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『サンタさんへ
今年、舞はとてもいい子にしてました。ママのお手伝いをいっぱいしたし、パパの言いつけもちゃんと守りました。公園で遊んでいても、近所の小さい子たちの面倒を率先して見ていたし、お勉強もがんばりました。だから、サンタさん、お願いです。今年のクリスマスプレゼントに』
お気に入りの可愛らしいイラストの入った便箋にここまで書いて、私の鉛筆はピタリと止まった。
あらためて思い返してみて、そういえば、私、ママのお手伝い、そんなにしたっけ? 小さい子たちの面倒ってなぁに? なんて、疑問に思ったりもするけど、書く手が止まったのは、そんなことが原因じゃない。
私、今年のクリスマスのプレゼント、サンタさんにどっちのお願いをしようか? って悩んだからだ。
私が今欲しいのは、二つ。もちろん、二つともお願いしてもいいんだけど、パパが言うには、サンタさんがかなえてくれるのは、一つだけだって。
二つ以上のお願いをするような欲張りな悪い子は、プレゼントが一つももらえないって。
そんなのヤダ! だから、どちらかを選ばなきゃ!
う~ん・・・・・・ どっちのお願いにしようか?
う~ん・・・・・・
手紙の空白を睨みながら、真剣に悩むこと一時間。サンタさんの手紙に書くお願い事を決めた。
『お願いです。今年のクリスマスプレゼントに、弟をください』
今年の秋、優貴奈ちゃんの家に弟が生まれた。すごく小っちゃくて、可愛くて、ベビーベッドの横から寝ている様子を眺めているだけでも、飽きない。
たまに機嫌が悪いときがあって、泣き喚いてうるさいこともあるけど、でも、哺乳瓶を小さな口で、ムングムングと吸っている姿をみると、抱きしめたくなっちゃう。
優貴奈ちゃんの家へ遊びに行くたびに、いつも私も弟がほしいって思っちゃう。
だから、サンタさん、お願い。私にも、優貴奈ちゃんのところのようなかわいい弟をください。
私は心をこめて、一生懸命に便箋に文字を書き、封筒に入れて、居間のテーブルの上に置いた。
テーブルの上に置いておけば、ママが後で、切手を貼って、サンタさん宛てにポストへ投函してくれるって言ってた。だから、これでちゃんとこの手紙はクリスマスまでにサンタさんの手元に届いて、私に弟をプレゼントしてくれるはずなのだ。
テーブルの上の封筒に目をやると、自然とニヤケ笑いが溢れ出てくるのを止めることができない。
クリスマスになったら、私にも、優貴奈ちゃんのところみたいな可愛い弟が。
うふふふ。
私にも可愛い弟ができたら、毎日、面倒を見てあげて、ミルクとか用意してあげたり、おしめを替えてあげたりするんだ。
大きくなったら、一緒に公園でボールで遊んだりして。
和樹くんのところの敦士くんみたいに、いっつも私の後ろにくっついてトコトコかけてきたりすると可愛いなぁ~
うふふふ。
弟ができたときのことを想像して、その日はウキウキした気分で夜を過ごし、いつもより早く寝たのに、目が覚めたのはいつもよりも遅い時間だった。
ママとパパはとっくに起きていて、朝食のテーブルについていた。
「おはよう」「おはよう、舞」
「うん、おはよう~」
ボーッとした頭で、テーブルに着こうとすると、
「ああ、舞、まだパジャマじゃないか。着替えて来い」
パパがニコニコしながら、私に注意をしてくる。
すぐに、ママが、パパに笑顔を向けながら、
「もう、この子ったら、寝ぼけちゃって」
なんて言いながら、私の背中を押して、部屋へ連れ帰り、いつもより優しい顔で、着替えを手伝ってくれる。
どうしたんだろう? いつもなら、もう大きくなったのだから、着替えぐらい一人でしなさいって言って、絶対に手伝ってなんてくれないのに?
