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 高校時代、二人の男性から付き合ってほしいといわれた。

 一人は、一つ年上の先輩。運動神経抜群で、成績も優秀、おまけに、ルックスも申し分ない。しかも、私たちの町の古くからの名家の一人息子で、町の真ん中にある広大な敷地のお屋敷に住んでおり、もちろん、お金持ち。だれもが憧れる学園の王子様。

 そんな人がなぜ私になんか興味をもったのか、自分では正直わからない。多分、ただの気まぐれだったのだろう。それでも、彼と何度かデートをして、彼の生きている世界のなんと華やかであることかを体験したあの日々は、まるで夢の中にいるようで気分が浮き立つものだった。

 もう一人は、同級生の地味で目立たない、どこにでもいる高校生だった。言葉を交わした一瞬の後には、その会話内容も、会話したこと自体も忘れてしまうようなそんな影の薄い人だった。

 正直、彼に好きだと告白されたとき、彼が同級生だったことに、まずおどろいたぐらいだった。

 彼とも何度かデートを重ねたハズだけど、そのときのことを今思い出そうとしても、ふたりでどこに行ってなにをしたのか、そのとき、私は楽しめたのか、全然思い出せない。

 ただ、高校卒業の日、彼が私に誓ってくれた一言だけは、はっきりと今でも思い出すことが出来る。

『ボクはこれからも君のことを好きでいつづけるよ。大学へ行っても、就職しても、君だけをずっと想いつづける。これからボクたちがどうなるかなんて分からないけど、ボクが将来結婚する相手は、君ひとりだ』

 とても青臭くて幼い誓いだった。だれもそんな誓いがかなうなんて信じないし、誓いが破られてもだれも文句なんて言わないはず。今なら笑ってしまうだろう。でも、それだからこそ、そのときはお互いに真剣で真摯で。

 私は、その言葉を聞きながら、涙をこぼしてしまった。

 結局、それが決め手になった。

 大学を卒業し、社会人になって6年目、卒業十周年の同窓会で彼と再会して、その誓いを彼がまだ覚えていたのにおどろいて、そして、一年後、私たちは入籍したのだから。


 祐作はなにもできない人だった。

 満足に家事も出来ないし、人付き合いも苦手。さらに、手先が不器用で物覚えが悪くて、独創的でも将来性を見極める能力にも欠けていた。

 それでも毎日作業場へ自転車で通い、夜遅くまで地元の伝統工芸の木工に情熱を注ぎ続けていた。

 けれど、いくら何百年も延々と伝承されてきた伝統ある木工工芸だとはいえ、そんなの日本中、いや、世界中にいくらでもある。当然、祐作の収入だけでは私たち夫婦の生活を支えるには到底足りなかった。

 だから、私は結婚しても職場では旧姓で通し、毎日バリバリ働いていた。

 朝から通勤電車に揺られて職場へ向かい、日中いっぱい休む間も惜しんであちこち飛び回る。夕方になり、帰宅途中に近所のスーパーで買い物を済ませ、家に帰ると夕飯の支度。お風呂を沸かして、仕事帰りに仲間たちと一杯ひっかけてきた祐作と夕食をとり、順番にお風呂をつかって寝るという毎日が延々とつづいた。

 やがて、何年かすると、赤ちゃんが私たちにもさずかった。

 けれど、やっぱり祐作は何も出来なくて、赤ん坊のおしめすら満足に交換できない。

 幸い、近所に祐作の両親が住んでいて、どうしても忙しいときには手伝いに来てくれる。やはり孫は特別かわいいみたいで、赤ちゃんの面倒を率先してみてくれる。

 それでも、育児すべてをお義父さんたちに任せるってわけにはいかない。結局、私の忙しい日常にさらに育児まで加わっただけだった。


 正直、私はヘトヘトだった。疲れきっていた。

 毎日が忙しすぎるし、休日さえもゆっくりとする時間なんてなかなかない。

 いつもなにかに追われていたし、なにかをしていた。

 近所の仕事を持つママたちも、忙しそうにしてはいたが、彼女たちには家事にも育児にも協力的な旦那さまがいた。でも、私にはそんな夫なんていない。いるのは、自分では電子レンジすらまともに使いこなせない子供同然の祐作だけ。

 しかも、家事や育児だけでなく、家計を支えているのも私。

 この家のなにもかもを私が支え、私だけが忙しく過ごしている。

 そんな身を削るような毎日にふっと思い出すのは、高校時代にすこしだけ味わったあの華やかな世界。魅惑的な日常だった。

 もし、あのとき、祐作ではなく、先輩とそのまま付き合っていたなら、今の私はどうなっていたのだろうか?

