*3.不思議の国の兎さん ⑥
「二人とも、怪我してないか?」
鳴海は、こんな状況だというのに、いつものように爽やかな笑顔を浮かべる。人が突然降ってくるという登場に驚きが抜けない東が声もなく頷くと、鳴海は『そうか』とつぶやき、杞憂へと目を向けた。
「悪いが、もうちょっと結界を維持していてくれ。設楽は後ろへ」
肩で息をつきながらも杞憂は何とか頷き、東は黙って鳴海の後ろへ下がった。先生が直々に相手をしてくれるなら、もはや東の出番はない。鳴海はクーシーへ目を向け、警戒しながら軽く周囲を見回した。
「――春日はいない、か」
鳴海がつぶやいた『春日』という単語に、東は寅吉の言葉を思い出す。鳴海先生と並べてどうのこうのと言っていたが、そんなにその人はすごいのだろうか。(※春日、現在も絶賛気絶中)
鳴海はちょっと笑って、やや低い声を出した。
「春日がいないなら仕方ないな――封!」
叫んだ瞬間、ぴたりとクーシーの動きが封じられた。効力は一時的なものだろうが、鳴海はその一瞬を見逃さない。瞬時にクーシーの前まで距離をつめると、その力を利用して軽く跳んだ。そして、そのままクーシーを蹴り飛ばした。何かの冗談みたいに、クーシーの巨体が吹き飛ぶ。
その場にいた全員が目をみはった。牛ほどの大きさと体格のクーシーが、鳴海の蹴りで吹き飛んだのだ。普通の人間に出来ることじゃない。
(さすが武術の先生)
「………………人間か?」
杞憂が呆然とつぶやいた言葉を、東は聞かなかったことにした。あながち否定出来ない。
杞憂に人間かどうか疑われた鳴海はというと、クーシーに目を離さないまま右腕を横に素早く払った。すると、クーシーが飛んでいく先にブラックホールのような穴が宙に開く。強制送還するつもりだ。クーシーはそのまま為すすべもなく、動きを封じられたまま、穴に吸い込まれていく。鳴海が今度は反対方向に右腕を払うと、穴はきちんとふさがった。
さすが桜華の先生。
クーシー相手に、あまりにもあっけない一方的な展開だ。詠唱破棄の片腕だけで、あちらの門を開いた技量もそうだが。結界を解いた杞憂は相も変わらず苦い顔をしている。
「おい、アレは何者だ?」
「何者って。うちの副担任だよ」
そう答えながら、まず東は強く思った。
(鳴海先生には、何があっても蹴られないようにしよう)
*―――――――――――――――――*
『お知らせします。トラブルにより、本日の1年生の儀式は中止となりました。1年生は、担任の指示に従って下さい。繰り返します』
林の中にもよく響く放送に、涼都は目を細めた。
(儀式が中止になったってことは、クーシーの存在が明るみに出たんだな)
儀式を中止にせざるを得ないほどの騒ぎといえば、涼都にはクーシーしか思い付かなかった。
(おおかた、校内にでも入り込んだか)
ならば東と杞憂は無事なん――
「いいか。男ってのはなぁ、堂々として崖っぷちにでも立ちゃいいんだ」
「…………」
なに、その発言。
涼都は思わず思考も中断して振り返った。すると、寅吉が仁王立ちしてドスの効いた声で少年に怒鳴っている。
「は、はぁ」
そう困惑した表情を見せるのは一番早く意識を取り戻した、藍田という少年だ。藍田は寅吉の前で、何故か正座をしている。
「『はぁ』じゃないんだよ! てめぇもっとシャキッとしろ!」
寅吉は長いピンクの耳を揺らしながら、憤然と言い放った。
「いいか?! 男ならなぁ、ある程度の度胸が必要なんだよ! 今から特訓だ、特訓!」
「と、特訓?」
「そうだ。お前、屋上からバンジージャンプしろ」
藍田が言葉を失って目をむいた。『そうだ、京都行こう』みたいな口振りで、めちゃくちゃな事を要求してくる。そんな寅吉は今、非常に機嫌が悪いのだった。その証拠に、寅吉はちょいちょい、何かを主張するかのように、凶悪な顔で涼都を睨んでくる。
(まぁ仕方ないか)
睨まれ、涼都はあっかんべーを寅吉に返しながら、こうなった経緯を思い返す。
あれは、涼都と寅吉がコウモリの大群に圧され、とりあえず扉を閉じようとしていた時のことだ。
本来、正式に魔界へ繋がる道を開くと煉天門が出現する。しかしながら、今回はただ偶然、空間が繋がっただけなので扉のやや小さい形で出現していた。事実、正式な時は門が開くと言うがこういう場合は扉が開くと使いわけられている。
西洋風、鉄の装飾扉に寅吉は舌打ちした。
「くそ、とにかくコレを閉じないことには、どうにもならないな」
そう言った寅吉には、コウモリがたくさんくっついている。兎に群がるコウモリという、なかなかお目にかかれない光景に涼都は笑いそうになったが、さすがにそんな場合じゃない。
涼都は灰宮の魔力を吸うコウモリ達を追い払い、灰宮に結界を張った。
(とりあえず、どうしようかなー)
涼都は顔をしかめて扉を見る。歪んだ空間を直すなら時空魔術が必要だが、時空魔術は繊細な上に上級魔術だ。初級魔法の電撃ぐらいで揺らぐような不安定な空間では、使えそうもない。
涼都は自分にまとわりついてきたコウモリをガシッとつかんだまま、考えに没頭した。
