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雪は地へ、空は青く

作者: 山桜りお



 雪が積もるは地へ、雲が晴れるは空へ。―――――そう、誰かが言うのだ。










 大陸の北側にあるこの国では、冬になれば必ず天から地へと雪が舞う。それはまるで、どうしようもなく定められた運命を暗示するかのように、ふらふらと頼りなげに暗い空から降ってくる。ふらり、ふらりと宙をさまよい、なにかに抵抗するかのように虚空を揺蕩い、けれど最後には必ず地面に飲み込まれて消えてしまうのだ。


 いくら抗っても、逃れようとしても避けようもなく。


 その雪景色が。そして、雪が降り止んだ後の穏やかな日差しが。見るたびに、胸の奥を締め付けていた。


 一時の不安定な自由を手に入れてもがき、どうにかしようと足掻き、それでもどうしようもなく最後には地に吸い込まれて消えてしまう雪はまるで己の想いのようで。――――そして、青空と白い雲の隙間から覗く明るい日差しは、溶けまいとする雪を消し去る、残酷な運命そのもののように思えていたのだ。





★★★★★





 泣かないで、僕のお姫様。

 必ず帰るから。だからどうか、泣かないで。


 ――――それが、死のみが待つと言われている前線へ向かった、彼の最後の言葉だった。


 たとえばこれが、物語だったら。王子様は、そしていつの日かきっとお姫様を迎えに帰ってくるだろう。二人が再会した時、周囲はみんな王子様とお姫様の婚姻を祝っていて、誰もが幸せで。悪者には必ず罰が下って物語は終わる。そんな結末は、小さな子供が聞くようなおとぎ話の中ではありふれた展開かもしれない。


 だけど現実でそんなことが起こるなんてありえないことだ。残念ながら、お姫さまと呼ばれたわたしは平民以下の存在で、王子様然とした彼はれっきとした貴族の息子だった。


 貴族と平民ですら結ばれることがかなわない国なのだ、平民にすら蔑まれるわたしと彼が恋仲になるなんて、本来ならばあり得ないことだった。釣り合わないことなんて、百も承知の関係だった。否、本来であれば私たちが同じ空間にいること自体、許されることではなかったのだ。それでも彼にとっては一時の遊び、わたしにとってはひと時の幸せな夢。そんな風に無理やり考えて関係をずるずると続けてしまった。彼が飽きれば、もしくはその前に少しでも周囲にばれそうになればこの関係は根っこから断ち切って終わり。そうして彼も私も本来あるべき姿に戻るだけ。


 それでいいのだと思っていた。そうする以外の選択肢などどこにも存在しないと、わたしは本気でそう思っていたのだけれども。





 この国には、貴族と平民という人の区分がある。けれど、国の人口として発表されている数よりもはるかに多くの人々がひしめきあっている町はずれの様子に、国外から訪れた旅人は大抵首を傾げる。なぜこれほどの人がいるのか。町はずれのさびれた地にいる人々は、いったい何者なのか。そう不思議に思ってそこらを歩く身なりの良い人々に疑問を尋ね、そうしてこの国の真実を知るのだ。


 公式の人口よりも人が多いのは当たり前のこと。だって町のはずれでみすぼらしいなりをしている人々は、国の発表している人口には含まれていないのだから。――――というよりも、そもそも彼らは存在しないことになっているのだ。人としての彼らは、この国では認められていない。それが、賤民と呼ばれる人でなしの人々の身分だった。


 かつて罪人になった者の子孫だとか、生まれながらに穢れた血を持つ者たちが寄せ集められたのだとか、その起源は杳として知れない。けれど、そんなことは誰にとってもどうでもよかった。貴族にも平民にも、そして賤民たち自身にとっても。当たり前だ、家畜は己がなぜ家畜であるのかを考えたりはしない。なぜ人にいいように扱われ、使い倒され、その生を終えていくのかなど考えることなどあるわけがない。


