―序―
度重なる偶然。
それがもし運命だと言うのなら、これはきっと運命だ。
運命であり、宿命。
桜の花が潔く散り舞うように、一輪の薔薇が真紅に咲き誇るように。
全て、最初から決まっていたのかもしれない。
そう、生まれる前から――――全て。
重い灰色のカーテン。
どんよりとした曇り空のようなソレを、少年は切るように鋭い動作で開け放った。その瞬間、まばゆい程の月光が降り注ぐ。
真っ暗な空に浮かぶ月は丸い――満月。
「行くのか?」
ふいに響いたのは凛とした少女の声で、少年はカーテンを掴んだまま視線を投げかけた。
灯りもついていない真夜中の部屋は、窓から注ぐ月明かりのおかげで何とか薄暗い程度にとどまっている。
しかしそれも窓際だけで、声を発した少女はわざとなのか――おそらくわざとだろうが――窓から最も離れた光の届かない場所に立っているせいで、姿は見えない。
少年は視線を外へ戻すと、少女の問いかけに応えることなく木枠の窓を開け放った。
ギシッと古びた木の音と共に、ふわりと流れ込む風は夜の冷気をはらんでカーテンと少年の髪をゆらして吹き抜ける。身を切るような冷たい風に、少年は耳を傾けた。
すっと通った鼻梁に、涼やかなアーモンド型のぱっちりとした目は、髪と同じく夜空のような漆黒で、薔薇色のふっくらとした唇と共に白い肌によく映えている。それに加え、全体的に均整のとれた体付きに長い手足。
月光にさらされたその容姿は、まるで端正な作り物のようだった。
だからか、遠くを見るようにして窓辺にたたずむその姿は、人形めいていて、酷く近寄りがたい存在のようにさえ感じられる。そんな少年が、ふっと口元をつり上げた。風から運ばれたわずかな声に、可笑しそうにニィッと。
それは天使のように愛らしく、悪魔のように残忍な笑みに見えた。
「屋敷中、すごい騒ぎになってるな」
そう言った声には幼さが残るものの、口調はどこか馬鹿にしたようなものが見受けられる。
開けっ放しの窓から風が運んでくるのは、夜中にも関わらず屋敷中に聞こえ渡りそうな叫び声と怒声、ざわめき。
『大変だ! ヤツがいない!』
『気づいた時には、もうどこにも……』
『馬鹿な! この屋敷には当主が張った結界があるんだぞ?!』
『探せ! まだ遠くへは行っていないはずだ!』
バタバタとそこら中を駆けずりまわる音に、少年は『ざまぁみろ』と言わんばかりの表情で、窓から屋敷を見下ろしていた。
まさに、高みの見物。
「……行くのか?」
再びかけられた、少女とは思えぬ程に落ち着きはらった声に、少年はもう視線すら向けなかった。代わりに、いたずらっ子のように笑って窓枠に足をかけだすと、少女はため息をもらす。
「確かに計画通り進んだが、だいぶ派手にやったな」
特に責める訳でもなく、ただ単に思ったことを口に出したという調子の淡々とした声に、少年はただ苦笑して開け放った窓につかまり、両足を窓枠にかける。
そのまま、まさに飛び降りようとした瞬間。
「その魔術書はお前を助けるかもしれないが、あまりにも危険すぎる。深入りは禁物じゃ」
聞こえてきた苦々しい声に、動きを止めて振り返り、鼻で笑う。そうして今度こそ、飛び降りた。
空を切る風の音と別に『……ヘマするなよ』と、つぶやく声が聞こえる。音もなく軽やかに着地した少年は、たった今まで自分がいた塔を見上げた。
自然と、口角が上がる。
「ヘマなんてするかよ。俺は、天才魔術師だぜ」
そう言った声はどこか大人びていて、皮肉っぽく――とても12、3歳ほどの子供には似つかわしくなかった。しかしそれも、すぐに歳相応のハッとしたような、純粋な驚きの表情に変わる。
