*3.不思議の国の兎さん ①
雀の鳴き声に、ゆるりと目を開けた。
カーテンの隙間から注ぐ朝日の光に、涼都は顔をしかめる。
「……もう朝か」
つぶやいて、朝日から逃げるようにカーテンに背を向けた。ついでに目覚まし時計を見ると、7時55分である。
部屋から寮の玄関まで5分、寮から学校の玄関まで15分、更にそこから教室まで6分。計26分、集合時刻の9時には余裕をもったとしても、8時20分に起きれば間に合いそうだ。というわけで、まだ30分近く余裕がある。
(目覚ましはセットしてあるし、もう一回寝るか)
涼都は即座に睡眠モードに切り替えた。
布団を頭からかぶって目を閉じると、身の回りの音や空気がやけに鮮明に感じられる。その中でも特に強く感じられるのは、学園の空気だ。
(またひどく揺らいでやがる)
一斉に魔力を持った新入生が入ったせいだろう。学園の空気が新しい魔力の気配に慣れず、昨日からざわついて落ち着かない。まぁ涼都としては今はそんな空気より睡眠の方が大切――
ピンポーン
突然、鳴り響いた音に思わず舌打ちした。
どうやら二度寝は諦めた方がよさそうだ。
*―――――――――――――――――*
入学式と同じく晴れ渡った空の下、涼都は曇り空のような重いため息をついた。それに隣を歩く東が、さも当然のように言う。
「だって君、8時30分には校舎裏に行くんでしょ?」
『明日の朝8時30分。1年校舎裏に来い』
昨日、確かに杞憂はそう言った、言いましたとも。だが
「誰も行くとは言ってねぇだろ? んなもん行くつもりなかったんだよ、俺は」
言いながら、涼都は制服のネクタイをしめた。
現在、8時14分。東が部屋を訪ねて来なければ、まだ普通に夢の中にいた時間だ。朝、東が満面の笑みで立っていた時は、うっかり殺意がわいたが、今は脱力感の方が大きい。
(東を追い返して寝直すにしても、たいして寝る時間は無いしな)
そのまま起きて身支度を整えた次第である。
「杞憂の呼び出しをすっぽかしたら、後で面倒かもしれないよ」
東はそう言うが、涼都はどうもその気になれない。
「自分に敵意持ってるヤツの話に、ホイホイ乗る訳ねぇだろ。ろくな事にならないのは目に見えてる」
「乗らなくても、ろくな事にはならないだろうけどね」
「どうせ、どっちもろくな事にならないんなら、無駄な労力は使わない方がいいだろ」
「そういうの、涼都らしい考え方だよね」
散り散りになりつつある桜並木の中、東は薄く笑う。褒めてんだか、けなされてんだかわからない。
涼都は眉を寄せる。東は校舎の方へ目を向ける、と笑顔を引っ込めて目をまたたいた。
「あれ?」
何か、あったのか?
涼都はけげんな表情を浮かべて東と同じ方へ目を向けた。
(あれは――)
背中に流した緩くウェーブのかかった髪は、風に揺れて朝日に輝いている。玄関脇の階段にたたずみ、横を向く姿は凜としていて、生徒は遠巻きにチラチラと目を向けていた。灰宮 千里、さすが灰宮家の令嬢だ。
何でこんな玄関脇にいるのかはわからないが、人形のように整った顔からか近寄りがたい空気をまとっている。そんな灰宮家の令嬢に気軽に声をかけられるのは、
「やぁ、こんな所でどうしたんだい? 友達でも待っているの?」
同じ四大一門の東か杞憂くらいだろう。
自然な流れで歩み寄る東に仕方なく涼都も続いた。突然、声をかけられた灰宮は、ハッとしてこちらに顔を向ける。
「おはようございます。東さん、涼都さん」
そう言って笑った表情は、例えるなら花のように柔らかいものである―…はずだ。
しかし、昨日とは打って変わって灰宮の顔は暗かった。
(明らかに何かあったっぽいな)
東も不自然に感じたらしい。
「何かあったの?」
灰宮の元にたどり着くと、少し声のトーンを落としてそう尋ねた。ずいぶん単刀直入な問いかけだが、灰宮は気にした様子もなく頷く。
「少し、あなた達に話があるのだけど、いいかしら」
言って、まっすぐに自分達を見つめる灰宮の瞳は真剣だ。なにやら深刻な表情に思わず涼都は東と顔を見合わせてしまった。
何か、また面倒そうな予感してきたな、コレ。
*―――――――――――――――――*
灰宮は正直、少し迷っていた。相談すべきか、しないべきか。
昨日の様子は、どう見ても杞憂が同級生相手に巻き上げたようにも見えた。しかし、いくらなんでも、杞憂はそんなことをする人間じゃない。だから、これには何か深い訳があって、灰宮が首をつっこむものではないのかもしれない、それでも。
(お金が絡んでるのだし、他の人の意見を聞いてみたほうがいいと思ったんだけど)
「杞憂のヤツ、いきなり金銭問題かよ」
「これ以上、騒ぎが大きくなったら大変だね」
この二人は灰宮ほど重く考えてないようだった。