 賤民もそれと同じことだ。なぜ自分たちが人として扱われないのかなんて、考えることに意味はない。ただ、自分たちは人ではないことを理解して淡々と生きていくだけが賤民に与えられた過ごし方だ。幸いなことに、というべきか不幸にもというべきか。この国では夏の熱さも冬の寒さも、生き物の生に支障をきたすほどの厳しさはなかった。食べ物だって、不足することは殆どない。城下の貴族たちがだす大量の残飯がそのまま賤民の糧となる。腐る前に捨てられるそれらは、ごみとして扱われていることを忘れてしまえば平民の食料より質がいいことだってあった。


 ――――けれど、その食べ物は自身が望んで手にしたものではなく。だからとって望めばなにか他のものが与えられるということもない。人として生きるのに必要なのは、自身が人であるという矜持だ。人間社会の中で生き、それぞれに役割を見つけて学びながら成長していくのが人のあるべき姿で、そしてそれらは何一つとして賤民にあたえられてはいなかった。


 だから、賤民は己を人として考えることができない。同じように言葉を話し、考え、感情を抱く生き物でありながら、貴族や平民はおろか、賤民自身ですら己を人だとは思っていなかった。ただ生まれ、生きて、死んでいくだけの存在。平民も貴族も、悪意なく彼らを虐げる。賤民はそれを当然のこととして受け入れる。もう数百年の昔から、この国はそうやって成り立っていたのだ。










 貴族の彼と、人ですらない賤民のわたし。もともとの知識もこれまでに積んできた経験も何もかもが違うのだから、本来気が合うはずなどなかった。だけどどうしてだろう、心の隙間が埋まるように、かけた何かを見つけたように。何もかもが違うわたしたちは、奇跡のように気が合った。



 雪の中、飛ばされた粗末な服を拾い上げてくれた彼を見た時。綺麗なアッシュグレーの目に映るわたしを、見つけてしまったその瞬間。規則正しく脈打っていた心臓が、おかしいくらいに跳ね上がった。差し出された布に手を伸ばして、そのまま身を翻そうとした私を引き留めたのは彼だった。


 ――――そうやって、わたしたちは出会ったのだ。


 空の青さを美しいと思う気持ち。空っぽの手のひらを見て不意に泣きたくなるような感傷。道に落ちている石ころを蹴ることに対して躊躇う心も、ただ黙って隣り合っているだけで幸せだと、そう感じるところまで全部全部、同じように思っていて、同じ気持ちを持っていて。何気ない仕草にも一途しさを感じて、小さくあくびをこぼす姿に何故だか泣きそうになったことも何度もあった。


 離れようと思っても、釣り合わないのだからと理由をいくら探しても、頭でわかっているはずの事実に心が追い付かない。好きな人とともにいられるだけでいいなんて、そんな物語のようなことばかり考えて胸がいっぱいになるのがとても苦しくて、辛くて、ありえないことなのはわかっていたのにそれでも二人から一人に戻ることはできなかった。どれだけ離れようとしても、彼は必死になって私を引き留めたしわたしはそれを振り切ることはできなかった。この想いの先に待っているものは破滅しかないのだと分かっていても、それでも手放すことのできなかった想いは、自分ではどうすることもないほどの強さでもって二人の赤い糸をつなぎ続けた。


 その狂おしいばかりの心の痛みを言葉にするのなら、それはきっと恋と、愛と呼ばれるものだったのだろう。


 だけど現実は厳しいものだから。わたしたちをつないでいた細い糸は、そんなものは本当はどこにもなかったのだと思う。きっと赤く見えていたのはこれからわたしたちが、否、彼が流す血の色で、その糸は背負うべき業だったのだ。貴族にとって賤民の同じ人間ではなく、立場は違えど私たちから見ても貴族は同じ生き物ではなかった。ただ偶然同じような見目と言語を持ってしまっただけの、悲しい別の生き物だというその事実を。たとえ真実がどうであれこの国ではそう扱われてきたこの立場を、わたしは決して忘れてはいけなかったのだ。


 人と違う生き物同士が惹かれ合ったらどうなるか。よく考えずとも、そんなものは分かり切ったことだ。例えば人が犬と愛し合うことを是とするような国はどこにも存在しないし、虫に恋をするような人間は変人として扱われる。人としての則を超えた、あってはならないことだという人もいるだろう。私と彼との関係、そのもの。貴族と賤民が愛し合うことなど、貴族にとってはおぞましい以外の何物でもない。そして、立場は違えど貴族を絶対の存在として、己とは違う生き物として見上げてきた賤民にとっては神を愚弄するような行為そのものだった。





