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 とうとう人を殺してしまった。

 子供の頃から喧嘩に明け暮れていた俺。高校にもまともに通わず、悪友たちとバカ騒ぎをする毎日を送っていた。

 そんなある日、久しぶりに家に帰ってみると、一人親で俺を育ててくれていたお袋が倒れていた。

 世の中から鼻つまみ者扱いされ、だれからも嫌われていた俺だったが、お袋だけはいつまでも俺のことを気にかけていてくれた。俺のことをただ一人見守っていてくれた。

 なのに、俺はそんなお袋に感謝するわけでもなく、毎日を無軌道に暴れまわるばかりで、社会に迷惑をかけてばっかりだった。

 そんな俺のことを心配し、悩み、そして、そのストレスでとうとうお袋は起き上がれない状態になってしまったのだ。

 救急車を呼び、お袋と一緒に救急病院に駆け込んだ。

 医者はお袋の病気を完全に治すには手術しかないという。だが、それには高額な費用がかかり、とてもじゃないが貧乏な我が家では払いきれるものじゃなかった。


 俺は激しく後悔した。人目もはばからず、病院の廊下で慟哭した。

 俺はなにをやっていたんだ。俺のことを育て、いつもただ一人の味方であり続けてくれた人に、なんてことをしていたんだ。

 泣いて、泣いて、泣いて。俺は泣き続けた。

 そして、とうとう泣きつかれ、もう涙もでなくなったとき、俺は、すっぱりと過去の自分と決別することを決心していた。

 もう、だれも泣かさない。だれも傷つけない。そう決めていた。

 その週のうちに、籍だけあった高校を辞め、働き始めた。

 だが、ずっと町を騒がすワルの一人だった俺のことをだれも信用してくれないし、だれも心を開いて近寄ってくれようともしない。俺に近づいてくるのは、かつての世界へ引き戻そうとする昔の仲間たちばかり。

 毎日、世間から拒絶されていることをいやおうなく自覚させられ、無力感に責めさいなまれる。

 いくら努力しても誰にも認められず、だれからも評価されない。

 正直、こんなことをいつまでも続けるのがバカらしくなるときもあった。だが、そのたびに、あの心労でやつれたお袋の姿を思い出す。俺が心を入れ替えたと知って、心からの涙を流して喜んでくれた笑顔が思い浮かぶ。

 俺は必死に歯をくいしばって耐えた。頑張った。

 そうするうちに、しだいに俺のことを認めてくれる人間が現れるようになり、気軽に声をかけてくれる職場の先輩や慕ってくれる後輩も現れてきた。

 周囲から期待される。頼りにされる。なんて、すばらしいんだ!

 俺はその生まれて初めてのその感覚に酔いしれていた。満足していた。

 そして、その新しい世界を絶対に壊したりしないと心に誓うのだった。


 だが、そうやって、俺が新しい世界を着々と築いていても、昔の俺のことを覚えているヤツがいなくなったわけではない。

 何かの機会で職場から外へ出かけると、大抵俺のことを覚えているヤツがいて、ビクビクしながら話しかけてきたりする。それだけでなく、職場に俺のような不良を雇うなんてどういうつもりだとクレームを言ってくる人間も少なからずいた。

 それでも、社長は俺のことを信じて守り続けてくれたし、俺を絶対にクビにしようとはしなかった。俺に仕事を教えてくれた先輩たちも、俺を応援してくれていた。

 今まで、そんな風に俺の味方でいてくれた人間なんて、お袋だけしかいなかった。俺は社長や先輩たちに感謝し、父親のように慕い、そして、会社のためにも夜昼なく一生懸命働いたのだった。

 だが、その社長がある日倒れた。脳卒中だ。

 毎日、毎晩、仕事が終わると酒好きで豪快に浴びるように酒を飲んでいた社長。いつか体を壊すんじゃないかとハラハラしていたのだが、ついにその心配が現実のものとなったのだ。

 社長は命をとりとめはしたが、結局は、仕事を辞め、リハビリに専念することになった。

 そして、代わりに社長の座についたのは、社長の弟の専務だった。

 新社長は、とかく悪い評判のある男で、社員たちはこいつが陰で会社の金をちょろまかしているのに気がついていた。けれど、社長の身内。俺たちは社長になにもいえなかった。

 いつか、社長の息子が後を継いだときになんとかしてくれると、期待するしかなかった。

 だが、その社長の弟が今度の新社長だ。

 俺たちはやりきれない思いでいた。

 そして、その新社長が就任早々最初にしたのが俺を社長室に呼びつけることだった。


 俺が社長室へ入るなり、新社長が椅子に踏ん反りかえって、

「鈴木、貴様、なんてことをしてくれたんだ!」

 怒鳴りつけてくる。

「はぁ? なんのことですか?」

「とぼけるな! 証拠はあるんだぞ!」

「えっと・・・・・・?」

 一体、何のことを言っているのだろうか?

