*1.雨が運んでくるモノ ①
その日は、朝から雨だった。
バケツをひっくり返したような、けたたましい雨音に杞憂は顔をしかめる。傘に勢いよく当たる雨粒は、本当に水なのかと疑うほど重く、柄を持つ手に振動が伝わってきた。空は真っ暗で、時計を見なければ夜と勘違いしてしまいそうだ。しかも、ゴロゴロと不吉な音を暗雲が立てるのをみるに、これから大雨どころか、雷雨になるのは間違いないだろう。
地面に落ちた雨粒が跳ね返って、靴やズボンに染みを作っている。
「……だから雨は嫌なんだ」
杞憂は舌打ちしてつぶやく。
靴がぬれて気持ち悪い。不快感に眉を寄せて辺りを見回した。
第一講堂である。一年校舎から最も近い講堂だ。こんな大降りの雨の時でも、相変わらず講堂は真っ白で美しい。しかし杞憂は講堂には目もくれず、その横の木を凝視していた。
「……変だな」
確かに、何か妙な気配がして来たのだが、そこには何の異変も感じられない。
(気のせいだったか?)
嘆息して、杞憂は踵を返した。その瞬間、胸元から銀色のものが落ちるが、杞憂は気がつかない。
それは雨にぬれて、ひっそりと地面に埋もれた。
*―――――――――――――――――*
月曜日の朝。
爽やかな朝に似合わぬどしゃぶりの雨と同様、爽やかとはかけ離れた低い声で、涼都はうなるように言う。
「気味が悪い」
「……………」
涼都が東を見て放った言葉に、さすがの彼も絶句した。教室のドアを開けてさっさと涼都が中へ入ると、東は慌ててついて来る。
「えーと、一応聞くけどそれは俺のこと?」
東の言葉を背に受けながら、涼都はカバンを自分の机の上に投げ出し言った。
「いや、確かにお前も気味が悪いがな。そうじゃなくて――何?」
振り返って涼都は途中で言葉を止める。東が嘆息してやや遠い目をしたからだ。人が真剣モードに入ってるっつーのに、気が抜ける反応だな。
東は肩をすくめた。
「いや、いいよ。続けて。ただ君ってけっこうバッサリいくな、と思っただけだから」
それは異議ありだ。
笑顔で危ない発言の東に言われたくはない。涼都は東の言葉は無かったことにして話を続けた。なにせ、東とまともに話していると話が長くなる上に脱線する。
「気味が悪いっていうのはお前じゃなくて、この空気っつーか学園全体の雰囲気だよ」
いつになく真剣な顔の涼都に東もやっと合わせる気になったのか、軽く目を細めた。
「そう? 俺はなかなかいい学園だと思うけどね。綺麗だし広いし」
「学園のことを言ってんじゃねぇよ。東だって気づいてんだろ。昨日と今日で学園を包む空気が変わった―…なんか」
そこで、涼都は言葉を止めて目線だけ窓の外へ向ける。窓の外は、いつも涼都が見ていたものと何も変わらない。漂う空気が特別、おかしい訳でもない。雨が降っているだけで、特に魔術の気配もしない。
ただ、普通に雨が降っているだけだ。
見た目では何の異常も感じられない。けれど心のどこか奥の方で、何か焦燥のようなものさえ感じられるこの気持ちは……
「なんか不気味で、薄気味悪いんだよな」
不快感で眉間にしわを寄せた涼都に、東は頷いた。いつも通りの柔らかい笑顔だが、その目は鋭い。
「……俺の気のせいじゃなかったみたいだね」
その言葉から察するに、どうやら東も涼都と同じ類いの感覚があったらしい。コイツと同じことを感じ取るなんて普段の俺なら鳥肌ものだが、魔術に関してはこれ以上確実なことはない。
涼都は視線を東に戻した。
「それと、だな。たぶん……あー」
珍しく言葉を濁らせた涼都に、東は不思議そうな顔を向ける。
(言うべきか、言わない方がいいのか)
確証はない。
確証はないのだが、それでも感じ取っているようなそうでないようなものが、ないでもないのだ。我ながら意味がわからない。
ガシガシと頭をかいて涼都は『気のせいかもしんないけどさ』と前置きする。
「微量だが、腐臭がする……ような気がする」
「!」
今度こそ、東が笑顔を引っ込めた。
「それって」
「やぁ! みんなの愛と美の神・ミッシェルだよ」
思いっきりセリフを遮られた東は、表情を硬くする。その瞬間、授業開始の鐘が鳴り響いた。どうやら一限目が始まってしまったようだ。
(それにしても)
涼都は舌打ちして、思わずミッシェルを睨んでしまった。
(なんつータイミングで入って来てんだ、コイツ)
「いやー雨はなんだか好きじゃないね。だって私は朝日がバックにないと魅力が存分に発揮できないでしょう?」
そして一体なにを言ってんの、コイツ。
