ウンバラさん
人は視覚に支配される生き物と言われ、僕もその説に疑義を投げかけられるような根拠を持ち合わせていなかった。わずかな例外を除き、人は大概の場合見た目から入り見た目で終わる。光による情報はセンセーショナルさが群を抜いているため、確かにもたらされるはずの本質的情報をも覆い隠してしまう。
見落とされがちだが(この慣用句も人が視覚に支配されていることの証左の一つだ)事物の本質は「におい」に宿る。これは確かなことだ。
光による情報は光源からのそれを除き、反射光によるものに過ぎず、事物そのものが持つ情報とは呼ぶにはいささか弱い。
比してにおい情報はそれそのものの発する化学物質を嗅細胞がキャッチして脳が知覚するものだ。ものによっては紙切れ一枚で遮断される光情報とは強度も確度も違う。夕暮れ時に民家から漂ってくるカレーのにおいにこそ真理がある。
また「無臭」の事物も当然ながらあり、これらは無臭であることこそが本質だということを付け加えておこう。
僕がそれら一連の事実を思い出したのは大学のサークル活動中だった。
僕が所属する名目上「ボランティアサークル」とされている集まりの実態は、よくあるイベントサークルであり、学生が集まってコンパだの飲み会だの旅行だのをする益も害も期待できないものだ。一応年に数回本物のボランティア活動を申し訳程度にする。就職活動の際に「『精力的にボランティア活動を……』とアピールできる」というのが新入生の頃にサークル勧誘で受けた文句であるが、多分役には立たないだろう。
メンバーは7人という小規模なサークルで、数十人からが所属する大規模サークルのように派閥の分断やカーストの発生が無い気楽なところが僕の事なかれ主義的な性に合っていた。
友人に誘われて加入し二年生になったが、それまでに旅行を3回、コンパを5回、ボランティアを2回、飲み会をたくさんした。僕が企業の人事担当ならこのサークルに所属している人間は採用しない。
出かける日以外は集まるだけ集まって特に何をするでもなく無益な時間を過ごし、適当に解散するのが常であった。
とはいえ今日は完全なノープランではない。2ヶ月後に控えた二泊三日の旅行の計画を練ることになっている。
行き先は熱海と決まっていて、金のない学生が近場で済ませる、旅先を目的としない、旅行が目的の旅行だ。
主宰を務める四年生の先輩によると今回は何か目玉があるらしいが僕たちはまだ教えてもらっていない。
僕はこの目玉を努めて楽しみにしようとしていた。僕は暇潰し以上の意味を見出せないサークル活動を一年以上続けていることに若干の焦りを感じている。人生における(おそらく)最後のモラトリアムである大学生活の時間を、時が過ぎ去るに任せて何物をも残せないのではないかという不安に起因する焦りだ。かと言って新しいことに挑戦する行動力も無いため、現状を努めて楽しむことで「有意義な時間を過ごしていると思い込もう」としているのだ。
僕の姑息な考えはその日、僕の脳裏から放逐されることになる。
サークル活動用に借りていたC棟の2-B教室で、僕は友人と雑談しながら、主宰の四年生ーー本田先輩がくるのを待っていた。その見事なガタイに見合って体育会系の出なのか、仕切るタイプの先輩だから、逆にその人がいないと話が進まないのだ。
不意に。
「どうかした?」
僕と喋っていた友人ーー諏訪が訝しむ。彼が僕をこのサークルに誘った当人だ。
「いや、においが……」
「におい?」
諏訪がわざとらしく鼻をひくつかせる。そんなことをしなくても僕の嗅覚はそのにおいを捉えていた。
久しく嗅いでいない類のにおいだったから、何のにおいか、記憶のライブラリーから該当項目を引き出すのに時間がかかった。
居住地域によっては何年単位で接する機会の無い、しかし他のにおいと決して間違えようのない圧巻の存在感を持つそれーー
海のにおいだ。
ここは山の麓の片田舎の安い土地に造られたキャンパスだ。1kmほど行くと一級河川が流れているものの河口までは10km以上下る必要がある。
このにおいこそ、冒頭で述べた所感の根源であった。
「海」というものが持つイメージを思い返そうとすると、やはり視覚に支配された僕が浮かべるのは視覚的イメージだ。
