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 恭平が二度目の浮気をした。

 ヘンだと思い始めたのは、夏の終わり。恭平の帰りが遅くなり、毎日香水の匂いをさせて帰ってくるようになった。

 部署でもまだ若手で、会社の接待に狩りだされ、いいようにこき使われるからだと私の眼を真っ直ぐ見て言っていたが、必要以上に平然とした態度がとても怪しかった。

 それに、いつもつけてくる香水の匂いは同じものだった。会社の接待に狩りだされて、女性のいるような店に出入りするのはわかるけど、それならいろいろな店に行くはず、仮に毎回馴染みの店にいっていたとしても、複数の女性が側にいるはずだろう。なら、香水の匂いがいつも同じだなんてありえない。

 そして、その日、たまたま町に買い物に出る用事があって出かけていると、恭平と知らない女の人が親密な様子でホテルへ入っていくのを目撃したのだった。


 恭平は、『美奈とは別れる』そう私の前で頭を下げた。

 けれど、恭平が浮気をしたのは、これで二回目だった。

 前回は、まだりんができる前。あのときは、相手の女性が私を訪ねてきて、恭平と別れるように言ってきたのだ。

 私は深く傷ついた。恭平が信じられなくなった。

 それまでは、私は恭平に愛されていると思っていた。私だけを恭平が愛していると信じ込んでいた。なのに、そのいつも私のことを愛していると言っていた恭平が、他の女とできていたなんて。

 女として、妻としての私の価値や誇りを汚されたような気分でいた。恭平のことを許せなかった。

 何度もふたりで話し合い、喧嘩をして、離婚寸前にまでなった。けれど、そんなときに、私のお腹の中にりんが宿っていることに気がついたのだ。

 恭平との子。

 私たちが言い合いをし、ののしりあっていても、お腹の子は日に日に大きくなっていく。

 どんなに相手のことを恨んでいても、この子は恭平の子なんだ。なのに、私たちは、この子が生まれる前に別れることを前提に話し合いを進めている。

 すごく情けないし、みっともない。私たち、一体なにをしているんだろう。

 大きくなってきたお腹をさすりながら、ふと私はそう思ってしまった。

 そしたら、急に生まれてくる子が不憫になった。この世に生まれても、この子にだけは身近に父親が居ないだなんて・・・・・・

 結局、二度と浮気なんてしないと恭平に誓わせて、そのときは離婚までは思いとどまったのだ。

 けれど、あれから3年が経ち、恭平はまた浮気をした。


 最初のときには、私たちが離婚しそうだと知ったお互いの両親や身内が慌てて仲裁に入ろうとしてくれたけど、さすがに二度目ともなると呆れたのか、あまり親身になってくれない。

 恭平の両親は、本人と一緒になって私にワビを入れてくれた。でも、その態度には、どこか、育児にかまけてばかりで私に女としての魅力が不足しているから恭平が浮気をするんだと思っているのがバレバレだったし、私の方の両親は、一度は許してあげたのに、再び私が裏切られたことに私以上にカンカンになっていた。

 そのまま、私たちは別れることになった。

 りんは私が引き取り、恭平には月に一度だけりんと会う機会が与えられることになった。

 りんを抱えながらシングルマザーとして生きることになった私は、実家に帰り、昼間は両親にりんの面倒を見てもらいながら、近くの小さな会社で事務員として働きに出るようになった。それから、りんは両親に連れられて、月に一度、最終日曜日に恭平に会いに行くようになり、帰ってくると、恭平となにをして遊んだかを楽しそうに話すのだった。


 そんな日々が過ぎ、りんが5歳になったころだ。

 そのころ、私は新しい恋をしていた。相手は、同じ会社の同僚で、私よりも10歳年上の人だった。相手もバツイチで子供はいなかった。

 仕事の帰りに食事に誘われることが何度かあり、そのうち、結婚を前提に交際するように申し込まれた。

 私は、恭平との結婚生活が苦い結末を迎えたことを忘れきれず、なかなかその申し出にウンと返事をできなかった。それでも、その人は、熱心に私のことを求めてくる。そして、その熱意にとうとう押し切られて、私たちは休日や会社帰りにデートを繰り返すようになった。