『アーティ、と呼んでもいいかな』


 ―――だけど。今でも、目を閉じれば優しい声が聞こえてくる。先に未来などないことが分かっていて、それでも離せなかった手の持ち主の、柔らかいながらも芯を持った響きが。


 名前一つすら持っていなかった賤民の小娘に、あの人は美しい音をくれた。きらきらと輝くような、夜空に光る星のような音の響きで、何も持っていなかったわたしを愛おし気に呼んでくれたのだ。


 口ではいらないと、分不相応だとそう何度も断ったけれど、本当は彼がくれた形のない贈り物が嬉しくて仕方なかった。


 諦めることなく呼び続けてくれた彼に根負けしたようなふりをしていたけれど、困った顔を作りながら心の中ではひたすらに喜びを嚙みしめていた。嬉しくて、あまりにも嬉しくて胸の内で何度も何度もその名を繰り返した。アーティ。アーティ。アーティ、アーティ、アーティ。私が、生まれて初めて手に入れたわたしだけの響き。わたしだけの、大切な名前。



『美しいものには、美しい名前が似合う。美しいものを持てばさらに美しくなれる。アーティ、僕のお姫様。君の未来がもっと美しい色どりに満ちたものになりますように』


 そんな気障なことを衒いもせずに言える彼が、好きだった。叶う恋心ではないことなんて重々承知していたけれど、それでも想う気持ちだけは消せなかった。


 大好きだよと言われたら、大好きだよと返す。それだけでよかったのだ。他に何も望まない。未来なんて、真剣に考えられるものじゃないことは分かっていた。どうしたって将来は一緒にいられないのだ、離れようと思ったことだって一度や二度ではない。だけど。






★★★★★



 そうやってどれくらい一緒にいただろう。


 アーティにとっても、彼にとってもけっして順風満帆な日々ではなかった。なるべく人目に付かない場所を選んでこっそりと会っていたけれども、誰にも見られずに秘密の関係を続けることなどできはしない。アーティは貴族と話すなんて罰当たりなことを、と何度も同じ言葉を浴びせられたし、冷たい視線だけではなくごみを投げつけられたことも幾度もあった。賤民は普段からそうやってごみを投げつけらる立場だから、まだそれでもよかったのだけれども。貴族だった彼は、それはもう一族郎党、のみならずとにかく会う人会う人全員に説得を受けたのだという。だけど、アーティは知っている。説得なんて、そんな生易しいものであるはずがない。貴族というものは平民よりはるかに裕福で、そして平民よりはるかに賤民に対する嫌悪感と、輪を外れた者への制裁が強い。


 彼がアーティと会い続けたことで、一体どんな扱いを受けているのか。それが分からないほどアーティは馬鹿ではなかったし、それを無視して会い続けるような度胸も本来はなかった。だけど、彼は言うのだ。君だけが僕の生きる理由。君がいないのなら生きる意味なんていらない。君を失って得る生なんて他の誰かにくれてやる。だから、どうか傍にいて。


 君に不利益は渡さない。そう言われて、泣いたことがある。


 違う。私に掛かる不利益なんてどうでもいいのだ。あなたが、貴族であるあなたが人としての生を望まないと言い切るのと同じように、わたしは賤民として得る当然の不利益なんて怖くもなんともない。貴族に虐げられるのなんて当然のことなんだから、なんだっていい。だけど、貴方が傷つくことだけは。


 貴方がわたしを庇って傷つくくらいなら。そんな生、捨てたほうがましだとすら思うのに。


 だけど、彼があんまりにも真剣な形相で首を横に振るから。君がいなくなるのなら、僕も一緒に行く。生きる理由のない世界にとどまるほどお人よしじゃない。そんなことを、一つの冗談もなさそうな顔で言い切るから。――――だから今日までだらだらと、彼の手を振りほどくことができなかったのだ。彼をあるべき場所に返してあげることもできないままに、のうのうと生きてきてしまったのだと。








 政治犯、という耳になじみのない響きが、彼につけられた罪名だった。この国の方針に逆らった()()が受けるべき罰。男は戦場送り。女は島流し。人であるならば有無を言わさず与えられるその刑は、それが故に賤民には適用されない。―――だって、彼らは人ではないのだから。人でないものに罰を与えても意味がないと、それがこの国の揺るがぬ方針だからだ。