 先輩と結婚して、セレブな奥様然として毎日を優雅に華麗に着飾ってすごしているのだろうか?

 あの華やぎにみちた世界に身をおいて、その世界の女主人として振舞っていたのだろうか?

 そんな厄体もないことを思い描いては、ため息をつくのだった。

 もし、あのとき逃げ出さなければ・・・・・・


 その日も、私は娘の美星をお義母さんに預けてから出勤した。

 自分の席につき、デスクの隅のお守り人形に微笑みかける。美星にどこか似た手のひらほどの大きさの木彫り人形。祐作が作ってくれたのだ。

 それから、デスクの上のパソコンを立ち上げ、パスワードを入力して、職場のLANを通じて、サーバーから資料やら書きかけの報告書を引っ張り出す。

 そして、私は仕事に没頭した。

 昼、

「佐伯さん、お昼、どこか食べに行く?」

 一年後輩の後藤さんが私に昼食の相談をしてきたので、ようやくもうそんな時間になっていることに気がついた。

 時計を確認。

「あっ、もうこんな時間か。こんな時間からじゃ、いつものあそこのお店はもう混んじゃってるね」

「ええ。あそこは安くて美味しいから、ちょっとでも出遅れちゃうとね」

「じゃ、今日も駅前のイタリアンあたりかしら?」

「えー。昨日の夜も旦那とパスタでしたよ、私」

「う~ん。じゃ、向かいのビルのベーカリーでサンドイッチでも買う? それで公園のベンチで食べるの」

「うん、それいいですね。今日曇ってて暑くないですし」

「じゃ、決まりね」

 そうして、私たちは微笑を交し合って、作業を一旦中断してから二人で昼食の買出しへ向かったのだった。


 近くの公園のベンチはすでに近隣のオフィスで働くOLやサラリーマンで溢れていて、一つも空いていない。

 しかたなく、職場にもどって、隅の休憩スペースで二人してサンドイッチをチビチビかじる。

 休憩スペースはエアコンの近くにあって、冷房が効きすぎておりすこし寒い。慌てて自動販売機からホットのコーヒーを買ってきて飲んだ。

 やがて、食べ終わり、ご馳走様をして、自分の席へもどり、作業を再開する。

 パソコンを立ち上げ、デスクトップからさっき保存しておいたはずの書きかけの報告書を探す。

 あった。

 早速、そのアイコンにマウスのポインタを合わせてダブルクリックしようとしたのだけど・・・・・・

 あれ? これなに?

 作成途中の報告書のすぐ一つ上、見慣れないデータがある。

 どうやらPDFデータらしい。でも、私はこんなデータをデスクトップに張った覚えはない。

 大体、今朝立ち上げたときには、デスクトップにはゴミ箱とLAN接続のアイコンしかなかったし、サーバーから資料と報告書のデータを引っ張り出したときには、こんなPDFデータはなかったはず。なら、私のパソコンのデスクトップにこのデータがあるなんておかしい。このパソコンは私専用のもの。一旦、休止させてしまえば、私しか知らないパスワードをもう一度入力しないかぎり、再びつかうことは出来ないはず。

 どういうこと? なんで、見知らぬデータが私のパソコンに?

 さっき、お昼で席を外している間に、だれか私のパソコンをいじったの?

 あっ、でも、今、休止状態から立ち上げたときには、ちゃんとパスワード入力を要求するボックスが現れた。それに、お昼前には確かに休止させたはずだ。それはしっかりと覚えている。

 ということは、お昼の間中、だれもこのパソコンをいじれたはずはない。

 なのに、なんで?

 私は混乱していた。

 もしかして、なにかのコンピュータウィルス? けど、このパソコンやサーバーはきちんと高度で専門的なセキュリティーがなされているはず。どういうこと?

 一応、念のため、隣の席の後藤さんに、そっちのデスクトップに不審なデータがないか訊ねたが、ない様子。

 これは、一体・・・・・・?