かがんだ姿勢で、ママが私の服の前のボタンを留めてくれて、最後に、私の頭をやさしく撫でてくれる。
「ふふふ。さあ、舞、朝ごはんにしましょう。まずは、顔洗ってらっしゃい」
「うん」
私は素直にうなずいて、洗面台へむかった。
朝食の間中、ママとパパはお互いを見つめあい、ずっと微笑みを浮かべ続けている。
いつもなら、ママは忙しそうにあちこち動き回っているのに、今日は席に着いたままで、落ち着いた様子でトーストにかじりついている。
一方、パパは、いつもなら朝刊片手にテレビのニュースを流し見しつつ、黙々と口を動かしているだけなのに、今日は朝刊もなく、テレビもついていない。ずっと席についていて、フォークで皿をつっ突いているママに代わって、冷蔵庫からミルクをとってきたり、コショウの瓶なんかを棚からもってきたりしている。
ふたりとも今日はヘンなの?
でも、ちょっといいかも。みんな仲良しって感じがする。
いつもよりおいしい朝ごはんを食べ、満腹になったところで、パパの出勤時間になった。
パパは、いつもはママまかせなのに、空になった自分の皿をシンクへ持っていって、水につける。
それから、ママの側へ引きかえしてきて、
「悪い、時間だ。行ってくる」
そう慌てて告げてから、ママの頬へ軽くキスした。
って、え? なんで?
思わず、目を丸くしてそんなパパたちの様子を見つめてしまった。
パパがママにキスしたところなんてはじめてみた。いつも『行ってくる』ってぶっきらぼうに言って、カバンを掴んで出て行くだけなのに。
私が、今目撃した状況を理解しきれずに混乱している横で、
「もう、いってらっしゃい、あなた」
ママがとっても優しい声でパパの背中に声をかけていた。
結局、サンタさんのクリスマスプレゼントは、その年のクリスマスには間に合わなかった。
25日の朝に目を覚ましても、枕元に用意していた靴下に赤ちゃんが入っているなんてなかったし、家のどこにも弟なんていなかった。
代わりに靴下の隣にあったのは、大好きな犬の1メートルぐらいはありそうな大きなぬいぐるみだった。
すごくがっかりしてたのだけど、でも、やっぱり大きなぬいぐるみも、これはこれでいい。すごく可愛い。
しっかりと胸に抱きしめると、フカフカしてて気持ちいい。
頬をスリスリして、ギュッと抱きつく。
けど、でも、これはぬいぐるみ、弟なんかじゃない。
あ~あ・・・・・・
でも、気持ちいい~ スリスリ。
クリスマスが終わって、お正月が来て、おじいちゃんちへ遊びにいって、おじいちゃんおばあちゃん、おじちゃんおばちゃん、親戚の人。いろんな人からお年玉をもらい、その全部をママに預けて、初詣でやなんかを過ごし、冬休みが明け、ママや優貴奈ちゃんと一緒にバレンタインのチョコレートを手作りして、パパや和樹くんたちにあげ、ひな祭りをして、春休みになり、明けて、学年が一つ上がった。
それから、春の遠足なんかがあって、梅雨のじめじめした季節を過ぎ、プール開き、そして、夏休み。
そうこうしているうちに、ママのお腹が大きくなってきた。お腹の中に赤ちゃんがいるっていう。
サンタさん、ちゃんと約束を守ってくれたんだぁ~!
