知床でヒグマに遭遇した時の対処法
知床の曲がりくねった山道を、ゆっくりとレンタカーで登っている時だった。
「お兄、本当に知床五湖に行くの」
助手席のユリちゃんが独り言のように言った。
今年10歳になる彼女だが、その落ち着きは到底小学生とは思えない。
黒いキャップから覗く彼女の顔立ちも、その態度と相まって大人びているのだが、頬っぺたはふっくらしていて可愛らしい。可愛らしいのだが……。
「ああ。知床五湖は北海道でも有数の景勝地だし、知床の自然公園を自分の足で歩ける貴重な場所だからね。本当に綺麗らしいよ?」
「でもヒグマも出没するらしいじゃん」
「大丈夫大丈夫! 聞くところによると、ヒグマはたびたび目撃されるけど被害はないらしいじゃん。人間とヒグマの距離感が大事なんだよ」
「お兄が足の先からジワジワ食べられたらいいのに」
「なんで!?」
「私、肉食動物の捕食動画とか好きだから」
そう、ユリちゃんは少しばかり特殊な趣味を持っているのだ。
「俺にエサを実演しろと!? 投げ込まれる肉になれと!? それはあんまりじゃないか! それに、俺が死んだら悲しくない?」
「カップラーメンこぼしたくらいには悲しい」
「俺の命カップラーメンと同等!?」
「確かにお兄が死んだら悲しい。でも目の前でヒグマが食べるところは絶対見たい」
「何その抑え切れぬ欲望! 俺はヒグマよりユリちゃんの方が怖いよ!」
「お前が死んでも悲しくない」と言われるより、俺の死を悲しみながらも尚ヒグマに俺を食わそうとする彼女の心理が心の底から怖かった。
「ぴえん! 二人とも喧嘩はよして下さいですううう!!」
後部座席から小梅ちゃんが止めに入った。
小梅ちゃんはユリちゃんのお姉さんだが、妹とは正反対に甘えん坊でガーリーな服装をしている。
頭には大きな紅いリボンが付いているし、着ているワンピースはフリッフリのフリルで縁取られっている。何度見ても血の繋がった姉妹には見えないよなあ。
二人は俺が北海道旅行中に立ち寄った、根室市に住む叔父の娘達なのだが、叔父夫婦が家を開けるというので、泊めて貰っているお礼に一日面倒を見ることにしたのだ。
「でも私もヒグマさん怖いですぅ。お兄たん、しっかり守って下しゃいね」
「おう、任せといて! こう見えて腕っぷしには自信があるからさ!」
しかし当初思い描いていた平和で楽しい観光とは著しく乖離した恐怖の宴となることを、この時の俺は知るよしもなかった。
***
澄み切っている。俺は未だかつて、これほどの自然と対峙したことがあるだろうか。
遊歩道の両脇は原生林に囲まれ、時にエゾシカとすれ違う。
暖かく木漏れ日の降り注ぐ林道を抜け、開けた場所に出ると、そこには湖が悠然と存在する。
目を見張る光景だ。
透明度の高い湖に空が鏡面反射し、水を青く染めている。
遠くには雄大な知床の山々が見え、その峰々を湧き立つ雲がゆっくりと撫でていく。本当に、人生でこれ以上ないくらい幻想的な光景だった。その様子を一日中ずーっと眺めていたい。一日とは言わずいつまででも眺めていたい。ヒグマと一緒に住み着きたい。いや、そうなると俺は喰われる一方か。
「ぴええええ! すごい綺麗なのですぅ」
小梅ちゃんは忙しなく左右を見て目を輝かせる。その所作はまるで幼い子供のようだ。
「お兄たん、連れてきてくれてありがとなのですぅ」
小梅ちゃんは俺の腕に抱きついてきた。かなり強い力だ。ふにゅっ、と何かが当たる。
「ちょっ、小梅ちゃん! やめてよ! そんなにくっつかないでよ! やめてったら!」
「良いじゃないですかぁ。知床なんだからぁ!」
その理由はちょっとよく分からない。
「すごい」
俺たちの横で屈み込んでいたユリちゃんが興奮気味な声を上げた。ちょっと変わったところのある子だけど、やっぱり小学生だ。この圧倒的な自然に感動しているんだろう。
「お兄、これ見て」
「何があったんだい?」
「昆虫がカエルをむさぼり食う動画」
「見せんなそんなもん! この知床で!」
ユリちゃんがスマホを近づけてくるので俺は思わずのけぞってしまった。
「にしてもヒグマ出ないね」
「まあ、出くわさないに越したことはないよ」
俺たちは遊歩道に入る前、職員の方から研修を受けた。十分程度のレクチャーの中身はほとんどヒグマへの対策についてで、「いかにヒグマと出会わないようにするか」そして「出会ってしまったらどうするべきか」について述べられていた。
秋深まるこの時期、ヒグマはどんぐりを食べるため、遊歩道の近くに出没することがあるという。
その彼らと出会わないためには、手を叩いたり、鈴を鳴らしたり、「ホイホーイ」と叫んで人間が近くにいることを知らせること。ヒグマは基本的に人間と出くわさないようにしているので、これで大抵大丈夫。
でも、もし襲ってきたら?