東が小さく息をついて、席に戻る。チラッと涼都を見る視線に『この話はまた後で』の意がこもっていると察して、涼都はため息混じりに頷いた。
*―――――――――――――――――*
授業開始から14分29秒後。
涼都は目の前の光景から目を逸らすように窓の外へ視線を向ける。今朝のどしゃ降りよりかは幾分マシだが、やはり雨は強く降り続けていた。雨が窓ガラスを叩く音が妙に耳障りだ。が、しかしだ。
「さぁ! いいかい、私は永久的に美しいが、刹那的な美しさというのも持ち合わせているのだよ。今回はそれを意識するんだ」
そう言って妙なポーズをとるミッシェル。
「すいません。先生、勘弁して下さい」
無理矢理カメラマンに任命された不幸な速水。
「『先生』ではなく『愛と美の神』と呼びたまえ!」
「愛と美の神。写真撮影はいいですけど、なんで俺の席を中心に写真撮ってるんですかね?」
そして、何故か撮影場所に選ばれた東の席。こいつらがすぐ近くで繰り広げている騒がしさと比べたら、雨音の方がはるかに風流である。絶対に。
涼都はため息をつくと、改めて東の席付近のミッシェル達に目を向けた。
「ねぇ、あんたらまとめてどっか行ってくんない? うるさいから」
「御厨。頼むから俺と設楽をミッシェルと一緒のくくりにしないでくれ」
「あーハイハイ」
哀願した速水の目が軽く涙目だったので、涼都はとりあえず適当に頷いておく。
(俺から見れば、ミッシェルと一緒に何かやってる時点で、同じくくりに入るんだがな)
対して、全く見当違いなことを言ってきたのはミッシェルだ。
「おや。君も仲間に入れて欲しいのかい?」
「誰がそんなこと言った? 人の話を聞け。絶対に嫌だからな」
「もちろん、君なら大歓迎さ!」
だから人の話を聞け!
涼都は苦々しい顔で舌打ちする。いっそのこと保健室にでも逃げ込もうかと、正直、本気で思った時だ。
「涼都、優しい君はもちろん俺を置いて逃げたりしないよね?」
すかさず東に釘をさされた。その声こそ穏やかだが『逃げたら承知しないよ』という、穏やかでない副音声が聞こえた気がする。
涼都は渋々、あいまいに言葉を濁して浮きかけた腰をおろした。そしてその後に自然と目が行くのは、やはり隣の列、隣の席の東の机上にある一つの鉢植えだろう。カメラ片手に速水も、うんざりした表情でその鉢植えを見つめている。
そうだ――そもそも、ミッシェルがこうなったのは、全てこの鉢植えが原因だった。
本日、薬草学の教師らしいことにミッシェルは薬草の鉢植えを持って来ていたのだ。
そこまではいい。
しかし、ミッシェルは鉢植えのろくな説明もせずに無言で眺め、何故か鉢植えの周りで意味不明の言葉を口走りながらポーズをとり始めた。しかも何故か写真におさめてくれと言い出し、何故か持っていたカメラを速水に渡し、何故か東の机にその鉢植えを置いて写真撮影会を始めたのだ。
ほとんど謎の行動である。理解出来ない。理解出来ることといえば、それで周りがドン引きしたのと、東と速水が被害者になったことくらいだ。
鉢植えの葉は毒々しい濃い紫色で、花は咲いていないものの、そのつぼみの色がどす黒い赤紫色な時点で花の色の想像はつく。そんな薄気味悪い鉢植えの葉にミッシェルは、丁寧な手つきで触れると、嬉々としてポーズを決めて満面の笑みを浮かべた。
「どうだい? 設楽君、私のこの美貌は。雨雲の暗さを押し退けるような輝きだと思わないかい?」
その突っ込み所満載な言葉に、東は完璧な愛想笑いを浮かべる。
「そうですね。俺には個性的過ぎてわかりかねます」
(さらっと適当なこと言って流したよ、コイツ)
こういう時に『個性的』という言葉はなんて便利なんだろう。
「そうか。君には私の魅力は、まぶし過ぎたようだね」
そして何でコイツはそんな自分に都合のいい解釈を本気で言えるのだろう。
涼都は嘆息して頭を押さえた。頭が鈍くて重い。いや、ミッシェルのせいでなく普通に。
(つーか、なんか気分が悪いな)
胸がムカムカして気持ち悪い。一般的に吐き気に分類される症状だ。しかし吐く程でもない、奇妙な不快感だった。
(ただの俺の個人的な体調不良ならいいんだけど)
先ほどまで東と話していた内容が頭をよぎる。もしこの学校内で何らかの異変が生じていたとして、これがそれからくる体調不良ならば話は違う。
(一体なにが……)
「恋愛と美の女神! 私のこの溢れんばかりの美しさ! 恥じることはない。君も正直な感想を言いたまえ」
非常にどうでもいい質問に、涼都は真顔で答えてやった。
「部屋に帰りたいです」