夏休みの間中、私はママのお手伝いを一生懸命にした。
ママの代わりに買い物をして、ママに代わって洗濯物を取り込み、ママと代わってお隣へ回覧板を届ける。
おじいちゃんちでお盆を過ごし、従兄妹たちと蝉取りをしたり、花火をしたり、縁日へ出かけたりしたけど、いつも心のどこかでママの大きなお腹のことを気にかけていたし、来年は、弟と一緒に楽しめたらいいななんて思っていた。
やがて、長かった夏休みも終わり、二学期が始まった。
そしたら、だんだんとママとパパたちの様子がせわしくなり、緊張感が家の中に漂うようになってきた。
そして、ついにその日が来た。
私が学校から帰ってくると、アパートの部屋にはだれもおらず、玄関の鍵がかかっていて、入ることもできなかった。途方にくれていると、優貴奈ちゃんのママが来てくれて、優貴奈ちゃんの家に連れて行ってくれた。
その日は、優貴奈ちゃんと一緒に学校ででた宿題を済ませ、晩ご飯をご馳走になったのだけど、なんで家にだれもいなかったのか心配で、正直、あんまり勉強にも身が入らなかったし、ご飯もあんまり食べることができなかった。
パパから連絡が来たのは、夜もだいぶ遅くなってからだった。
いつもなら、お風呂にはいって寝ている時間。突然、優貴奈ちゃんの家にパパから電話が来て、すぐに私を迎えに来るという。
優貴奈ちゃんのママに付き添われて、玄関の外で待っていると、パパの車がすぐにやってきて、私を拾ってUターンした。パパが向かったのは、近くにある総合病院だった。私が生まれた病院。
駐車場に車を止め、急ぎ足で病院の中へ入っていくパパを追いかけてたどり着いたのは、『分娩室』と記された部屋の前だった。
「舞、もうすぐだ。もうすぐ、弟か妹が生まれるぞ!」
パパが私の隣で目をキラキラさせながら、その部屋の扉を見つめていた。
扉越しに産声が漏れてきたのは、それから15分ほど後のことだった。
途端にパパが満面の笑顔で『ヤッター!』と叫ぶ。私を抱き上げて、『生まれた! 生まれた!』と何度も跳ねる。
結局、看護婦さんから叱られるまで、パパは喜びを爆発させつづけたのだった。
生まれてきたのは女の子だった。妹。私が望んだ弟ではなかったけど、でも、妹でもいい。ううん。妹の方が、もっと可愛い。
だって、優貴奈ちゃんちの弟って、私たちが一緒に宿題をしていると、よちよちと這ってきて、私の鉛筆を無理やり奪って、舐めて、ベトベトにするんだもん!
うげっ! ノートにまでヨダレがべっとり。もう、やだっ!
そう、優貴奈ちゃん、うんざりした顔してたっけ。
嘉人くんちの妹の明菜ちゃんは、いつも人形を抱えているけど、指を咥えてばかりで、鉛筆とかしゃぶったり、ヨダレを垂らしたりしないしね。
うん。妹でよかった。うん。
秋、私は彩の面倒を一生懸命に見た。
哺乳瓶にミルクの用意をしたり、泣き出したらおしめを替えてあげたし、お風呂で体を洗ってあげた。
彩って、本当に可愛い。すっごく天使だ!
優貴奈ちゃんも、和樹くんや嘉人くんも、彩のことを可愛いと褒めてくれたし、うらやましがってくれた。
それだけでなく、彩を見におじいちゃんやおばあちゃんが遊びに来てくれたし、お宮参りのために綺麗な着物をプレゼントしてくれたりした。
パパもママも生まれたばかりの彩のことをとても大事にしていたし、彩が泣き出したりしたら、なにをしていても、飛んでいって様子を確かめるのだった。
私も、彩が泣いているととても気になるし、泣き止むように一生懸命世話してあげたい。
それに、彩が笑顔でいるのを見ると、とても幸せな気分になる。
うん、彩って本当、天使だ!
そういえば、最近、パパやママの会話って彩のことばかり。彩が笑っただとか、彩が上機嫌だったとか。
なにかといえば、彩、彩だし、パパが帰ってきたときに真っ先に向かうのは、彩の寝ているベビーベッドだった。
私が、今度、運動会でリレーの選手に選ばれたって言っても生返事ばかりだし、学芸会でセリフのある役になったといっても、『がんばれ』ってそれだけ。
去年、リレーの選手になったって報告したときには、大げさに喜んでくれて、おじいちゃんちに電話をかけて、運動会を一緒に見にいこうって誘ってたのに・・・・・・
私が学校を終わって帰ってきても、ママは彩につきっきりで、私のおやつの用意をし忘れてることがある。
そんな調子で、パパもママも彩にばっかり気を向けていて、私のことを以前ほど気にかけてくれていないって感じる。だから、それに不満を感じて、パパやママに文句を言っても、
『お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい!』
って。
なんで? なんで、彩ばっかりなの? なんで、彩ばっかり可愛がるの? 私は、もう可愛くもないの? 私って、もういらない子なの?
なんで? なんで、彩なの?