メディアで放出されるリゾート的な、雄大さと深淵を柱とした神的な、日差しを照り返して煌めきを振り撒く劇的な、そんなイメージの群れ。
それらの視覚的イメージは想起が容易で記憶に残りやすく、意識の表層を埋め尽くす。厄介なことにその裏の本質に気付いた後ですら、時が経つとようやく辿り着いた本質を無意識の底に沈めて表層意識を再占拠してしまう。
だからやはりそのにおいを感じた時に、僕は海の本質を思い出した。それはーー
「揃ってるかぁ」
教室の扉を開けて入室してきたのは件の本田先輩であった。それから先輩に続いてもう一人。
ざわ、というオノマトペが二重に走った。
第一には教室にいたサークルのメンツが、本田先輩に続いて入室してきた人物を見て漏れる声を禁じえなかったためだ。女性だった。豊かな黒髪が波のように揺れる。美しい割に記憶に残らない、形容しがたい顔立ちをしている。何より初めて見る顔だった。ここにいる皆がそうだったのだろう。
第二に僕の背筋に走った悪寒に似た感覚だった。本田先輩の後に入ってきた女性。間違いない、二人の入室前から僕がキャッチした海のにおいの発生源は、彼女だ。そのにおいに海の本質、そう本質を嫌でも「思い出させられた」僕の心身は落ち着きを失い、かゆくもない脇腹を無意識に掻いていた。
本田先輩は教室のメンバーに軽く挨拶をすると隣の新顔女性を前に促した。
「あー彼女はウンバラ。海に原っぱの原で海原だ。うなばらでもかいはらでもない。今日からこのサークルに入る。よろしくな」
そこで初めてウンバラと呼ばれた女性が口を開いた。
「海原です。二年です。よろしくお願いします」
行儀良く頭を下げるその所作は流れるようで、作法に慣れていることが伺え、正直このサークルのイメージには全くそぐわなかったが、なぜ彼女がここに来たかは彼女自身ではなく本田先輩の雰囲気で察せた。
デキている、少なくともそういう関係を両者が了承しているのだろう。本田先輩が周囲にウンバラさんの所有を態度で主張している。
そう言われればサークルメンバーはよろしくと言うしかない。当然僕も。
ウンバラさんは海のにおいがするからサークルに入れない方がいいのではとは言えない。
新顔ということもありウンバラさんと言葉を交わす一年の女性がおり、本田先輩に見咎められない範囲でウンバラさんを眺める三年の男性がいた。ウンバラさんも普通に打ち解けている。つまりただの新メンバーとしてすぐになじんだ。
彼女のにおいを気にしているのは僕だけらしかった。そのにおいが例えば彼女のつける香水などによるものなのか、僕の嗅覚系に何らかの異常が発生しているのかわからなかったし尋ねる気も起きなかった。
とにかくウンバラさんの出現により、僕の生活の一部に海のにおいが定着したと言ってよかった。
同学年ではあるが学部の違うウンバラさんと接するのは、自然サークル活動中だけであった。そのサークル活動においても、ウンバラさんと直接的かつ積極的なつながりを持っているわけではない。ウンバラさんとよく喋るのはやはり本田先輩で、本田先輩と話が合うのは僕より諏訪の方で、僕はその諏訪と友人というだけだーーったのだが、ウンバラさんがサークルに加入して二週間ほど経った頃、事情が少し変わってきた。
僕自身はウンバラさんとは少し距離を取るようにしていたと思う。論理的に説明のつく理由があったわけじゃない。それこそ天気の悪い日、海に突き出した埠頭の端に立ち海面を覗き込むのが躊躇われるような心持ちだ。
ウンバラさんは礼儀正しく理知的な口調で話すものの受け身というわけではなく、「ノリ」という点でも集まりの中心に立って何ら不足が無い、高いコミュニケーション能力を持っていた。当然のように僕以外のサークルメンバー全員から好かれていたのがわかった。
中でも本田先輩からはこんな彼女がいる俺は凄かろうというオーラをひしひしと感じた。サークルメンバー全員がそれを確信として感じ取っていたから、ウンバラさんに色目を使うような人間はいなかったが、それでもふとした瞬間少しだけ踏み込んだやりとりをする第三者がいると本田先輩は露骨に機嫌を悪くした。
僕は意識的にウンバラさんと距離を保っていたので、その点において徐々に本田先輩に気に入られていた。僕は愛想笑いがうまいタイプだった。
