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禍根の封印  作者: 尋道あさな
第一幕
7/71

【家族】

 


 屋敷を出てから真っ直ぐ歩くと、見覚えのある通りが見えた。

 ふっと来た道をなんとなしに振り返ってみる。

 先程とは道が変わったような気がして、依月は背中に冷たいものを感じた。


 ――ゾッとする。

 さっきまで歩いてきた筈の道は石畳ではなかっただろうか。


 今はただのコンクリートしか見えなくなっていて、依月はぶるりと肩を震えさせた。


 (しばら)くは人気(ひとけ)が少ない道を選んで歩き、依月は自宅に帰る前に公園のトイレで着替えた。

 幸いにも時間帯は通学通勤のピークを過ぎていて、主婦や散歩をしている老人にしか依月の浴衣姿は見られずに済んだ。


 家族が依月の不在に、気付いていない筈がない。


 昨夜から依月は実質行方不明で、依月が急に消えた後の家がどうなっているか想像すらしたくなかった。


 自然と足取りは重くなる。それでも帰らなければならない。

 着替えを済ませて昨夜の姿になった依月は、とぼとぼと俯きながら自宅へと向かっていた。


 隻弥と速水。不思議な二人だった。

 昨夜みたいな事が無かったら、一生出逢えなかっただろう。


 着物は渋い色なのに髪はくすんだ赤に寄った色、隻弥の姿が頭に浮かんでくる。

 速水も何だか少し可笑しかった。年齢は二十代に見えるのに、頭髪には白髪が混ざっていて。


 一体、何者なんだろう。


 ――開錠師、それは依月にとって限り無く未知の存在だった。



「止めた。思い出さないようにしよう。あれは夢だった、夢……だった、よね」


 握った手のひらが熱くなる。


 夢ならどれだけ良かっただろう。


 依月は一度、死んだのだ。

 そして今は生き返っている。


 自分自身が気持ち悪くて、気を抜けば今にも震えそうになった。


 それでも、そんな事になっても。自分は生きていたいのだ。もっと未来を見たい。今は苦しくてドン底みたいな時間を過ごしていても、過ぎ去ればきっと楽しいことが待っている。



 依月が考えている間についに自宅へ辿り着いた。


 ごくり、と唾を飲み込んで玄関のドアを開けた。


「……ただ、いま」


 恐る恐る開けた先には母親が立っていた。

 心臓が飛び出そうな程に驚いて、依月は一歩後ろに下がる。


「お、お母さ」

「あら、おかえり。気分は良くなったの?学校には連絡してあるわよ」


 心配そうに眉を寄せた母親に依月は一瞬戸惑った。


 ――気分?もしかして……。


 こういうときの予想は当たるものである。


 心配している母親と“気分が悪くなっていた”という言葉。つまりは誰かが母親に連絡をしてくれたと言うことだ。


 隻弥がするはずはない。

 それならば。


「速水さんって人にお世話になったんだって?お礼はちゃんと言ってきた?」


 やっぱり速水さんの手回しだ。


 依月は胡散臭さ満点だった速水を思い出し、複雑そうに顔を歪めた。



 母親は優しくも厳しい人だった。

 依月は将来こんな母親になりたいと思うくらい、子供にとっては理想の母親だ。


「言ってきた、よ」


 引き攣る顔を誤魔化しながら、依月は一先ず話を合わせる。


 依月の返答を聞いた母親はホッとしたように微笑み、手に持っていた掃除機を握り直した。

 待ち構えていたのではなく、廊下に掃除機を掛けていたらしい。


「コンビニで気分が悪くなってたって聞いたわよ。夜中に速水さんから連絡が来て、横になったら寝ちゃったから起きたらすぐに帰しますねって言ってくれて、迎えに行こうにも速水さんのご自宅は複雑な所で住所だけじゃ分かりにくいかもしれないって仰るし、お父さんは深夜まで飲んでたから……。話していてちゃんとした方だと思ったから、不安だったけどお願いしたの。顔を見たら安心したわ」


 母親は運転免許を持っていない。

 父親は昨晩、たまたま良いお酒を頂いたとほくほく顔で飲んでいた。


 滅多に飲まない父親だからか、母親は父親を責めていると言うよりもタイミングの悪さに困っていただけのようだった。


 それにしても、時間帯が良かったのか運が良かったのか。

 冷や汗をかいている依月に気付いていない母親はなんとなしに口にした。


「ねぇ、速水さんってどんな人?少しハスキーな声の女性だったけれど、お礼とご挨拶に行かなくちゃ」

「……は?」

「だから、ご挨拶に」

「いや、今なんて?」

「声がハスキーねって」


 ……女性?