 


 ――――逃げられないように手錠をかけられて、遠ざかっていく見慣れた後ろ姿をぼんやりと眺めながらそうあてもなく思考を巡らせた。


 ねぇ。


 ついに一度も、声に出して呼ぶことはできなかった彼の名を、心の中で呟いてみる。


 呼んでほしいという彼の願いは、どうしても聞けなかった。他のどんな願いを聞けてもそれだけはと首を振り続けた。


 だって、賤民には名前などない。一度でも口に出してしまえばもう一度、もう一度と呼びたくなるに違いないのだから、決して呼んではいけなかったのだ。呼べば誰かに聞かれるかもしれない。賤民が生涯もたずに生きていくはずの名を何故呼んでいるのか、怪しまれないとも限らない。そしてそれが彼の不利益になってしまったら。彼が、そのせいでなにか責を負うことになってしまったら。


 僕がいいんだから、それでいいんだと彼は何度もそう言ったけれど。それでも、どんなに頼まれたってアーティはその願いだけは聞くことができなかった。――――彼が連れていかれてしまう、今この瞬間ですらも。


 ここでアーティが知らないふりをすれば、もしかして彼の罪はなくなるかもしれない。ありはしないと分かっている現実に、それでも希望の光を見出したくて黙って彼の背を見つめて。――――そして、彼はそのまま戻っては来なかった。




★★★★★




 アーティ。


 あれから、ふとした時にいつも思い出す。彼の優しい声と、柔らかな響きの音。


 僕のお姫様。何のとりえもないどころか、蔑まれるべき賤民の彼女をそう呼んでくれた人の顔も声も、どれほど時が流れようと決して記憶から薄れることはない。


 幸せな記憶なんて、一つでいい。辛いことがなければそれで十分だ。それは、彼の口癖だったのだけれども。その彼が消息を絶ってずいぶん経つ今では、アーティが同じことを願ってめぐる季節の空を見上げている。


 春の風に吹かれながら、夏の星を探しながら、秋の香りを感じながら、雪のかけらを掌に掬いながら。


 表情を変える闇色の向こうに探すのは、いつだって同じ人の笑顔だ。


『必ず、帰ってくるから』


 そういってもう幾年が経ったか分からないほどに時は過ぎたけれど、それでもアーティは彼を待ち続ける。それが彼から離れられなかったことへの。別れを知ったうえで彼の側に居続けた彼女の、諦めきれない未練だった。


 帰って、きて。あなたがいてくれるなら、他には何もいらない。どうか無事でもう一度あの笑顔を。


 ―――それだけが、貴族の青年を愛してしまった人でなしの少女の願いだった。


 そして、魔法も奇跡も、そんな夢物語のようなことは現実には決して起こらない。









★★★★★






「さあさあ、見てって、寄ってって!ジュレーズで一番のうまいもんばかりだよー!」


 道行く人を呼び止めようと、屋台の店主たちが陽気な声を張り上げている。ジュレーズ、という国名は、アーティが生まれた時には隣国だけのものだった。今は、この国も―――否、この地もジュレーズという名で表されるようになっている。


 そう、アーティの生まれた国は、消えたのだ。戦争で負け、賠償金も資源も底を尽きた国から搾り取れるものは、その国自身。平民と貴族の間にあった垣根はなくなり、賤民という人々は法の上では何の差別もなく人として扱われるようになった。


 長年積み重ねてきた取り決めはそう簡単に崩れ去るものではないので、今でも富裕層と呼ばれる人々は軒並み元貴族だし貧民街にひしめくのは賤民上がりの人間だけれども。それでも、少しずつ変化は見えてきている。特権だけを駆使して豪勢に暮らしていた元貴族は、いまでは平民よりも賤民に近い暮らしをしていると聞いた。賤民でさえなければと嘆かれていた神童が政界に足を踏み入れたという。


 そうやって、変わっていくのだろう。かつて賤民だった人々が普通の人として扱われる未来。賤民自身が、己を人として誇れるようになる未来が早く訪れればいいと、アーティは思う。


