*3.不思議の国の兎さん ③
「涼都?」
困惑した表情の東に、涼都は沈黙する。
魔術を修めて自立してから数年、涼都はおそらく人並み以上に修羅場をくぐってきた。その魔術師の勘と経験が危険だと告げたのだ。
(この場所に何かあるのか?)
本能的に危険を察知したぐらいだから、何かあるはずだ。そう思って涼都が辺りに目を向けた時、
「待てやぁあぁぁああ!」
突然、雷鳴のような腹に響く怒鳴り声がした。
思わず三人ともビクッとして、声の方――杞憂達が走って来た方向――を見る。
「ウサギ?」
兎だ。
真っピンクの兎が、二足歩行してる。
サングラスをかけた、2mのデカイ兎が走っている。しかも、ものすごい勢いと、ものすごい速さと、ものすごい剣幕で走ってくる。
ってゆーか
「何でこっちに走ってくんだよ?!」
涼都は後ずさった。もしかしなくとも、さっきの尋常じゃない悲鳴の原因はコレか!
理解すると共に、涼都は地面を蹴った。こういう時に人間のとる行動というのは常に一つしかない。
「なんか知らんが逃げろ!」
瞬時に、三人はとてつもなく良いスタートダッシュをきった。
「っ忘れてた」
走り出した直後、杞憂が顔をしかめる。決して大きくない声だが、涼都にはしっかり届いた。
「忘れてたって何だ、知ってんのか? お前、アレに何したんだ! めちゃくちゃ怒っていらっしゃるぞ!」
「うるさい! 理由なんか俺が知るか! とりあえず魔術で足止めしたはずなんだ」
杞憂の主張に、背後から迫る兎男(仮)が叫んだ。
「あぁ? あの程度の魔術なんぞで足止め出来るとでも思ったのか!」
激怒するウサ(仮)に目を向け、東は疲れた表情を浮かべる。
「あんな強烈なの忘れられるとか、杞憂ってすごいよ。一応きくけど、夢じゃないよね? コレ」
「……………」
否定を期待する東の問いかけには、誰も答えなかった。否定出来ないけど、肯定したくもないのだ。
「止まれや、てめぇら! ミンチにして土に埋められてぇのか!」
「ああぁぁ、見た目はファンシーで可愛い兎が、チンピラみたいなサングラスして組合的な言葉を口走っちゃってるよ!」
もはや、あれを兎と呼んでいいものか迷う。
東は気を取り直したのか、にっこりと笑った。
「アリスは兎を追うものだけど、兎に追われるとは、なかなかシュールだね。このままだと次の舞台は不思議の国とか」
「しっかりしろ! このままじゃ不思議の国どころか黄泉の国に旅立つぞ!」
ダメだ。
気を取り直すどころか、壊れかけている(思考回路が)。
「だいたい俺らアリスじゃねーし! 今にも取って食われそうなんだけど!」
「兎は草食だよ」
「そういう意味じゃねぇよ!」
涼都はチラッとウッサーマン(仮)を見た。
「……ガキが。鉛玉でもくらわねぇとおとなしくなんねぇか? ア?」
三人の速度がぐんと速くなった。
「ちょっと。今なんか言ったよ!? なんか知らんがめちゃくちゃ怖ぇーよ! もはや兎の形をした凶器だよ、あれは!」
第一、あんな巨大で二足歩行でダッシュして組合的な言葉を喋る兎などいない。とゆうかそれ以前に、だ。
「だいたい何で俺らは追われてるわけ? 何でアイツは二足歩行? 一体何の生命体? っていうか生きてんの、アレ!」
「御厨、落ち着け!」
杞憂の冷静な声に、涼都もいくらかホッとして杞憂に目を向けた。よかった、東はちょっとおかしいが、杞憂はしっかりして――
「とりあえず一回死んでみるのはどうだ?」
「お前が落ち着け! 何恐ろしいこと口走ってんだ!?」
ダメだ。
杞憂も思考回路がショートしている。あまりのことに頭痛とめまいを覚えた涼都に、ウサギ男(仮)がついに動いた。
「俺のブレットをくらいてぇらしいな」
静かでドスの効いた声に、涼都は殺気を感じて振り返る。兎マン(仮)は立ち止まると、先ほどから地面に転がっていた少年二人の襟首をつかんだ。そしてそれを思いっきり大きく振りかぶり、
「え? ちょっと、まさか」
「いいかげんに止まれやぁぁぁぁ!」
投げた。
「ぎゃぁあああぁぁああ!」
その直後、ゴツッという鈍い音が林中に響き渡り、木に止まっていた鳥たちが驚いて羽ばたいて行った。
*―――――――――――――――――*
(なんか今、すごい音がしたわね)
灰宮は思わず杞憂達が走って行った方を見た。何があったのか気になるが、それより先ほどの兎が結局何なのかの方が気になる。しかし、それも考えるのは後回しだ。
灰宮は藍田に視線を戻した。
「杞憂は悪くないって、どういうこと?」
「そのままの意味です」
そう言って藍田は苦しそうに眉を寄せる。確かに杞憂が悪い人間ではないのはわかる。杞憂本家の嫡子として入学した以上、杞憂の名を背負うに足る人間だと一族に認められているはずだ。
藍田は腕の傷にそっと手を当てて言う。
「昨日、僕が学園へ向かうバスを待っている時に、カツアゲにあったのが発端でした」
「………………」
いきなりカツアゲから始まるのか。
灰宮は何と言えばいいのかわからなかったが、藍田は気にした様子もなく話を進める。
「財布ごととられて、バスに乗る前にはもうボロボロになっちゃったんですけど、そこに現れたのが杞憂さんだったんです」
