! しかも魔族のたくらみを防いだ、英雄なのですから!」
「英雄って……大げさだろ。病気を治療して、悪人を成敗しただけだし」
どちらも大して苦労していないので、あんまり大きな恩を感じてもらいたくなかった。
それに、英雄なんてほんと、俺にはまだまだふさわしくない。
本物を、俺は知ってるからな。マーリンばーちゃんたちと比べたら、俺なんてまだまだだ。
「強いだけでなく、こんなにも謙虚であられる、素晴らしいお方。あなた様こそ英雄にふさわしいのに……なぜ、表彰を断ったのですか?」
グラハム公爵、つまりプリシラの父ちゃんから言われたのだ。
国王にこの件を報告し、俺を英雄として表彰したいって。
けれど俺はそれを断った。
本当に大したことしたって思ってないし。
表彰なんてしたら、魔族のたくらみがみんなに知られることとなり、余計な不安を与えてしまうだろうから。
だから、魔族の件については、内々で済ませてほしいと考えて、俺は表彰を辞退したのである。
「あなた様が望めば、地位も名声も思うが儘なのに」
「そんなのはいらないよ。俺が欲しいのは自由だから」
俺は決めたんだ。もう俺は、誰にも縛られずに生きると。
元婚約者に束縛され、奴隷のように生きていた。あんな人生はもうまっぴらごめんだから。
「でも……でも、わたくしは、あなた様に出て行ってほしくないです。ずっと、そばにいてほしくて……」
「プリシラ……それはできないよ。俺は単なる無名のよそ者だし、知人でも友人でもない立場で、この屋敷にはいられない」
グラハム公爵一家も、是非にと言われたが、それも断った。
やっぱり赤の他人が家にいるのはよくないし、何より俺が申し訳ないと感じる。俺なんか田舎の平民のガキに、メイドさんや執事さんたちがすごい気遣いしてくれるのがね。
「それに、もう先約があるから」
「先約ですか……?」
「ああ。王都にいる、マーリンばーちゃんのお孫さんとこで厄介になることになったんだ」
「マーリン様の、お孫様……」
村を出ていくとき、ばーちゃんから『王都へ行くなら孫のとこに厄介になるといい。話はしておくから』と言われたのだ。
どうやらそこで店をやっているらしい。
お孫さんには会ったことないけど、良くしてくれたばーちゃんのお孫さんだし、全くの赤の他人とはいいがたい。
「これからどうするのですか?」
「お孫さんのとこを拠点として、冒険者としてやってくよ。しばらく王都を離れるつもりはないから、用があったらいつでも訪ねてくれ。たしか、【彗星工房】ってとこだから」
「彗星工房ですね。わかりました」
プリシラは何度も何度も、何かを言おうとして、けれど、首をふった。
さきほどまでの悲しそうな目から一転して、決意のこもった目で俺を見上げながら、手を放す。
「リーフさん。今回は本当に、ありがとうございました。わたくしはこのこと一生忘れません。あなた様が何かお困りの際は、なんでもお申しつけくださいまし。必ず、命に代えても、あなたのお役に立ちますので」
命に代えてもなんて、冗談かと思った。
けれどもあんまりに真剣な表情だったことから、冗談ではないのだろう。
師匠から授かった、この技術と力で、人を救えたんだって実感がわいてくる。
あの人から受け継いだこの力で、人を幸せにすることができた。それがとてもうれしかった。
「ありがとう。じゃ、またな」
「はい! また!」
俺は確かな達成感を胸に、プリシラに手を振って、マーリンばーちゃんのお孫さんのいる、【彗星工房】へ向かうのだった。
★
薬師リーフが去っていく姿を、プリシラ=フォン=グラハムはずっと見送っていった。
やがて彼が見えなくなると、静かに涙を流す。
「プリシラ……」
「お父様」
グラハム家当主サイファー=フォン=グラハムは、妻ディアンヌとともに、娘に近づいて抱きしめる。
彼との別れを惜しみ、涙を流す娘。その頭をサイファーたちは、優しくなでる。
「あのお方は、いずれ必ず英雄となるお方。わたくし一人が縛り付けてはいけない。いつか、絶対に大勢を救う人となるから……」
自分に、そう言い聞かせるプリシラ。
けれど本心では、彼にそばにいてほしいと思っていた。
「そうだな。プリシラ。君の言うとおりだ。あの少年は必ず大成する。だからこそ、だよ」
「え? だからこそ……?」
「ああ。今は行かせてあげなさい。今はまだ、彼は単なる田舎から出てきた若者にすぎない。君と結婚するとなったら、余計なことを言う輩も多いだろう」
平民と貴族が結ばれることは、この世界ではありえないことだ。
しかし、実績を積み、英雄ともなれば、王家から貴族の位をもらうこともあるだろう。
「……この人の言うとおりよ。わたしの可愛いプリシラ」
母ディアンヌが優しくプリシラを抱きしめる。
「……リーフさんのあの規格外の知識、技術、そして……戦闘力。あんなにもすごい存在が、日の目を見ないわけがありません。ここ王都でなら、評価される機会は田舎よりも多いでしょう。そうなれば、彼は驚くべきスピードで出世していく」
にっこりと、ディアンヌが笑う。
「……そのときは、すぐ来ます。そのときに、誰よりも早くあの殿方を捕まえられるように、あなたは今は女を磨き、準備をしておくべきなのよ♡」
「はい! お母さま! わたくしも、リーフさんの伴侶にふさわしい女になるべく、今まで以上に切磋琢磨します!」
「……根回しはお母さんに任せなさいっ。大丈夫、私ね、社交界に友達がたくさんいるのよ♡ 邪魔者はお母さんが排除してあげるから♡」
うふふ、と黒い表情で笑う妻に、サイファーがあきれたように息をつく。
だが元気になった妻を見れて、満足げにうなずいた。
「彼には大きすぎる借りができてしまったな。私が生きてる間に、返しきれるだろうか」
だが、絶対に、残りの人生をかけて彼に恩を返そうと、サイファーは固く決意する。
愛する妻と子、どちらの命も救ってくれたのだから。
こうして……リーフはグラハム公爵家とつながりができた。
彼は知らない。グラハム家がこの王国において、三大名家と呼ばれる大きな影響力を持つ家であることを。
彼は知らない。妻ディアンヌは、現国王の妹であることを。
王家にも繋がりのある、プリシラの家族を助けたことで、リーフの人生は、どんどんと良い方向へ変わっていくのだった。