夜、一人で冷たい布団の中で寝ていて、思わず涙してしまうこともあった。
そんな夜に限って、夢の中では、私はいつも一人ぼっちで、だれにも相手にされず、孤独に膝を抱えているだけだった。だれも私に声をかけてくれず、だれも私に気がついてくれなかった。
寂しかった。
冬になり、今年もサンタさんへ手紙を書く。
『サンタさんへ
今年も舞はとてもいい子でした。彩の面倒をいっぱい見たし、ママのお手伝いもいっぱいしました。パパの言いつけもちゃんと守ったし、友達とも仲良くしていました。舞は今年もいい子でいました。だから、今年のサンタさんのプレゼントは、絶対にかなえてください。お願いします。
舞の今年のお願いは、彩をどこかにやってください。いなくしてください。お願いします』
私は、そう一気に書き上げて、封筒に便箋を入れ、居間のテーブルの上に置いた。
その夜だった。
部屋で宿題をしていると、突然、ママが怖い顔をして入ってきた。
「舞! あんた、なんてことを書いてるの!」
見ると、ママの手の中に私が書いたサンタさんへの手紙が。
すぐに青くなる。けど、同時に、体の中に熱くたぎるものを感じる。
「ママ、サンタさんへの手紙、勝手に見たのね!」
私の叫びに、一瞬、怯えたような表情を浮かべたけど、すぐに、
「そんなことはどうでもいいわよ。舞、あんた、なんてことを!」
「見たのね! ママ、ひどい!」
「ひどいのは、あんたの方よ! 彩を、彩を!」
「なんで、勝手に見るの! それに、なんで、彩ばっかり!」
次の瞬間だった。ママが私の前に移動し、手を振りかぶった。
――パチンッ
強烈な衝撃が私の頬を打ち、遅れて痛みが走る。
「あんたなんて、もう私たちの子供じゃありません。出て行きなさい!」
気がついたら、私は裸足で外へ駆け出していた。
部屋着で靴下だけを履いたまま、冬の冷たい道の上をトボトボと泣きじゃくりながら歩く。
あのとき、部屋を飛び出す私をママは引きとめようと手を伸ばしてきた。けれど、そんなママの手を全力で払い、私は部屋を飛び出し、靴も履かずに外に駆けて来た。
たぶん、すぐにママが私を追いかけようとしてくれたんだと思う。だって、しばらく、私の背後で、ママが『舞ーッ! 舞ーッ!』って叫んでいたみたいだから。
でも、私は立ち止まることもせず、後を振り返ることもせずに、真っ直ぐ駆け続けた。
もう、後からはだれの声も聞こえ来ない。ママは、もう私を探すのをあきらめただろう。だって、もう私はあの家の子供じゃないのだから。
ママのバカ! ぐすっ!
外をメチャクチャに駆け回ったせいで、今どこにいるのか分からない。
周りの景色は見覚えのないものばかりだし、すれ違う人たちも泣いている私を特に気にするでもない。
町の中で、私は一人ぼっち。もう、ママもパパもいない。もちろん、彩も。
これからは、一人っきりで生きていかなくちゃ。
そう考えると、心細いし、寂しいけど、でも、何とかしなくちゃ。泣いてる場合じゃない。
私は顔を上げた。そして、大きく深呼吸。部屋着の袖で涙をぬぐって、足を大きく前へ踏み出して。
――カサッ
風に乗って、何かが足に絡まってきた。
見ると、チラシのようだ。拾い上げて見ると、
『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』
チラシの中央でそんな文字がデカデカと踊っていた。
そのチラシは私が今いる場所の横手から伸びている路地の方から飛んできたみたいだった。
シワ一つなく、折り目もついていない。汚れてもいない。とすると、その路地の中に、捨ててあったものではなさそうだ。
もしかしたら、だれかが大事にしていたものが、不意の風か何かで飛ばされて来たのだろうか?
これ、無くした人、困っているんじゃ?