 初めて、その人をりんに引き合わせたときは、正直不安だった。

 りんが拒んだらどうしよう。恭平以外の人をパパとかお父さんと呼ぶのを嫌がったら。

 でも、そんな心配はほとんど必要がなかったようだ。

 お互いの両親との対面が終わり、彼の家で一緒に暮らすようになって、数日のうちに彼のことをりんはパパと呼ぶようになったのだから。

 相変わらず、月一回りんは近くに住む両親に迎えに来てもらって、恭平に会いに行くが、私たちが結婚してからは、恭平のことを家ではあまり話さなくなった。たぶん、新しいパパに小さいながらも遠慮をしていたのだろうか。

 ただ、3ヶ月に一度ぐらいの頻度で、

『前とは違う女の人がいたよ』

 なんて報告するぐらいで。

 結局、恭平は、私と離婚して独り身になった後も反省もせず、むしろ積極的に様々な女性と逢瀬を重ねるようになったのだった。

 りんを送り迎えして恭平と会うことがある両親は『あんな恥知らずのヤツが香枝の旦那だったなんて』といいながら肩を落とすやら、憤るやらだった。


 私の新しい生活は順調だった。

 今度の旦那さんは、生真面目な人で、私だけを愛してくれているようだ。マメでよく気が利くけど、女性にルーズな恭平とはまったくタイプの違う人だった。

 隣町に住んでいるあちらの両親とも折り合いもよく、この親にしてこの子ありという感じのする律儀な二人だった。

 ふたりが言うには、前の奥さんは、自由奔放な感じの人で、家庭の中で居続けるのが退屈だったのか、オトコを作ってどこかへ逃げていったらしい。

 今度の嫁は、離婚経験のある子持ちだと聞いて、内心は結婚に反対だったらしいけど、いざ会ってみると大人しく品のある人。だから、許すことにしたと打ち明けてくれた。

 そんな中で、私の中に新しい命が授かり、りんの弟が生まれた。

 あの人は、自分の実の子供ができたにもかかわらず、りんと弟を分け隔てせず、同じような愛情をそそぎ続けてくれた。

 そうして、りんは18歳になった。


 18歳になるまで、りんはグレることもなく成長した。

 小学校を卒業するまでは、月一回の恭平との面会も続いていたが、中学になると、勉強や部活が忙しくなり、途絶えがちになった。

 恭平の方も、りんと面会ができなくてもとくになにも思わないのか、私たちに連絡をとろうとはしてこなかった。

 りんは明るく元気な子に育ち、実の父親ではないと知っていても、パパ、パパとあの人を屈託なく慕っていた。

 なのに、ある日突然、りんが家に帰ってこなくなった。

 突然の家出だった。

 しばらく家に帰らないけど心配しないでという内容のメールがあったきりで、りんからは連絡はない。りんと仲の良い友達に尋ねても、知らないという。

 学校にはちゃんと毎日通っているようで、担任の教師も特に変わった様子に気がついていなかった。

 心配した私は、学校までりんに会いに行き、なぜ家に帰ってこないのか、今どこに住んでいるのか問い詰めたが、りんは口を真一文字に結んだまま、終始何も言わなかった。

 教師たちも一緒に、家に帰るように説得をつづけたが、結局『しばらく待ってて。わけは後で全部話すから』としか言わなかった。

 りんは戻っては来なかった。


 りんが家出をしてからひと月ほど経ったころだった。

 突然、りんから電話がかかってきた。受話器をとると、

「ママ、今すぐ来て! お願い、早く!」

 ずい分切羽詰ったような声。わけを聞く間もなく、呼び出された場所まで慌ててかけていくと、そこは大学病院だった。

 病院の玄関前でりんのスマホにメールを入れると、5階の病室へ来てくれという返信がすぐにもどってくる。

 そこへ行ってみると、

 ちょうどキャリーつきの担架に乗せられて、患者が病室からどこかへ運び出される直前だった。りんはその担架に取りすがるようにして、

「お父さん! お父さん!」

「・・・・・・!」

 私はその光景を眼にして立ち尽くしているしかなかった。

 りんがお父さんと呼んでいる! でも、りんのパパは・・・・・・ いや、ちがう! 担架の上にいるのは、あの人じゃない! 担架の上に横たわっているのは・・・・・・ ずい分やつれてはいるが、あの恭平だった。