 しばらく考えた末に、その不審なPDFデータを開いてみることにした。

 上司に報告するにしても、本当に不審なものなのかどうなのか、中身を見ないと判断はできない。プロパティを見ても、それほど大きなデータというわけでもない。ウィルスが仕込まれているのは考えにくい。

 もしかしたら、すべて私の勘違いで、なんでもない無害なデータなのかもしれない。サーバーのどこかから引っ張り出してきて、そのままデスクトップに貼り付けて忘れていただけかもしれない。中を見れば、そのことを思い出すかもしれない。

 予めLAN接続を無効化し、さらに用心のために、ケーブル自体を抜いておく。

 これで、このデータにウィルスがまぎれていても、被害が直ちに会社中に拡大するなんてことはないだろう。

 セキュリティーソフトでスキャンして、問題ないことを確認してから、深呼吸。覚悟を決める。

 カチカチッ

 マウスの上で小さくクリック音が発生する。そして、すぐに画面上にデータが開かれた。

 何かのチラシのようだ。やはり見覚えはない。

 そのチラシには、こんなことが書かれていた。

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

 画面の中央でそんな文字がデカデカと踊る。

 なにこれ?

 データを開いても、セキュリティーソフトに反応はない様子。パソコン内部も調べたがどこにもデータが改変されたということを確認できなかった。 つまり、これは完全に無害なデータなのだろう。

 けれど、このチラシは一体・・・・・・?

 しばらく、そのチラシを画面いっぱいに表示したまま、私は見入ってしまっていた。そして、一旦は、そのデータを閉じ、ゴミ箱へ放り込んでしまった。だが、結局、また元へ戻し、再びそのデータをひらく。

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

 気がついたときには、私はケーブルを繋ぎなおし、職場のプリンターに印刷するよう指示を出した後だった。


 数日、その印刷したチラシとにらめっこし、ついに私はここに来た。

 雑居ビル裏のゴミゴミとした路地の奥。黒いビニール製の幕で路地から区切られた区画。隅の方に、入り口が切られており、扉代わりに黒い布が垂れ下がっている。

 私は、多少の気後れを感じながら、その入り口らしき場所の前に立つ。

 訪問をしらせるチャイムやノッカーなどそれらしいものを探してみるが見つからない。しかたなく、その場所から中へ声をかけてみた。

「あの、すみません」

 すぐに中から返事が聞こえてくる。若い男性の声。

「はい」

 そして、目の前の布がめくられて、中から若い男性が顔をのぞかせてきた。

「いらっしゃいませ」

「あ、あの、私・・・・・・」

 私は、手の中のコピー用紙に印刷されたチラシを掲げてみせる。だが、その若い男性は、私の手の中のチラシに一瞥もくれることなく、うなずいた。そして、入り口の布を持ち上げたまま、私を通すように脇へとどく。

「どうぞ、中へお入りになってください」

「お、おじゃまします」

 そうして、私はその中へ入っていったのだった。


 中は、光に溢れていた。

 路地の奥とは思えない、立派な家具がいくつかおかれており、床はフカフカの絨毯で覆われ、ひんやりとした涼しい空気が私を迎える。思わず、高校時代の先輩に連れて行ってもらった高級レストランのことを思い出す。

「いらっしゃいませ。夢オチ師・保佐津事務所へようこそ」

 その若い男性は、私の向かいの椅子に腰掛けると、爽やかな笑顔でそう言った。その笑顔は十分に幼く、まだまだ少年といってもいい年齢のようだ。

 私の前のテーブルには、芳しい香りが立ち込める紅茶のカップが並べられている。

 私は、その紅茶を一口口に含んだ。すごく美味しかった。

「では、ご依頼をお伺いいたしましょう」

 てっきり、目の前の少年は、この事務所の主の息子かなにかだと勘違いしていたのだが、どうやら、この少年こそが、この事務所の主のようだった。

 一瞬、驚きに眼を見張る。けれども、テーブルの上で両手を組んで座っている少年の姿に妙に人を信頼させてしまうようなオーラが感じられる気がした。

 そして、その姿がどうしてもあのかつての先輩の姿と重なって見えてきた。

 気がついたときには、私の口が勝手に動いていた。

 高校時代に二人の男性に告白されたこと。そのうちの一人と後に結婚したが、その結婚生活は、すべて私が担っていること。そして、そんな生活に疲れてしまっていること。それらすべてを私はその少年に話しているのだった。

