*3.午後の暗雲 ③
(悲鳴?)
涼都はふと窓の外に目を向けた。視線の先では、暗い雲が今にも雨粒を落としてきそうだ。
(……傘、持ってきてねーな)
いや、違う。それはこの際どうでもよくて。
鳴海の言葉を涼都は思い返した。
『怪我しないように気をつけろよ』
あんな爽やかな笑顔で言われて思わず引いたが、改めて考えるとおかしい。次の時間は歴史である。どうやったら歴史の授業で怪我が出来るのだろうか。
(そう言えば荻村も6時間目がどうとか言ってたけど、今日最後の授業くらいまともに受けろって意味じゃないのか?)
涼都が首を傾げると、ほぼ同時にチャイムが鳴った。そして教室に入って来た先生に、またもや男子は一様に肩を落とす。男だったのだ。しかし涼都はその教師を見た瞬間、それどころでなくなった。
「!」
思わず表情を引き締めて凝視する。
その男性教師はメガネで少し長めの髪がウザったそうな、それでいて前髪の合間から見える眼光は鋭い人だった。そしてわずかに香の匂いがする。甘いようで甘すぎず、どこかさっぱりした、その独特の香りに涼都は確信した。
(使い魔のコウモリを燃やしたヤツか!)
一昨日の儀式の日のあの騒ぎ。魔界のコウモリが大量発生したのをいいことに、使い魔のコウモリが紛れ込んでいた。それに涼都は探査系の魔術をかけて飛ばしたものの、結局、コウモリは燃やされてしまったのだが。もし使い魔が処分された場合にも、処分した人に目印がつくようにしてあったのだ。それがこの練り香の匂いである。
あの日、涼都は持っていた香のかおりを魔術に織り込んだ。もし、処分しても匂いはついて離れない。しかも涼都が自ら調合した特別な香である。燃やしたら1ヶ月は匂いが消えないだろう。その匂いがこの教師からするのだ。
使い魔を処分出来るのは、それを放った人間だけ。つまりコイツが使い魔を放ち、そのコウモリを通してあの場を見ていたことには違いない。
涼都が口の端を上げた。
(探す手間が省けたな)
後は涼都を手紙で呼び出した『亜神』本人であるか、それともつながりがあるのかだけ――
「歴史を担当する里見だ」
聞いた瞬間、涼都は思わず固まった。
(『里見』って確か)
里見と言えば、天城家の分家の一つである。涼都は眉を寄せた。
(おいおい、コレはちょっと)
ヤバいんじゃね?
なんせ、これでも天城家とはいろいろあって喧嘩ふっかけた身である。いくら分家でも、天城に連なる者に『天城涼都』だとバレるとまずいだろう。
(名門の桜華だから天城家の関係者に会うことぐらいは予想してたが、教科担当かよ)
「欠席者はいないな」
そう言ってチェックをつける里見の姿は、まさに普通の教師だ。ただ天城の分家とわかったからか知らないが、何となく涼都は嫌なものを感じとった。
よくわからないが、これは本能的な嫌悪感がする。
「…………うん」
まぁ、いいか。
10秒、じっくり考えて、涼都は自己完結させた。大丈夫、大丈夫。なんの問題もない。
(とにかく、おとなしくしてればなんとかなるだろ。騒ぎの件も授業中はどうしようもないしな)
魔獣騒ぎについて、焦る必要はない。とりあえず、授業ぐらいは静かにしていよう。勝手にそう結論づけて涼都はノートを開いてアクビを噛み殺した。
そんな彼を見つめる視線が一つ。
設楽東。
隣の席でじっと自分を見る彼に涼都は気づいても、たいして気に止めなかった。だからわからなかった。その自分を見つめる東の表情に笑顔はなく、その目が探るように鋭かったことに。
*―――――――――――――――――*
チラリ、と涼都は時計に視線を落とした。
(授業が終わるまで後3分か)
涼都はふっと笑みを浮かべて小さくガッツポーズをする。今までよく普通に起きて授業聞いていられたな、俺!
幸いにも里見の授業は普通のもので、いや、むしろつまらなさ過ぎて開始20分辺りで意識が飛びかけたが、よく乗り切った。天城の人間に付け入る隙をやる訳にいかないから、居眠りなどもってのほかだが。
(さすがに俺様だ。やれば出来るじゃないか)
よくやった、俺。
頑張ったよ、俺。
と、そうやって自分をひたすら鼓舞しなければ、睡魔に負けそうだ。
涼都は苦い表情でもう一度時計を見た。あと3分。あと3分なのに、またもや眠気のピークがきている。まぁクラスの3分の1は完全に夢の国へ旅立っているが、涼都も混ざるわけにいかないのが悲しいところだ。前の席の速水なんてかなり熟睡している。
(いいな速水。俺のこの睡魔はシャーペンを指にでも刺せば少しはおさまるのか?)