「りんッ!」

 私のするどい声にりんがハッと顔を上げて私を確認した。けど、すぐにその涙に濡れた眼を恭平に向けなおす。

「お父さん! しっかりして! お父さん!」

 そうして、恭平を乗せた担架は廊下を突進するように進み、集中治療室へ運びこまれたのだった。


「りん、これはどういうこと?」

「末期ガンだって」

 りんはぽつりと言う。

「発見されたときには、もうどうしようもなかったんだって」

「えっ?」

 それって、どういう?

「一ヶ月前ぐらいかな。学校から帰ろうとしたら、知らない女の人から連絡があって、お父さんが倒れたって」

「うん」

「で、慌てて病院へ行ってみると、お父さんは一人でベッドの上に寝ていて・・・・・・」

 りんは、両目からどっと涙を溢れさせる。

「そっか、それからずっとりんは一人で看病していたんだね」

「うん・・・・・・」

「それなら、私に相談してくれたら」

 その不用意な一言に、りんがきつい目をして睨んでくる。

「できないよ、そんなの。だって、だって、お父さんだよ。ママやおじいちゃんやおばあちゃんが大っ嫌いなお父さんだよ。できないよ、そんなの」

りんはそういって両手で顔を覆った。


 私たちが再び恭平に会えたのは、それから四時間ほど後だった。

 ベッドに寝かされている意識のない恭平の息はすでに絶え絶えで、口元を覆った透明なマスクがときどき曇るのでなんとか息をしているのが分かる。

 りんは恭平の手を祈るように握り、泣きながら何度も『お父さん』と呼びかけている。

 私はそんなりんの後に横に立ち、恭平の真っ青な顔を見下ろしていた。

 私たちが出会ったころのことを思い出していた。

 まだ、男性と手もつないだこともないほどウブだった私。そんな私のどこを気に入ったのか、恭平の方から積極的にアプローチしてきて、気がつけば、いつの間にか私の左手薬指に指輪がはまっていた。

 私たちは若かった。ううん、若すぎたといえる。

 この人さえ居ればそれでいいと本気で思っていた。この人さえ居れば幸せになれると心の底から確信していた。

 なのに・・・・・・

 ピッ ピッ ピッ

 病室の中に脈拍を示す音が規則正しく流れている。

 その音を聞きながら、昔の無条件に幸せだったころの思い出が次々に蘇る。

 毎日冗談を言い合って笑い合っていたこと、恭平のために用意した手料理が失敗して焦げ焦げになってしまったのを、それでも美味しい美味しいと食べてくれたこと。

 どうして、私たちは別れてしまったのだろう? あんなに幸せだったのに・・・・・・

 ピッ ピッ ピッ

 あのころは、あんなに顔を輝かせて毎日を過ごしていたのに・・・・・・

 ピッ ピーーーー

 突然の警告音が響き渡った。近くで待機していた医者が駆け寄り、手際よく蘇生措置を施す。だけど、心臓停止の警告音はずっと鳴り響いたままだった。

 そして、

「22時37分、お亡くなりになられたことを確認したました」


 泣きはらしたりんがそのDVDを渡してくれたのは、恭平の葬儀の翌日だった。

 りんに促されるままにそのディスクを再生デッキに入れる。

 私がこの機器を使うことなんて滅多にないので、テレビ台の下に保管していたホコリのかぶった取り扱い説明書を引っ張り出して、試行錯誤しながら、あちこちリモコンのボタンを押し、なんとか再生が始まった。