玄関では人が多いので移動した第5会議室、その向かいに座る涼都に灰宮は目を向ける。
「杞憂は名門の家だし、お金なら巻き上げなくても、あると思うの。それに、杞憂ならお金が無くても『杞憂の者がそんな恥ずかしいマネ出来るか』とか言いそうだし」
「ま、アイツの性格から見ればそうだろうな」
あっさりと涼都は頷いた。
そして、ちょっと考えるように視線を床に落とす。ただでさえ端正な顔立ちが、朝日と相まって更に綺麗に見えた。灰宮が思わず涼都を見つめると、その隣で東が笑って言う。
「まぁ、杞憂なりに何かあったのは確実だろうけどね。彼なら、間違っても退学にはならないだろうし。どうなるのか、ちょっと面白そうだよね」
「…………」
灰宮と涼都、二人して絶句した。
「なぁ、東。お前さ、杞憂に恨みでもあんの」
引いたような表情を浮かべた涼都に、東はにっこりと笑うだけだ。クラスの女子は、東の笑顔を天使の微笑みとか言っていたけど、内容はなかなかキツイものがある。気を取り直すように涼都が言った。
「まぁとりあえず、しばらく様子見でいいんじゃないのか? 灰宮が心配なのも、わからないでもねぇけどよ」
「ぶっちゃけ、他人事だからね。灰宮は気にしなくてもいいよ」
「ぶっちゃけすぎだろ」
そう突っ込んで涼都はふと、灰宮に目を向ける。
「その杞憂に渡した方が持ってた財布って、どんなだった?」
「え? 茶色の折りたたみ財布だったけど」
意味もわからず灰宮が答えると、涼都は『そうか』と言って無感動につぶやいた。
「ふーん」
*―――――――――――――――――*
8時30分
杞憂は1年校舎裏にいた。
縦長の1、2、3年校舎が川の字のように横に三つ並んでいるため、1年校舎裏と言うより、校舎横と言った方がいいかもしれない。そこに車一台が通れる程の砂利道があり、横に木が立ち並ぶ林、そこを校舎沿いに奥へ進むと第一講堂の右端にたどり着く。
杞憂はその林の中にいた。校舎横の砂利道ではクラスの窓から丸見えだからだ。そこでただ、じっと木に背を預け待っている。
待ち人は御厨涼都ではない。
自分が思ったより素直な性格ならもうそろそろ来るかもしれないが、それでも待ってもらわねばならないだろう。あれら急用が出来て、杞憂はここに呼び出されたのだ。
ザッと地を踏む地面の音がして杞憂はそちらへ目を向け、見開いた。五人ほどの男子生徒がニヤニヤと笑いながら、杞憂へボロボロの少年を投げる。
じわりと地面に少年の血がにじむのを見て、杞憂はふっと口元を歪めた。
「それがお前達のやり方か……いい度胸だ」
*―――――――――――――――――*
8時34分
「涼都、もう30分過ぎちゃったよ」
『どうするのさ』と言って、東は自分の席にカバンを置いた。涼都はそれにうんざりとした表情を浮かべる。
「だから行かねぇって言ってんだろ」
冗談じゃない。二度寝を邪魔された上に朝っぱら杞憂の相手など、厄日並みのスケジュールに等しい。
涼都は自分の席に座って東を見た。
「なんで、お前は俺をそんなに杞憂とぶつからせたいんだ? 喧嘩しろってか?」
「別に誰も『喧嘩しろ』なんて言ってないじゃない」
東の笑う顔に、不信感しか抱けないのは何故だろう。
涼都は肩をすくめた。
「別に、俺は杞憂に興味なんかねぇんだよ。まぁ灰宮の話には興味深いもんがあったけどさ」
カバンの中身を机の中へ移し始めた涼都に、東は言った。
「灰宮が見た場面がどういう状況だったか、察しはついてるんじゃないの?」
「あー?」
涼都は机の中身とにらめっこしながら、肯定とも否定ともつかない声をあげる。
「だって、灰宮に意味深な質問してたじゃないか。涼都なりに何か気付いたことでもあって――」
「お、知らない紙切れ発見」
「俺の話聞いてよ」
さすがに声のトーンが落ちた東を無視して、涼都は机の奥から一枚の紙を引っ張り出した。綺麗に四つ折りされたその紙は、机の奥で教科書に潰され微妙にくたびれてしまっている。
「なに? その紙」
「さぁな」
全く身に覚えが無さすぎて、東にもそう言うしかない。とりあえず涼都はそれを開いてみた。
「…………」
涼都、本日二度目の絶句。
そこには新聞や雑誌の切り抜き文字ででかでかと二行にわたって書いてあった。
『8:40 イチ年校舎ウラ 亜神』
「これはまた素敵な手紙だけど、アジンって誰? っていうか1年校舎裏って」
東が涼都を見ると、涼都は無表情のまま席を立った。
紙を丸めてポケットに突っ込み、ドアへ歩き始める涼都に、東が慌てて声をかける。
「ちょっと涼都! どこ行くの?」
東に背を向けたまま、涼都はドアを開けて言った。
「杞憂のお誘いよりは面白そうだからな。ちょっと行ってくる」