そう考えて、私は、そのチラシを片手に、その路地の奥へと歩いていった。
やがて、路地の先に、明かりが見えてきた。
誰かがいるようだ。
私は足元に注意しながら、その明かりの元へ駆けて行く。
やがて、目の前に見えてきたのは、黒いビニール製の幕で路地から区切られた区画。隅の方に、入り口が切られており、扉代わりに黒い布が垂れ下がっていて、その隙間から、中の明かりがもれていた。
多少の気後れを感じながら、その入り口らしき場所の前に立った。
訪問をしらせるチャイムやノッカーなどそれらしいものを探してみるが見つからない。しかたなく、その場所から中へ声をかけてみた。
「あの、すみません」
すぐに中から返事が聞こえてくる。知らないお兄ちゃんの声。
「はい」
そして、目の前の布がめくられて、中からその声のお兄ちゃんが顔をのぞかせてきた。
「いらっしゃいませ」
「あ、あの、私、これをそこで拾って・・・・・・」
私は、手の中のチラシを掲げてみせる。だが、そのお兄ちゃんは、私の手の中のチラシに一瞥もくれることなく、うなずいた。そして、入り口の布を持ち上げたまま、私を通すように脇へとどく。
「どうぞ、中へお入りになってください」
一瞬、躊躇した。知らない家に上がるなんて。でも、今は冬。私は部屋着姿の上にクツもはいていない。いい加減、冷えてきたし、凍えてきた。だから、思い切ることにした。
「お、おじゃまします」
中は、光に溢れていた。それに暖房がよく効いていて、温かい。
路地の奥とは思えないような立派な家具がいくつかおかれており、床はフカフカの絨毯で覆われ、靴下をとおして、すごく心地いい肌触りだった。
思わず、振り返り、外の路地の景色と見比べる。まったく場違いな場所に思える。
呆然としながら、その場に立ち尽くしていると、
「いらっしゃいませ。夢オチ師・保佐津事務所へようこそ」
そのお兄ちゃんは、私の向かいの椅子に腰掛けると、爽やかな笑顔でそう言った。その笑顔は十分に幼く、まだまだ少年といってもいい年齢のようだ。
私の前のテーブルには、芳しい香りが立ち込める紅茶のカップが並べられている。
すでに凍えていた私は、それを両手で包み込むようにしてもち、暖をとる。それから、その紅茶を一口口に含んだ。すごく美味しかった。
「では、ご依頼をお伺いいたしましょう」
「あ、違うんです。私、さっき、そこで、このチラシを拾って・・・・・・」
お兄ちゃんは、私の顔をにっこりと微笑みながら見ているばかりで、手の中のチラシにはまったく興味をしめさない。
もしかして、このチラシ、このお兄ちゃんが無くしたものじゃないんじゃ?
「いいえ。それはこの事務所のチラシであってますよ」
「そ、そうなんですか・・・・・・」
「そのチラシを手にしているっていうことは、今、君、なにか困っていることあるんだよね?」
「・・・・・・」
マジマジとそのお兄ちゃんの顔を見つめてしまう。お兄ちゃんは静かに微笑んだまま、私の眼を真っ直ぐに見つめ返してくれている。
その黒い瞳を見つめていると、妙に安心感が湧き上がってくる。温かく包み込まれているかのような気持ちになってくる。
気がついたときには、私は、これまでのことを、そのお兄ちゃんに、全部話しているのだった。
「そうですか。それは、大変でしたね」
お兄ちゃんは、私の話を寂しそうな表情をして聞いていたが、やがて、そうポツリと言った。
私は話を終えて、ホッと息を吐き出す。
正直、このお兄ちゃんに話したとしても意味のないこと。それでなにがどうなるというものじゃない。そんなことは私も分かっている。けれど、全部を口にしたことで、私の気分がずい分落ち着いてきたのは確かだった。今なら、素直にママやパパにごめんなさいって言える気がする。
でも、やっぱり彩のことを考えると、なんで彩ばっかりなの? って思ってしまう。
