【開花】
依月が凛也に口付けをしたその瞬間、城戸崎家の結界は何者かによって破られた。
侵入者は庭先を駆け、障子を乱暴に開く。
「……何でだよ」
驚愕に目を見開いた侵入者は、目の前の光景にただ硬直する事しか出来なかった。
「依月」
あれほど聞きたかった声が、今はもう遥か遠い。依月は流れる涙を誤魔化すようにして、その場に倒れ込んだ。
涙が止まらない。
どうしようもなく張り裂けそうな胸の痛みは、きっと禍根のせいではない。
隻弥は静かな声音で俯せになる依月を呼んだ。手早く痛みを緩和する術を依月に掛けて、指の傷も塞ぐ。依月にかけた呪いは痛みを肩代わりするものだったはずなのに、依月だけが傷を負い隻弥には傷が移行していなかった。
その原因は恐らく――禍根が絡んでいるからだろう。依月の中にある隻弥の禍根が、完全に依月のものになりつつある。隻弥の呪いの効力が弱っているとすれば、それは依月の中の禍根が隻弥の呪いを解いたという事だ。
――依月に、従ったか。
隻弥がかつて禍根を従えるまで、禍根は隻弥の力としては殆ど顕現しなかった。禍根が自分の意思で従った時、始めて力が自由に使えるようになる。隻弥は力技で従えたが、依月がどうやって従えたのか隻弥には分からなかった。
「……傷は治した。それほど痛くねえだろうが。依月、顔を上げろ」
「むり」
「あ?」
「むり、むり、ぜったいむり」
「何で」
「見られた」
「ああ?」
「見られた見られた見られた見られた!」
「煩ぇ。良いから顔をあげろ」
「やだ!」
「ガキかよ」
「ガキだよ!子供だよ!すっごい子供だよ!女子高生だし!」
聞き分けのない子供を黙らせる為に、隻弥は座敷へ踏み込んだ。
うつ伏せで顔を伏せたままの依月の髪を鷲掴みにして無理やり顔を上げさせる。
「こっち見ろ」
「痛い!」
「禍根のせいで全身が常に痛ぇだろう。それに比べりゃこれぐらい――なんてことはねえだろうが」
「……そりゃ、そうだけど」
激痛とも言える痛みが継続して響いているので、髪を掴まれたくらいの痛みはもはや可愛いものだった。身体が禍根に慣れ始めているのだろう。隻弥も昔はそうだった。
「お前、蘇生したな?」
「……」
「答えろ」
「……言いたく、ない」
「ほう?お前は蘇生した訳じゃなく、誘拐犯のこいつにすっかり絆されて好きになっちまって口付けを交わしたってことか?」
「ちがう!」
「じゃあ何でやった。さっきのは完全にキスだろうが」
「キスって言わないでよ!」
「接吻」
「なんかそっちのほうがやだ!」
「……どうでも良いから白状しろ。蘇生したな?」
「し、」
「あ?」
「した……」
ゴンッと拳骨が落とされる。容赦のない鉄拳制裁であった。
「俺に蘇生された時の事を思い出せ」
「……うん」
「お前の禍根をあいつに、あの男に、流し込んだってことになる」
「……うん」
「分かるか、この馬鹿が」
とんでもないことをしでかしたのだと依月はやっと自覚した。
自分と同じ、ように。
城戸崎凛也という人間の人生を壊してしまった。
「せめないでやってくれ」
虚ろだった瞳が、何も映さずにただ色を失くしていた瞳が、生気を取り戻していた。凛也は全身を血の色に包まれながらも、殆どの傷を治していた。
「篝家現当主――篝隻弥。きてくれて、助かったよ」
「……」
「それから、勘違いしているようだが……依月は、禍根を流し込んだ訳ではないよ」
「蘇生直後だってのに随分と威勢が良いなァ。這い蹲って詫び入れやがれ。俺はてめぇが起こした事を許しちゃいねえんだよ」
「……依月を拐った事は、正式に謝罪しよう。本当に、申し訳なかった」
畳に手をついて上体を起こすと、凛也はゆっくりと前のめりになり隻弥の前で頭を垂れた。
「すまなかった」
乱れた長髪が畳に広がる。髪が血で汚れるのも厭わず、凛也は頭を畳につけて、深く、深く、謝罪を入れた。
「謝って済むなら俺も謝ってやるよ。――開錠」
「隻弥ッ!」
隻弥が目を細めたその瞬間――凛也の身体は鳳凰が描かれた襖に、思い切り叩き付けられ、そのまま襖と一緒に倒れた。
「悪かったなァ。治ったばかりで無理させちまって」
