白雪姫、いったん起きてください。
「木の役です。立っているだけです。台詞はありません」
俺がその三つの条件に同意した証拠として、保育園からのメールは今も保管してある。
後日、争いになった場合に備えてだ。
*
娘の通う保育園には、秋のお楽しみ会で保護者が劇をするという伝統がある。
今年の演目は『白雪姫』。
俺の役は、木。
適材適所だと思った。
人前で話すのは苦手だ。緊張すると声が上ずるし、挨拶を頼まれると「簡単ではございますが」から話し始め、そのまま簡単に終わってしまう。
木なら大丈夫だ。
少なくとも、名乗る必要がない。
「お父さん、木なの?」
五歳の娘、すずは、配役表を見て首をかしげた。
「そう。森の木」
「りんごなる?」
「ならない」
「うごく?」
「動かない」
「しゃべる?」
「しゃべらない」
すずは少し考えた。
「お父さん、会社といっしょ?」
家で仕事の話をするのは、今後控えようと思った。
すずも、人前に出るのが得意ではない。
家ではよくしゃべるのに、保育園で何か発表するときは、喉の奥に小さな栓ができてしまうらしい。
去年の保護者劇は『大きなかぶ』だった。
最後に出てくるねずみを気に入り、帰宅後は何度も「ちゅう」と言っていたが、客席では口を閉じて見ていた。
「木だったら、まちがえない?」
すずが訊いた。
「まあ、立ってればいいからな」
そう答えた俺を、一週間後の俺が殴りに来なかったのは、未来から移動する技術がなかったからにすぎない。
*
本番当日。
舞台裏に運び込まれた木は、想像していたよりも、生活感があった。
太い幹。緑の葉。左右に伸びた枝。
枝の先には、茶色い紙で隠しきれていない金属製のフックがついていた。
「これ、ハンガーラックですよね」
俺が言うと、女王役の高橋さんが胸を張った。
「うちの店の備品です。普段はエプロンを掛けています」
高橋さんは駅前の園芸店を営んでいる。
今回の衣装や小道具も、かなり貸してくれたそうだ。
「そのフックに衣装を引っかけないでくださいね。レースは特に。引っ張ると傷みますから」
「覚えておきます」
「衣装も借り物なので、絶対に切らないでください」
覚えておくことが増えた。
担任の佐伯先生が、幹にかかった茶色い布を少しめくった。
その下から、つやつやした白い曲面が現れた。
「中は、去年のかぶです」
「俺、木じゃないんですか」
「外見は木です」
職務内容の説明として、不安の残る回答だった。
去年使った大きなかぶに茶色い布をかぶせ、左右へハンガーラックの枝を取りつけてある。
頭の葉っぱも、去年のものを増量したそうだ。
白い胴体の中は空洞になっていて、俺はそこへ入る。
衣装の重さは、下のキャスターつきの台が支える。
俺自身は床に立ち、内側の取っ手を押せば、台ごと移動できる仕組みだ。
小さな黒いペダルを踏めば、車輪が止まる。
「木なので、基本は動かなくて大丈夫です」
「基本、というのは」
「場面転換のときだけ、少し」
契約条件が、早くも揺らぎ始めていた。
先生は茶色い布をめくったまま、枝の根元を指さした。
「何か絡まったら、ここで枝ごと外せます。留め具は外側にあるので、近くの人にお願いしてください」
「なるほど」
「それから、困ったら中の赤い紐を引いてください。正面の面ファスナーが外れて、左右に開きます。そのまま歩いて出られますから」
非常口のある植物だった。
「本当に困ったら、遠慮なく劇を止めてくださいね」
先生が言った。
俺は頷き、黒いTシャツの上から木に入った。
Tシャツは、去年の誕生日に妻からもらったものだ。
胸には金色の大きな文字で、
〈本日の主役〉
と書いてある。
衣装の下は黒い服にしてください、と言われていた。
洗濯済みの黒い服は、これしかなかった。
俺は正面をしっかり閉じた。
何があっても、木でいようと思った。
「お父さん、なまえ書いとくね」
客席へ行く前のすずが、幹の裾に白いテープを貼った。
たどたどしい字で、
〈おとうさん〉
とある。
「なんで?」
「おかたづけで、まちがって捨てられないように」
なるほど。