 次の瞬間、新社長は机を両手で叩きつける。

「もういい。貴様はクビだ。とっとと会社から出ていけ!」

「な、なんだって!」

「なにをしている。早く出て行け!」

「い、一体、なんで?」

「とぼけるつもりか、図々しいやつめ。まあいいだろう。ただし、言いたいことがあるのなら、警察で言え!」

 その言葉が終わった途端、俺の背後のドアが開き、そして、制服姿の警察官たちが飛び込んできた。

「鈴木、お前は、なんてことしたんだ。心を入れ替えたものだと信じていたのに」

 そうして、俺はその警察官たちに大した抵抗もすることなく逮捕されたのだった。


 取調べられている間に分かったことだが、どうやら、新社長は、自分の横領の罪を俺になすりつけようとしていたらしい。

 専務の時代から、周囲に俺のかつての悪行をべらべらと吹聴し、取引先からのクレームで俺が会社をやめるようにしむけていたのは知ってはいたが、そこまでするかと正直呆れるしかない。

 幸い、社員たちは専務の横領に気がついており、警察にそのことを匿名で証言してくれたりしたので、すぐに俺の容疑が晴れたのだが、でも、だからといって、だれも新社長を追い落とそうとまではしなかった。

 もともと家族経営の会社。経営陣も株主も、みな身内同士。だれも、わざわざ波風を立てようとまではしなかった。

 なんとか、会社に戻ることができはしたが、新社長に眼をつけられているのを、他の社員のだれもが知っている。だれもが腫れ物にさわるような態度で俺に接するようになったのだった。

 また入社したてのころと同じか。

 俺はそう呟いて、自嘲の笑みを静かに浮かべるしかなかった。


 新社長による嫌がらせはまだまだ続いている。

 彼は、どうしても俺のことをクビにしたいようだ。

 だが、病気のお袋に心配をかけたくないし、リハビリ中の前の社長や先輩たちを失望させたくないから、そうおいそれとはこの会社を去りたくはない。また、たとえ去ったとしても、俺のかつての素行を知っている人間がまだまだ多いのだから、新しい仕事を見つけるのにも苦労することだろう。

 それに、新社長は執念深く粘着質の性格。どんな手を使ってでも俺の再就職を妨害してくるかもしれない。

 毎日、鬱々とした気持ちを抱えて会社に通うしかなかった。


 その日、俺が、出社すると、新社長と前の社長の息子で新しい専務が言い争っているのを目撃した。

 来月、定年退職し、その後も契約社員として継続的に再雇用してもらえるように願い出ている熟練社員の処遇について、言い争っていたのだ。

 新社長は再雇用を拒否し、新入社員をいれるべきだと主張するのに対して、新専務は、長年の功績を加味して、再雇用すべきだという。

 そういう風にして言い争っている二人の側では、その当事者である定年間近の奥村先輩が悲しそうな眼をして打ちひしがれていた。

 やがて、新社長が一方的に宣言した。

「議論はこれで終わりだ! 俺がこの会社の社長だ。俺がいうことが絶対だ! お前は、俺の命令に従っていればいい。それが嫌なら、お前がこの会社を去れ!」

「なっ・・・・・・」

 新専務が、驚きの表情を浮かべて呆然と立っていたが、結局、荒々しい足音を立てて、その場を退出していくしかなかった。

 事件はその後に起こった。

 その場に悄然と立ち尽くしていた奥村先輩に向かって、新社長は厳しい口調で命令した。

「お前もそんなところでボサッとしてないで、とっとと自分の持ち場へ戻れ! さもないと、来月を待たずに、いますぐここからたたき出してやるぞ! このグズめが!」

 そうして、平手で打ち据える。

 思わず、俺は社長室の中に飛び込んでいった。

「やめろ! なにするんだ!」

「なに? 鈴木か! フンッ。そんなクズなど、俺がどうしようが勝手だろうが! クズはクズ同士、仲良く出て行け! お前がいなくなればここも清々するわ。おお、臭い臭い」