心底楽しむような表情で、隻弥は凛也に言い放つ。意識を失った凛也に依月は駆け寄ろうとする。しかし、隻弥は依月の腕を掴み、強く捩り上げた。
「近付くな。金輪際あの男には近寄るな」
――それは、とても分かりやすい、誰の目にも明らかな――
「せきや……?」
「返事は」
「そんなのっ……」
「返事をしろ、依月」
「……無理、だよ」
「俺に逆らうのか。随分と良い身分になったもんだな」
「隻弥!」
「あ?」
「や、妬いてる……?」
「は?……なに、言って……」
嫉妬。分かりやすい嫉妬、火を見るよりも明らかな嫉妬、誤魔化しようのない嫉妬。
嫉妬の炎に犯されて、隻弥は理性は失っていた。依月の言葉に冷静さを取り戻し、忌々しげに顔を顰める。
「チッ……禍根、てめぇッ」
捻りあげていた依月の腕をまるで汚物でも触っていたかのように乱暴に離すと、隻弥は自身の頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「隻弥が私の腕をばっちいもの扱いした事は今は触れないけど……禍根が妬いてる。そうなんだよね、隻弥」
「さぁな」
「隻弥が私の腕をぽいって捨てた事は今はさておくけど、隻弥の禍根は私が隻弥以外を見ることを嫌ってるんだよね。隻弥と私の間には――」
「良いからとりあえず黙れ。腕は、悪かった」
「……うん。ゆるす」
事実を言ったとして、それで何かが変わるとは思えなかった。依月が知った、禍根が互いに惹かれあっているという新事実は、隻弥にとっては新事実でも何でもない。
隻弥は最初から知っていた。否、気付いていた。禍根が呼び合う事を、共鳴し合う事を、どうしようもなくお互いに――惹かれあっている事を。
そうであっても、禍根が例え惹かれ合っていたとしても――隻弥が依月を、愛してはいない。
好きでも、何でもない。だから隻弥は何も言わないのだと、依月は隻弥の顔から察した。隻弥は私を見ていない。私を通して、誰かがそこに在る。
「私、凛也さんを助けたかった。凛々ちゃんを悲しませたくなかった。誰かの命を奪った事を、認めたくなかったの」
黙れ、と言われたが、依月は隻弥の「黙れ」が「その話はやめろ」の意味だと知っている。
話を変えてまた「黙れ」と言われるまで、依月は好きに話すだけだ。
「さっき、凛也さんが言ったこと、どういう意味?」
「俺が知るかよ」
「隻弥は知ってる。……というか、気付いてる、よね」
「何が」
「私は禍根をあんまり知らないから理解出来ないけど、隻弥はそうじゃないから」
面倒臭がりでいつも気怠げな隻弥だが、依月よりは勤勉で禍根や妖霊については博識と言ってもいい。そんな隻弥ならば、凛也の言っていた事の意味が少なからず分かるはずだ。
「禍根じゃないって言ってた」
「……」
隻弥は大きく溜息を吐くと、指先を軽く鳴らす。外界の音が遮断された空間の中には、隻弥と依月の二人だけ。
「禍根を使わずに蘇生したって事は誰にも知られるな。知られたら殺される。それだけ覚えとけ」
「隻弥」
「只でさえお前は自分で開錠しちまってんだ。蘇生が出来る――潜在能力が治癒に特化してると知られたら、誰に狙われるか分かったもんじゃねえ」
「隻弥」
「元々、お前の中にあった潜在能力は治癒だったんだろうな。修行で身に付けるはずの開錠のやり方をお前は知らないまま、禍根の力でこじ開けるようにして潜在能力を開花させた」
「ねぇ、隻弥」
「無理やり開錠した分、元あった潜在能力――謂わば妖力だな。それが桁違いに溢れ出す。九十九に狙われるぞ」
「隻弥!」
「……何だよ」
「私、友達いないから、こういう時どんなことを言えば良いのか分からないけど、でも、」
「あ?」
「元気、出して。落ち着いて。冷静になって」
怪訝な顔をする隻弥に依月は抱きついて言った。
「髪が、目が、ずっと赤いままだよ。犬歯……牙って言ったほうが良いかな、それも剥き出しのまま。字も、消えてない」
爛々と赤く光る濁った瞳に赤錆を過ぎ去った紅の髪、梵字が身体中を痛め付けて今も尚、血を流す。