私は、とっくに冷めてぬるくなった紅茶のカップに手を伸ばして、飲み干した。
と、突然、
「ぐはっ! きゃぁああああ!」
お兄ちゃんの後ろにある装飾過剰な長いすの陰から悲鳴が上がる。次の瞬間、長いすの陰から誰かが飛び跳ねるようにして体を起こした。
私よりすこしだけ年上に見える小柄な女の子。少女。だけど、胸の大きさだけは、大人のそれであり、決して小学生のものではない。女の子の顔はフランス人形のように整い、その身につけているフリル満載のドレスとあいまって、幻想的な美しさをかもし出している。だが、上半身を起こした女の子は、悲鳴を上げ続けるばかりで一向にその悲鳴を納める気配もない。
「きゃぁああああ!」
思わず、その脳天を突き抜けるような悲鳴に耳をふさいだ。頭がガンガンする。
一方、目の前のお兄ちゃんは、その悲鳴に慣れているのか、顔をしかめることもせず、最初に見たような爽やかな笑みをいまだに維持し続けている。
やがて、女の子は悲鳴を上げるのを止め、長いすの上で深呼吸した。そして、
「あ、こ、ここは・・・・・・ ハッ、今の夢? なんてさびしい・・・・・・ お、お兄ぃ? お兄ぃ?」
その美しい顔に翳をかざしながら、なにかを呟いていたが、ハッと顔をあげ、長いすの背越しに、私たちの方を見る。
「ああ、文殊、起きたね」
「弥勒兄ぃ。・・・・・・お、お客さん?」
「ああ、そうだ、今、依頼の内容を聞いていたところだ」
「そ、そう・・・・・・」
女の子は、目の前のお兄ちゃんに話をしながら、ずぶずぶと沈みこむようにして、座っている長いすの背の向こうへ隠れていく。
「あ、妹は、人見知りなもので、すみませんね」
お兄ちゃんはそういって、ほんのすこしだけ笑みに苦笑を交えた。
次の瞬間だった。私の頭が急激に重くなる。しびれたかのように鈍い痛みも感じる。
ね、眠い・・・・・・
さっき飛び出したときに、全速力で駆けてきたから、今頃になって疲れが出てきたんだね。体があったまって、ホッとして。
けど、ここは知らない人のところ。こんなところで眠っちゃいけない。
ママやパパに怒られる・・・・・・
カクッとなって、目が覚めた。
どうやら、居眠りをしていたようだ。目の前の机の上には、可愛らしい絵柄のついた便箋が広げられており、書きかけの文章が途切れたまま。
どっちお願いを書こうか悩んでいる間に、眠ってしまったみたい。失敗、しっぱい。てへっ。
自分で頭をコンと叩いて、もう一度、書きかけの文章を読み直す。そしたら、なぜだか、自然と心が決まってきた。
だから、私はその心に決めたお願い事を書き記す。
これでよしっと。あとは、封筒に入れて、居間のテーブルに置いて。
今年のサンタさんへのプレゼントのお願いごと、二つあった。
一つは、弟が欲しいってもの。優貴奈ちゃんちに遊びに行くたびに、どんどん欲しくなっていく。
けど、私はこちらのお願いごとは便箋には書かなかった。書いたのは、もう一つのお願いごと。
『サンタさん、お願いです。今年のクリスマスプレゼントにワンちゃんをプレゼントしてください』
私、犬って大好き。
あのつぶらな瞳で、飼い主を追いかけてきたり、じゃれ付いたり。すごく賢くて、可愛い。
おじいちゃんちに、ゴールデンレトリバーのゴンがいて、おじいちゃんちに行くたびに、ゴンと遊ぶんだけど、私もあんなワンちゃんがほしい。
けれど、私たちの住んでいるのはペット禁止のアパート。ワンちゃんは飼えない。
それが分かっているけど、でもやっぱり、ワンちゃんほしいな。
そんな思いをこめて、手紙に書いた。
次の日、パパもママもいつもより口数が少なかった。
その次の日も、私が寝ている間に、二人だけでいろいろ話しあっているみたいだった。私がトイレに起きたときに、二人とも真剣になにかを相談していたし。なんだろう?