最初に乗ろうとしたバスには当然カツアゲした生徒が乗ったろうから、次のバスを待っていた時のことだろう。バス停といえば昨日、灰宮も散々道に迷った挙句に目的とは違うバス停に辿り着いた。苦いことを思い出した灰宮に藍田は続ける。
「僕がカツアゲにあったことを、杞憂さんはちゃんと聞いてくれて、嬉しかったです」
そして杞憂は真顔でこう言ったのだという。
『財布は俺が取り戻してやる。その代わり、お前俺の子分になれ。そして』
『俺を心から尊敬し、敬い、奉れ』
「その瞬間、雷が落ちたような衝撃が走りましたね。僕はもう一生この人についていこうと思いました」
「………………」
灰宮も雷が落ちたような衝撃を味わった。藍田とは全く違う意味で。
杞憂の言葉もどうかと思うが、目の前の藍田少年の反応もどうかと思う。藍田はその時を思い出したのか、少し明るい声で言った。
「それで、財布無しでは今日1日辛いだろうと、杞憂さんは僕に自分の財布を貸してくれて。『金は好きに使えばいいし、返してくれなくてもいい』って言ってくれたんですけど。さすがに使えませんよ」
「そうね」
杞憂はああ見えて、自分の懐に入れた人間には優しい。いかにも杞憂が子分にやりそうなことだ。
藍田は杞憂に対する憧れがMAXになったのかキラキラした目で言う。
「杞憂さんと一緒にいた人、藤沢さんというんですが、藤沢さんにも制服まで直してもらって。電車になって全てが繋がったら、杞憂さんはさっそく僕の財布を取り戻しに行ってくれました」
そこで灰宮はハッとした。
昨日、電車内で杞憂ともめた時。
(あれって、藍田くんの財布を取り戻そうとしていたの?)
『杞憂にたてついたバカを杞憂の人間として落とし前つけているだけ』
――子分は杞憂にとって(大げさにいえば)身内と同じ。
『事情も知らない人間にとやかく言われても何の説得力もない』
――その事情というのはつまり、そういうことだったんだろう。
もしかすると、魔術も本気で当てるつもりは無くて、ただ脅しに使っていたのかもしれない。
だと、したら。
(私って、もの凄くでしゃばってしまったんじゃ)
それでは引っ込んでろと杞憂に言われても仕方ない、と灰宮が納得しかけたところで、藍田が思い出したように言った。
「そういえば杞憂さん、戻って来た時に『邪魔が入ったせいで半殺しに出来なかった』って言ってたけど何だろう」
前言撤回。
やはりでしゃばっても止めてよかった。半殺しになどされたら相手もたまったものじゃないだろう。そうなれば、もちろん杞憂とて処分を受けたに違いない。
(あの程度で済んだのは、むしろ奇跡に等しいわね)
灰宮一人では騒ぎはもっと大きく、被害も出たかもしれなかった。彼、御厨涼都があの場に居合わせて、うまく対処してくれたおかげである。
(杞憂相手にあそこまで出来るなんて。涼都さんって一体……?)
そこで灰宮は我に返った。目の前から泣き声が聞こえたからだ。
「え、えーと、藍田くん? 何で泣いているの」
灰宮はハンカチを差し出しきいた。
藍田は遠慮してハンカチを受け取りはしないものの、号泣と言ってもいい程泣いている。いつの間にか灰宮が考えこむ内に、藍田少年はまた泣き出してしまったらしい。
しばらくして落ち着いたのか、涙声で言う。
「財布は戻って来たんですが、あいにく時間がなくて寮に帰ってからにしようってなりまして。それで済めばよかったんですけど」
口調と様子からして、それで済まなかったらしい。
「僕をカツアゲした人には、まだ仲間がいて。今度は4、5人で仕返しに来たんです。僕が一人になるのを見計らって」
「それは……ひどいわね」
「はい。それで杞憂さんの財布もとられてしまって――杞憂さんに財布を返してもらった時にはもう自分が情けなくて」
そこで灰宮はもしかして、とまたもや気づいた。
まさか、昨日灰宮が見た場面というのは。
「杞憂さんに、せめて中身だけでも同じ金額を返せればよかったんですけど、全然足りなくて。僕の全額を渡したら『それじゃ俺が取り戻した意味が無いだろう』と怒られてしまいました」
(あぁ、やっぱり)
灰宮が昨日見たのは、まさにその場面だったのだ。
(私ったら、なんてあらぬ誤解を)
後で杞憂に謝らなくては、と灰宮は恥ずかしさのあまり穴に立てこもりたくなった。
(東さんと涼都さんにも事情を説明しないとダメね)
「それで今日、杞憂さんはその5人に呼び出されたんです。僕は藤沢さんに止められたけど、どうしても杞憂さんに任せっきりな自分が恥ずかしくて」
そこで言葉を切ると、藍田は悔しそうにうつむいた。
「でも結局、ボロボロにされて杞憂さんの起爆剤的な使われ方をされちゃいました」
そして灰宮が止めに入った現在の状況というわけだ。灰宮はしばらく黙っていたが、杞憂が走って行った方向へ目を向けた。
「とにかく、杞憂を探しに行きましょう」
「え? 一緒に行ってくれるんですか」
驚いたように藍田に言われ、苦笑した。
灰宮はただ通りかかっただけで、直接の関係はない。けれど、先ほどの杞憂は冷静とはいえなかった。衝動的に魔術で人を傷つけようものなら、今度こそただでは済まない。
「事情を知ったもの。このまま、知らないふりで帰れないわ。それに」
灰宮は、いたずらっぽく笑った。
「勘違いしちゃった責任は、ちゃんと取らなきゃね」