静かな前奏と複雑な無言
「おはよう」
隣から声がした。その声に目を覚まされた。
そして俺はどこにいるのか、軽く確認した。前には無機質な天井が目一杯。そして軽く横に顔を向けた。そこには銀色に輝く鉄格子、その右手にある鉄格子の奥で、一人の女性が椅子に座っていた。左を向いていて、何か本を読んでいる。少し霞んでいてタイトルとかは見えにくい。
「こ、ここはどこ、ですか?」
一応敬語で問いかけた。女性は特に感情の起伏もなく、静かに告げた。
「刑務所よ」
「えっ? えっ、何故ですか?」
「何故でも」
いや、何故でもって。こんなところにいる理由なんてないんじゃ。刑務所って、犯罪を行った人が入る場所、みたいな感じだろ。詳しくないけどさ。でも、でも、俺が来るところじゃないはず。だって俺は最後に、えっと、さ、最後にこの女性と抱き合って……。
「恥ずかしがらなくても良いわ」
「い、いやそういうわけには」
「私は大丈夫」
「大丈夫じゃないですよ……」
絶対赤面してる。やばい恥ずかしい。どうしよう。どうしよう。
「そんなことは重要じゃないの」
「重要すぎます! お、女の子に抱きつかれたんだ!」
お、女の子と抱かれるなんて! そ、それも知らない相手に。好きな人がいるのに……。
「そんなことより、刑務所にいることの方が重要じゃないの?」
「えっ、いや、確かにそうだけど」
あ、あなたが言いますか⁈ あなたが連れてきたはずだし、て、てか今見たら手には手錠がついてるし、囚人みたいに黒と白の縞々の服を着ているし、まるで本物みたいじゃないか! 服が違うってことはまさか、着替えさせたのか⁈ 嘘だ。裸を見られた……。もうお嫁になんていけない……。いや。
「これでいいのかも……」
そうだ。今の俺は終わったんだ。たくさんの苦難があって、非難があって、絶望があって、憂鬱なんだ。もう朽ちるだけ。なにもできない。何もならない。そうだ。終わりだ。
「良くないわ」
「えっ?」
「終わったのなら、始めるのよ。あなたの風で」
「俺の、風?」
ど、どう言う意味だ? 詩的すぎて訳がわからないよ。
「比喩よ。そんなことは重要じゃないでしょ?」
えっ、あっ、そうだけど……。まぁ、聞くか。
「ど、どうしてこんな場所に?」
注意深く聞いてみた。
「それも、今は重要じゃないわ。ただここが最適だっただけ。そしてその服しかなかっただけ。手錠は遊び心よ。後で外す」
それも重要じゃないって、嘘だろう、あなたがこの話に変えたんだろう! 早く教えて欲しいし、この手錠を外して欲しいし……。
「ねぇ?」
「な、なんですか?」
慎重に耳を傾けた。目を見開き、脳をフル回転させて、一滴の汗が頬をつたる音さえ、聞き逃さないように、ひたすら集中して聞いた。
「批判って、悪いこと?」
「はい?」
えっ、今なんて言った? 『批判って、悪いこと?』って今聞く質問じゃない気が……。多分違うこと、なんだよね?
「批判って、悪いことだとあなたは考える?」
「あの」
「何?」
「どうして、そんな質問を?」
普通そんな質問しないはず。ほぼ初対面だ。する話じゃない。もっと、ほら、『好きな服は何ですか』とか『好きな本は』『好きな食べ物は』とかそんな他愛もない話をすべきなんだ。なんでそんな、人を試すような、難しい話をふっかけるんだ。
「聞くべきだから」
「聞く、べき?」
べきって、そんな義務とかなものじゃない。そんな話は隅にやって、もっとほんわかした話をすべきなんだ。
「すべきよ。あなたのために」
「俺の、ために?」
「答えてくれたら、手錠を外してあげるから」
うっ、そんな、そんなこと言われたら答えた方がいい気がしてくるじゃないか。
「批判は……」
「批判は?」
「批判は……」
俺は沈黙した。それ以上の答えはなかった。伝えるべき明確な答えがなかった。世界に一切の音が無かった。俺は注意深く周りを見た。ベッドの白色、壁の灰色、女性の黒色。全部とにかく、とにかく見た。そして本も見た。タイトルが見えた。『for you』、そう書いてあった。何も情報はない。本当に何も無い。いや、何か彼女の趣味嗜好となる物がどこかに。
「とりあえず答えて。無限に聞くから」
「とりあえずって……」
どうする、本当に無限に言うか。言ってしまうか。彼女に俺はこんな考えだって言ってしまうか。そもそもこの議題はそんなに争いになるような議題か。もしかしたら、違うんじゃ無いか。