クリスマスのときには、内心、奇跡でも起きないかなって期待していたのだけど、さすがにサンタさんでもアパートのルールを変えるなんてこともできなかったみたいで、ワンちゃんが私の顔をペロペロ舐めて起こしてくれるなんてこともなく・・・・・・
その代わり、枕元には1メートルぐらいの大きさの犬のぬいぐるみ。
すこしがっかりしたけど、でも、同時にとてもうれしかった。ふかふかで柔らかくて、抱き心地がよくて。私、満足だった。
冬休みには、パパとママと私の三人でおじいちゃんの家へ行き、従兄妹たちとゲームをしたり、ゴンと庭を駆け回ったりした。
三学期が始まり、しばらくしたころ、突然、ママが近くのスーパーでパートの仕事をはじめた。
それまで、学校が終わり、帰ってくると、いつもママがいて、手作りおやつとかを用意してくれていたのに、帰ってきてもママはいない。
玄関の鍵を持たされ、開けて部屋に入ってもだれも『おかえり』って言ってくれない。なんか物足りない。
戸棚にしまってあるスナック菓子を一袋丸々食べても、だれも叱らない。けど、じゃあ、そうしたいかといったら、そうでもなくて。ひとりでおやつを頬張っても、全然おいしくない。
ママが帰ってくるのは、いつも日が暮れてから。帰ってきても、疲れきっていて、あまり私とおしゃべりすることもなく、パート先のスーパーの賞味期限切れの惣菜をおかずに私とふたりっきりで晩ご飯を黙々とたべるだけ。
以前なら、パパも晩ご飯ごろまでには大抵帰ってきていて、一緒に食べていたのに、それも滅多にないようになったし。
なんか、家の中が暗いような気がする。パパもママもいつもとても疲れているように見える。
そういえば、私、パパやママと一緒に笑ったのっていつ以来だろう?
ずっと笑ってないや。
家の中に一人でポツンといるばかりだし、夜遅くなって、パパやママが戻ってきても、ほとんど会話することもなくなっている。
部屋の中でずっと一人で過ごす三学期が終わり、春休みになった。
けれど、そんな春休みも、パパやママはお仕事やパートばかり、私はずっと一人。
パパやママの仲も、しだいにギスギスした感じになってきたし、喧嘩することが増えてきた。
なんでこんなことになったのだろう?
そんな風に思い悩みながら、一つ学年が上がった。
春が過ぎ、夏が来て、夏休み。でも、やっぱり一人。一人っきり。
学校では、優貴奈ちゃんや和樹くんとも仲良くすごせているのだけど、夏休みの今は、学校へは行かない。一人っきりで部屋にいて、だれとも会話することもない。笑いあうこともない。
なんだか、つまらない気分で過ごしていると、ある日曜日、パパとママが揃って久しぶりに笑顔で私の部屋に現れた。
これから、三人でどこかへ出かけるという。
向かった先は、遠くの町の不動産屋さん。そこの案内でいくつかの古い家を見て回った。
「舞、どこの家がよかった?」
「えっ?」
「舞は今日見た家の中なら、どの家へ引っ越してきたい?」
「えっ? 引っ越すの?」
「ああ、そうだよ」
「えっ・・・・・・」
どの家もくすんだ壁の古い家だけど、庭があって、ワンちゃんが飼えそう。
「舞、犬を飼いたがっていただろ?」
「うん!」
「引っ越してきたら、犬を飼おうね」
「良かったね、舞」
「うん!」
一瞬、ゴンのうれしそうにはしゃぎまわる姿を思い出して、ウキウキした気分になったのだけど、すぐに、優貴奈ちゃんの顔が思い浮かぶ。
「あっ・・・・・・」
「ん? どうしたの、舞? 暗い顔して?」
「引っ越したら、学校変わるの?」
「ああ、そうなるね。お友達とかと別々になるんだ。仕方ないけど」
「えっ・・・・・・」
私がアパートの部屋で一人で寂しい思いをしているときに、いつも仲良くして、一緒にいてくれていた優貴奈ちゃんと別れなくちゃいけないの?