 これ見よがしに鼻を押える。

 俺は強く奥歯をかみしめながら、その侮辱に耐え、奥村先輩に肩を貸して、部屋の外へ連れ出そうとした。だが、その背へ向けて。

「ああ、そういえば、お前の母ちゃんは病気だってな。お前みたいなバカ息子をもって、苦労したんだろう。いや、違うか。こんなバカ息子を産んだんだから、そもそも、その母親もバカか。大バカだな。あはははは」

 俺はこれまでに本当にバカな人生を送ってきたと思う。いろいろバカなこともしてきたし、バカといわれても仕方がないに違いない。事実なのだから、俺を直接侮辱するなら耐えるしかないだろう。けれど、だからといって俺のことを産んでくれたお袋までバカにされるいわれなどない。

 一瞬のうちに頭に血が上った。

 部屋の外へ連れ出し、椅子に座らせた奥村先輩が、心配して俺の袖をつかもうとし、引き止めようとしてくれたが、俺はそれを振り払って、きびすを返し、肩を怒らせながら社長室へ飛び込んでいったのだった。

 今までの嫌がらせや暴言の数々を思い出し、激怒しながら。


 気がついたとき、俺の足元には、頭から血を流して倒れている社長がいた。

 白目を剥き、事切れているのは一目瞭然だった。

 そう、俺は社長を殺してしまっていたのだ。


 俺はそのまま現行犯で逮捕された。

 そして、短期間で裁判が終わり、俺は刑務所に入れられた。

 お袋が、そして、脳卒中で倒れた前の社長が死んだことを聞いたのは、その刑務所の中でのことだった。

 俺は、お袋のために心を入れ替えて真人間になろうとした。なのに、一時の激情に流されて、人を殴り殺してしまったのだ。その心労が響いて、お袋の寿命を縮めてしまった。

 お袋のためを思っての行動だったはずなのに、それが逆にお袋を死に追いやってしまった。

 俺は泣いた。あの、病院でのとき以上に、独房の中で泣いて、泣いて、泣き続けたのだった。

 そして、後悔と自責の念に苛まれ続けた。

 俺は、なんてことをしてしまったのだ! なんでこんなことに・・・・・・

 俺は・・・・・・


 前の社長が死んだことを教えてくれたのは、事件の後に社長に就任した前の社長の息子が面会に来てくれたからだった。

 俺が殺した社長の子供たちは、俺のことを恨み、憎んでいるようだが、すくなくとも、この人は、この人だけは俺のことを恨んではいなかった。

 むしろ、俺のことを陰でなにかと気にかけてくれており、ときどきこうして刑務所まで面会に来てくれる。そして、会社の今の様子だとか、前の社長のリハビリの様子だとか、いろいろ話して聞かせてくれるのだった。

 お袋の葬儀のとき、あれこれと手配をしてくれたのも、この人だった。

 俺は表しきれない思いをこめて、この人に頭を下げたものだ。この人のために、俺はなんでもできることをすると心に決めていた。

 前の社長が死んだことを教えてくれたとき、穏やかな笑みを俺に向けてくれていた。そして、前の社長が死ぬまで俺のことを気にかけていてくれたと告げた。

「父さんも、昔はワルだったらしいんだ。でも、母さんとの間に俺や妹ができて、家族が増えて、それで心を入れ替えようと決心したらしい。それで、苦労して今の会社を興して」

「そうだったんですか・・・・・・」

「ああ。そのせいで、鈴木さんのことを見ていると、昔の自分に重なることが多かったみたいでね」

「・・・・・・」

「最期まで、父さんは鈴木さんのことを心配していたよ」

「・・・・・・」

 俺は男泣きに涙をこぼしつづけた。それを眼を真っ赤にしながら息子さんが見ている。

 面会時間が終了する直前まで、俺たちは、なにも言葉を交わすことなく、向かい合って、ただ泣き続けるだけだった。

 最後に、一言、

「ありがとうございました」

 俺は深々と頭を下げた。


 刑期が終わり出所した俺は、保護司に付き添われて、いろいろな手続きを済ませにあちこちをめぐった。

 なんとか、住むところは確保できたが、収入の当てはない。

 次の日から、俺は職探しに奔走した。

 息子さんが一度訪ねて来て、俺に再び会社へ戻るよう形だけの説得にきたが、家族経営の小さな会社。俺が殺した社長の子供たちもしょっちゅう出入りしているような場所なのだから、俺が戻れるはずもない。