 テレビ画面に映ったのは、私の記憶からすれば、ずい分やせほそった恭平の姿だった。

 病院の真っ白なベッドの上で枕を背に当てながら、上半身をおこしている。そして、画面越しに私を見つめながら、微笑んでいる。

『やあ、ひさしぶり。元気だったかい?』

「お父さんがどうしてもって言うから撮影してあげたんだ」

 りんが隣で解説してくれる。

『これを見ているってことは、もう俺はこの世にいないってことだな』

 画面の中の恭平は寂しげに笑った。

『ば、バカなこと言わないでよ』

 画面の中で姿のないりんの声がする。カメラを回しながら思わずこぼれたのだろう。

 恭平は、カメラに向かって、あれこれと取り留めのない話を始めた。私の知っている話、私と別れた後の話、二回目の浮気が発覚する前にも、何度か他の女性と付き合っていたという告白。

 私は、それら打ち明け話に耳を傾けながら、なぜか怒りを覚えなかった。むしろ懐かしさすら感じていた。

 りんが画面の向こうで『ひどーい』ともらしていたのに、つい笑い声すら上げてしまった。

 と、そんな話が続いて、やがて、

『でも、これだけは言えるけど、君と別れる前も別れた後もいろんな女と付き合ってきたが、結局、だれ一人も香枝以上の女なんていなかった。香枝以上に俺が愛せた女なんていなかったな』

 画面を直視することなく、横を向いてポツリとそんなことをいう。

 そう、恭平がウソをつくときは、いつも私の顔を直視しながら言っていた。真顔で真剣な表情を浮かべて。彼はそれが出来る人だった。天性の詐欺師の素質を持っていた。

 でも、本心をしゃべるときは、どうしても照れくさいのか、横を向いてばかりいた。私を直視できなかった。

 まだ横をむいたまま、

『君を幸せにできなくて、ごめんな。俺が唯一愛した女のはずだったのに、なんでこんなことになったんだろう。すまなかった』

 画面の中の横顔が滲んで見えてきた。淡々と語るすべての言葉が私にしみこんでくるのが分かった。


 やがて、映像が終わった。

 私は顔を両手で覆いながら、泣き続けていた。

「おとうさん、ずっとママに謝っていたよ。ごめんって」

「うん・・・・・・」

「私にも・・・・・・」

「・・・・・・」

 りんは涙声でそう言ったきり、その場を出て行き、自分の部屋へ駆け込んでいった。私はそれを追いかけてあげることはできなかった。


 温かい大きな手が私の肩を抱く。

 やさしい人だ。

 なにも言わず、ただ寄り添ってくれる。その胸に顔をうずめるようにして、むせび泣く。考えてみれば、私はひどい女だ。男の人の胸で、別の男のことを思って泣いているのだから。けれど、今はそんなことを気にしてなんかいられなかった。

 しばらくしてどうにか泣き止んだ私は、顔を上げて、感謝の気持ちのこもったぎこちない笑みを向けた。

 その人は、ウンと小さくうなずくと立ち上がり、台所へ消えていく。

 こんな状態の私の代わりに料理をしようというのだろう。なら、たぶん、今晩はカレーかしら?

 眼をギュッと瞑って、開いた。その途端、さっきからずっと膝の上にあったDVDプレイヤーの取り扱い説明書が滑り落ちる。慌てて、拾い上げようとすると、

 ・・・・・・?

 取り扱い説明書の間に何かの紙が挟まっているのに気がついた。それを引っ張り出して確認すると、チラシ。

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

 チラシの中央でそんな文字がデカデカと踊る。

 なぜこんなものがこんな間に? 私には理解できなかった。


 四十九日の法要が行われる恭平の実家まで車でりんを送っていく。

 子供のころから何度か泊まりがけできたことのあるりんにとっては、馴染みのある家。ためらうことなく玄関へ歩いていく背中を見送りながら、私は車のサイドボードを開いて、こないだ見つけたチラシを眺めていた。

 どうってことないチラシ。だけど、なぜか気になって、このところずっとこのチラシを眺めている。

「人生リセットか・・・・・・ もし、あのとき、恭平と離婚していなければ・・・・・・」

 もう一度、りんが消えていった玄関の方へ視線を向ける。

「あの子は、実の父親を亡くさなくても済んだのかな?」

 自分で呟いて、苦笑してしまう。私、本心をごまかしている。けれど、それは認めたくはなかった。

 ため息を一つついて、私は車を走らせることにした。

 家に帰って、迎えの催促の電話が来るまで待機するのだ。だけど、このチラシに記されている場所は、家までの道順から大きく逸れるわけではない。

 途中のコインパーキングに車を止めれば・・・・・・ って、私はなにを考えてるんだろう?