ずっと優貴奈ちゃんだけが私の心の支えだったのに・・・・・・
言葉を失って黙り込んでいると、
「大丈夫だよ。きっと舞なら、新しい学校でも、すぐに友達ができるから」
「そうよ。舞はママの子でしっかりしているから、すぐに新しい町にも慣れるわよ」
「・・・・・・」
パパもママも困ったような顔をして、私を見ていた。
結局、その後、夏休み中に新居が決まって、八月の終わりには、引越しが済んでしまった。
優貴奈ちゃんや和樹くんに引越しの挨拶をなんとかできただけで、クラスの他の友達とかとお別れの挨拶なんて出来なかった。
新しい家は庭付きの一軒家。ペットが飼える。
引っ越してすぐにペット屋さんへいって、柴犬のチェリーを買ってきた。
ご飯をあげたり、毎夕の散歩は私の担当。引っ越してきたばかりで友達のいない私にとっては、チェリーの世話ぐらいしかすることがなかったので、ちょうどよかった。
二学期から通い始めた学校では、クラスの中にはとっくの昔に仲良しグループが出来上がっていて、転校生の私はなかなかその輪の中に入り込めないでいた。
そんなある日、優貴奈ちゃんからメールが届いた。
『舞ちゃん、久しぶり。元気にしてる? 新しい学校にはもう馴染めた? 私の方は相変わらずだよ。和樹くんたちと、今でもときどき舞ちゃんのことを話題にして懐かしんでます。いつか、また舞ちゃんに会いたいな』
それを読んだ瞬間、私の眼から溢れる涙をとどめることが出来なくなった。
泣いて、泣いて、泣いて。ずっと泣き続けた。
そして、ろくに返事も書けなかった。
優貴奈ちゃんに心配をかけたくなかった。
こっちでも私はやっぱり一人っきりだって・・・・・・
ある冬の日、チェリーの散歩をしていると、突然、風が吹き付けてきて、何かチラシのようなものが飛んできた。そして、チェリーの足に絡み付いた。
拾い上げて見てみると、
『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』
チラシを片手に呆然と立ち尽くしている私のそばで、チェリーが不思議そうに首をかしげて座り込んでいた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
あのお兄ちゃんは変わらない笑顔で私を迎えてくれた。
前回と同じように、私の前のテーブルに紅茶のカップが置かれ、お兄ちゃんはどこか寂しげな顔で私の話に耳を傾けていた。
やがて、
「そうですか。それは、それは・・・・・・」
お兄ちゃんはそこで、ニッコリと笑った。
その笑顔を見つめていると、私の中で、なにかがふわふわと解けていくのを感じていた。
眼の縁が熱くなってくる。お兄ちゃんの優しげな姿がにじんで見えてくる。
「もうヤダ。引越しなんてしたくなかった」
私がそう口を開こうとした瞬間、
「ぐはっ! きゃぁああああ!」
あの着飾った女の子が長いすの向こうで弾かれたように起き上がった。
「きゃぁああああ!」
盛大な悲鳴をあげる。頭に響くような甲高い悲鳴。思わず耳を押さえる。
やがて、女の子の悲鳴が途切れ、こちらへ視線を向けてきた。
「弥勒兄ぃ、お客さん?」
「ああ、そうだよ」
「私、また、ひどい夢を見ていたみたい。すごく寂しかったよぉ」
「ああ、大丈夫だよ。それは全部夢だから。一人ぼっちの夢を見ていただけなんだから」
「お兄ぃ・・・・・・」
眼を潤ませる女の子を励ますようにお兄ちゃんは何度もうなづいていた。
それは、とてもほほえましい光景だった。きらびやかな衣装の女の子と爽やかスマイルのお兄ちゃんたち兄妹の掛け合い。まるで、一幅の絵のような光景。私は、その光景を素敵だと感じていた。にじんだ視界を通して、うっとりと見とれていた。
そして、そのうちに、私は意識をうしなった。
「舞ッ!」
するどい声が私の耳を打つ。
ハッと目が覚める。
「ここは・・・・・・?」
周囲を見回すと、なにもないゴミゴミした場所。左右両側には打ちっぱなしのコンクリートの壁が迫り、細長い通路となってコンクリートで固めた地面が続いている。上を見上げると、細長く切り取られた空が見える。つまり、ここは路地。その路地の一角に置かれている壊れかけの古ぼけた椅子に腰掛け、薄汚れたテーブルにもたれるようにして、私は眠っていたようだ。
そして、路地の向こうから駆け寄ってくるのは・・・・・・
「ママ!」
次の瞬間、私はママに息も出来ないぐらいしっかりと抱きしめられていた。
「ゴメンね。ゴメンね。舞。ゴメンね」
「ママ、苦しいよ。ママ」
「ゴメンね。彩ばかりで、舞に寂しい思いをさせていて、ゴメンね。気がついてあげられなくて、ゴメンね」
私のおでこに、あたたかい液体が当たってはじけた。
だから、私も素直に口にすることが出来た。
「ママ、ごめんなさい」って。