 俺が断ると、正直な人なのでホッとした顔をして、そして、『すまない』と頭を下げた。

 それからも、職探しがなかなかうまくいかない俺を気遣ってくれてはいたが、それすらも申し訳ない思いで俺の方から丁重断ることが増えていった。

 前の会社は、殺人事件が起きた後、殺された社長がらみの様々な不祥事が明らかになり、それらへの対処に追われて、業績が大きく傾いたようだが、新社長のもと、社員一同が団結し、それらを乗り越え、いまや、以前と同じか、それ以上の成功を納めつつあるという。

 その中に、俺が入っていられないなんて・・・・・・

 つくづく、バカなことをしたと、悔やみつつ、酒をあおって、薄い布団にくるまり寝る日々がつづいていた。


 そんなある日だった。

 今日もハローワークへ通い仕事を探す。いくつか資料をもらって俺はボロアパートに戻ってきた。

 テーブルにその資料を広げ、いつものように検討を始める。

 やがて、一枚のチラシが紛れ込んでいることに気がついた。

 こんなチラシを受け取った記憶はないのだが?

 大体、ハローワークで扱っているような内容にも思えない。

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

 チラシの中央でそんな文字がデカデカと踊る。

 一体、どこでこんなものが紛れ込んだんだ?

 俺はそのチラシを手の中で丸め、ゴミ箱に放り込もうとした。

 だが、その動作の途中で手を止め、再び、そのチラシを丁寧に広げた。

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

 もし、本当にここに書かれていることができるのなら。お袋や父親のように親切にしてくれた社長が死ぬ前にもどれるなら。もし、あの時、自分を抑えることができていたなら。

 もし、あの時・・・・・・

 そうして、気がついたときには、俺はその路地に立っていたのだった。


 雑居ビル裏のゴミゴミとした路地の奥。黒いビニール製の幕で路地から区切られた区画。隅の方に、入り口が切られており、扉代わりに黒い布が垂れ下がっている。

 俺は、多少の気後れを感じながら、その入り口らしき場所の前に立つ。

 訪問をしらせるチャイムやノッカーなどそれらしいものを探してみるが見つからない。しかたなく、その場所から中へ声をかけてみた。

「あ、すみません」

 すぐに中から返事が聞こえてきた。若い男の声。

「はい」

 そして、目の前の布がめくられて、中から若い男が顔をのぞかせてきた。

「いらっしゃいませ」

「あ、えっと・・・・・・」

 俺は、なんと声をかけていいのか分からず、ズボンのポケットの中からくしゃくしゃになったチラシを引っ張り出す。そして、それを目の前の男に突きつけた。その若い男は、俺の手の中のチラシに一瞥もくれることなく、うなずいた。そして、入り口の布を持ち上げたまま、俺を通すように脇へとどいた。

「どうぞ、中へお入りになってください」

「し、失礼します」

 俺は中へ足を踏み入れた。


 中は、光に溢れていた。

 路地の奥とは思えない、立派な家具がいくつか置かれており、床はフカフカの絨毯で覆われ、ひんやりとした涼しい空気が俺を迎える。思わず、振り返り、外の路地の景色を確かめる。まったく場違いな世界だ。

 呆然としながら、その場に立ち尽くしていると、

「いらっしゃいませ。夢オチ師・保佐津事務所へようこそ」

 その若い男は、俺に座るように促した。俺が座ったのを確認すると、そのテーブルを挟んだ向かいに自分も腰掛ける。

 柔らかく笑っている。その笑顔は十分に幼く、まだまだ少年といってもいい年齢のようだ。

 やがて、俺の前のテーブルには、芳しい香りが立ち込める紅茶のカップが並べられた。俺はさっそくカップをつまんで、紅茶を口に含んだ。

 正直、普段から紅茶なんて口にしない俺にとって、その紅茶がうまいかどうかはよく分からない。ただ、芳醇なかおりが俺の鼻腔をくすぐり、甘く優しい味の液体がノドを滑り落ちていく。それが心地よく、ついうっとりしてしまう。