しかし岸辺は寄る波を拒むことなどできない。向こうから近付いてくれば接する他ないのだ。
「君はどう思う?」
ウンバラさんが僕を覗き込んだ。例の旅行についてのミーティングの最中のことである。適当に集まった人間たちで行く旅行の計画を立てるのが果たして正当にサークル活動と呼べるのか僕にはわからない。
濃厚に香る『海臭』にたじろぎそうになりながら平静を装う。僕が感じるウンバラさんのにおいは、日常生活において明らかに「異物」と判断できるレベルのそれだったが、やはり僕以外の誰もがそんな風に受け取っていない。彼女の付けるマリン系の香水に僕の鼻が過敏に反応しているだけかも知れなかったが、明確な理由はわかっていない。
ともかく僕はウンバラさんから問われ、その投げかけにつられた他のサークルメンバーの視線のいくつかが僕に向けられた。
問われたのは熱海旅行で希望する行き先だ。先述の主宰ーーつまり本田先輩の「目玉」を除く行き先とルート、日程を決めるためにメンバー各員から希望を募っている。
僕は熱海など行ったことがなくよくわからないため、最初からみんなが行くところにくっ付いて行く気満々だった。ただウンバラさんが現れてから考えを改めざるを得なかった。
「山とかいいんじゃないかな。あと梅園とか」
それを聞いた男性サークルメンバーが茶々を入れる。
「梅園〜? 渋すぎるだろ趣味がよぉ」
あからさまに小馬鹿にしたその笑いを、ウンバラさんが引き継ぐ。
「私は梅園もいいと思うけどね。ただ私たちが行くのは七月だしちょっと季節外れかな? でも目新しい意見だったよ、ありがとう」
単なる否定ではなく、意見を尊重した上で合理的な理由を添えて妥当性を検証し、意見を出したこと自体への評価も忘れない。ウンバラさんはこういう対応が妙にうまかった。海のにおいが無ければ僕だってウンバラさんに全幅の信頼を置いていただろう。
僕は自分の意見が採用されるのを望んで提案したわけではない。サークル内の大多数が望んでいるであろう目的地にわずかながらでも異を唱えたかっただけだ。
「やっぱり海しかねえって、この季節」
これだ。
そりゃあ僕だって夏、熱海という海沿いの立地への旅行、若い男女。これらの要素を「海」という天然の一大レジャー施設と等号で結ばない方が無理だと理解している。
僕が抱く正体不明の漠然とした不安感など一握の反対材料にもならない。僕自身こんな漠たる予感のようなものでサークルの大意に反対すべきなのか、自信が持てていないのだ。
逡巡のための無言を反論無しとウンバラさん他は受け取ったか、その間にあれよあれよ目的地は決定していき、今度どこそこに水着を買いに行こうだとか花火をしたいだとか、具体的な行動計画までをも協議する段階に移ってしまった。
つまり海に行くことになった。
この胸のざわつきがそもそも不安なのかどうかすら確信が無い。海に強い恐怖を感じているのなら、自分は行けないと訴えられたことだろう。そうではない。「何となく落ち着かない」だけなのだ。
きっとこのあと帰り道でラーメンでも食べている頃には「まあいいか」と考えていることだろう。寝る頃には胸のざわつきすら忘れているかもしれない。
だから僕はそれ以上海行きに反論しなかったし、旅行をボイコットする気も起きていない。まさに波に流されるが如く成り行きに身を任せていた。
その日の帰り。
「海は嫌いだった?」
果たしてその問いはウンバラさんから僕に投げられたものだった。
何かしらの因果の流れによりサークル活動終了後、C棟2-B教室には僕とウンバラさんしかいなかった。僕も腰を上げ帰ろうと思ってたところだった。
ん? とウンバラさんが小首を傾げる。問いに対する答えを待っているのだ。僕は目線で本田先輩を探したが、今日は用があると言って一人先に帰ったのだった。
だから僕は動揺を隠しながら曖昧に首を横に振った。
「いや、別に?」
事実だった。海が嫌いなわけではない。得意とは言えないまでも泳げないわけではないし、海難事故に遭ったことどころかクラゲに刺されたことすらない。
家族と行ったことも友人と行ったこともある。月並みな思い出しかないが故に嫌う理由もなかった。
「よかった、海に行くの嫌なのかと思った」