 そしてこの国が、もうジュレーズの一部となってしまったこの地が、平和であれと。





「姉ちゃん、買っていかないかい?」

「ごめんなさい。せっかくだけど、おいもは昨日買ってしまったの」

「そりゃあ残念だなぁ、また寄ってくれよ」


 穏便な断りにも嫌な顔一つせずに笑う露天商に、こくりと頷く。昼下がりのこの時間帯は暇なのだろう、普段であれば終わるはずの会話に露天商は言の葉をつなげた。


「知ってるか、戦争で帰ってこなかった兵士たちが帰ってきているんだとよ」

「…………え」

「東の方に向かったやつらは人質になっていたけどほとんどが無事だったんだとか。まぁ、全員じゃないが…姉ちゃんの知り合いも東に行ったのかい?」

「東、に」


 分からない。あの時、連れていかれてしまった彼はどっちに向かったのだろう。罪人として連れていかれたのだから、普通の貴族が行く戦場よりはるかに厳しいところに送り込まれたのは間違いないと、それは分かっているのだけれども。


「聞くところによると政治犯系の奴らが送られたのが東なんだってよ。貴族側はそっちが激戦区になるって読んでたんだな、まぁ実際は西だったらしいが」


 そんなところ読み間違えて勝てるはずもないな、と暢気に笑う露天商の前で、アーティは唇をぎゅっと噛んだ。政治犯。国の方針に逆らったら政治犯だよ、と遠い昔に聞いた言葉が甦る。


 賤民とかかわるべからず、という国の規則を犯した彼は、ならば政治犯だったのではないだろうか。そして、東に送られていたならば。生き残りは全員ではないとはいえ、貴族として一通りの武術を身に着けていた彼だ、決して簡単にやられるような人ではなかったはずで。だったら、もしかして。


「――――ああ、そうそう」



 頭の中に閃いた希望の輝きは、けれど次の露天商の発言によって、すぐに闇に飲み込まれた。


「だけど、生き残った奴らは例外なくジュレーズの嫁を貰ってたんだそうだよ。なんでも、人質になってる間に抵抗を抑えるためだか何だか、お偉い方の考えることは下々のものにはよく分からねぇな」


 ジュレーズ人はとにかく美人が多いから誰一人不満を持ってるやつはいないらしい、こっちに帰ってくるときも嫁を連れてくるか里帰りみたいに顔だけ見せて帰るかばかりで、ほとんどのやつがもう子供もいて家庭を持っていて…。


 仕入れた情報を話したくてたまらない、とでもいうように露天商の語りは止まらない。


 ああで、こうで、と話し続ける声を聴きながら、アーティは口元に薄く笑みを浮かべた。一つ瞬いて、雲が浮かぶ青空に目を移す。


 そうか、とそれだけが心に落ちてきた。


 ジュレーズの人と、家庭を作る。敗戦者からすれば喉から手が出るほどに欲しい未来だ。それを、政治犯として国から虐げられていた人々が手に入れる。神は、いたのだ。


(―――――よかった)


 そう、思った。


 どうか、彼が生き残っていますように、彼が報われますようにとずっと思ってきた。それがかなったのであれば、嬉しい以外の何物でもない。どうかどうか、彼がその幸せな人々の中にいますように。願わくば、アーティのことなど忘れて、昔であった賤民の小娘のことなど二度と思い出さないで、日の当たるところで生きていってくれますように。


 それだけで、十分だ。彼は全てをアーティにくれた。幸せも、恋心も、名前でさえも。もう十分だ。


 アーティから彼に与えられたものは何もなかったけれど、その分どうかこれから幸せになってほしい。それが嘘偽りのない本音で、願いで、神などいないと信じていた少女の切なる祈りだった。




★★★★★




 もう二度と会うことはないだろうと、そう覚悟していた。ただ、どうか無事であってほしい。おのが命と引き換えにでも、生きていてほしい。そう思ってもいた。それがどちらも叶ったのであれば、これ以上に嬉しいことはないと、そう思う。