 そして、気がついたら、私は、その路地の前に立っていた。


 雑居ビル裏のゴミゴミとした路地の奥。黒いビニール製の幕で路地から区切られた区画。隅の方に、入り口が切られており、扉代わりに黒い布が垂れ下がっている。

 私は、多少の気後れを感じながら、その入り口らしき場所の前に立った。

 訪問をしらせるチャイムやノッカーなどそれらしいものを探してみるが見つからない。しかたなく、その場所から中へ声をかけてみた。

「あの、すみません」

 すぐに中から返事が聞こえてくる。若い男性の声。

「はい」

 そして、目の前の布がめくられて、中から若い男性が顔をのぞかせてきた。

「いらっしゃいませ」

「あ、あの、私、これを見て・・・・・・」

 私は、手の中のチラシを掲げてみせる。だが、その若い男性は、私の手の中のチラシに一瞥もくれることなく、うなずいた。そして、入り口の布を持ち上げたまま、私を通すように脇へとどく。

「どうぞ、中へお入りになってください」

「お、おじゃまします」

 そうして、私はその中へ入っていったのだった。


 中は、光に溢れていた。

 路地の奥とは思えない。立派な家具がいくつかおかれており、床はフカフカの絨毯で覆われ、暖房が効いた温かい空気が私を迎える。思わず、振り返り、外の路地の景色を確かめる。まったく場違いな場所に思える。

 呆然としながら、その場に立ち尽くしていると、

「いらっしゃいませ。夢オチ師・保佐津事務所へようこそ」

 その若い男性は、私の向かいの椅子に腰掛けると、爽やかな笑顔でそう言った。その笑顔は十分に幼く、まだまだ少年といってもいい年齢のようだ。

 私の前のテーブルには、芳しい香りが立ち込める紅茶のカップが並べられている。

 私は、その紅茶を一口口に含んだ。すごく美味しかった。

「では、ご依頼をお伺いいたしましょう」

 てっきり、目の前の少年は、この事務所の主の息子かなにかだと勘違いしていたのだが、どうやら、この少年こそが、この事務所の主のようだった。

 一瞬、驚きに眼を見張る。けれども、テーブルの上で両手を組んで座っている少年の姿に妙に人を信頼させてしまうようなオーラが感じられる気がした。

 瞬間感じた不安が、その少年の姿を眼にしているだけで、なぜだか薄れていった。そして、気がついたときには、私はこれまでのことをその少年に話しているのだった。


「そうですか。それは、大変でしたね」

 目の前の少年は、私の話を今にも泣き出しそうな表情をして聞いていたが、やがて、そうポツリと言った。

 私は話を終えて、ホッと息を吐き出す。

 正直、この少年に話したとしても意味のないこと。それでなにがどうなるというものじゃない。少年に話したからと言って、恭平が今さら生き返るわけでもないし、りんが肉親との悲しい別れをしなくてすむわけじゃない。はっきり言って、どうしようもない。

 そんなの最初から分かっていた。だけど、妙に肩の力が抜けて、気分がラクに感じられたのも事実。

 きっと、私は心のどこかで誰かに話したかったのだろう。

 こんなことはいくら愛しているからといって夫に話せることじゃないし、りんと語り合うようなことでもない。

 私は、とっくに冷めてぬるくなった紅茶のカップに手を伸ばして、飲み干した。

 と、突然、

「ぐはっ! きゃぁああああ!」

 少年の後ろにある装飾過剰な長いすの陰から悲鳴が上がる。次の瞬間、長いすの陰から誰かが飛び跳ねるようにして体を起こした。

 小学生にも見えるような小柄な女。少女。ただ、胸の大きさだけは、大人のそれであり、決して小学生のものではない。少女の顔はフランス人形のように整い、その身につけているゴスロリなドレスとあいまって、幻想的な美しさをかもし出している。だが、上半身を起こした少女は、悲鳴を上げ続けるばかりで一向にその悲鳴を納める気配もない。

