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私は、夫に手伝ってもらって、車の座席から車椅子に移動した。
いつもイヤな顔一つせず、私を介助してくれる夫。今も、朗らかな微笑みを浮かべながらも、心配そうな声音で問う。
「やっぱり、その場所まで、俺、ついていこうか?」
「ううん、いい。一人でいくから」
「そっか? でも・・・・・・」
「いいの。一人で行きたいから」
私が強く主張すれば、いつも夫はそれ以上は言ってこない。私の好きなようにさせてくれる。今もそう。夫は車椅子のハンドルにかけていた手を静かに外した。
「もし、動けなくなるようなことがあったら、ケータイに連絡しろよ。戻ってくるまでここにいるし、すぐに駆けつけるから」
「うん。ありがとう」
私は振り返り、夫を安心させるようにできるだけの笑顔を向けた。
「じゃ、いってくるね」
「ああ」
前を向き直り、車輪の横のハンドリムに手を掛け、ゆっくりと漕ぎ出す。夫に聞こえないように小さく口の中で呟きながら。
「さよなら。今までありがとう・・・・・・」
夫からは見えない私の膝掛けの上に一滴だけ水滴がおちた。
車椅子で路地の中へ入っていく。
その路地の幅は車椅子で移動するにも十分な広さがあった。それに、特に通行の障害になるようなものもなく、坂にもなっていない。車椅子を漕いで進むのには比較的ラクな道だった。
やがて、行く手に周囲の景色とはあきらかに異質なものを見つけた。
黒いビニール製の幕で路地から区切られた区画。隅の方に、入り口が切られており、扉代わりに黒い布が垂れ下がっている。おそらく目的地はここだろうか?
私は、多少の気後れを感じながら、その入り口らしき場所の前に移動する。
訪問をしらせるチャイムやノッカーなどそれらしいものを探してみるが見つからない。しかたなく、その場所から中へ声をかけてみた。
「あの、すみません」
すぐに中から返事が聞こえてくる。若い男性の声。
「はい」
そして、目の前の布がめくられて、中から若い男性が顔をのぞかせてきた。
「いらっしゃいませ」
「あ、あの、私、チラシを見てきたのですが」
膝かけの下に忍ばせたポシェットから、チラシを取り出す。先日、我が家のポストの中に入っていたものだ。
その若い男性は、私の手の中のチラシに一瞥もくれることなく、うなずく。そして、入り口の布を持ち上げたまま、私を通すように脇へどいた。
「はい。どうぞ、中へお入りになってください」
「お、おじゃまします」
そうして、私はその中へ入っていったのだった。
中は、光に溢れていた。
路地の奥とは思えない、立派な家具がいくつかおかれており、床はフカフカの絨毯で覆われ、温かい空気が私を迎える。
「いらっしゃいませ。夢オチ師・保佐津事務所へようこそ」
その若い男性は、私の向かいの椅子に腰掛けると、爽やかな笑顔でそう言った。その笑顔は十分に幼く、まだまだ少年といってもいい年齢のようだ。
私の前のテーブルには、芳しい香りが立ち込める紅茶のカップが並べられている。
私は、その紅茶を一口口に含んだ。すごく美味しかった。
「では、ご依頼をお伺いいたしましょう」
てっきり、目の前の少年は、この事務所の主の息子かなにかだと勘違いしていたのだが、どうやら、この少年こそが、この事務所の主のようだった。
一瞬、驚きに眼を見張る。けれども、テーブルの上で両手を組んで座っている少年の姿に妙に人を信頼させてしまうようなオーラが感じられる気がした。
瞬間感じた不安が、その少年の姿を眼にしているだけで、なぜだか薄れていった。
そして、私はここを訪問するにいたった理由をすべて話し出した。
私が車椅子なしでは過ごせない体になってしまったのは、23のときだった。
大学を卒業し、就職した私。結婚を前提にしたお付き合いの男性もいて、順風満帆な新社会人生活を開始してからしばらくたったころだ。
その日、私は、未来の夫となる男性とデートを楽しんでいた。