心から安堵したように見える表情は、人に安らぎを与えるものに相違なかった。真実自分を心配してくれていたのだと勘違いしそうになる。
「楽しみだね、旅行」
「うん」
それ以外に何と言えばいいのだ。
しかしウンバラさんは僕の回答に満足したらしく、「じゃあね」と小さく手を振って踵を返し、教室を出て行った。
翻って教室の外に消えて行くウンバラさんの黒髪が、海岸から引いていく穏やかな波に見えた。
だが、今の僕の意識は教室に残る潮の香りに囚われ続けていた。
その日が来た。旅行は額面だけを見れば、順風満帆の滑り出しと言えた。天候にも恵まれた。真夏の一歩手前の暑さ程度、花の大学生の若さの前には何ほどのものでもない。
初日には早速海に向かった。主目的は海水浴。その道中、僕の心は明確な不安に駆られていた。海岸線に近づく程に強くなる、圧倒的現実感を伴う海のにおい。
ウンバラさんのにおいと本物の海のにおいの区別がつかなくなる頃に海水浴場に到着。はしゃぐサークルメンバーたちに押されるようにたどり着いたそこ。
波の音、強い日差しを照り返す海面、そして鼻腔から侵入し前頭葉あたりにわだかまるような濃い海のにおい。
はじめ僕はその光景を見て立ち尽くした。不安が押し寄せ、僕の精神をさらってしまうのだろうと思った。
しかしよく考えるまでもなく、そこは普通の海水浴場であり、波の音もあれば人々の嬌声も聞こえ、日差しを照り返す海面もあれば能天気な色のパラソルも見え、海のにおいもあれば海の家から漂う食欲をそそる香りもあった。
そこはヒトの居場所だった。
浜辺から聞こえる子供達の獣めいた笑い声は別に僕の杞憂を嘲るものではなかったが、この海水浴場において初めて企業面接を受けるあがり症の就活生のような表情をしているのは僕くらいだったはずだ。
杞憂、そうだ。特別な不注意でもしない限り楽しく遊べる場のはずだ。海のそのにおいには確かに本質が包含されているが、ことここにおいて理由なく僕に牙を剥くものではない。
僕が勝手な不安から勝手に抜け出て平静を取り戻した頃、サークルメンバーは早速泳ぎに行ったり設置したパラソルの下でビールやら酎ハイの缶をクーラーボックスから取り出しているところだった。
何となくウンバラさんが気になり目で追った。
まず本田先輩が波打ち際に立っていて、その視線の先にウンバラさんと他女性メンバーが浅瀬ではしゃぎ合っている。不安なところも不穏なところもない。強いて言えばウンバラさんたちに近付こうとする軽薄そうな男数人を、本田先輩がにらみをきかせて追い払ったくらいだ。
色気はあるが下品にはならない絶妙なデザインの水着を着て無邪気な笑顔を見せているウンバラさんの横顔を遠目に見て、心にわだかまった最後の不安のかけらが氷解していった。
今も吸気に乗って絶え間なく海のにおいが感じられたが、畏れの感情は消えていた。元々僕が海のにおいに感じる「本質」は何も悪いものばかりではなかったのだ。
そのことを思い出してからは僕もゆったりとした心持ちで過ごした。諏訪と泳いだり、先輩後輩と普段はしない少し踏み込んだ話をしたり。小さくまとまってはいるが、旅という非日常を楽しんだ。
その後の旅程丸一日以上を人並みに、並大学生並みに満喫した。
旅行二日目、時刻は午後3時。三日目はほぼ帰路のみであるため、実質次の予定がこの旅行最後のイベントとなる。そして事前に説明されていた例の「目玉」がそのイベントだ。
本田先輩に言われるがままに移動する。日没までは遠く、日はまだ強く照りつけている。
そのうちに海のにおいがしてきた。だが僕の記憶の限り、昨日の海水浴場に向かってはいないようだった。
しかして到着したのは。
「ここだ。すげえだろ」
本田先輩が立ったのは海に突き出すように設られた何本もある桟橋の前。その桟橋には比較的小型の船、プレジャーボートが係留されている。
そこはマリーナだった。
本田先輩はここ数日で一番の自慢げな表情だった。
曰く、春休みを利用して船舶免許を取得したそうだ。船自体はレンタルだが素人の僕から見ても立派なものに見えた。
この船に乗って沖に乗り出し、海に沈む夕日などを肴に盃を酌み交わして大いに語らい合おうということだ。確かに大学生の小旅行の中では目玉と呼んで良い催しだろう。