「きゃぁああああ!」

 私はその脳天を突き抜けるような悲鳴に耳をふさいだ。頭がガンガンする。

 一方、目の前の少年は、その悲鳴に慣れているのか、顔をしかめることもせず、最初に見たような爽やかな笑みをいまだに維持し続けている。

 やがて、少女は悲鳴を上げるのを止め、長いすの上で深呼吸した。そして、

「あ、こ、ここは・・・・・・ ハッ、今の夢? なんてつらい・・・・・・ お、お兄ぃ? お兄ぃ?」

 その美しい顔に翳をかざしながら、なにかを呟いていたが、ハッと顔をあげ、長いすの背越しに、私たちの方を見る。

「ああ、文殊、起きたね」

「弥勒兄ぃ。・・・・・・お、お客さん?」

「ああ、そうだ、今、依頼の内容を聞いていたところだ」

「そ、そう・・・・・・」

 少女は、目の前の少年に話をしながら、ずぶずぶと沈みこむようにして、座っている長いすの背の向こうへ隠れていく。

「あ、妹は、人見知りなもので、すみませんね」

 少年はそういって、ほんのすこしだけ笑みに苦笑を交えた。

 次の瞬間だった。私の頭が急激に重くなる。しびれたかのように鈍い痛みも感じる。

 ね、眠い・・・・・・

 ああ、こんなところで眠ってしまったら、りんを迎えにいけなくなっちゃう。催促の電話がかかってきても出れないわ。

 そんなことを最後に頭の隅でちらりと考えていた。


「ハッ!」

 まだ薄暗い中、布団を跳ね飛ばす勢いで上半身を起こす。

 カーテン越しに見える窓の外は、白々と明けてきてはいるようだけど、まだまだ光量が足りず、青白かった。

 あっ、そうだ、りんは?

 慌てて、隣で寝ているりんの姿を確認する。相変わらず、寝相がグチャグチャで、ちっさな足で布団を跳ね飛ばしていて、パジャマの間からかわいいおへそがチラリと見えている。

「もう、この子ったら。風邪引くわよ」

 私は小さく微笑み、眠っているりんのパジャマを直してやり、布団を掛けなおしてあげる。

 りんと二人っきりの寝室。恭平は客間のソファーの上で毛布をかぶって寝ているだろう。

 あの日以来、私たちは寝室を別にしていた。

 枕元に視線を向ける。

 昨日、市役所からもらってきた離婚届がちゃんとある。すでに私の名前が書き込まれていて、後は、恭平の名前を書き込むだけになっている。

 入籍のときも思ったけど、私たちの人生の節目は、こんな薄っぺらい紙一枚分の厚さしかないものなのね。そう思ったら、苦笑するしかなかった。

 そしたら、しだいに目頭が熱くなり、押さえきれなくなりそうで、私は布団を抜け出して台所を目指した。


 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出しコップに注ぐ。それをゆっくりと時間をかけて飲み干し、シンクにコップを置く。