やや物騒な方向にいきかけた涼都が、半ば本気で自分の指を見つめた時だ。遮るように、鋭い声が飛んだ。
「速水! 質問なんだが792年は何があった?」
「……え?」
いきなりの歴史の質問に速水は飛び起きた。一気に目が覚めたらしく、焦ったように教科書をめくっている。だが周りの生徒達はその質問に、怪訝な目で里見を見た。それは涼都も同じである。
今やっているのは魔術師の起源であって、まだそんなところまでは習っていない。しかも792年なんて小さい時から強制的に勉強させられて、かなり詳しいことでも頭に叩きこまれた涼都すら、思い出すまで時間がかかるくらいマイナーな問題だった。教科書にも資料集にも載っていないだろう。
それをわざわざ当てるということは。
(寝てるヤツに対しての八つ当たりか)
速水は教科書をめくって答えを探すが、諦めたようで
「スイマセン。わかんないです」
と苦笑を浮かべた。
そりゃそうだ。わかるはずがない。次は答えられるように起きていろ、という生徒に対して教師がよくやるアレである。しかし速水の言葉に里見は冷笑を向けた。
「そうか、お前は諦めが早いな。もう少しどうにかして答えようとはしないのか」
涼都は眠気を押しやって里見を見た。どうやら、生徒いびりが始まったらしい。
里見のトゲのある言い方に、速水は一瞬ムッとしたようだ。しかし里見の言うことも一理あると思ったらしく、涼都にチラリと視線を投げた。どうにかして答える、つまり人にきくという選択肢を選んだらしい……っていうかそれしかない。
涼都は速水に教えてやろうと前に身を乗り出す。しかし、涼都が答えるよりも里見が口を開いたほうが早かった。
「授業は寝ていた上に、分からない問題はすぐ人に押しつけるのか」
ではどうしろと?
これにはさすがに速水もカチンときたようだ。涼都に向けた顔を逸らして速水は里見に視線を向けた。
涼都からは見えないがたぶん睨みつけているんだろう。里見は嘲るように笑った。
「なんだ? その反抗的な目は」
クラスに重い沈黙が流れる。速水と同様に周りもムッとしている。もちろん涼都とて例外ではない。東も笑顔は浮かべているが、内心どう思っているか定かじゃないし。しかし里見はそれでも全く気にせず、続けた。
「何かわからないとすぐ人に頼り何か言われれば睨みつける――さすが没落貴族のお坊ちゃんだ。見苦しいな」
「っ!」
ガタッと速水が席を立った。その表情は怒りに染まっている。
もともと朝の風景からもわかるようにA組は全く家柄なんて気にしないし、四大一門の東にも特別な扱いはしていない。だから余計、速水が家柄でそんな風に言われてクラスの皆も悔しいんだろう。
クラス中から厳しい視線が里見に向けられた。しかし里見はそれも気にせず速水に歩み寄る。
「すぐ気にいらないことがあるとそうやって反抗的になるのか?」
速水が立ち上がったまま、里見を睨みつけた。涼都としてはよく殴らなかったと誉めてやりたい。それに対し、里見は明らかに軽蔑の眼差しで速水を見た。
「これだからお前の家は没落するんだ。教育した親も知れているな。みんなお前みたいな連中だろう」
「俺の家族を侮辱するな!」
ガッと速水が里見の胸ぐらをつかんで拳を振り上げた。当たり前だ。速水がもう少し遅かったら俺がやっているところだった。
そんな緊迫した場面で、涼都の耳にかすかな音が届く。かすかだけど確かな、風を切る鋭い音と共に何かが飛んでいく。それが里見の顔ギリギリのところを通って行くのを涼都は見た。
思わず、速水も拳を振り上げたまま静止する。それはドスッと鈍く重い音を立てて教室の壁に突き刺さった。
そう、刺さったのだ。
シャーペンが、コンクリートの壁に。
「「………………」」
あまりのことにクラスの全員がシャーペンを凝視したまま沈黙した。ただ、投げたヤツ1人を除いては。
そいつは、まるで何の悪気もないような晴れやかな顔で、なんのためらいもなく名乗りでた。
「すいません、先生。手が滑っちゃいました」
いつもと変わらぬ微笑みで真っ直ぐな挙手をした設楽東に、クラス中の視線が集まった。