 だから。だけど、本当に少しだけ、抱いてはいけない思いも持ってしまうのだ。だから、もう全部吐き出してしまおうと、そう思った。 


 夕方を前にして増えてきた人ごみの中、黄金色の空を見上げて軽く息を吐く。


 結局、面と向かっては一度も呼ぶことのなかった名前と共に、最後に彼への想いを空気にとかそうと、そう思ったのだ。


「あなたとであえて、幸せでした」


 さようなら。さようなら、―――――――ウェール。










「…名前を呼んでくれて、とっても嬉しいんだけど」











 無防備だった背中にかけられた声に、びくりと肩が跳ねた。嬉しいと言いつつあまりうれしそうではない、困ったような怒りたいような低めの掠れた声。


「ねぇ、アーティ、どうしてさようならなの」


 肩に置かれた手にゆっくりと力がこもる。痛くはないけれど決して有無を言わせない強さで捕まえられて動けないまま、くるりと回り込んできた人の目がアーティを見つめる。銀色のような、褐色のような、光の加減によって色の変わる瞳は気のせいだろうか、今は赤く燃えているように見える。怒ったところなんて一度も見たことのなかった彼の、どうしようもないほどに激昂した感情を感じ取ってしまったからそう見えるのだろうか。


「ジュレーズの、人と」

「そんなの、結婚なんてするわけない。幸い人道的だったから無理強いはされなかったけど、もし結婚しないと殺されるんだとしても命がけで逃げるにきまってるだろう」

「なん、で、だって」

「…なんで?むしろなんで、僕が君以外と結婚するなんて思ったの」


 形の良い眉がぎゅうっとひそめられる。やっと会えたと、きっと一瞬前まで喜びに輝いていたであろう顔に今浮かんでいるのは紛れもない困惑と怒りの色で。


 ああ、だけど。


 怒らせた、ということは分かっていた。きっと自分の発言が彼を傷つけてしまったのだということも分かっていた。――――だけど。


「アーティ、…アーティ?」


 だけど。それを申し訳なく思う気持ちももちろんあったのだけれども。心の箱を割って飛び出してきたのは、安堵の吐息と涙だった。


 女性は、どうしようもなく悲しかったり嬉しかったりするときには綺麗に泣くものなのだそうだ。だとすればアーティはやっぱり賤民のままで。溢れた感情を、そんな風に美しくこぼすことなんてできやしない。込み上げるままにぼろぼろと頬を伝う大粒の涙に、眼前の青年が慌てる気配がした。


「アーティ、…泣かないで、ごめん。ごめん」


 ごめん。怖がらせた?驚かせた?ごめん、悪かった。そう繰り返すその声を。――――その優しい声を、背中をさする手を、眉をぎゅっとよせて覗き込んでくる表情を。いったい何度、夢に見たことだろう。


「…うぇ、」


 泣き声のようにこぼれた言葉に、背中をなでていた彼の手がぴたりと止まった。


 それは、途切れ途切れになってはいても決して泣き声ではないのだと、彼にはちゃんと分かっていたから。


「うぇ、える」

「アーティ…」

「うぇー、る」


 つっかえながらも、繰り返す。呼んではいけない。けっして、口にしてはいけない。そう何度も何度も己を戒めて封じてきた言葉を、ふわりと音にして空気をまとわせる。


 ―――ずっと、ずっとずっと呼びたくて仕方がなかった。どうしようもないくらいに辛かった。賤民と貴族だから。人と、人でなしだから。その音で彼を呼んでしまったらきっと、淡い夢はほどけて消えてしまうから。そんな風に自分を押さえて押さえて、それでも状況は何も変わらなかった。抵抗一つできないまま手の届かないところに彼が連れていかれてしまった時、はじめて自分の努力なんて何にもならなかったことに気が付いた。


 呼んでくれと、そう頼まれ続けた名を呼ばなかったのは、ひとえに彼に責を負わせたくなかったから。賤民に名を呼ばれて起こる悪いことは山と考えつくけれど、良いことなんて一つも思い描けなかった。だから、どれだけ名を呼んでほしいと言われても呼ぶことはできなかった。どれほど彼が呼ばれたくとも。――――どれほど自分が、彼の名を呼びたくとも。


 だけど、それは何の意味もないものだったのだ。だって一度も名を呼んだことはなかったのに、彼は連れていかれてしまった。そして今、名前を呼んでも、ぎゅうっと抱え込んだ腕の中から彼は消えたりしない。