「そうですか。それは、大変でしたね」

 目の前の少年は、私の話を痛ましそうな表情をして聞いていたが、やがて、そうポツリと言った。

 私は話を終えて、ホッと息を吐き出す。

 正直、この少年に話したとしても意味のないこと。でも、こんなことを口にしたのなんて、初めてのことだった。

 妙に肩の力が抜けて、気分がラクに感じられた。

 この少年に話をすることができただけでも、価値のあることだったと思う。たとえ、実際に人生をリセットできなかったとしても・・・・・・

 私は、とっくに冷めてぬるくなった紅茶のカップに手を伸ばして、飲み干した。

 と、突然、

「ぐはっ! きゃぁああああ!」

 少年の後ろにある装飾過剰な長いすの陰から悲鳴が上がる。次の瞬間、長いすの陰から誰かが飛び跳ねるようにして体を起こした。

 小学生にも見えるような小柄な女。少女。ただ、胸の大きさだけは、大人のそれであり、決して小学生のものではない。少女の顔はフランス人形のように整い、その身につけているゴスロリなドレスとあいまって、幻想的な美しさをかもし出している。だが、上半身を起こした少女は、悲鳴を上げ続けるばかりで一向にその悲鳴を納める気配もない。

「きゃぁああああ!」

 私はその脳天を突き抜けるような悲鳴に耳をふさいだ。頭がガンガンする。

 一方、目の前の少年は、その悲鳴に慣れているのか、顔をしかめることもせず、最初に見たような爽やかな笑みをいまだに維持し続けている。

 やがて、少女は悲鳴を上げるのを止め、長いすの上で深呼吸した。そして、

「あ、こ、ここは・・・・・・ ハッ、今の夢? なんてつらい・・・・・・ お、お兄ぃ? お兄ぃ?」

 その美しい顔に翳をかざしながら、なにかを呟いていたが、ハッと顔をあげ、長いすの背越しに、私たちの方を見る。

「ああ、文殊、起きたね」

「弥勒兄ぃ。・・・・・・お、お客さん?」

「ああ、そうだ、今、依頼の内容を聞いていたところだ」

「そ、そう・・・・・・」

 少女は、目の前の少年に話をしながら、ずぶずぶと沈みこむようにして、座っている長いすの背の向こうへ隠れていく。

「あ、妹は、人見知りなもので、すみませんね」

 少年はそういって、ほんのすこしだけ笑みに苦笑を交えた。

 次の瞬間だった。私の頭が急激に重くなる。しびれたかのように鈍い痛みも感じる。

 ね、眠い・・・・・・

 普段、忙しくしているせいだろうか、祐作にいわせると、夜寝るときには私は電池が切れたように布団の中で一瞬で熟睡しているらしい。

 今、私が感じているこの感覚は、まさしくその布団に入った直後にいつも訪れるものだった。

 なんで、こんなときに、こんな場所で・・・・・・

 こんな場所で眠ってはいけない。起きていなくちゃ。起きて、家に帰って、夕飯の支度をしなくちゃ。それにお風呂を沸かさなくちゃ。

 私は必死にその眠気に抵抗しようとした。

 だが、私を襲った眠気は圧倒的だった。

 そして、私は、意識を失った。


「ハッ、お、起きなきゃ! 起きて・・・・・・」

 起きて、起きて・・・・・・ 

 ・・・・・・

 な、なんで私、起きなきゃいけないんだろう? なにをしなきゃいけないの?

 なにかしなきゃいけないことがあった気がする。けど、なにも思いつかない。

 眼を開けて、ベッドの中から見慣れた自分の部屋を見回す。

 クローゼットの扉には、私の服がかけてあり、お気に入りのアイドルグループのポスターとレースのカーテン越しに朝の光が差し込む窓の間にある机の上には、昨日書き終えた状態そのままのレポート用紙が広げられている。

「ふぅ~」

 息を吐き出し、窓から差し込んで、私を照らす朝の光から顔を逸らす。

 階下からコーヒーの香ばしい匂いが漂ってきており、ママが台所でベーコンを焼いている音がする。

 ぐぅううう~~~~

 お腹がなる。枕もとの時計を確認。そろそろいつもの起床時間だ。

 勢いをつけて体を起こした。寝癖がついて髪はボサボサ。眼もしょぼしょぼ。それに、パジャマも寝乱れておへそが出ている。ちょっとエッチかも。どっちにせよ、今の姿は、今日、高校卒業以来久しぶりに二人っきりで会う橘先輩には、絶対に見せられない。

