【飛翔】
「え、依月ちゃん、もう帰るの?」
「あー…はい。帰ります」
まだ残る眠気を誤魔化しつつ、依月は速水に帰宅する旨を告げた。相変わらず依月を睨む八衣から目を反らして、依月は裸足のまま居間を出る。
隻弥はそんな依月の後に続き、億劫そうに首を捻った。
「送って来る」
「……隻弥さんが?」
「ああ」
「それはどういう心境の変化ですかね?」
「さぁな」
ずり落ちそうになる着流しの肩を引っ張りあげ、隻弥は依月の背中を蹴った。
「さっさと歩け」
「痛い!」
ギッと睨み付けた依月を受け流し、唖然としている速水と八衣を置き去りにして隻弥はマイペースに廊下を歩いた。
「また迷子になると思ってる?」
「思ってねぇ」
「なら何で送ってくれるの?」
実を言えば、隻弥が送ると口にした事に依月も驚きを感じていた。八衣の手前、素直に驚くのは何となく嫌だと言うだけで、内心で疑問符が沢山浮かび上がっている。
「おま……依月、元から素質があったんじゃねぇのか」
「何の?」
「やけに付喪に好かれてやがる」
「……ホントに?」
「俺が嘘吐く理由はねぇわな」
それはつまり、隻弥の想像以上に依月にあれらが寄ってきていると言うことだ。
不安そうに隻弥を見上げた依月へ、気休めの言葉は降ってこない。
「塩被って寝ろ」
「いや、それ現実的に考えて無理だって」
滅茶苦茶な事を依月に言い渡す隻弥へ一度はそう言ったものの、見上げた先にある隻弥の顔は至って真顔だった。
「本気?」
「半分はな。これ付けとけ」
隻弥の腕についていた赤黒い数珠を依月は投げやりに渡された。
大きな粒と小さな粒が入り交じるそれを腕に通し、玄関の段差を一段降りる。
「隻弥、これどういう意味があるの?」
「別に意味はねぇよ。強いて言えば嫌な匂いがついてんだろうな」
「嫌な匂い?」
「俺の体臭」
「……」
即座に数珠の匂いを嗅ぐ依月へ、隻弥は馬鹿にした視線を向けた。
「呪詛の匂いってのは、人間が嗅いで分かるようなもんじゃねぇ」
「それ先に言ってよ!」
「俺の匂いがしたか?」
「しないよっ!」
「だろうな」
カチンと来るのは当たり前の感情だろう。依月の瞳にギラギラした鋭い怒りが浮かぶ。
「ムカつく」
「外すんじゃねぇぞ」
「……数珠?」
「それ意外に何があんのか言ってみろ馬鹿」
今度こそ、依月の足が隻弥の脛に攻撃を仕掛けた。
けれども簡単に避けられたそれにまたしても腹の虫が暴れ回る。
「むかつくむかつくむかつくっ!」
「煩ぇ」
悔しさのあまり喚く依月を、冷めた顔で一刀両断した隻弥は草履を履いて玄関の引き戸を開けた。
「ちょっと待ってよ、隻弥」
慌てて校内スリッパを履いた依月は、置いていかれる事を恐れ咄嗟に隻弥の着流しの背中部分を引っ張った。予想外だったのか少しだけ前につんのめった隻弥に、自分の事を棚に上げて依月は盛大に噴き出して笑う。
「ださっ!今転けそうになったでしょ」
「……依月」
「なに?」
「そんなに付喪に食われてぇか」
「ごめんなさい」
「……」
「流石に怖いものは怖い」
案外、素直な依月に対し隻弥は思わず笑みを滲ませた。
手のひらで口元を隠す動作は依月にとって、初めて身近に感じた隻弥の“人間らしい”部分だった。
ぽかん、と口を半開きにした依月に隻弥は眉を顰める。
「何だよ」
訝しむように言った隻弥へ、依月は思った事をそのまま告げた。
「……笑った方が良いよ、隻弥」
「あ?」
「眉間に皺寄せたりぼーっとどっか見てるより、笑った顔の方がずっと良い。ほら、笑う門には福来たるって言うし!」
依月から発されたその言葉を聞いて、隻弥は顔を見られないようにあさっての方向を向く。
その顔には苦し気な、それでいて何処か切なそうな色が浮かんでいた。