 そこにあるのは最愛の人の驚いたような表情、そして思わずこぼれた泣き笑い。何処を探しても決して悲しみの色など見つからない、ただ溢れ出すのは純粋な喜び。


 消えたりしないのだ。彼はここに、アーティの側にいる。アーティを愛してくれた人は、嘗て貴族の青年だったウェールはいま確かに、アーティを抱きしめて笑っていた。


「ウェー、ル」

「…うん。うん、アーティ」

「わたし、ずっと、あなたに、会いたくて」


 溢れ出す思いのままに、まとまり切らない言葉を紡ぐ。


 ―――――そう。ずっと、会いたかった。これまでのどんなときにも、何があっても、ただの貴族と賤民だった時も、身分の壁がなくなりつつある今も、ずっと。


「会いたくて、名前を、呼びたくて」

「うん」

「ごめんなさいって、謝りたくて」

「…なにを?」

「ずっと、名前を呼べなかったこと。離れようなんて、言ったこと。望んでもないのに、別々の生き方をしようって、言い続けたこと」


 謝る必要は、ないことだったのかもしれない。かつて互いの間にあった身分の隔たりを考えればそれは当然のことで、別の生き方以外をするという選択肢は常識の中にはなかったのだから。


 けれど、ウェールは黙って首肯した。無言のままでアーティを抱き込んで、ゆっくりと深い呼吸をする。ふううぅ、と深く息を吐く音が、体越しに聞こえた。


「――――呼んで欲しかったんだ」


 ややしてぽつりとつぶやきが落ちてくる。


「だけど、呼べない気持ちもずっと知ってた。もし僕が君の立場にいたらきっと呼べないだろうなって、そんなことは分かり切ったうえで君に頼んでた」


 だって、そんなことは気休めにも何にもならないと、それが貴族の立場にいたウェールには分かりすぎるほどに分かっていたから。賤民だったアーティには曖昧だった政治犯として捕まる基準も、その上で自分の身に起こるであろうことも全て承知の上で、それでもアーティに呼んでもらいたかったのだ。


 幸せな未来なんて思い描けなかったから、少しでも幸せな今が欲しかった。紛い物でも、決して生涯を誓うことができなくとも、それでも互いに名を呼んで笑いあいたかったのだ。


 卑怯でごめんね、と呟いた声は低くて、少し掠れていた。


 ――――アーティは、黙ったままその背をぎゅうっと抱き返した。


 卑怯だと自重する彼の心も、あの頃呼べなかった己の思いも、全てが胸の中で混ざりあって溶け合って、そして不意に柔らかくほどけた。


 ああ。―――――彼が、生きて帰ってきたのだと。ようやくそう実感がわいた。


 戦いを超えて。アーティには想像もつかないような、凄惨な場所に追いやられて。激戦区ではなかったと言っても、一度も戦火を経験しなかったわけはない。きっと、いくつも苦しい日をくぐりぬけてきたのだろう。その証のように低く掠れた声は、別れの前の優しい滑らかな音とはまるで別人のようで。けれどこらえきれないというように両腕に込められた力の強さは、確かにかつてともに歩いていければどんなによいかと。そう、叶わぬ願いを抱いた青年のその人のものだった。


「生きていてくれて、ありがとう」


 胸がいっぱいになって、アーティはただそれだけを返した。アーティの気持ちをかつてのウェールが完璧に理解できなかったように、今の彼の気持ちはきっとアーティの想像で賄えるものではない。アーティが平民として差別を受けずに済むようになってからの数年間を、彼は捕虜として過ごしていたのだ。捕虜は比較的人道的な扱いを受けていたと聞いたけれど、あくまでも何かと比べてましだと言っているだけのものだ。貴族育ちで、それなりに誇りも自負もあったであろう彼にとって、奴隷のように扱われ、虐げられた日々は一体どれほどに苦しいものだったか。


 きっと、人として扱われることのない賤民とはまた違った苦しみを彼は味わってきたはずだ。そのうえで吐き出された思いは、何も知らずにいたアーティが軽々しく反応していいものなどではない。そう思ったのだ。