 モゾモゾとベッドから抜け出して、軽く髪を梳かし、洗面台へ直行して、髪を洗う。気分がさっぱりしたところで、部屋にもどって身支度を整える。

 20分後。私は、部屋着に着替えて、朝のテーブルにつく。

「おはよう」

「おはよう、パパ、ママ」

「うむ」

 すかさず、ママが私の前にトーストと朝食の皿をだし、新聞を読んでいるパパにはコーヒーのカップ。パパはどこにカップが置かれたのかを見もせずに、取っ手をつかんで、口に運ぶ。

 よく場所が分かるものだ。それにこぼさない。そんなことに感心しながら、トーストにかじりつく。

 やがて、

「朋美、大学はまだ行かなくていいのか?」

 パパが新聞に視線をやったまま私に尋ねてきた。

「え? あ、うん。今日は2時限からだから」

「そうか。うむ」

 そして、読み終えた新聞をたたんで、コーヒーの残りを飲み干した。

「うむ」

 重々しく一つうなずく。それから、ゆっくりと立ち上がった。いつものように黙ってカバンを手に取り、玄関へ歩いていく。

「「いってらっしゃい」」

 私とママが声をそろえて声をかけても、返事はない。挨拶ぐらいしていけばいいのに。

 って、そんなことより、朝ごはん。朝ごはん。腹ペコで私、死んじゃいそう!


 夕方、大学を終え、電車に乗って待ち合わせのターミナル駅構内まで移動する。

 地下街の中にある噴水の傍らに立っていると、周囲で同じように待ち合わせしていた人たちのもとへ次々に待ち人が来て、腕を組みながらそれぞれの目的地へ去っていった。

 やがて、一陣の爽やかな風が吹いた。でも、ここは地下。錯覚?

 その場にいただれもの視線がその人のもとへ自然と集まり、離せなくなる。一挙手一投足すべての動きに快い痺れを感じ、体の芯がしびれるような甘い疼きを覚える。思わずため息がこぼれる。

 多分、それは、私たち女性だけではなかったと思う。周囲にいる男性たちも、みな同じような呆けた表情をして、その人を見つめているのだから。

 もちろん、私も。高校時代そうであったように、今の私もその人から眼を離すことはできない。

「や、お待たせ、佐伯さん」

「あ、う、ううん。私も今来たところだから」

「ふふふ、それって普通、男の方が言うもんだよな。俺、そのつもりで予定よりも30分早く来たはずなんだけど・・・・・・」

「あ、ご、ごめんなさい。わ、私、気が利かなくて」

「あ、あはは、今のなし、今の冗談ね」

 微笑みながら橘先輩がそう言ってくれた。それで、すこしホッとする。

「それじゃ、行こうか。レストラン、予約してあるから」

「あ、はい」


 橘先輩と再会したのは、教育実習で母校に通っていたときだった。

 先輩の妹さんが母校の生徒で、午後から法事とかで妹さんを迎えに来た橘先輩と、たまたま廊下ですれ違ったのだ。

 橘先輩は私のことを覚えていてくれた。それどころか、廊下ですれ違っただけだというのに、私に声をかけてくれさえした。

「お兄ちゃん? 佐伯先生と知り合い?」

「ああ、高校時代に付き合ってたんだ」

「へぇ~ そうなんだぁ~」

 そういって、バカにしたような眼を妹さんが私に向けてきたが、正直、そんなことすら気にもならなかった。

 久しぶりに会った先輩は、やっぱり素敵で、格好よくて、爽やかで。私のことを今でも覚えていてくれて。

「ねっ? 今度、食事しない、また二人で?」

「えっ?」

「アドレス変わってないよね? そっか、よかった。今晩、必ず連絡するから」

 そうして、その夜、本当に先輩は連絡をくれたのだった。


 フルコースの食事。高価なワイン。

 あまりお酒の飲めない私も、あまりのおいしさにグラスの中身を飲み干してしまう。

 先輩とのたのしく尽きないおしゃべりをし、酔いも手伝って愉快な気分。

 だけど、次に気がついたときには、私はベッドの上で仰向けに寝転がっていた。大きな部屋全体はシックなインテリアで統一されて高級感をかもし出し、大きな窓から見える夜景がどこまでも広がっていて、まるで宝石箱をひっくり返したよう。