非常口と所有者表示のある植物だった。
舞台裏では、白雪姫が腕立て伏せをしていた。
近藤さん。大工。肩幅が広く、胸板が厚い。
役は抽選で決まった。
「寝ている時間が長い役で助かります」
そう言いながら二十回目を終えた。
この人が森へ逃げ込む必要性を、女王はきちんと説明できるのだろうか。
王子役の田所さんは、宅配便の配達員だった。
白雪姫と寝台を見比べ、台本をめくった。
「これ、姫ごと持ち上げるんですか」
まず運搬方法を確認するあたり、信用できると思った。
「持ち上げなくて大丈夫です。寝台を少し揺らすふりをして、りんごを外してください」
先生は赤いりんごを見せた。
中に磁石が仕込んであり、白雪姫の襟元の金具にくっつく。
かじるふりをしたあと、そこに留めれば、喉にりんごが詰まって倒れたことを表現できるらしい。
「口には入れないでくださいね。最後に王子さまがこれを外して、『姫、お目覚めください』と言ったら、白雪姫が起きます」
「その台詞が合図ですね」
近藤さんが確認した。
「はい」
「わかりました。そこまでは、しっかり寝ています」
起きる練習より、寝る決意のほうが強かった。
田所さんがりんごを机に置いた。
置いたつもりだった。
横にあった王冠の留め金に、ぺたっとくっついた。
「王子、すでに毒をかぶっています」
近藤さんが言った。
「頭は指定の置き場所じゃないですね」
田所さんは剥がした。
王子の剣は、子どもが触っても安全なスポンジ製だった。
抜くと先端が少し垂れる。
腰の低い剣だ。
小人は、二人のお父さんと、五人分の等身大パネルだった。
「七人いますね」
先生が言った。
生身の小人の一人が頷いた。
「五人はずっと様子見ですけどね」
もう一人が、五枚のパネルをまとめて抱えた。
七人分の労働をする二人が、すでに完成していた。
舞台脇では、演目の看板を裏返している。
去年の〈おおきなかぶ〉の反対側に、今年の〈しらゆきひめ〉と書いたらしい。
設備のほとんどが、まだ根菜を諦めていなかった。
開演十分前。
佐伯先生が、三枚のカードを持って俺のところへ来た。
「森田さん、お願いがありまして」
俺は幹の中で身構えた。
頼みごとをされる木。
嫌な予感しかしない。
「鏡役のお父さんが、発熱でお休みになりました」
「お大事になさってください」
「それで、鏡の声をお願いできますか」
「お大事になさってください」
「同じお返事ですね」
俺は枝を揺らした。
風のせいということにしたかった。
鏡のパネルを木の前に置くので、その後ろから声を出すだけだという。
「台詞は三つです。カードを見て読めば大丈夫ですから」
先生は順番に見せた。
〈女王さま、あなたです〉
〈白雪姫です〉
〈ほんとうのことしか言えません〉
最後の一枚は、職場に持っていきたいと思った。
俺は引き受けた。
鏡役のお父さんが欠席して、困っているのは先生だ。
この状況で木の権利を主張するのは、さすがに難しかった。
「声は、少し低めにお願いします」
「女王さま、あなたです」
「いいですね。神秘的です」
幹の中で声がこもっただけだった。
開演の音楽が流れた。
俺は三枚のカードを握りしめた。
植物の労働条件は、思っていたより悪かった。
*
幕が開いた。
遊戯室には、子どもたちとその家族が並んでいる。
前のほうに、妻とすずがいた。
すずは俺を探すように舞台を見回していたが、木を見つけると、小さく手を振った。
俺も振り返しかけた。
駄目だ。
木だ。
葉を少しだけ揺らした。
女王が鏡の前に立った。
「鏡よ、鏡。この世で一番美しいのは、だあれ?」
俺は一枚目を見た。
「女王さま、あなたです」
声が少し震えた。
でも、言えた。
女王は優雅に笑った。
「そうでしょうとも。上品で、気高く、優しく、寛大で、誰からも愛される、このわたくし」
台本より形容詞が四つ多い。
女王がちらりとこちらを見た。
何か返事を求められている。
俺は焦り、三枚目を読んだ。
「ほんとうのことしか言えません」
一拍、静かになった。
保護者席から笑いが起きた。
女王がゆっくり鏡に顔を近づけた。