「批判は……。批判は……」
「うん」
俺は最後に、唾を飲み込んだ。
「悪いことでは、無いと、考えています」
「だいぶ言葉を選んだわね」
「選ばざるを得なかったから」
「で、どうして? 無くならなくていいの?」
「どうしてってそれは、批判を受け止めることで、人は、成長する場合があるから。無くなったら人は変わらない。批判はあるべきだと、思います」
俺は、とにかく慎重に答えた。
「それで閉じこもって、成長が止まる人もいるわ」
「確かにそう言う人もいるかもしれない。でも、その人もいつか受け止めて、多分成長できる」
「楽観的ね」
「そう、信じてるから」
「あなたは受け止められた?」
「俺は……、受け止められたかな」
「どうして?」
「それで、自分が終わるのが怖かったから。何者にもなれないのが怖かったから」
俺の思っていることをとりあえず伝えた。それ以上、どう答えれば良いかわからなかった。
「そう、じゃあ次」
「その前に手錠を!」
俺を手を差し出して叫んだ。早く自由になりたかった。
「終わってから。批判って、どうすればいい?」
「いや、だから手錠を」
「終わってから。答えて」
そんな、暴挙すぎる。どう答えれば良いんだってことばっか言いやがって。
「批判は……、批判は!」
「うん」
「……」
また沈黙。頭の中が複雑になっていった。あらゆることが思い起こされ、否定され、消えていって。何を言えば良い。何が正解だ。何が誰も傷つけない。
「批判は、優しい、言葉であった方がいいと思う」
「そう? それだと人は変わらないんじゃ無い?」
「その場合もあるかもだけど、でも、優しい言葉で言って欲しいんだ、俺は」
「言葉じゃ無いとダメ?」
「もちろん、俺は、暴力が嫌いなんだ」
「そうじゃないと変わらない、無敵な人がいるわ」
「かもしれない。そんな時はそいつを無視するか、そいつを止められるだけの団体を組むか、熱心に止めようと必死になるか、それくらいだと思う」
「それで良いの?」
「とにかく、暴力はいけない。そして批判を受けた側は受け止めるべきだと思う」
「批判に見せかけた八つ当たりや憂さ晴らし、嫌がらせがあるわよ」
「そう言う時は、そうだな……」
俺は下を向いた。顎に手を置いて、考えた。確かに、そういう最低なことをやる奴がいる。本当に、そういうのはやめて欲しい。自分のことしか見てないじゃ無いか。でも、そんなのが無くなる世はない。絶対に無い。だから、だから。
「人は、対処法を覚えるべきだ」
「へぇ」
「何が嫌がらせか、何が自分の糧になるか、今の自分はどうなのか。そう言うことを深く考えて取捨選択するんだ」
「それができるのは賢く、強い人よ」
「みんな強い一人一人だよ」
「あなたがもし、そういう冷たい言葉しか届かなかった時どうする? その一通だけだったらどうする?」
「そんな時は、そんな時は」
また考え始めた。相変わらず答えるのが難しい。そんな人にどんな言葉をかけるべきか、どれが優しい言葉になり得るか。
「……」
「ほら、早く」
「そんな時は、そんな時は。身の回りの優しい人に見てもらって、優しい言葉をかけてもらって」
「引きこもりで、家族からも冷たく見られてて、ネットでも誰ともうまく関わらない人だったらどうする?」
「そんな時は、多分その人本人に問題がある」
「本当?」
「だって、家族からも冷たく見られるってそんなあることじゃないだろう?」
「虐待一家なら? そんな状況が普通の家庭なら? この世界には優しい家庭ばかりじゃないのよ?」
「そんな時は、もっと別の行動を取るべきだ。近所の駄菓子屋のおばちゃんとか、保育園の先生とか、教会の神父とか、そういう、優しい人のところに逃げるべきだ。逃げて、助けを求めるべきだ」
「そう言うのが無かったら」
「……、たぶん、たぶん、そんな時は」
「そんな時は?」
「とりあえず大丈夫だよって、無責任だけど、囁いてあげたい」
「へぇ……、それは重荷になるわ」
「そんなつもりじゃない。俺は優しく誰にでも伝えているんだ。最悪投げ捨てても良い、君がその方がいいって言うならそれでいい」
「そう読み取れない人がいるわ」
「いるかもしれない。でも、何度もこう言う。君は大丈夫。頑張ってって」
「そう」
そう言うと、女性は鉄格子を開けて入ってきた。そして、俺の手錠を外した。