キャーキャーと後輩たちが喜んでいる。男性メンバーもおべっかか本心かわからないが口々に本田先輩を褒めそやしていた。
ふと、眼前の海からではなく傍らから海のにおいが。ウンバラさんだ。
「すごいね。船だって」
「ああ、すごい」
実際僕には船の免許を取ろうなどという発想もない。本田先輩の行動力の賜物だ。
「天気も良くて、本当によかった」
僕はまた曖昧に頷いた。
「ウンバラさんは海が好きなの?」
自分でもなぜその問いを投げたのかはよくわからない。ウンバラさんはたまたま近くにいた僕に当たり障りのない感想を述べたに過ぎない。今となっては海のにおいに対する不安は妄想だったと理解している。
理解したと、思っていた。しかしこのマリーナに着いて氷解したはずのざわつきがーーいや、それ自体かはわからない。それよりずっと小さく、靴の中に入った小石のように、行動するに支障は無いが到底無視できないものを僕は認識していた。
単なる僕の勘違いかもしれない。神経過敏になっているだけかも。
僕はウンバラさんにその答えをもらって安心しようとしたのだろうか。
「……?」
決して声を荒げるようなことはないものの、会話の受け答えは常に明朗でスムーズだったウンバラさんにしては回答までに時間が空いた。
気になって隣を見ると、こちらを見ているウンバラさんと目が合った。今やウンバラさんから香る海のにおいは、目の前の本物の海からのにおいより強いように感じられた。濃縮したエキスから匂い立っているようだった。
「君はもうわかってると思うよ」
「え?」
「言葉にはできなくても、多分理解してる」
何の話か僕には理解できなかったが、ウンバラさんの深海のような目が嘘でないことを裏付けているようで、僕は言葉を飲み込まざるを得なかった。
「救命胴衣しっかり付けんだぞー」
本田先輩の仕切る声に我に帰った時には、ウンバラさんはもう本田先輩の隣に移動していた。
僕はそのプレジャーボートに乗った。乗らずにどうしろというのだ。
心の底に現れた小石は大きくも小さくもならないが、そこを終の住処と決めたかのように動かず、僕の精神の端で僕を見つめていた。
そうこうしているうちにプレジャーボートは岸から離れて行く。
レジャー用のボート船体には操縦スペースの他にくつろげるよう合皮で覆われた座席が前部に二人分、後部に八人分設えられていた。後部の座席は中央のテーブルを囲むように設計されており、宴会にはおあつらえ向きと言えた。船体内部にはトイレもある。
本田先輩はもちろん操縦を行い、他のメンバーは後部座席で歓談している。適当な場所で船を停めたら持ち寄った飲み物や軽食を広げることになっていた。
ただウンバラさんだけが前部、船首部分にある座席に腰掛け、風に髪を靡かせている。彼女の姿は中世の船に取り付けられる美しい女性の姿をした船首像のような、一種宗教的な品格があった。
その様は操縦スペースからよく見えて、本田先輩はご満悦の様子だったので誰も何も言わなかった。
短い航行。ボートが停止する。朧げに見えている岸は僕の中の小石に何の影響も及さなかった。
ここまできて地球の表面積の7割が海だという常識を実感として思い出す。眼下に見える青黒い水には、海洋恐怖症でなくとも畏怖の念を覚える人も少なくないと思う。
サークルメンバーたちはわいわいと飲み物食べ物の用意に取り掛かりだした。舞台設定だけはクルージングパーティーであるが、それを彩るのは缶ビール缶チューハイスナック菓子などコンビニで買えるものばかりで、さもしさが隠せない。
僕も機械的にそれを手伝う。いつの間にか後部座席に移動していたウンバラさんも何事もなかったように(実際何事も起きてはいない)紙皿なんかを並べていた。
操縦スペースから降臨した本田先輩はヒーローのように称えられ、操縦を労われ、一番上座の席に座った。もちろん僕を含む誰も船の座席における上座がどこかなんて知らなかったので、これは便宜的上座だ。
あらかたの準備が終わると、メンバーたちは手に手に飲み物を持つ。それを見渡した便宜的上座につく本田先輩が立ち上がり乾杯の音頭を取った。
何に乾杯したかは忘れた。多分便宜的なものに対して杯を掲げたのだろう。