「では、ご依頼の件をお伺いいたしましょう」

 てっきり、目の前の少年は、この事務所の主の息子かなにかだと勘違いしていたのだが、どうやら、この少年こそが、この事務所の主のようだった。

 一瞬、驚きに眼を見張る。けれども、テーブルの上で両手を組んで座っている少年の姿に妙に人を信頼させてしまうようなオーラが感じられる気がした。年齢こそずい分違うが、あの脳卒中で倒れた社長と同じ雰囲気をまとっていた。なぜか安心感に包まれている俺がそこにいた。

 だから、気がついたときには、俺はこれまでの人生のすべてをその少年に語っていたのだった。

 俺の長い話に、その少年は心からの同情のようなものを浮かべて、一言も口を挟まず耳を傾けていた。

「そうですか、それは、大変でしたね」

 やがて、そう一言だけもらして黙り込んだ。

 ため息を一つつく。こんな少年に話したところでせんないことだと最初から分かっていたのに。なのに、なぜこんな話をしたのだろうか?

 考えてみると不思議なことだ。

 しゃべりつづけだったので、ノドが渇いている。とっくにぬるくなっている紅茶をノドに流し込んだ。

 さて、少年に話したことで少しはラクな気分になった。長居しすぎた。そろそろ退散すべき潮時だろうか。

 俺はそんなことを考えながら、腰を上げようとしたのだが。

「ごちそうさん。紅茶うまかっ・・・・・・」

「ぐはっ! きゃぁああああ!」

 突然、奥の装飾過剰な長いすの陰から悲鳴が上がる。次の瞬間、長いすの陰から誰かが飛び跳ねるようにして体を起こした。

 小学生にも見えるような小柄な女。少女。ただ、胸の大きさだけは、大人のそれであり、決して小学生のものではない。少女の顔はフランス人形のように整い、その身につけているゴスロリ風の衣装とあいまって、幻想的な美しさをかもし出している。だが、上半身を起こした少女は、悲鳴を上げ続けるばかりで一向にその悲鳴を納める気配もない。

「きゃぁああああ!」

 俺はその脳天を突き抜けるような悲鳴に耳をふさいだ。頭がガンガンする。

 一方、目の前の少年は、その悲鳴に慣れているのか、顔をしかめることもせず、最初に見たような爽やかな笑みをいまだに維持し続けている。

 やがて、少女は悲鳴を上げるのを止め、長いすの上で深呼吸した。そして、

「あ、こ、ここは・・・・・・ ハッ、今の夢? なんて厳しい・・・・・・ お、お兄ぃ? お兄ぃ?」

 その美しい顔に翳をかざしながら、なにかを呟いていたが、ハッと顔をあげ、長いすの背越しに、俺たちの方を見た。

「ああ、文殊、起きたね」

「弥勒兄ぃ。・・・・・・お、お客さん?」

「ああ、そうだ、今、依頼の内容を聞いていたところだ」

「そ、そう・・・・・・」

 少女は、目の前の少年に話をしながら、ずぶずぶと沈みこむようにして、座っている長いすの背の向こうへ隠れていく。

「あ、妹は、人見知りなもので、すみませんね」

 少年はそういって、ほんのすこしだけ笑みに苦笑を交えた。

 そんなことより、依頼? なにを言っているんだ、この少年は? 俺がなにを依頼したっていうんだ?

 怪訝に思っていると、突然、頭がしびれるような感覚に襲われる。まぶたが重くなる。頭にかかる重力が倍加する。思考にもやがかかる・・・・・・

 こ、これは!

 俺は、昔まだヤンチャをしていたころ、一度だけ遊びで試したことがある合成麻薬を思い出した。

 さっきの紅茶。そうか、あれか!

 く、くそっ・・・・・・


「オワッ!」

 俺は薄い布団を蹴飛ばして、目が覚めた。

「大丈夫かい? ずい分うなされていたみたいだけど? 仕事、きついんじゃない? 大丈夫? 疲れてない?」

 俺のことを心配そうに覗き込んでいるやつれたお袋の顔が目の前にあった。

「今何時?」

「ああ、もうすぐ7時よ。そろそろ朝ごはんの仕度をしないとね」

「ああ、いいよ。そんなこと、俺がやるから。お袋は寝てろよ。大丈夫だから」

「でも、あんた、毎日遅くまで働いているのに、私だけのんびり寝てなんて・・・・・・」

「病気なんだから、仕方ないだろ。いいから、寝てろよ。できたら起こすから」

 俺は起きだして、なお渋るお袋を部屋に追い返したのだった。

 それから、台所でいつまでたっても慣れない手つきで朝飯を用意する。

 そういえば、俺、なにかとんでもなく辛い夢を見ていたような・・・・・・

 まあ、いいか。そんなことはどうでも。今の現実も十分に厳しいのだ。

 俺を可愛がってくれていた社長が倒れて、俺を目の敵にする専務がその後釜に座ったばかりだ。しかも、俺のことをだまして、犯罪者に仕立てようとまでしてくるような人物。そんなヤツの下で働かなくてはいけないなんて・・・・・・