 酔いの回った頭でも、ここがホテルの一室で、しかも最上階に近いスイートルームだということがわかる。

 慌てて確認すると、着ているものに乱れはないし、私が寝転がっているシーツもシワになっていない。まだ、この部屋へ着てから時間は経ってない。

 近くに先輩の姿はない。その代わり、シャワールームの方で水音がする。

 急に足の先が冷えた気がした。酔いが急激に抜ける。

 逃げるなら今しかない。今なら、まだ間に合う。先輩がシャワーを浴びている今のうちなら・・・・・・

 一瞬、高校の卒業式の日にあの人が私に誓ってくれた言葉が頭の中を駆け巡る。

 あの日からずい分時間が経った。今頃、あの人もあんな誓いをしたことすら忘れ、だれか他の人が彼の隣にいて、優しい微笑を投げかけているのかもしれない。そして、それをあの優しい笑顔で受け止めて、愛をささやきあってさえも・・・・・・

 それは仕方がないことだし、あんな幼い誓いを愚直に守るなんてどうかしている。

 今頃、すっかり私のことなんか忘れて・・・・・・

 涙が一筋こぼれ、そして、シーツに吸い込まれていった。


 結婚式は盛大に開かれた。

 地元の名家の御曹司の結婚式。

 市長や市会議長、地元選出の衆参の国会議員たち。市の経済を牛耳る経営団体の会長。地元の銀行の頭取。この町を政財界両面から支配するすべての人たちが一堂に会し、私たちの結婚を祝福してくれた。

 だれもが玉の輿に乗った私を羨んだし、私たちの幸せを寿いでくれた。

 披露宴が終わり、新婚旅行として海外の保養地で一週間をすごし、彼と彼の両親・家族と同居する屋敷へ帰宅した。

 だけど、その日の午後には、もう彼は家にいなくなっていた。

 私を置いて、自分は独身時代からの仲間たちと翌朝まで遊びまわりはじめたのだ。

 毎日毎日、夕方になると彼は家を出て行く。そして、家に帰ってくるのは決まって翌日の太陽が高くのぼったころだった。

 彼の家族も、私のことをあまり気に入っていないようで、家の中にいても居心地はよくない。

 とくに、お義母さんは、私の仕草のひとつひとつが勘に触るようで、私のことを徹底的に避け、無視するようになった。

 ただ、お義父さんだけは、お義母さんが近くにいさえしなければ、私には優しくしてくれ、何かと気を使ってくれた。だけど、お義母さんが同席していると、手のひらを返したように、冷たい態度をとる。

 最初、そんな彼の家族のことでとても戸惑った。そして、なんとか彼の家族と仲良くなろうと私なりに努力した。

 彼の家族のために、手料理をつくり、家事をし、掃除をし・・・・・・

 けれど、だれもそんな私の努力を認めてくれない。彼らにとっては、それらはお手伝いさんの仕事だし、若奥様と呼ばれている私が、わざわざすべきことではなかった。

 私は、一日中、家にいて、周囲の人間に白い眼で見られ、ほとんどだれとも話さない、だれとも触れ合わない、そんな生活がつづいたのだ。気がおかしくなりそうだった。

 気を紛らわすために、町にで、地域のボランティア活動に積極的に参加した。すくなくとも、そこでは誰かが私に感謝して、私のしたことを認めてくれるのだから。

 もちろん、そんな町の人たちが私のことを陰で悪く言っているのも知っていた。金持ちの気まぐれからでた行動で、いずれ飽きてしまうだろうとささやき交わしているのも。だけど、彼らにとっては私が提供する金銭的援助だとか、名家の若奥様という身分は貴重なものだ。だから、彼らは私をあからさまに阻害するようなことはなかった。それが、彼の家族との違いだった。