 ふと物音が聞こえた気がして、背後を振り向くと、恭平が立っていた。

「なに?」

 自分でもびっくりするぐらいの冷たい声がでる。

 恭平は一瞬体を震わせたが、すぐに横を向いた。

「やっぱり俺たち、これで終わりなのか? どうしても別れなくちゃいけないのか?」

「言ったはずでしょ。あなたは私を裏切ったの。傷つけたの。もう我慢はできないわ!」

 チラリと私の方を見、そして、また横を向く。

「それはすまないと思ってる。けど、俺は、今でも君のことが・・・・・・」

「ウソいわないでよ!」

「ウソじゃない!」

「ウソ!」「ウソじゃない!」

「ウソよ!」「だから、ウソじゃないって! 俺が好きなのは、今でも香枝だけだ!」

「ほら、ウソじゃない!」「ウソじゃない! 本当だ!」

 恭平の横顔とこれまで散々言い合ったことをまくし立てあって、そして、私たちは一緒にため息をついた。

「もう止めましょ。不毛だわ」

「ああ・・・・・・ すまない。俺が悪かった」

「本当は悪いなんて思ってもいないくせに」

 恭平は私を直視してから頭を下げている。

「仕方ないだろ。俺にとって、香枝以外の他の女は、香枝が最高だって確認するためだけのものなんだから」

「ほら、開き直った」

「悪いか!」

 そうして、恭平は荒い足音を立てて、去っていった。

「バカ・・・・・・」


 朝からそんな風に言い争っていたら、猛烈にお腹が空いてきた。

 なにか食べたい。けれど、このところ、恭平と喧嘩ばかりしていて、家事なんてロクにこなしていない。いつもなら買い置いてあるはずの食パンすらない。

――ぐぅううう~~~~

 派手な音が台所中に響き渡る。なにかカップラーメンでもないかと戸棚を探してみると、こんな日に限ってなにもない。

「もう、なんでよ」

 空腹でイライラした気分で、あきらめきれずにあちこち探していると、

「ほら」

 そう言って、目の前に差し出されたのは、いつもの食パンの袋だった。

「切れてたから、さっき眼が覚めたときにコンビニで買ってきた」

「・・・・・・」

「そんな怖い顔するなよ。別にこんなことで恩を売って、別れるのを帳消しにしようなんてだれも思わないから」

 恭平は、そう言って、笑うのだった。

「ねぇ、知ってる? 私がいつも買ってくるの、5枚ぎりなのよ。こういう4枚ぎりじゃなくて」


 いつもより食べ応えのある食パンを焼いて、大量のバターを塗りこめ、ジャムをどっさりと盛り、私たちは立ったまま並んでかぶりつく。

「なぁ、今度、りんを連れてイチゴ狩りにいかないか?」

「・・・・・・」

「たくさんイチゴを採ってきて、ジャムにしてさ。一緒に食べようぜ」

「・・・・・・」

「ほら、鼻の頭、ジャムついてる」

 恭平はそう言いながら、私の鼻の頭の赤いものを指で掬い取って、そのまま自分でしゃぶる。その恭平自身も鼻の頭には・・・・・・

「恭平。もう二度と浮気なんてしない?」

 私の独り言のような質問に一瞬おどろいた顔をしたが、恭平は真剣な顔を私に向けて、

「ああ、しない。絶対にしない。俺は香枝としか愛し合わない」

「はぁ~ ウソつき」「ウソじゃない。真面目な話だ」「それがウソでしょ! ったく!」

 私は、大きなため息をついてから、恭平の顔に私の顔を近づけていった。恭平は、本当にうれしそうな顔をして、私の近づく顔に合わせて、自分の顔を寄せてくる。

 次の瞬間、

「いてぇ~~!」

 恭平は悲鳴を上げていた。なぜなら私が、恭平の鼻にかじりついたから。

「なにすんだよ」

 涙眼になりながら、鼻を押えて抗議する恭平に告げる。

「ふん、あんただって、鼻の頭、ジャムついてたわよ」

 そうして、私は、口の中のその甘いものを飲み込むのだった。すべてのものをそれで包み込むようにして。


 結局、私たちは離婚しないことにした。

 私の両親はずい分と不満げな様子だったけど、私たちの結論にしぶしぶ納得するしかなかった。

 もちろん、こんなことで恭平の浮気性は直ることはなく、それからも3年に一回ぐらいのペースで私の知るところとなった。そのたびに、恭平の鼻には私の歯型がついた。

 そうこうするうちに、私たちの娘のりんが18歳になった。

 恭平の女癖が原因で、しょっちゅう喧嘩ばかりしている私たちの家庭に育った割りに、りんは明るく素直で真っ直ぐな気性の少女になっていた。

 それは、だれもが奇跡だという。もちろん、私たち自身もそう思う。