 恩義のある先代社長やお袋のために今は我慢すべきなんだろうが、正直、もうこれ以上耐えられそうにもない。

 う~ん・・・・・・

 考え込んでいる間に、火にかけていた味噌汁があわ立ち、鍋から噴きこぼれかける。

 慌てて火を消して、お椀によそおい、俺はお袋へ声をかけるのだった。


 出社してすぐに、俺は大声で同僚たちに挨拶して回る。先輩も後輩も関係なく、見かけた人間全員に『おはようございます』と言って回る。新人のころからずっと続けている習慣だ。

 それに対して、『おはようございます』と気持ちよく返事をくれる人や、片手をあげるだけの人、あるいは、無視する人。この職場には様々な人たちがいる。

 だが、社長が代わり、俺が眼をつけられている存在だと職場内に知れ渡ったあと、キチンと返事をくれる人が減ったように思う。彼ら彼女らにも生活があり、へんなとばっちりがくるのを避けたいのだろう。

 それでも、めげずに、朝の挨拶回りは、一日も欠かしたことはない。そして、今日も。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

「あ、そうだ、奥村さん、年内に定年ですよね」

「ああ、再来月にね。とうとう、そんな年になってしまったよ。ははは」

「じゃ、そのときに定年のお祝いをしないといけないですね」

「ははは、鈴木くん、そんなに気を使わなくてもいいんだよ。契約社員で再雇用してくれるように会社に申請を出す予定だからさ」

「そうなんですか? じゃあ、定年になっても、また奥村さんと一緒に働けるんですね?」

「ああ、もちろんだとも。鈴木くんと一緒に働くの、楽しみだからね」

「あ、ありがとうございます」

「いやいや。じゃ、今日もお互い頑張ろうか」

「はい」

 奥村さんには新人のころからお世話になっている。周囲から避けられていた俺に付きっ切りで仕事を教えてくれた人だ。そんな人が定年退職で会社を去るなんて寂しいと思っていたのだが、どうやら、まだまだ一緒に働けそうだ。

 俺はそれを聞いただけでもうれしくなったのだが、

「鈴木、なにをニヤニヤしてやがる。気持ち悪いぞ!」

 思わず、仏頂面になる。それでも、目の前に立つ新社長に頭を下げる。朝の和気藹々としていた職場内の空気が一瞬のうちに張り詰めたものになった。

「おはようございます」

「ふんっ、なんだ、貴様、その顔は? こんな会社、嫌なら、いつでもやめてもらってもいいんだぞ!」

 思わず、こぶしを握りしめる。腕がムズムズする。何かを殴って、この不快感を払拭したい。

「この給料泥棒め! まともに仕事もできんくせに、よくものうのうと俺の前に顔を出せるな」

「・・・・・・」

「なんで、兄貴もこんなゴクつぶしに目をかけてたんだか。チッ! 俺なら面接に来たら、即、塩まいて追い返してやったのに。クソッ!」

 新社長は大きな音で舌打ちを一つして、俺の前を横切り、社長室へ入っていった。

 おべっかつかいしか能がない若手社員が、その後を追うとして俺の前を通りすぎようとした。が、俺の方を薄笑いを浮かべながらチラリと視線を向けた途端、真っ青な顔をして震えだす。そのまま、逃げるように、社長室へ駆け込んでいった。その姿を職場内の同僚たちが息を飲んで見送っていた。

 今、俺はよっぽど怖い顔をしているのだろうか?

 みんなにそんな顔を見られたくなくて、うつむいて自分の席についた。

 だが、なんで、俺がこんな仕打ちを受けなくちゃいけないんだ?

 俺がなにをしたっていうんだ?