そうして、私はボランティア活動にのめりこんでいった。

 彼の家族たちは、そんな私のことをますます嫌うようになった。

 由緒ある家の人間が卑しい庶民のために働くなんて、彼らにとっては耐えがたい恥でしかない。

 とうとう、私は、彼の家を出た。別居し、彼に離婚してくれるように頼む。けれど、彼は別居には応じてくれたが、離婚だけはガンとして応じてはくれない。

 夫婦生活なんて、とっくの昔に破綻しているし、彼はいろいろと不貞行為を働いていたことも知っている。家庭裁判所に訴えれば、確実に私たちの離婚は成立するだろう。

 それでも、彼は離婚を拒否し続けた。私の家族すらお金の力で味方につけ、離婚しないように説きふせさせるようなズルい手までつかってきた。

 結局、私は別居だけを受け入れ、離婚まではしなかった。親戚家族総出の説得に屈してしまったのだ。


 ある日、住み始めたマンションに、彼の妹さんが尋ねてきた。

 例の酷薄な笑いを顔に貼り付けて、私の部屋に上がりこんできた。

「あんた、離婚しないんだって?」

「ええ、あの人、私の家族にまで手を回していて・・・・・・」

「ふふふ、兄貴なら、そうするかもね」

「でも、なんで? なんで、そこまでして、離婚を思いとどまらせようとするの? 私には、分からないのだけど?」

 昔なら離婚は恥ずかしいことであり、家の名前に傷がつくから、名家の者ならなるべく避けるようにのぞまれたかもしれないが、今の時代、そこまでして離婚を阻止する理由にはなりえない。

 彼の行動はあきらかに異常だ。

「ふふふ。あんた、兄貴から、なにも聞いてないんだ」

「えっ?」

 彼の妹はさもおかしいとでもいうように含み笑いをしている。意地の悪そうな顔つきだ。

「私と兄貴って、お母さんの実の子供じゃないって知ってた?」

 私は小さくうなずく。そのことは、あの家にいた時分からうすうす感じていたことだった。

 彼と妹さんは、お義母さんとの間に距離があった。

「あの人、隣の市の前の市長の娘で、家の都合でパパに嫁いできたの。けど、最初の子供が死産で、もう子供ができない体になっていて。で、結局、あの人には市長の娘っていうプライドにすがるしかなかったのね。それしか残されていなかったの」

 そう、あの私のことを蔑むような眼でいつも見ていたお義母さん。話しかけるのも話しかけられるのも汚らわしいという態度だった人。

「家の中で、そんなプライドだけが高い人がいたのじゃ、パパだって気がやすまらないでしょ? だから、パパは外に愛人をつくったの。それが私たちの生みの親」

「・・・・・・」

「だけど、その人はもともと体が弱かったのだけど、あの人にその存在が知られてしまってから、いろいろと嫌がらせを受けるようになったの。そして、それがストレスになり、重い病気になって死んでしまったわ」

「えっ?」

 ということは、彼と妹さんは・・・・・・

「あんた、あたしの学校で兄貴と再会したじゃない? 丁度、あの日は私たちのお母さんの命日で、兄貴、帰りの車の中でずっと、この再会は運命だって言ってたわ。それとね、私たちのお母さんの名前が、佐伯朋美っていう人だったのよ」

「・・・・・・」

「そう、あんたと同姓同名。だから、兄貴にとっては、あんた自身なんて本当はどうでもよかったのよ。どうでも」

 妹さんは、くつくつと笑い声を漏らす。

 まるで、床が抜け落ちるような感覚に襲われた。とすると、彼は、私のことなんて・・・・・・ 人としての私ではなくて、私の名前だけを・・・・・・

「兄貴にとっては復讐だったんだろうね。お母さんの命を奪ったあの人の前で、お母さんと同じ佐伯朋美という女を妻にして、橘姓に変えるのが・・・・・・」

 その後、どういう話を妹さんとしたのかは、全然覚えていない。

 ただ気がついたら、妹さんはすでに帰っていて部屋におらず、私一人が呆然として、部屋の真ん中で立ち尽くしているだけだった。


 私は泣いていた。

 部屋の隅で膝を抱え、私の周囲には、ビリビリに引き裂かれたアルバムの写真が散らばる。

 婚約時代に二人で行ったスキー。温泉。海水浴。結婚式。披露宴。新婚旅行。

 どの写真も二人が顔を寄せ合って笑顔で幸せそうにしている。けれど、そんなのは全部ウソだ!

 嬉しそうにしているのは私ばかりで、彼の眼はどれも笑ってなんかいない。暗く底光りしているばかりだ。

 どれぐらいの時間、私はそうしていただろうか?