顔を反らしてしまった隻弥に依月はまたしても不機嫌にさせてしまったかと少々慌てるも、声を掛けようと口を開いた瞬間に――隻弥がひゅっと腕を伸ばした。
「退けっ!」
「せき、うわっ……!」
依月の身体を隻弥が押し退け、急なその衝撃に思わず依月は尻餅をついた。
歩いていた道が、またしても敷石が敷かれた地面からコンクリートに変わっている。路地のような場所で背中をぶつけて尻餅をついた依月は反射的に隻弥を探す。
「隻弥……?」
「――面倒臭ぇ」
憎々しげに呟いたその言葉に首を捻りながらも、立ち上がろうとした刹那。
依月の制服の首根っこを掴み、隻弥は依月を抱き上げた。
「飛ぶぞ」
「は……?」
「口閉じとけ」
「せ、――っ……!」
依月を横抱きにしたまま、隻弥は路地の隅にあったダストボックスを踏み台にして、空へ向かって飛んだ。
思わぬ行動に目を見開いて驚いていた依月の視界にどろりとした黒紫の塊が入る。
先程まで依月と隻弥が居た場所に、突如現れたあの塊――九十九(付喪)だ。
その塊の近くには数人の紺色の服を着た人間が立っている。四人、とその人数に気が付いたのを最後に、依月の視界はがらりと変わる。
飛び上がった隻弥は依月を抱いたまま、壁にある障害物を踏んで更に上へと登った。
気が付けば建物の屋上へ辿り着いていて、依月の呆然とした顔を隻弥は黙って見下ろしていた。
「確かに、人間じゃねぇな」
隻弥がそう吐き出した言葉が、まるで自嘲しているかのように思えた。
――飛んだ。
足掛かりを見つけ、両手が塞がったまま、隻弥は宙を飛んだ。
そして屋上へと降り立った。
がくん、と膝から力が抜けて、依月が地面に落ちる寸前、隻弥は腕を伸ばして依月の身体を咄嗟に支える。
依月の腹部に隻弥の右腕が伸びる。
そのままの状態で数秒間二人は停止した。その右腕に、依月はそっと自身の手を触れさせる。
「人間じゃないなんて、思わない」
寂しそうに紡がれた依月の言葉が静かな屋上で響く。
隻弥の視線が向けられたと気付いた依月は顔を上げて、真正面で目を合わせた。
「怖いし、びっくりするけど、でも。隻弥は人間だよ」
「……さァ、どうだかな」
「人間だってば!さっきだって、笑ったじゃん!」
「化け物でも笑うだろうが、知んねぇけど」
「それは私も知らないけど!隻弥がさっき笑った時、ああ人間だなって、普通の人なんだなって思った……」
ぎゅっと握り締めた隻弥の右腕に、依月は懇願すら込めた。
信じてくれと、本当にそう思ったんだと、真っ直ぐ見つめて思いを伝える。
「隻弥が人間じゃないなら、私だって人間じゃない。生き返ったんだし……」
「後悔してんのか」
「……卑屈には、なるけど」
隻弥の瞳が寂しげに揺らめいたと依月は感じ取っていた。
咄嗟に依月を支えた右腕が隻弥の本性を現している。やさしさの証明だった。
「――依月」
「……なに?」
「お前と居ると傷が疼いて仕方ねぇ」
「傷?」
「助けたのは、間違いだった」
依月の手の温もりが隻弥の腕に伝わる。それだけで、隻弥の身体は痛みを帯びた。
正確には、依月の発した“言葉”による温もりが、隻弥の力――禍根を蠢かせていたのである。
――助けたのは間違いだった。
依月の脳内でその言葉が反響する。
助けた当人からも言われてしまっては、本格的に依月の居場所は無くなってしまう。
知らず知らずの内にお互いを傷付け合いながら、依月と隻弥は黙り込んだ。依月を遠ざける隻弥、隻弥に突き放された依月。すれ違う感情はいとも簡単に出来始めの絆を失う。
隻弥に湧いていた親近感が徐々に消えていくような気がした依月と、古い記憶に苛まれて目の前の少女を見つめる事すら出来ない隻弥。
沈黙の空間は、隻弥が依月を抱き上げ動き出してからも破られる事は無かった。