 たしかに、昔、まだ町で暴れていた頃、一度、若いころの新社長を締め上げたことがあったが、あれは新社長が仲間の女に手を出して妊娠させた挙句、ゴミのように捨てたからだ。うらまれるようなことじゃない。

 ・・・・・・

 悔しくて、唇をきつく噛む。口の中に溢れかえるツバを何度も飲み込む。

「くそっ!」

 思わず声が出て、同僚たちの肩がビクリと動いたのが見えた。

 俺は、自分の机を力一杯に叩きつけた。もう一度、

「くそっ!」

 そのとき、奥村さんと目が合った。優しげに笑みをたたえた眼。そして、静かにうなずきかけてくる。

 俺は自分の席に座りなおし、まぶたを閉じ、そして、今までお世話になった人々の顔を脳裏に浮かべた。

 すべての人に感謝と謝罪の言葉を告げた。

 そして、その日、俺はその会社を辞めた。


 懸念していた通り、俺の再就職は難航を極めた。

 まだまだ、昔の俺のことを覚えている人が多かったし、新社長の妨害工作もあったのだろう。

 だが、それでも、なんとか就職することができた。前の社長や奥村さんに仕込まれた技術が評価されたのだ。

 給料は安いが、もう上司から暴言を浴びることはない。同僚たちも、最初はおっかなびっくりの様子だったが、俺の技術が確かなのを見て、安心して仕事を任せてくれるようになった。

 俺は一生懸命に働いた。不満を口にすることもなかった。

 仕事は忙しく、体が二つ欲しいぐらいだったが、それでも、時には、リハビリ中の前の社長を訪ねて、世間話をしたり、体が不自由なお袋の散歩に付き合ったり。それなりに充実した日々をすごしていた。

 そんなある日、俺は噂を耳にした。

 前に勤めていた会社が倒産し、社長が夜逃げしたらしいと。

 俺が辞めた後、他の社員たちも追い出されるように次々と会社を去り、残ったのはおべっかしか取り柄のないヤツラばかり、経営は乱脈を極め、取引先の信頼を失い、ついには倒産してしまったという。

 その噂を聞いた日、俺の足は自然と前の会社の事務所へ向かった。

 玄関前のガラス扉は締め切られ、休業を知らせる紙がだれにも見られることなく寂しげに風に吹かれている。

 たちまち、先代社長の仕事がうまくいったときの豪快な笑い声が頭の中に響く。奥村さんの愉快そうに酒を煽る姿が蘇る。

 最後は嫌なことばかりだったが、俺にとっての原点の場所。俺が育ててもらった会社だった。その会社も今はない・・・・・・

 寂しげな秋風が、俺のうちと外を静かに吹き抜けていった。

「鈴木さん?」

 か細い声が後ろから聞こえてきた。振り返ると、髪の長い女性。

「あ、あなたは・・・・・・」

 先代社長の娘さんだ。

「ご無沙汰しております」

「ううん。こちらこそ、ごめんなさい。あのとき、あなたの力になれなくて」

「いいえ。そんなことないです」

 再び、ガラス戸の方に視線を向ける。

「なくなっちまったんですね」「ええ・・・・・・」

 湿っぽい会話が風の中に消えていく。そのまま、二人で言葉もなく立ち尽くすしかなかった。


 帰り際、事務所のポストを覗きこんでいた先代社長の娘さんが何かのチラシを見つけたのか、不思議そうな声を上げた。

「なんだろう、これ?」

「どうしかしましたか?」

「ええ、なんかヘンなチラシが入ってたんですけど。いたずらかしら?」

「えっ? どんな?」

 妙な胸のざわつきを感じなら、娘さんから渡されたチラシを見ると、

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

「こ、これは・・・・・・」

 俺は絶句して、その場に立ち呆けているしかなかった。


 入り口の布をめくって中をのぞく。

 いたっ!