「怒ってて、だけど落ち込んでて、何だかごちゃまぜになってる。何があったの。隻弥、ねぇ」
「何も、ねえよ」
「じゃ、じゃあ、言い換える!嫌な言い方にする!興奮するのやめて!」
「してねえ!」
「してる!落ち着いてよ!」
「……煩ぇな、分かってんだよ」
依月に看破されるなどとは思ってもみなかった。きつく、絶対に離さないと言わんばかりにしがみつく依月は、少し震えていた。隻弥は舌打ちをして、依月の肩に頬を当てる。
「俺が怖いか。醜い俺が、汚ぇ俺が、お前は怖いんだろうなァ」
「怖くない」
「嘘吐け」
「怖くない。隻弥だから、怖くない」
次第に、嗚咽が漏れる。依月はしゃくり上げるように、隻弥の腕の中で泣いた。
「泣くなよ」
「だって、だって……!」
「……何もねぇよ。お前が心配するような事は、何も」
「悲しい?悲しい事が、あった?」
「禍根ってのは面倒臭ぇな。俺の感情を、お前にすぐ渡しやがる。別に悲しくなんかねぇ」
「じゃあ、痛い?」
「さぁな。……勝手に俺から禍根を盗んで、勝手に不幸に溺れて死ぬ奴が居るってだけだ」
「それが、悲しい?」
隻弥の血液、隻弥の頭髪、隻弥の身体から採取したものは全て、少なからず禍根の影響を受けている。
相模が提出したという血液も髪も直接誰かが触れてしまったのだろう、大元である隻弥の中の禍根がそれを感知している。一度、禍根に触れてしまえば後は静かに不幸の訪れを待つだけだ。どう足掻いても、逃れられない。――それが禍根というものだ。
わざわいのもと、即ち禍根。
恨み辛みを凝縮したこの世の不幸の塊だ。
隻弥の意思でなくとも、隻弥から切り離された禍根は不幸を呼び寄せる。隻弥の身体は時間が止まったまま、髪の毛が抜けることもなく、角質が剥がれることもなく、身体が成長することはない。隻弥の一部を故意に採取し、己の利益の為に利用しようとしたのであれば――それはもはや、隻弥が関与する事ではない。
「勝手にしろ」と隻弥自身は思っている。しかし、それが隻弥にとって楽しい事かと言えば――そうではない。楽しくも、嬉しくもない。どうでもいいとは思いながら、ほんの僅かに「馬鹿な事を」と暗い感情が浮かび上がる。
落ち込んでいる、と依月が言うのであれば――恐らくそれが正しいのだろう。けれども、隻弥はそれを肯定してやる程自分に正直ではない。
隻弥のせいじゃないよ。――そう依月が言ったとして、隻弥は少しでも慰められるだろうか。
依月は少し考えて、やっぱり口を静かに閉ざした。そんなものは慰めにもならない。都合のいい、その場限りの効力のない空の言葉だ。
「私ね、自分の力が治癒だって分かって、ちょっと嬉しいんだ」
「……面倒を引き起こすだけだ」
「そうかも知れないけど、うん、でもやっぱり、嬉しいよ」
「そうかよ」
「だから、治してあげるから――隻弥は私を、守ってね」
「勝手に何決めてんだよ。お前は神経が図太過ぎる」
「良いでしょ、神経図太いからなんとかなってる部分もあるし」
――泣くか、笑うか、どっちかにしろよ、面倒臭ぇ。
涙を零す癖に、依月は偽りなく微笑んでいた。どちらも本当の感情だと、隻弥は禍根を通じて知っている。
――良かった。隻弥が居てくれて。
――怖かった。人を、殺してしまったと。
――隻弥は傍に居てくれる。
――ずっと私の傍に、在る。
――私が治すから、だから……
「もう頑張らなくて、いいよ」
痛みを和らげる術も、傷を治癒する術も、全部、全部、覚えるから。
隻弥が傍に居てくれるなら、出来ない事なんてきっとない。厳しくても辛くても、必死に覚えて見せるから、だから――
「寂しくないよ、隻弥」
寂しいのは依月だけではなかった。
隻弥も心の奥に、ずっと深い場所に、いつだって孤独を抱えていた。禍根が感情を教えてくれる。それが例え、共鳴しているからだとしても禍根同士が一つになろうとしているせいであったとしても。教えてくれた事実は、こんなにも切なくて愛しいものだ。
「一緒に居よう。ずっと、一緒に」
隻弥は何も答えなかった。ただ、静かに目を閉じて依月の背中へ腕を回す。その腕はどこか遠慮がちで――恐れを抱いているようにも思えた。