 そんなある日、りんが不思議そうな顔をして、台所にいる私のところへやってきた。手になにかチラシのようなものを握っている。

「ねぇ? ママ、これなに?」

 りんが手にしているものを見ると、

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

「どこでこれを見つけたの?」

「ほら、テレビ台の下のDVDプレイヤーの取り扱い説明書の間に挟んであったよ」


「いらっしゃいませ。お久しぶりです」

 あの少年は変わらない笑顔で私を迎えてくれた。

 前回と同じように、私の前のテーブルに紅茶のカップが置かれ、少年はどこかほっとした顔で私の話に耳を傾けていた。

 やがて、

「そうですか。それは、それは・・・・・・」

 少年はそこで、ニッコリと笑った。

 その笑顔を見つめていると、私の中で、なにかがふわふわと解けていくのを感じていた。

 眼の縁が熱くなってくる。少年の姿がにじんで見えてくる。

 私は、なにを口にすればいいのか分からなかった。ただ、この少年たちに感謝の言葉を伝えたいだけだった。

 私が口を開こうとした瞬間、

「ぐはっ! きゃぁああああ!」

 少女が長いすの向こうで弾かれたように起き上がった。

「きゃぁああああ!」

 盛大な悲鳴をあげる。頭に響くような甲高い悲鳴。思わず耳を押さえる。

 やがて、少女の悲鳴が途切れ、こちらへ視線を向けてきた。

「弥勒兄ぃ、お客さん?」

「ああ、そうだよ」

「私、また、ひどい夢を見ていたみたい。しんどかったよぉ」

「ああ、大丈夫だよ。それは全部夢だから。我慢ばかりのしんどい夢を見ていただけなんだから」

「お兄ぃ・・・・・・」

 眼を潤ませる少女を励ますように少年は何度もうなづいていた。

 それは、とてもほほえましい光景だった。ゴスロリ美少女と爽やかスマイルの少年兄妹の掛け合い。まるで、一幅の絵のような光景。私は、その光景を美しいと感じていた。にじんだ視界を通して、うっとりと見とれていた。

 そして、そのうちに、私は意識をうしなった。


――ブブブ、ブブブ

 近くで何かが振動している。私のスマホだ。

 体を起こし、膝の上にあったカバンの中から慌ててスマホを取り出して、耳に当てた。

「ママ、終わったよ。迎えに来て」

「あ、うん、分かったわ。すぐに行くから」

 ホッと息を吐いて、スマホをカバンの中に入れなおそうとして、気がついた。

 ここは・・・・・・?

 私は、壊れかけの古ぼけた椅子に腰掛け、薄汚れたテーブルにもたれるようにして、眠っていたようだ。

 周囲はなにもないゴミゴミした場所。左右両側には打ちっぱなしのコンクリートの壁が迫り、細長い通路となってコンクリートで固めた地面が続いている。上を見上げると、細長く切り取られた空が見える。つまり、ここは路地。

 なぜ、こんなところに?

 いまひとつ思考がはっきりしない。頭を一つふる。

 あ、そうだ、あの少年は? あの少女は?

 周囲を見回すが、どこにもその姿はない。路地を風が吹き抜けるばかり。

 なにかのチラシが路地を抜ける冷たい風に吹き飛ばされて、足元に滑り込んできた。ここに放置されてずい分時間が経っているのか、すでにボロボロで書いてある文字もかすれてほとんど判別できない。

 拾い上げ、なんとか読み取ろうとして、私はそこに書いてある文字に見覚えがあることに気がついた。

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

 あっ・・・・・・


 私は彼がいない世界に戻ってきていた。

 あれは夢?

 ずい分、たくさん泣かされて、我慢させられて。でも、隣にはいつも彼がいて。笑っていて。

 正直、幸せだったとは言えない。けれど、不幸だったとも思えない。

 けど、今は・・・・・・?

 彼がいない世界。彼が死んでしまった世界。もう、彼の浮気性に悩まされることはない。

 もし、どっちの世界が良かったかって訊かれたら、今なら私、どう答えるのだろう?

 自分の胸に手をあててみる。分からない。

 どちらがいいかなんて分からない。

 ただ、私が選んだ道はひとつしかない。今はそれを顔を上げて進んでいくだけだ。

 そう心に決めて、車を止めてあるコインパーキングへ歩き出した。

 吹き付ける北風の中に一粒涙を紛れ込ませながら。

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