地に足のつかない気分だった。事実ついていない。諏訪とのやり取りも、本田先輩への世辞も悪くはない出来に取り繕えていたが、聞いた言葉も言った言葉も脳が認知したそばからこぼれ落ちいくようだった。
僕は便宜的飲み食いをしている間、どうしてもチラチラとウンバラさんの方に視線をやってしまった。普段の僕であれば、本田先輩の機嫌を損ねるのを危惧してまず取らない行動だっだが、ふとした瞬間にシューティング要素のあるゲームのエイムアシストみたいに視線がウンバラさんに吸い寄せられてしまうのだ。
しかし結局ついぞウンバラさんと目が合うことはなかった。乗船前のあのやり取りで伝えたいことは全て伝えたのか(僕は何の情報も受け取れていないように思うが)そもそも僕などに興味はないのか。
海のにおいがする。酷く強く主張してくるそれは、今や僕の海に対する視覚的イメージを上回っていた。
ヒトという矮小な存在が受け止めるには巨大すぎる海の本質が眼前にある。いや、既に包み込まれているのかもしれない。何せ巨大だから僕などには海の本質の全容を見ることができないのだ。
サークルメンバーは飽きることなくおしゃべりを続け、時間が過ぎていく。僕は言葉少なに相槌に終始し、たまに思い出したように飲み物を口に含んだ。塩辛い気がした。
誰かが声を上げた。ウンバラさんではない女性の声だったと思う。感嘆の声だった。メンバーの何人かが一つの方角を指している。
「すげえ」
「綺麗……」
夕日が水平線の向こうに沈もうとしていた。人がいかなる技術をもってしても再現できないであろう色と光がもたらされていた。
僕もそれを眺めた。美しい景色だった。
だが、どれだけ目をこらしても嗅覚を刺激する海の本質に勝るものではなかった。夕景ににおいがあれば拮抗していたかもしれない。
海。夕焼けの景色でも朝焼けの景色でも、真夏の強い日差しを照り返す景色でも真冬の曇天下の灰色の景色でも、夜の真っ黒な景色でもそれは変わらない。いや、それらは内包されている一要素に過ぎない。
海の本質は今や僕を一部の隙間もなく取り囲み、鼻腔から入り込んで僕の中を満たしている。生と死が溶け込んでいる。光と闇が同棲している。始まりと終わりが同じ座標に立っていながら全ての座標に偏在している。それらが目まぐるしく入れ替わり立ち替わることが常態化していて高次元で安定している。つまり僕がこのにおいから受け取る海の本質はーー
混沌。
「やっぱり。わかってた」
背後から。間違えようがない。ウンバラさんの声だ。
弾かれるように振り向いたが、僕は船の縁に接している座席に背を預けていたのだ。背後に人が立つスペースはなく、当然誰もいない。見回してもウンバラさんは見当たらない。
乗船前に小石だった僕の胸中の違和感はいつのまにか急成長を遂げ、僕の精神を圧迫していた。息苦しい。
今のは何だ? 何を聞いた? ウンバラさんの声だった。それは間違いない。問題なのはどんな意味だったのか。どんな意思をもって発された言葉だったのかだ。
僕にはーー
「綺麗だね、海」
今度は明確だった。再びのウンバラさんの声は間違いなく前部座席方向から聞こえた。ただ後部座席からでは、操縦スペースに遮られて確認できない。
僕の心に謎の焦燥を生み出したのは、その声が決して大きいものでなかったにもかかわらず、後部座席にいる僕にも正確なイントネーションを拾えるほど明瞭に聞こえたことだった。
何か変だ、と思った。一度ウンバラさんの様子を……
「そうだな」
本田先輩がウンバラさんに同調する声。続いて何かそれなりの重量があるものが落ちる音がした。
「じゃあ入るか」
音の正体や本田先輩の言葉の意味を考える暇を、事態の推移は与えるつもりが無いらしかった。
本田先輩はやおら船体の縁に足をかけた。
「え」
情報の処理が追いついていない思考は、本田先輩の行動より彼が救命胴衣を装着していないことに着目していた。なるほど、先の何かが落ちた音は胴衣を脱ぎ捨てた音だったのか。
合点してる間に本田先輩が視界から消えた。
「そっすね」
後輩男性の声。同じく救命胴衣を脱いで、船体のよじ登りーー
飛び込んだ。
「は……?」
「私も」
「よっと」
僕だけが知らないレジャーか何かなのか? 僕が把握していないだけで、スキンダイビングだのシュノーケリングだのスキューバだのそういった類の催しが計画されていたのか?
