*1.兎?いいえ、宇崎です ④
灰宮は、わき目もふらずに階段をかけ登った。
人影が見えたのは、3階の窓だ。対して、追いかける灰宮は1階からのスタートである。早く追いつかなければ、生徒の中に紛れ込まれるだけでも、見失ってしまう。けれど、2階を通りすぎた先の踊り場で、3階に行くことなく灰宮は足を止めた。
涼都と別れる時、ギリギリまであの人影は様子を見てから立ち去った。
(さっさと逃げなかったのは、私達がどうするか確認するため。そして長く留まることで、わざと姿を見せつけて3階を印象づけた)
そうなると、3階はトラップだ。追手が3階に迷いなくかけ登っていく間に、違う階へ逃げる。最もリスクはあるが、追手が見落としやすく、確実に登っていったのがわかる場所――1階に。1階なら階段の裏に潜み、登っていく追手の足音を確認できる。鉢合わせの危険はあるが、一旦隠れてしまえばこちらのものだ。自分なら、そうする。
灰宮は靴の音を消し、気配すら殺して階段を下りた。1階まで戻ると、階段から降りる前に慎重に顔だけ出して、左右を見回す。
すると、廊下を悠々と歩く男子生徒の背中が見えた。
「あなた……」
通りすがりの可能性を消したくて、わざと声をかけた。油断している所を捕まえてもいいのだが、もし間違えていたら、その間に本物を見失ってしまう。
しかし、灰宮が小走りに近づこうとすると、その生徒は突然、走り出した。通りすがりの心配などしなくとも、当たりだったらしい。ただの生徒なら、声をかけられても逃げないだろう。
灰宮は、全速力でその後を追った。角を曲がり、上の階へ逃げていく背中を段を飛ばして軽やかに追う。
そのまま廊下を走る背中と距離を縮めつつ、灰宮は眉を寄せた。
(おかしい……さっきから、確実に近づいて、たまに曲がる時には横顔が見えているはずなのに。見えない)
まるで、モヤがかかったように頭部――顔や髪型、色までもはっきりしないのだ。まやかしの魔術でも自分にかけているのだろうか。
ならば、捕まえるだけだ。
灰宮は一気にスピードを上げた。そして、腕を思いっきり伸ばしてその襟首をつかむ。男子生徒はそれを、体をねじるようにして、払いのけた。
一瞬、正面から見えたはずの顔は、やはりボヤけてよく見えない。
「おい、何をやってる。もう儀式始まってるぞ!」
走る音を聞いたのか、そう言いながら教室から教師がチョーク片手に顔をのぞかせた。
そこで灰宮は足を止め、男子生徒はスピードを上げて逃げていく。その背中を見つめ、灰宮は真剣な声音で傍らの教師に言った。
「先生、すみません。そのチョーク、貸して下さる?」
「は?……あ、あぁ」
よく分からないが、とりあえず。といった様子で渡した教師に、灰宮はにっこりと花が咲くように微笑んだ。
「ありがとうございます」
言い終えるや否や、灰宮はチョークに軽く息を吹きかけると、思いっきり男子生徒の方に投げつけた。
遠くの方で、男子生徒が避けて壁に当たったチョークが砕ける。その煙に咳き込みながら、男子生徒は逃げていってしまった。けれど、灰宮の表情に焦りや不安はない。
黙って逃げていく様子を見つめる灰宮に、教師が訝しげな視線を向けた。
「えーと……あの、よく分からんが、どこのクラスの生徒だ。儀式は始まってるんだから、とりあえず早く教室に戻れ」
「あら、そうでしたわね先生。すぐに、自分のクラスに戻りますわ」
このまま追っていては、儀式に間に合わなくなる。
(涼都さんと、約束したものね)
あっさりと追跡を止めて灰宮は自分のクラスへ歩き出した。その背に、教師が付け加えるように言う。
「何かあったみたいだが……困り事なら後で職員室に来い」
さすがに目の前で追いかけっこをされて、無かったことにはしなかったらしい。相談ならば聞くというスタンスにその教師の性格が表れている気もするが。