二人でウィンドーショッピングを楽しみ、イタリアンレストランでランチをとり、喫茶店であれこれたわいもないことをおしゃべりして、映画館で映画を観た。
なにを買ったのか、なにを食べたのか、どんなおしゃべりをしたのか、なんの映画をみたのか、正直、あまり覚えていない。ただ、楽しくて、うれしくて、幸せだったのだけは忘れられない。
その幸せが暗転したのが、映画館を出た直後だった。
薄暗い映画館から、明るい日差しが差し込む街中へ。腕に腕を絡めて、ふたりで微笑を交わしながら、歩道をそぞろ歩きしだす。
と、急に彼が立ち止まり、慌てたように自分の体の周りを眺め回す。
「ん? どうしたの?」
「あ、さっき買った荷物、映画館で忘れたみたいだ」
そういえば、たしかにさっきまで手にしていた紙袋がない。
「悪い、ここで待ってて。俺、いそいで戻ってとってくるわ」
そう言って、彼はその場を離れたのだった。
『もう、そそっかしいんだから』なんて、呟きながらその歩道の脇で私は彼が戻ってくるのを待つことにした。
そして、ほどなく、その事故が起こった。
私の立っている場所のすぐ傍の車道で車同士が衝突し、はずみで、一台の車が私の方へ突っ込んできたのだ。
そうして、私は二度と立ち上がることができない体になってしまった。
夢や希望に溢れ、まだはじまったばかりのはずの私の人生。その瞬間に絶望一色に塗りつぶされた。
そのあと、長く苦しいリハビリに耐え、車椅子に乗って移動できるようになるまで、口では言いあらわせられないほどの苦労を強いられた。
今まで普通にできていたことができない。簡単にこなせていたことをするのにも、以前の何倍もの時間が必要になる。介助をしてくれる人がいなければ、一人前のことすら不可能。
なんで、私が。なんで、私だけが・・・・・・
絶望の果てに自ら命を絶つなんてことにならないですんだのは、入院中に入籍してくれた夫がいつもそばにいて私を支えつづけてくれたからだった。いつも私の傍にいて、介助を熱心に行ってくれたからだった。
夫にはとても感謝している。感謝して、感謝して、それでも、感謝しきれないほどに。
けれど、その夫は健常者。私ができないことを平然と行ってみせる。私の目の前でなんの苦労の色も見せずに・・・・・・
こんな体なのだから、できないことがあるのは仕方がないこと。それは私にも分かる。けれど、昔なら自分でも簡単にできたことを、目の前で夫がやってみせ、今の私ができないってことをこれでもかというぐらいまざまざと意識させてくれる。
私がどんなに無力で、役に立たないかを身に染みさせてくれる。
彼と一緒にいるだけで、私はどんどん惨めになる。自分がちっぽけで哀れな存在に感じられる。
なんで? どうして、なんでもできる彼が私のそばにいるの? いつも私のできないことをして見せるの? 私をこんなに惨めな気分にさせるの?
いつしか、私は夫のことを恨むようになった。感謝しているのは今でも変わらない。けれど、それと同じぐらい。ううん。それ以上に、彼のことを憎んでもいる。
そして、そんな相反する感情を抱え込み、モンモンとしている自分自身が許せなかった。大っ嫌いだった。毎日を呪っていた。
そんな日々をずっとすごしてきたのだが、先日、我が家のポストにチラシが入っていた。
『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』
デカデカとそんな文字が踊るチラシ。一瞬、いたずらか何かだと思い、そのままゴミ箱へ捨てようとしたが、なぜか気になる。もう一度、テーブルに広げて、よく読んでみる。やがて、そのチラシを見ていて、『これだ!』と確信するようになった。なんの理由もない。なんの根拠もない。けど、ためしにでもなんでも、これにすがってみたく思えたのだ。
だから、私は今日ここに来た。
私のこの悪夢のような人生をリセットするチャンスを得るために。もちろん、そんなことが可能だなんて、まったく信じてすらいないけど、もしかしたら・・・・・・