 言葉を分かち合うべきは、今ではない。これからゆっくり、今度こそ貴族と賤民という垣根を超えて共に過ごすことができれば。そうすればきっと、アーティの思いもウェールの思いも混ざり合って分かりあえる日がそう遠くないうちに来るだろう。


 今はただ、ウェールの温かさを感じたかった。これまで離れていた分、互いに長く苦しんだ分、今のぬくもりを分かち合いたかった。


 ぎゅうっと手に力を込めてウェールの背を抱くと、肩の上から回されていた筋肉質な腕が強張るのが分かる。一瞬ためらうように緩んだ力は、次の瞬間少し痛いくらいに強さを増してアーティの全身を抱き込んだ。









 肩に押し付けられたウェールの額が震えている。じわりと染み込む熱さを感じながら、そっとその髪を梳いた。



 おかえりなさい。会いたかった。ずっと、好きだった。これからはもう、ずっと一緒にいようね。一緒に、いてね。


 ―――――言いたいことは星の数ほどあるのに、胸がいっぱいで言葉にならない。ぎゅうぎゅうと締め付けてくる肩の隙間から見上げた空に、アーティは目を瞬いた。


「あ…………」


 はらり、と灰色に濁った空から降ってくる白い欠片が瞳に移りこむ。

 目の前でかすかに震えるウェールの肩に舞い降りて、まるで夢幻かのように消えていく小さな花びらを見ながら、アーティはほのかに微笑んだ。







「ウェール。初雪だよ」



 二人が引き離されて、あの時はどうすることもできなかった別れから何年も経って。辛くて苦しくて仕方のなかったあの時と同じ雪模様が、今はとてもきれいに見える。


 はらりはらりと頼りなげに彷徨っていても、雪の粉が行きつく先は地面だけだ。昔はそんな雪の様が嫌で仕方がなかった。決められた道からどうしても逃れられない自分たちの生と重ねてしまって、降る雪から何度も目を背けた。


 いまは、この雪のようになれれば、と思う。逃れられない運命へ向かうのではなくて、望んだ運命の元へ。風に巻かれて遠回りをしながらも、ひらひらと不安げに揺れながらも必ず地に辿り着く雪の花びらのように。


 ウェールとアーティの物語は、ここで終わるわけではない。むしろ、ここからが始まりだ。ようやく二人がそろって、同じ方向を向いて歩いていけるようになっただけ。これまでの生き方が全く違ったのだから、足並みがそろわないことだってあるだろう。互いの違いを思い知って、悲しくなることもあるかもしれない。


 それでも、行きつく先が同じであればいい。迷っても、揺らいでも、たとえ違う方向に進みかけても、最後に行きつく先が揺るぐことのないものであればいい。そうやってずっと一緒に歩いていければ。何も持っていなかった賤民の少女と、そんな彼女を愛した青年が同じ未来を見ることができるのならば。







 ―――――今はもうそれだけで十分だと、そう思えたのだ。



 ただいま、僕のお姫様。


 震えて掠れたその声に。込められた万感の思いに。アーティは、涙でにじむ白い空を見て精一杯の笑顔でうなずいた。








★★★★★








 誰にも引き裂けない絆があるのだと、のちに人々はそう語る。けれど、二人は笑ってそれを否定した。引き裂けない絆なんて、この世に一つもありはしない。


 ならばなぜ、と問うた人々に、青年はただ笑い、少女は静かに首を振った。


 ―――――曰く、引き裂かれても戻らざるを得ない絆というものが、世の中にはあるのだと。諦められなくて捨てきれなかった想いが、実を結んだだけ。それだけの話だと。



 それだけのこと、と言い切った少女と、それを微笑んでみていた青年が辿ったその後の人生は明らかにはなっていないけれども。それでも、数奇な運命をたどった二人の物語は、今も尚、嘗てはジュレーズと呼ばれていたどこかの国で語り継がれているのだという。








 雪が積もるは地へ、雲が晴れるは空へ。


 







 ――――それが、人でなしと貴族が幸せになるおとぎ話の始まりで、そして終わりの言葉だった。






 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 身分違いの恋で、決して脳内お花畑でない話の進め方。 [気になる点] 賤民とは、主人のいない奴隷制度と似てる? [一言] 異世界設定だし時代とかも全然関係ないのですが、どうしても古いフランス…
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