素早く屋敷の塀を飛び越えて近くの木の幹を背に回した。
その時だ。
耳をつんざくような轟音が響き渡り――屋敷が崩れ始めた。
木の陰から顔を出して様子をうかがっていた少年は、苦々しい表情で舌打ちする。
「アイツ、やりやがったな」
『自分の方がずいぶん派手にやっているじゃねぇか、ボケ』と心の中で悪態をついた。その間にも屋敷はみるみる内に崩れ落ちていく。
5階の屋敷はすでに天井ごと地に崩れ、塔は真中から半分に折れて更に屋敷を潰していた。もうもうと砂ぼこりが立ちこめ、屋敷の外装だったレンガは外にも飛び散ってきた。慌てて木から出していた頭を引っ込めると、破片が耳の横をすり抜けて背後の木にドスっと鈍い音を立てて付き刺さる。
深々と刺さったソレに、少年は顔をひきつらせた。
「俺に刺さったらどーしてくれんだよ……初っ端から顔面血だらけとか勘弁してくれよな」
肩をすくめ、崩れる屋敷へと改めて目を向ける。そうして、感情の見えないで目でしばらく見つめると、その中の人や土地、思い出さえも、全ての存在そのものを断ち切るように背を向け、少年は歩き出す。当然、振り返りはしない。
口元に微笑を浮かべ、誰にともなくつぶやいた。
「ま、お前もうまくやるんだな」
全部、捨てた。
地位も家も、そこに在る思い出も血の繋がりも還る場所も――自分の名前さえ、何もかも。
大切だったから。大切だからこそ、捨てた。
退路を断って、すがるものも捨てて、前にしか進めないようにした。
大切なものを守るために。
「その結果がコレで、君は満足?」
静かな問いに、出発の遠い過去を顧みていた俺は、そっと目を開ける。
横たわり、己から流れ出る鮮血が視界の端に広がるのを眺め、淡々と答えた。
「俺には自殺願望なんて毛ほどもねぇよ。まぁ、好き勝手やれて満足なのは否定しないけど」
どくどくと、血が流れ出て体温が奪われてゆくのを感じながら、俺は自嘲して笑う。
(これは、もう死ぬな、俺)
「君らしいけど。果たしてそれは、許されるのかな?」
別に理解されなくていい。許されなくていい。非難されると承知で、覚悟してやったことだ。でも。
走馬灯のように、美しい少女の顔が浮かんだ。
灰色の髪の、心優しい、ちょっと天然なところがあるお嬢様。でも、誰よりも芯が強いはずの彼女は、やはり泣くだろう。
脳裏に巫女装束の女が涙を流す姿がよぎり、胸がちくりと痛んだ。
(また、泣かれるのは困るなぁ)
苦笑して目を閉じた。
いつの時代でも、何度生まれ変わったとしても、彼女は変わらないだろう。たとえ前世だろうと来世だろうと、いつでも誰かの代わりに泣くくせに、その涙で本質を見誤ることは、決してない。
だから、俺も自分に課せられたことを、やらなきゃいけないことを見失うわけにはいかない。
──たとえ、このまま死ぬ運命は変わらないとしても。
「せめて、最期は楽にさせてあげよう」
手向けのように、一輪の薔薇を放られる。
それを片手で掴み取り、立ち上がると同時に握り潰した。赤い花びらが血のように舞い、棘で切れた手からは赤い血が流れ落ちる。
「あいにく、俺は諦めも、意地も根性も悪くてな」
流れる血など気にもとめず、俺はニヤリと笑いかけた。
「さぁ、決着をつけようか。薔薇でキザ気取りのクソ寒い野郎が……てめぇの棘ごと消してやるよ」
「野暮なことをする。棘を抜いてしまったら、薔薇は美しく在れないというのに、ね?」
舞い散った薔薇の最後の花弁が、ひらり、と地に落ちる。
その向こうで、相対する敵は、そっと指を立てて唇だけ動かした。
『No rose without a thorn.』