「そうですか。それは、大変でしたね」
目の前の少年は、私の話を悲しそうな表情をして聞いていたが、やがて、そうポツリと言った。
私は話を終えて、ホッと息を吐き出す。
正直、この少年に話したとしても意味のないこと。でも、夫にも話せないこんなことを全部口にしたのなんて、初めてのことだった。
妙に肩の力だ抜けて、気分がラクに感じられた。
この少年に話をすることができただけでも、価値のあることだったと思う。たとえ、実際に人生をリセットできなかったとしても・・・・・・
私は、とっくに冷めてぬるくなった紅茶のカップに手を伸ばして、飲み干した。
と、突然、
「ぐはっ! きゃぁああああ!」
少年の後ろにある装飾過剰な長いすの陰から悲鳴が上がる。次の瞬間、長いすの陰から誰かが飛び跳ねるようにして体を起こした。
小学生にも見えるような小柄な女。少女。ただ、胸の大きさだけは、大人のそれであり、決して小学生のものではない。少女の顔はフランス人形のように整い、その身につけているゴスロリなドレスとあいまって、幻想的な美しさをかもし出している。だが、上半身を起こした少女は、悲鳴を上げ続けるばかりで一向にその悲鳴を納める気配もない。
「きゃぁああああ!」
私はその脳天を突き抜けるような悲鳴に耳をふさいだ。頭がガンガンする。
一方、目の前の少年は、その悲鳴に慣れているのか、顔をしかめることもせず、最初に見たような爽やかな笑みをいまだに維持し続けている。
やがて、少女は悲鳴を上げるのを止め、長いすの上で深呼吸した。そして、
「あ、こ、ここは・・・・・・ ハッ、今の夢? なんて悲しい・・・・・・ お、お兄ぃ? お兄ぃ?」
その美しい顔に翳をかざしながら、なにかを呟いていたが、ハッと顔をあげ、長いすの背越しに、私たちの方を見る。
「ああ、文殊、起きたね」
「弥勒兄ぃ。・・・・・・お、お客さん?」
「ああ、そうだ、今、依頼の内容を聞いていたところだ」
「そ、そう・・・・・・」
少女は、目の前の少年に話をしながら、ずぶずぶと沈みこむようにして、座っている長いすの背の向こうへ隠れていく。
「あ、妹は、人見知りなもので、すみませんね」
少年はそういって、ほんのすこしだけ笑みに苦笑を交えた。
次の瞬間だった。私の視界がぐらりと揺れた。
地震!
いや、違う。私の体がテーブルに向かって倒れていく。そして、私は気を失った。
「ハッ! な、なに!」
思わず、大きな声を出して、上半身を跳ね起こす。
周囲はまっくらだけど、目の前にだけは巨大な発光体が広がっている。赤、青、黄色、いろんな色が次々に変化し、踊るように流れ、空間を満たす大音響が耳を打つ・・・・・・
違う。目の前にあるのはスクリーンだ。スクリーンに映像が映し出されている。映画だ!
瞬間、記憶がよみがえってきた。
今日は休日で彼とデート。ショッピングやランチを楽しんだ後、映画を観に来たのだった。
数日前から楽しみにしていた映画。テレビで流れていたCMの予告編ではすごく面白そうな作品だったが、いざ映画館で観ると、CMに使っていた部分だけが面白くおかしいだけ。他の部分は、とても退屈な作品だった。
おかげで、まだ慣れない社会人生活の疲れがでたのか、いつのまにか私は眠りこんでしまったようだ。
周囲を見回すと、私の隣の席でも彼が安らかな寝息を立てている。見える範囲にいる他の観客も半分あくびをかみ殺しているかのような顔をしている。
はぁ~ チケット代の無駄だったなぁ~
やがて、映画は終幕を迎え、エンドロールが流れ始めた。
観客たちは疲れたような表情をして、そそくさと出口を目指し始める。
「うわぁああ~~」
隣からのんきなあくびが。彼も目覚めたようだ。
「おはよう。よく眠れた?」
顔を覗き込む私を確認した途端、すごく気まずそうな表情を浮かべた。
「あっ、あ、わ、悪い。昨日、遅くまで寝付けなかったから」