振り返り、灰宮は微笑んだ。
「大丈夫です。問題も何も、ありませんから」
困るのは、あちらの方だ。
灰宮は笑みを深くし、教室への足を早めた。
*─────────────────*
並行して色々な空いた教室を使って行われる儀式の、ある一室。
その結果に周りの教師達がざわめく中、荻村は驚きのあまり言葉が出なかった。それは荻村だけじゃなく、他の儀式担当の教師陣も唖然としている者もいるが。
前から聞かされていた荻村でさえ驚いたのだから、話も聞いていない他の教師がこうなるのは当然だろう。
担任の荻村には資料が送られていたが、これは
(予想外、なんてもんじゃねぇぞ)
荻村はピンッと指で資料を弾いた。目の前には、その紙に貼り付けられた写真と同じ人物が同じように笑っている。
「儀式はもう終わりましたよね? もう俺帰っていいですか」
設楽東。
設楽家といえば四大一門、その上『設楽』を名乗ることを許された本家の人間。
優秀だと、聞いていた。
本当は学校など通わなくともよくて、そこらへんの魔術師なんぞは目じゃない腕前だと。本人たっての希望で行く必要もない桜華に来ることになったらしく、魔術師見習いではなく魔術師の色にカードは変わるだろう、と散々言われてきた。だからある程度は想定していた、それなのに。
(嘘だろ)
荻村はまだ信じられない気持ちで、カードを凝視する。それは太陽の光を受けて黄金に輝いていた。
*─────────────────*
「ほー……ここが学園長室か」
涼都は感心した声をあげて目の前の扉を見た。それは木製で少し重そうな洋風の扉だ。
「ま、学園長室に何で呼ばれたのかは訊かねぇが、おっかねぇオバさんには気をつけな」
そうは言うが宇崎、中にいる学園長にその最後の単語は聞こえていないのだろうか。
涼都は視線を扉から宇崎へ移した。何だかんだと言いながら(ゆるゆるだけど)制服を着た彼は堂々とノータイで学園長室まで涼都を連れて来てくれた。
(こいつ、結構良いヤツなのかもな)
内心で見直した涼都は、立ち去る宇崎の背に声をかけた。
「ありがとな、先輩」
ピタリと宇崎の足が止まる。そのまま行ってしまうものと思っていた涼都は、振り向いた宇崎に怪訝な表情を浮かべた。
(まだ、俺に何か用でも……)
「りょーと、だっけ?」
「あ?」
いきなり下の名前が出てきて、更に涼都は怪訝な表情を深くした。
「『御厨涼都』だろ? お前の名前。確か入学式の受付で会ったよな、俺ら」
難しい漢字だから覚えてたぜ、とどこか得意げに笑った宇崎に涼都はやっと納得した。つまり、彼も覚えていたのだ。涼都が宇崎のことを覚えていたように。
お互い、印象が強い人種らしい。
「まぁ画数多いしな。たいてい俺の名前聞いたヤツは、漢字をどう書くのか質問してくるよ」
「まぁ、そーだろうな」
一応、受付の名簿で名前をチェックした宇崎は漢字も覚えているようだ。そんな宇崎は何故かいきなり真顔になった。
「宇崎 雪人だ。いいか、雪の人で『ゆひと』だぞ。ゆきとじゃないからな」
そうやってわざわざ強調して何度も言うあたり、よほど間違えられるらしい。しかし、それ以上に。
(名前、似合わねー)
なんというか、シャツもマトモに着ないで走り回る宇崎から雪人なんて綺麗な響きの名前は、超絶似合ってない気がした。だが、さすがにそれを言うのは気の毒なので、苦笑に留めると、今度こそ宇崎は涼都に背を向ける。
「まぁ何はともあれ」
そして、顔だけ涼都に向けて笑った。
「ようこそ、桜華学園へ」
その言葉と、言い方、その笑顔に物凄い含みのあるものを感じて、涼都は目を細めた。
なんだ、今の。
(まだ何かあんのか、この学園)
半ばうんざりしながら、涼都は学園長室の扉をノックした。