 あの少年が、俺の方を見ながら、かすかに覚えのある爽やかな笑顔を浮かべて立っていた。

「やあ、いらっしゃい。また、来ましたね」

「お、俺を知っているのか?」

「はい、もちろん」

 少年は、ニコニコしながら大きくうなずいた。

「どうぞ、中へお入りになられてください」

「あ、ああ・・・・・・」

 俺は、中に入って、既視感を感じながら、椅子に腰掛ける。それを待っていたように、少年が芳しい香りの立つ紅茶のカップを目の前に置く。

「さて、ご依頼を承りましょうか?」

 その少年に促されて、俺は前に勤めていた会社を辞め、新しい仕事についたこと。その後、前の会社の業績が傾き、ついに倒産してしまったことを話した。

 前の会社に俺がどんなに愛着を持っていたのか、なんであの時、俺は最後まで頑張ることなく自ら退社するなんてバカな選択をしてしまったのか、今はそれをどれだけ悔いているのかも、すべて残さず語った。

 少年は、俺の話に適度な相づちを打ちながら黙って耳を傾けていた。そして、

「そうですか。それはお困りでしょう」

「ああ・・・・・・」

 俺は、期待を込めて、その少年を見つめ返す。

 少年は、爽やかな笑顔を浮かべたまま、俺の視線を柔らかく受け止めていた。

 と、

「ううん。そうじゃないわ。ううん・・・・・・」

 トロンとした声が長いすの背後から聞こえてきた。あの少女だろうか?

「えっ?」

 少年が意外そうな声を漏らし、立ち上がる。そして、長いすの背後に回りこんだ。

「ああ、寝言か。ふふ。よく寝てる。ゆっくりお休み」

 そういって、部屋の隅から温かそうな毛布を持ってきて、長いすに寝ている誰かに優しくかけるのだった。

 俺はその穏やかな様子を眺めながら、テーブルの上の紅茶に手を伸ばし、口をつけた。

 そして、まもなく、俺の意識は・・・・・・途絶えた。


「ハッ! ここは・・・・・・」

 俺は、壊れかけの古ぼけた椅子に腰掛け、薄汚れたテーブルにもたれるようにして、眠っていたようだ。

 周囲はなにもないゴミゴミした場所。左右両側には打ちっぱなしのコンクリートの壁が迫り、細長い通路となってコンクリートで固めた地面が続いている。上を見上げると、細長く切り取られた空が見える。つまり、ここは路地だ。

 なぜ、俺は、こんなところで寝入っていたのだ?

 いまひとつ思考がはっきりしない。頭を一つふる。

 あ、そうだ、あの少年は? あの少女は?

 周囲を見回すが、どこにもその姿はない。路地を風が吹き抜けるばかり。

 なにかのチラシが秋風に吹き飛ばされて、俺の足元に滑り込んできた。ここに放置されてずい分時間が経っているのか、すでにボロボロで書いてある文字もかすれてほとんど判別できない。

 拾い上げ、なんとか、読み取ろうとして、俺はそこに書いてある文字に見覚えがあることに気がついた。

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

 こ、これは・・・・・・!


「あっ、鈴木さん、やっぱり、来てらしたんですね。どうでした、やっぱりいたずらでしたか?」

 先代社長の娘さんが路地の陰から現れ、駆け寄ってきた。

「えっ?」

「ほら、そのチラシ見て、確かめに鈴木さんも来たんでしょ?」

 俺の手の中のチラシを指差すが、途端にボロボロとちぎれおちる。

「やっぱり、いたずらだったんですよね。なにもないですし」

 娘さんは周囲を見回し、ため息を吐いた。

「あ、ああ。みたいですね」

「そうですか。ちょっと残念ですね。チラシに書いてあったように、本当に人生をリセットできるなら、お父さんが倒れる前まで時間を戻してほしかったのですけど」

「ええ、ああ、そうですね」

「あ、そうだ。今度、兄貴、新しく会社を立ち上げるんですって。再挑戦だっていって張り切ってるの」

「へぇ~ そうなんですか」

「奥村さんも手伝ってくれるっていってるし、私たちも頑張らなくっちゃね」

 一瞬、俺のいる暗闇の中に光が見えかけた気がした。我慢しようとしても、自然と顔がほころぶ。

「あーあ、でも、いたずらじゃしょうがありませんよね。残念。あ、そうだ、折角、久しぶりに町まで来たのですから、どこかで一緒にお茶でもしませんか?」

 一瞬、なにを言っているのかわからなかった。でも、そのいたずらっぽい光の宿っている眼を見返していると、勝手に口が動く。

「えっ? 俺なんかでいいんですか?」

「ん? あれ、鈴木さんは、わたしじゃ嫌なんですか?」

 俺は慌てて首を激しく振った。そして、力強く言う。

「そんなこと、俺に限って絶対にありませんから!」

「そ、よかったです」

 そうして、俺たちは、路地を抜ける風に吹かれながら、向かい合ってクスクスと笑いあうのだった。

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