「ふふふ。いいのよ。別に気を使わなくても。私もさっき眼が覚めたところだから」
「ん? ・・・・・・ ははは、なんだ」
「ちょっと期待はずれだったね」
「ああ、CMだと面白そうだったんだけどなぁ」
「うん、そうだねぇ」
なんて、口々に言い合いながら席をたち、出口へ向かった。
やがて、映画館の外へ出て、腕を組んで歩き始める。
「どこ行こうか?」「う~ん、じゃ、この先のカラオケでいい?」「うん」
なんてことをしゃべっていたのだけど、急に彼が立ち止まった。
「あ、あれ?」
「ん? どうかしたの?」
「あ、さっき買った荷物、映画館で忘れたみたいだ」
見ると、たしかにさっきまで手にしていた紙袋がない。
「悪い、ここで待ってて。俺、いそいで戻ってとってくるわ」
そう言って、彼がこの場を離れようとする。不意に、なにかとても不吉なものを感じて、思わず、彼の腕をぎゅっと抱きしめなおして、引き止めた。
「ん? どうした?」
「二人で一緒に行こう、ね?」
「う~ん・・・・・・ でも、荷物をとりに戻るだけだしなぁ 二人で行くほどのことじゃないとおもうんだけど」
ちょっと戸惑い顔の彼を見上げて、私は優しく微笑む。
「じゃ、こうしよう。俺が先に行って、カラオケの部屋とっておくから、荷物とってきて、あとからきなよ」
すこし考えて、彼の提案に同意することにした。
そして、私はその場を離れて、映画館にもどり、彼は私のその背中をしばらく見送っていたようだった。
映画館で無事に忘れ物の紙袋を取り戻し、カラオケ店を目指し歩き始めると、急にあたりが騒然となってきた。
通りを何台もの救急車やパトカーが追い抜いていく。
事故があったようだ。
急に私の胸の中にどす黒い不安の雲が広がる。
慌ててハンドバックからケータイを取り出し、すぐに登録してある番号を探しだして、祈るように通話ボタンを押した。
でて! お願い、でて!
心の中でそう念じながら、耳を澄ます。やがて、プツッと通話開始のかすかな音が聞こえ、とてつもない安堵感が私の中に広がる。けれど・・・・・・
「もしもし、このケータイの持ち主のお知り合いの方ですか?」
知らない声だった。
後で聞いた話では、私と別れたあと、彼は近くの公衆トイレに入って用を足し、それからカラオケ店へ向かうつもりだったようだ。
トイレから出て、丁度、私たちが別れた場所までもどってきたとき、その事故が起こった。そして、彼は巻き込まれた。
一時は危ない状態になったが、奇跡的になんとか命だけは助かった。だが、もう彼は自分の足では歩くことはできなかった。
長い入院とリハビリを経て、なんとか日常生活に支障がない程度にまで機能を回復することができたが、それでも、だれかが彼の傍に四六時中いて、介助をしていなければいけなかった。
私は会社を辞めた。そして、彼の籍に入った。
誰かが彼の介助をしなければならない。彼の家族は遠くに住み、彼の介助をすることはできない。
そして、彼の傍には私がいる。
もし、あのとき、彼に忘れ物をとりに行ってもらっていれば、彼があんな事故に遭わずに済んだのに違いない。
もし、あのとき、私が、忘れ物をしなければ。もし、あのとき、私が、彼にねだって雑貨を買ってもらわなければ。もしあのとき・・・・・・
後悔の念が私を襲う。覆い尽くす。圧しつぶす。
私こそが彼の手足となって、彼の手助けをしなければ。私こそが、彼の身の回りの世話をしなければ。
彼がつらいリハビリに根を上げ、私に当り散らしたとしても、私はそれをだまって受け入れなければいけない。なぜなら、あのとき、私が・・・・・・
彼がままにならない日常に癇癪をおこして暴れたとしても、私はそれをやさしく許さなければいけない。なぜなら、あのとき、私が・・・・・・
彼が・・・・・・
彼の前では絶対に泣き顔を見せない。涙を飲み込み、笑顔でい続ける。彼のことを励ましつづける。彼のことを愛し続ける。私のせいでこんな体になった彼を守りぬく。
それから何年のときが経ったのだろうか?