 どこからどう見ても男だったが、とりあえず依月は聞き流した。


 成る程、合点がいった。

 保護して介抱してくれたのが女性だと母親は思っている。


 それでも他人に娘を預けたままで居られる母親もどこか抜けていると思うけれど、今回ばかりは父親の飲酒運転を防ぐと言う意味では仕方が無かったと言えるだろう。母が一人で出歩くことも父は良く思わなかっただろうし、保護してくれた相手が女性だと思ったら警戒心も薄れたのかも知れない。


 心配していた説教もなく大騒ぎにもなっていなかった事に心底依月は安堵しつつ、玄関を上がって廊下を歩いた。


「遅刻になるけど、学校には行く?」


 母親の控え目な尋ね方に依月は苦笑するしかなかった。


 学校はまるで深海だ。

 息苦しく、居場所がない。


 依月にとって地獄だった。


「……今日は止めとく。――お母さん」

「なあに?」

「ありがとう」


 心配してくれて、意思を聞いてくれて。


 問答無用で学校に行かせたりしない、とても優しい母親だ。

 例え、負い目があったとしても今の依月にとってその気遣いはただ有難いものだった。



 冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、二階へ上がる為の階段を昇る。

 優しさに胸が痛かった。


 自分の部屋に入ると、見慣れた白い壁が視界に映る。


 ただいま。


 小さくそう呟いてから、依月はベッドに横たわった。


 容量オーバーだ。もう何も考えたくない。

 疲れからか、依月の意識はすぐに朦朧とし始めた。



 深く、深く、遥か遠く。

 深海でも地底でも良いけれど、そこに居場所はあるのだろうか。



 安西依月は現在高校二年生だ。しかし、本来ならば高校三年生になっている歳であった。


 去年、妹が死んだ。

 母親が流産したのだ。


 それをきっかけに平穏だった家庭が荒れた。


 依月と父親は母親に必死に寄り添い、カウンセリングにも精力的に付き添った。


 そして、その期間、依月は学校へ行かなかった。


 家庭内の詳しい内情を学校や近所に話すことも辛く、父親と母親も見るに耐えないほど憔悴(しょうすい)していた。


 結局、出席日数が足りずに、依月はやむを得ず留年する事になったのだ。


 母親はそのことを申し訳ないと思っている。

 父親も同様に、依月に対し申し訳なく思っていた。

 同居していない祖母は遠くに住んでいて、頻繁に連絡をくれた。

 足腰が悪く動けない、祖母はそんな状態でもこちらへ来ようとしてくれたが、依月は毅然(きぜん)として断った。

 祖母には負担をかけたくない、母親は自分が支えたい。


 そんな強い思いを抱き必死になっていたあの時期は、夜に一人声を殺して泣き明かす日々が続いた。


 乗り越えられた両親は今は明るく生きている。

 けれども、依月は隻弥から“生き返った”と聞いた時、やるせない理不尽さを抱いていた。


 妹は産まれる前に死んでしまった。

 もう二度と生き返らない。

 それなのに、私はこうして生き返った。


 理不尽だ。


 新しい命は消えてしまったのに、何の取り柄もない至って普通の依月は生き返らせて貰ったのだ。



 ――理不尽さと同時に、依月は隻弥の事も何となくは理解していた。


 速水の口振りからすれば、生き返らせる事は簡単では無さそうだった。

 隻弥は何かしらの多大なものをかけて依月の命を救ってくれたのではないか。

 そう考えれば考える程に依月は惨めさを感じてしまう。


 どうして私なんかが生き返ってしまったんだろうか。

 もっと、もっと、重要な人物にその技なり術なりを使ってあげれば良かったのに。


 依月は自分に自信が無かった。

 蘇生。それをして貰う価値が自分なんかにあったのだろうか。

 隻弥から救われた命に見合う所業なんて出来る訳がない。


 依月は未知に恐怖して、更にはさっさと逃げ出したのだ。


 隻弥は止めなかった。

 対価なんて何も言わなかった。


 ただ、迷った依月に荷物を渡して、もう来るなと告げただけだ。


 速水の言い様を改めて考えれば、依月が隻弥にとって何かしらの面倒な存在になっているという事は簡単に気付ける。


 それでも逃げ出して来た。関わりたくないと。

 命を救って貰った癖に。


「……ごめん、ごめんなさい」


 眠りに落ちる寸前で、依月は掠れた声で謝った。

 誰に対して、何を謝ったのかは依月自身にもわからない。


 生きたいと思ってしまった自分の意地汚さを、死んだ人全員に謝りたいのかも知れない。


 眠りに落ちた依月の身体は無防備だった。

 依月の部屋の窓の外に、ふわふわと黒い(もや)が浮く。

 それは窓ガラスをすり抜けて、依月の身体に付着しようと寄ってくる。


 寝息を立てる依月の腹部にそれが触れようとした途端、ぱちりと小さな光が発生しそれは綺麗にかき消された。


 赤錆色の僅かな光が、黒い靄を消して(またた)いたのだ。


 守りの(まじな)いが発動し、それをかけた人間に一つ小さな痛みが走る。

 依月を守るために掛けられた身代わりの(まじな)いには対価というものが必要になる。



 屋敷の居間で隻弥は微かな痛みを感じ、一ミリ程度の焦げた痕に深い溜め息を吐き出した。


「さぞかしアイツらにゃ旨い(えさ)に見えんだろうな、あの小娘」


 狙われると知っていながら、隻弥は少女を引き止めなかった。


 気紛れで助けた命を後生大事に守るつもりは無かったが――



 ――助けてくれて、治療してくれてありがとう!

 ――あなたが言うような“こんな男”でも助けて貰えて私は嬉しかった。



 逃げ腰ながらもはっきりと、隻弥に向けて放った言葉が頭の中にしつこく残る。



 被っている。それは、良くない傾向だ。

 依月の警戒心を抱く顔、好奇心に満ちた顔、むくれた顔が離れない。


「――消えろよ、なァ」


 歪んだ顔に浮かぶ汗。


 気紛れで助けた女はとんでもない存在だった。


 隻弥の胸に焼き付いた、小さな少女と被って見えるのだ。思い出せば思い出すほどに隻弥は苦しみに蝕まれていく。



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