ヒグマは日本最大の肉食獣である。戦って勝つのは無理だし、妖怪でもない限り、優秀なハンターである彼らから逃げ切るのは不可能だ。
熊撃退スプレーで撃退する、大声を出すなどの対策はあるが、それでも襲われてしまった時は伏せて首筋を手でガードするのが、一番生存率の高い身の守り方らしい。
これを聞いて小梅ちゃんがビビりまくってしまっていたので、俺は仕方なく鈴と熊撃退スプレーを買った。それに俺は普段からハーモニカとタンバリンを持ち歩いているので、いざという時これを演奏すれば楽しい気分になるだろう。
「お兄」
ユリちゃんが俺の袖を引いた。ほっぺたぷにぷにしたい。
「どうしたの?」
「あれ」
「あれ?」
「黒いの」
「黒いの? うんこ?」
ユリちゃんの指差す方には遊歩道が続いているのだが、そこに黒い塊が一つポツンと置いてある。
やはりうんこか。
いや、動いた。
地味な動きだが、確かに。
蠢いている、と言った方が正しいのかもしれない。
先ほどまで寒さを感じていた俺の体がにわかに熱を帯び始める。
あれは。
まさか。
その時、ぬぅっと縦に伸びた。
てっぺんの辺りから何かが二つ光る。
怪しく光る目。
ヒグマだ。
ヒグマが立ち上がったのだ。
気づいた瞬間、全身から汗が吹き出した。
血が逆流するかのような恐怖に貫かれる。
冷静になれ。冷静になれ、俺! いつも勢いで乗り切ってきた俺だがここは逆に冷静にならないと乗り切れない。二人の姉妹を守れない。
「お、お、お、お、お、お、お、おおおおおおおおち、もち、もおちついてふた、ふたたたたたたた二人とももも」
「お兄が落ち着いて」
「冷静に! 冷静になるんだ! こっちに人がいることが分かったらヒグマは近づいてこないって職員の方が仰ってたじゃないか」
「ぴいええええええっ! でもあれ! 近づいてきてないですかぁ!?」
見ると、遠くて何なのか判別しづらかったそれが、近づいてくることによって徐々輪郭がはっきりしてきていた。ヒグマだ。間違いない。
「手だ! 二人とも手を叩くんだ! 手を叩きながら、背を向けず、ゆっくり来た道を引き返すんだ!」
俺は今までの人生で叩いたことなくらい強く手を叩き続けた。手は痛いが、そんなことを言っている場合ではない。
ふと隣を見るとユリちゃんが俺にカメラを向けている。
「何してるのユリちゃん!」
「お兄がヒグマに食べられるところを撮ろうと思って」
「あれ本気で言ってたの!?」
「ぴゃああああああああ!!!!」
小梅ちゃんは完全にパニックに陥っている。しかし、これだけ大声を出せばヒグマも退散するはず……!
「お兄、ヒグマ止まってないよ」
ヒグマは立ち止まるどころか近づいてきている。のそりのそりと、ずんぐりした巨体を揺らし、ゆっくり近づいて来る。
予想を遥かに上回る恐怖で俺の脳みそは沸騰しそうだった。
「ふ、二人ともお! 声を出せ! 鈴を鳴らせ! ホイホーイ! ほら、ホイホーイ!!」
「ぷゆゆゆううう!! 『ホイホーイ』なんて恥ずかしくて言えないのでしゅううう!!」
「いや恥ずかしがってる場合じゃないよ! ほらホイホーイ! ホイホーイ!!」
「ほ、ほ、オンコロコロ センダリマトウギ ソワカ」
「よし!!」
言い忘れていたが、小梅ちゃんは今年で56歳になる。妹のユリちゃんとは少し歳の離れたお姉ちゃんなのだ。
「お兄、今の気分を教えて」
「何でユリちゃんはそんなに冷静なの!? ヒグマがこっち来てるんだよ!」
「確かにヒグマは怖い。怖いけどお兄の食べられるところが見られると思ったら頑張れる」
「何なんだそのトップアスリートみてえなモチベーションの保ち方は!!!」
「ぴえええええ! まだヒグマが近づいてきましゅうううう!!」
もう既にヒグマの目も、耳も、鼻も口もしっかり見分けられる距離までヒグマが近づいている。
てかデケエ! デカイってアイヌ語でポロって言うらしいな! つまりあれはポロヒグマだポロ!!
そろそろ正常な思考が難しくなってきている。
何とか背を見せて下がることだけはしていないが時間の問題だ。
「くそ! 何でヒグマが近づいてくるんだ!」
ふと小梅ちゃんを見ると、不自然にほっぺたが膨らんでいる。ハムスターと言うより怪物のようだった。
「あ! 小梅ちゃん何か食べてるの!? ダメだよここに食物を持ち込んだら!」
「はへへはひ」
小梅ちゃんが喋ると同時にボロンボロンとどんぐりが落ちてきた。こいつがヒグマの分もドングリ食べたせいかよ!