 すでにあたりは暗闇に包まれ始めている。

 ふと視線が台所へ向かう。台所のシンクの下の扉、包丁があるあたり・・・・・・

 のろのろと体を引きずるようにして、台所へ這う。頭がしびれたようになにも考えることができない。

 シンクの下の扉を開き、包丁へ手を伸ばす。

 と、そのとき、それが視界に入ってきた。

 薄暗いシンクの下の収納空間にひっそりと収まっているフライパン。結婚の際に実家から持ってきて結局それ以降一度も使っていない。そのフライパンが紙に包まれてそこにあった。

 そして、そのフライパンを包む紙に書かれていた文字は、

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』


「いらっしゃいませ。お久しぶりです」

 あの少年は変わらない笑顔で私を迎えてくれた。

 前回と同じように、私の前のテーブルに紅茶のカップが置かれ、少年は痛ましそうな表情で私の話に耳を傾けていた。

 やがて、

「そうですか。それはお気の毒に・・・・・・」

 少年はそこで、ホッと息を吐き出した。それから、ゆっくりと笑みを顔中に広げていく。

 その笑顔を見つめていると、私の中で、なにかがふわふわと解けていくのを感じていた。

 眼の縁が熱くなってくる。少年の姿がにじんで見えてくる。

「あれが愛ですらなかったなんて・・・・・・」

 私がそう最後に呟いたときだった。

「ぐはっ! きゃぁああああ!」

 少女が長いすの向こうで弾かれたように起き上がった。

「きゃぁああああ!」

 盛大な悲鳴をあげる。頭に響くような甲高い悲鳴。思わず耳を押さえる。

 やがて、少女の悲鳴が途切れ、こちらへ視線を向けてきた。

「弥勒兄ぃ、お客さん?」

「ああ、そうだよ」

「私、また、ひどい夢を見ていたみたい。むなしかったよぉ」

「ああ、大丈夫だよ。それは全部夢だから。むなしい夢を見ていただけなんだから」

「お兄ぃ・・・・・・」

 眼を潤ませる少女を励ますように少年は何度もうなづいていた。

 それは、とてもほほえましい光景だった。ゴスロリ美少女と爽やかスマイルの少年兄妹の掛け合い。まるで、一幅の絵のような光景。私は、その光景を美しいと感じていた。にじんだ視界を通して、うっとりと見とれていた。

 そして、そのうちに、私は意識をうしなった。


「う、うぅ・・・・・・」

 眼を覚ました。夏の熱くじめじめした風が私の頬を撫でる。

 私は、壊れかけの古ぼけた椅子に腰掛け、薄汚れたテーブルにもたれるようにして、眠っていたようだ。

 周囲はなにもないゴミゴミした場所。左右両側には打ちっぱなしのコンクリートの壁が迫り、細長い通路となってコンクリートで固めた地面が続いている。上を見上げると、細長く切り取られた空が見える。つまり、ここは路地。

 なぜ、こんなところに?

 いまひとつ思考がはっきりしない。頭を一つふる。

 あ、そうだ、あの少年は? あの少女は?

 周囲を見回すが、どこにもその姿はない。路地を風が吹き抜けるばかり。

 なにかのチラシが路地を抜ける熱い風に吹き飛ばされて、足元に滑り込んできた。ここに放置されてずい分時間が経っているのか、すでにボロボロで書いてある文字もかすれてほとんど判別できない。

 拾い上げ、なんとか読み取ろうとして、私はそこに書いてある文字に見覚えがあることに気がついた。

『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』

 あっ・・・・・・


 気がついた私は、元の世界にいた。

 私は、祐作の妻であり、美星の母であって、橘の家とは関係のない存在。毎日が忙しく慌しい。

 ここは、あのとき、あのホテルから逃げ出した私の世界。

 今なら、すこし分かる。あのとき、なぜ先輩があんな隙のある行動をとったのか。自分の復讐のために何の関係もない私を巻き込んでしまうことに良心の呵責のようなものを感じていたのだろう。

 だから、あのとき、私に最後の逃げるチャンスをくれたのだ。

 正直、ずっとナゾだった。私と違って遊びなれたはずの先輩だったのにと。

 そうか、彼も苦しんでいたんだ。復讐なんてことに取り付かれた自分自身をもてあまして。私に逃げてほしかったんだ。

 けれど、私は逃げなかった。そして、彼の復讐は完成してしまった。

 彼は、そのことに耐えられなかったんだ。だから、家に寄り付かなくなってしまった。

 彼は弱い人だったんだ。

 そう思い至って、私はその路地の間から見える細い空を見上げて、涙をこぼした。

 彼のために、最後の一粒を。

 そして、涙を振り払い、私は前を向く。私を必要とする人、私を待てくれている人たちがいる世界へ歩き出すために。

 もう逃げようなんて考えないと心に決めて。

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