もう二人飛び込んだ。
そんなはずはない。何の装備も無い、救命胴衣さえ無い、インストラクターもいない、しかも日も暮れようとするこの時間に。そんなマリンアクティビティーがあるわけがない。
「きれいだねえ」
そう言って身を乗り出した一年生の表情は、夕焼けの海に感動した時と同じように無邪気で、少なくとも彼女にとっては疑問を挟む余地が無いほど当たり前の行動をしていると理解できた。
「ちょっと……」
ドボン。
手を伸ばしたが間に合わなかった。僕の理解が追いついておらず、行動はもっと追いついていなかった。僕はウンバラさんの声が背後から聞こえたその時から一歩も動いていなかった。
「おい待ってくれって」
諏訪。僕と同じようにこの事態について行けてないーー
「置いてくなって」
わけではなかった。すぐに水音と共に諏訪の姿も消える。僕はその段になりようやく体を動かすことができ、諏訪が飛び込んだ場所から海面を覗き込んだ。
諏訪の姿はもう見えない。諏訪が飛び込んだために起こった波紋だけが、彼が存在した証だったがそれも見る見るうちに薄れていく。消えていく。
他のサークルメンバーの誰をも見出すことができない。夕日はいよいよ地平線の向こうに没しようとしており、海に投げかけられる光はますます弱く、海面は黒さを増していくばかり。
「ウンバラさん……?」
ウンバラさんもいつの間にか見当たらない。みんなのように飛び込んだか。僕もあまりの事態に全てを目撃できたわけではない。
…………いや。きっとウンバラさんは飛び込んでいない。彼女にはその必要が無いように思えた。
多分そうなのだろう。
乏しい光を反射する海面。その下に広がるもの。何もできないと理解する。
「海原さん」
茫然と呟いた。
僕は僕の知人を飲み込んだ混沌のにおいを胸に取り込みながら、ただ立ち尽くしかなかった。
嫌な事件だったと人は言う。誰も見つからなかった。
自分一人では怖いから、他人と示し合わせてその決断を行い、その行動を起こす人たちがいる。君だけが知らされていなかったのだろうとも言われた。
そうじゃない。そんなものは本質ではない。
僕は運が良かっただけだ。いや、海の本質から見れば「命拾い」に価値は無く、僕以外のメンバーが取った行動が正しかったのかもしれない。
僕は決して海に近付かなくなった。あのにおいが届かぬ場所に住居も移した。ありふれたデスクワーカーの職につき、凡庸な日々を送っている。
オフィスで丸一日パソコンに向かい、送られてきた数字と文章を加工して別の場所に送り出すだけの仕事に嫌気がさすこともあったが、自分がどんな仕事をしているかにさして興味はなかった。
10年後なのか、3ヶ月後なのか、今日なのかはわからなかったが、その時がいつか僕にもたらすもの以上の関心事などありえないからだ。
「わかっている」からと言って僕は所詮小さな小さなヒトの一個体に過ぎない。次は本田先輩や諏訪と同じようにーー
デスクの電話機に着信。外に出ている上司からだった。
「ああ、急で悪いんだけどな……」
きた。
上司の言葉は耳には入っていたが頭には届いていなかった。ドアの向こうの廊下を誰かが歩いてくる足音。そしてその足音より濃厚に「その存在」を僕に知らせる、あのにおいがした。
電話の向こうの上司は「新しい人が」だの「もうすぐそっちに」だのと言っていた。足音がドアの前で止まった。
僕は電話を切った。
ドアが開き、鮮烈な海のにおいが僕の精神をさらっていった。