「ふええええ! 美味しそうなどんぐりが落ちてたからついいい!! 女の子だもん!!」
「落ちたどんぐりを貪り食う女の子は居ないよ!!」
あと貴様は女の子ではない。
「お兄、ヒグマまだ止まらないけどいいの?」
ヒグマはズイズイ近づいて来る。その両足は信じられないくらい太い。あんなのを振り回されたら俺の首とさよならしなければならないじゃないか!
あまりの恐怖で俺のチンポは縮み上がっていた。
小さいってアイヌ語でポンと言うらしいので俺のチンポがポンチンポだポン!!
やばいやばいやばいウポポイ!
何かしないと!
食われる!
何とかしないとマジで餌になっちまう!!
俺はカバンからタンバリンを取り出した。そう、ウポポイするのだ。
出来る限り大きな音を出してヒグマを威嚇するしかない!
「ほら! 早く三人とも手を叩いて!」
俺はタンバリンを叩き続けた。
「ぴええええん! 怖くて手が叩けないでしゅううううう!!」
「ふざけんなババア!!」
「あ? もういっぺん言ってみろ小僧」
「すいませんでしたああ!」
くそっ、小梅さんがダメなら……。
「ユリちゃん! 手を叩いて! ほら! 早くホイホーイ!!」
「私、スマホで片手が塞がってるから叩けない」
動画と命のどっちが大事なんだよ!
「じゃあ俺の尻を叩いてくれ! それなら片手でも出来るだろう!」
「え?」
俺は即座にパンツまでずり下ろし、四つん這いになった。
俺は気が狂ってこんなことをしているわけではない。
地面に肘を立てての四つん這いなので、俺はタンバリンを叩き続けられるし、ユリちゃんは
俺のシリコロカムイを叩ける。
「さあ叩くんだ!」
「汚いからやだ」
「そこを何とか!!」
「ふえええ! じゃあ私が叩きましゅうう!」
小梅さんがノーモーションで俺のシリコロカムイを張った。スパン、と素晴らしい音が知床の大自然にこだまする。
この時俺は自然と一体化出来た気がした。
「あ、見て。ヒグマが」
見るとヒグマがぴたりとその場に止まっている。しきりに顔を上げ下げして警戒したようにこちらを伺い始めた。
俺の尻の音が効いているのかと思った次の瞬間、ヒグマの巨体が躍動した。
凄まじい瞬発力でこちらに迫る。
何かあのヒグマ怒ってない!?
「わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
俺の声ではない。
小梅さんの鳴き声だ。彼女は今までの甘えん坊な声が冗談に思えるほど低い声で唸りながら、湖の上を走り出した。
水の上を走っている。
まるでエリマキトカゲのようなガニ股の走行フォームで水面を割いて走り抜けていく。
やはり貴様、妖怪であったか。
なんて暢気なこと言ってる場合じゃなかった!
「ユリちゃん! 逃げろ!」
「お兄は?」
「いいから逃げろ! 俺が食われてるうちに逃げるんだ!!」
不意に俺の手を掴んだ。ユリちゃんの小さな手が俺の指を包む。
「いやだ。お兄を置いて逃げるなんて私には出来ない」
「ユリちゃん……」
「お兄が食べられるとこ撮らなきゃ」
「ですよねえ!」
ブフォッ、ブフォッ! というヒグマの息遣いが間近に迫る。
死が迫っている。
俺はユリちゃんに覆い被さるように這いつくばった。
……。
………。
…………。
あれ?
生きてる。
静かだ。
湿った土の感触、ユリちゃんの息遣い、フンコロガシが尻から降りていく感触、小鳥たちのさえずり。
ヒグマの気配がない。
「お兄、重い」
下からユリちゃんのくぐもった声がした。
「わ、ごめん! 今退くから!」
俺は恐る恐る顔を上げた。
景色が黒い。
ぐるりと見回して俺は戦慄した。
囲まれている。
二本足で立ち、俺たちを見下ろすヒグマがずらりと並んでいる。
何が起こったのか分からなかった。リアクションを取る事すら出来ない。
人間、予想外のことが起こると一旦脳の機能がストいやああああああああああ!!!
俺が一人で取り乱していると一匹のヒグマが進み出た。その一際大きなオスは、白い花を口に咥えている。
「これはシレトコスミレです」
ヒグマが言った。彼は目前で四足になると、俺の尻に、シレトコスミレを、すっと植えた。
秋の冷たい風が、シレトコスミレを撫でる。
そよそよと、尻の上で真っ白なスミレが笑う。
ヒグマが俺に言った。
「貴方は我々の王」
「……え?」
こうしてヒグマたちが冬眠する十二月下旬まで、俺の尻は知床の生態系の頂点として君臨し続けたのだった。
※知床にフンコロガシはいません。
お読みいただきありがとうございました。