(扉なんだから、普通のドアみたいに手で閉められたらいいんだけど)
それなら誰も苦労はしない。
手の中で暴れるコウモリそっちのけで涼都は、いまだにコウモリと格闘する寅吉を眺めた。
「おい、何ボサッとしてんだよ! お前も何とかしろや!」
「いや、とりあえず封印の札ならあるんだがな」
ポケットから薄い紙切れを取り出した涼都に、寅吉は目を光らせた。さながら獲物を見つけた猛獣のようだ。兎は草食の可愛い動物だが、コイツなら肉食の猛獣のほうがしっくりくる。
「新入生のくせに準備いいじゃねーか! サッサと貼れ!」
「いや、無理だな」
首を振った涼都に、猛獣こと寅吉は目を点にした。
涼都だってせっかく封印の札を持っているのだから、貼りたいのは山々である。しかし、涼都の札はあくまで、その場しのぎの絆創膏みたいなものだ。流血した大きな傷には絆創膏は役に立たない。せいぜい止血した傷に使う程度の気休め品だ。
「これはただの応急措置用。魔界の扉を強引にふさぐ力はない。ま、この扉が一瞬だろうと閉まった状態になりゃ、一時的に封印することは出来るが」
そうなれば3、4日は扉が開く心配はない。後はその間に、学校側が空間の修復をすればいいだけの話だ。ただ、
「だから、扉を閉じるまでが問題なんだろーが」
寅吉の言う通り、まず扉を閉めるという大問題が残されているわけだが。
涼都はため息をついて寅吉を見た。相も変わらずコウモリとじゃれついている。このコウモリも片付けないといけないのかと最早、うんざりしてきた。
そんな涼都の様子に、やる気の無さを感じとったのか、寅吉が威嚇してくる。
「だからお前も何かしろ! しまいには俺の拳が火を吹くぜ!」
古くさいその言葉に、涼都はピンときた。
素早く辺りを確認する。乾いた土、春だというのにどこか枯れかけた木々、しおれた草、乾燥した空気。
「人の話聞いてねぇだろ! てめぇも動け! 働け!」
魔界の扉の真上には枯れかけた枝が伸びていた。
「おーい。無視か」
涼都は思わず、寅吉に隠れて口の端をつりあげる。
いいこと、思いついちゃった。
「てめぇマジでいい加減に――」
「寅吉、とりあえずコウモリを追い払おう」
「あ?」
言うや否や、涼都は太い木の枝を拾いあげた。けげんな顔をした寅吉だったが、涼都が枝に火をつけたのを見てハッとする。
「ま、まさかお前」
「生息地が魔界だろうが人間界だろうが、コウモリは火が嫌いなもんだ」
そう言ってニヤリと笑った涼都は、まるで凶悪犯のようだったらしい。(寅吉、後日談)
その妙に悪人めいた笑顔のまま、涼都は火のついた枝を振りかぶり――後はおわかりだろう。簡単にいえば、コウモリがいる場所で振り回したわけだが、密集してる場所と涼都の勢いがまずかった。
「わっおまっ! あぶ―…っギャアァアアァァァアアアア!」
うっかり勢い余って、寅吉の頭部(主に耳)に火が燃え移り、彼の頭は焼け野原と化したのであった、まる。
って、のんきに言ってる場合じゃない。
「ぅあっちちち!」
寅吉は燃えやすい(?)のか、意外にも火が燃え広がり、消える気配がなかった。これならやっぱり『寅吉=良くできた着ぐるみ説』もありえなくはないな―…って違う、違う。
涼都は周囲を目を向けた。
バケツ的な物、または水場を探すが、そんなものは林にない。魔術で水を出すしかないようだ。涼都は(火が消えるわけでもないのに)辺りを走り回る寅吉に、半分呆れた声で言った。
「今、消してやるからあんまり走り回んなよ? 林に燃え広がったら大変だしな。ほら、こっち来い」
「なななな何、落ち着いてんだ! すでに俺が大変なことになってんだろーが! だいたいお前が俺に火つけたんだろ!」
なんにも聞こえない。
言葉はキレイに流して、手のひらに水球を浮かべた涼都に、寅吉もなんやかんやで駆け寄ってくる。ちょうど扉の左側に立った涼都の更に左から走る寅吉。
天は気まぐれなのか、はたまた寅吉が嫌いなのか。必死の形相で駆ける彼の足元にそれは在った。
空き缶。
「あ」
気付いたのが、遅かった。
一瞬、アルミ缶なら踏み潰して終わりだとも思ったが、こういう時はたいてい嫌な方に転がるらしい。寅吉は見事、スチール缶を踏んでバランスを崩した。全力に近いダッシュだったのもまずかったようで、その力はそのまま前へ加わる。前、そう、涼都の方に。
「いぎゃぁあああぁぁああ!」
「わー! こっち来んな!」
とっさだった。
頭に火がついたまま、こちらへ飛んで来た寅吉を、涼都は身をひねって避ける。体ギリギリのところを寅吉が某あんぱんのヒーローのごとく水平に飛んで、扉を横切り右側へ抜けていく。急な動きにバランスを崩した涼都は、そのまま後ろによろめいたが、なんとか空き缶だけは避けて飛び越した。
さすがに寅吉の二の舞にはなりたくない。
涼都の動きに手のひらに浮かぶ水球が不安定に揺らめいた。その、瞬間だった。
「!」
パッと光の五芒星が浮かび上がり、扉が音を立てて閉まったのだ。それを涼都は見逃さなかった。ほぼ無意識に封印の札を取り出して扉に貼り付ける。
こうして、魔界の扉は(一時的に)封印されたのだった。