あるとき、押入れを整理していると、あのとき映画館から引き取ってきて、そのままにしてあった紙袋が見つかった。
正直、それを眼にするだけでもつらい。そのまま、捨ててしまおうかとも思う。
けれど、なぜか、中身を確認したい気分に強くなった。
気が乗らないまま、紙袋をひっくり返す。雑貨の入った小さな箱。そして、その傍に折りたたんだ紙切れがあった。紙切れを取り出し、広げる。チラシだ。ずい分時間が経っているので、かすれて消えかけた文字。
『その悪夢おわらせませんか? あなたの人生リセットしましょう!』
気がついたら、私はあの路地に飛び込んでいた。
そして、あの事務所を見つけ、中へ飛び込んだ。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
あの少年は変わらない笑顔で私を迎えてくれた。
前回と同じように、私の前のテーブルに紅茶のカップが置かれ、少年は痛ましそうな表情で私の話に耳を傾けていた。
やがて、
「そうですか。それはお気の毒に・・・・・・」
少年はそこで、ホッと息を吐き出した。それから、ゆっくりと笑みを顔中に広げていく。
その笑顔を見つめていると、私の中で、なにかがふわふわと解けていくのを感じていた。
眼の縁が熱くなってくる。少年の姿がにじんで見えてくる。
「だからお願い、あの人の足を元に戻して」
最後に私は、そう口にしていた。
と、
「ぐはっ! きゃぁああああ!」
少女が長いすの向こうで弾かれたように起き上がった。
「きゃぁああああ!」
盛大な悲鳴をあげる。頭に響くような甲高い悲鳴。思わず耳を押さえる。
やがて、少女の悲鳴が途切れ、こちらへ視線を向けてきた。
「弥勒兄ぃ、お客さん?」
「ああ、そうだよ」
「私、また、ひどい夢を見ていたみたい。悲しかったよぉ」
「ああ、大丈夫だよ。それは全部夢だから。悲しい夢を見ていただけなんだから」
「お兄ぃ・・・・・・」
眼を潤ませる少女を励ますように少年は何度もうなづいていた。
それは、とてもほほえましい光景だった。ゴスロリ美少女と爽やかスマイルの少年兄妹の掛け合い。まるで、一幅の絵のような光景。私は、その光景を美しいと感じていた。にじんだ視界を通して、うっとりと見とれていた。
そして、そのうちに、私は意識をうしなった。
「大丈夫か? 具合はどうだ?」
不意に肩を叩かれて、目が覚めた。
「え?」
周囲を見回す。心配そうな顔で後ろに立っているのは夫だった。左右両側には打ちっぱなしのコンクリートの壁がせまり、コンクリートを固めた細長い地面が前後に続いている。ここは路地のようだ。私は路地に放置された薄汚れたテーブルに身を投げ出すようにして伏せており、その肩に夫が手を置いて揺すっている。
「あなた・・・・・・」
「大丈夫か? なんともないか?」
「ええ・・・・・・」
ぼうっとする頭を軽く振って、思考をはっきりさせようとして、ハッと気がついた。
この人、自分の足で立っている! だれの介助も受けずに、自分の足で立って、私を起こそうとしている。
突然、胸の中に、強烈な安堵感が広がった。ホッとして、自分も起き上がろうとして、自分の足がいうことを利かないことに気がついた。
あっ・・・・・・
一瞬、脳裏に、夫が身障者で私が健常者だったときのことが蘇る。あのつらくて苦しくて、夫に申し訳ないと思いながらすごしていた日々。夫のためなら、どんなことでも我慢して、できて、しなきゃいけなかった私。
今、私と夫の立場は入れ替わっている。そして、だからこそ分かる。今の夫のことを。夫の気持ちを、後悔を。
これまでの私が、なんてわがままで、自分勝手だったのかを。
「そろそろ車へもどろう。ここは冷える」
夫は、そういうと、私の背中と腰の下に腕を差し入れ、そして、そのまま持ち上げた。
「あ、車椅子・・・・・・」「いいさ、後で取りに来る」「うん」
そのまま、路地を進み始めた。出口の方へと。
私は、そんな夫に小さくささやきかけた。
「ありがとう。今まで・・・・・・」
路地を風が吹きぬけ、ボロボロになった紙切れが、夫の足元を吹き飛ばされていった。
私は、もう、その紙切れが飛んでいくほうには眼を向けない。
ただ、これから夫と二人で進んでいく明るい方へと視線を定めたままで。
先週、ブログ(http://loveetc.seesaa.net/)の方へ載せたきり、こっちへ転載するの忘れてた。たはは・・・・・・