「……今の、どこが嘘だというの?」
台本にない。
俺は二枚目を読んだ。
「白雪姫です」
「質問に答えなさい」
俺は三枚のカードを見比べた。
どれを出しても、女王の怒りが増す。
じゃんけんで、手持ちが全部チョキだった。
佐伯先生の語りが、間に入った。
「ところが、やがて白雪姫が成長すると、鏡はこう答えるようになりました」
助かった。
「白雪姫です」
今度は正しい場所に着地した。
女王は両手を震わせ、嫉妬に燃えた。
かなり本物に見えた。
鏡が片づけられ、場面は森へ移った。
白雪姫が、俺の後ろへ隠れた。
肩が、左右から出ていた。
「みえてる!」
客席の男の子が叫んだ。
白雪姫が少し身を縮めた。
「まだみえてる!」
主に三角筋が見えていた。
舞台の端から、白雪姫を捜す女王が近づいてくる。
このままだと発見される。
俺は黒いペダルを上げ、木を横へずらした。
白雪姫が隠れた。
女王が逆へ歩いた。
俺も逆へ動いた。
「木、うごいた!」
子どもが叫んだ。
佐伯先生が、すぐに言った。
「森には、つよーい風が吹いていました」
女王が右へ。
俺も右へ。
女王が左へ。
俺も左へ。
白雪姫が幹の後ろで囁いた。
「もう少し左です」
「木に細かい注文をしないでください」
つい、普通の声で返してしまった。
客席から笑いが起きた。
女王が足を止めた。
「この森、妙に守備が堅いわね」
俺は葉を揺らした。
風です。
なんとか女王をやりすごし、白雪姫は七人の小人に迎えられた。
二人が自己紹介をした。
五人は、すでに笑顔だった。
その五人は、仕事の話になっても笑顔だった。
小人たちが出かけ、白雪姫が一人になる。
そこへ、黒い頭巾をかぶった老婆が現れた。
「おいしいりんごは、いかがかねえ」
「じょおうだ!」
子どもが即答した。
老婆は一瞬止まり、にっこり笑った。
「よく似ていると言われるんだよ」
木の中で、俺は三枚目のカードを伏せた。
老婆が、俺の横を通る。
りんごが枝に触れた。
ぺたっ。
りんごは、俺になった。
正確には、枝先の金属フックにくっついた。
老婆は二歩進んでから、空の手を見た。
振り返る。
木に、赤い実が一つなっていた。
「……返しておくれ」
俺は手渡しのつもりで、台を少し動かした。
老婆が手を伸ばした側とは、逆へ。
りんごが遠ざかった。
子どもたちが笑った。
違う。
そこまで意地悪な植物ではない。
老婆は木の反対側へ回り込み、りんごを取り戻した。
「売り物を勝手に実らせるんじゃないよ」
保護者席まで笑い始めた。
俺は黒いペダルを踏み、じっとした。
植物にできる最善の謝罪だった。
ようやくりんごが白雪姫に渡った。
白雪姫はひとかじりするふりをし、襟元の金具にりんごを留めた。
「ああ、なんだか、眠く……」
そして、すぐそばの寝台へ横になろうとした。
俺は、ここで重大なことに気づいた。
白雪姫を隠すために動いたあと、元の位置へ戻っていない。
俺は寝台に、近すぎた。
白雪姫の袖の飾りが、枝先のフックに引っかかった。
身体を横にしようとしたため、レースの網目へフックの先端が入り込む。
白雪姫は寝台に腰を下ろした姿勢で止まった。
上半身だけが、木に礼をしていた。
「白雪姫は、深い眠りにつきました」
佐伯先生が言った。
近藤さんは、その姿勢のまま目を閉じた。
労働のあとに座って寝ている人としては、非常に完成度が高かった。
そして、襟元のりんごが枝に触れた。
ぺたっ。
再び、実がなった。
「とれた!」
前の子どもが指さした。
だが、白雪姫は起きなかった。
俺は小声で言った。
「近藤さん。りんご、取れました」
「合図が、まだです」
目を閉じたまま、小声で返ってきた。
「『姫、お目覚めください』までは寝ています」
なるほど。
勤務時間を守るタイプの死体だった。
*
王子が現れた。
白雪姫を見た。
木を見た。
もう一度、白雪姫を見た。
状況の確認が丁寧だ。
配達先の表札が二つあるときも、こうするのだろう。
「なんと美しい姫だ……」
王子は膝をつき、白雪姫の袖をそっと持ち上げた。
フックから外そうとしている。
だが、レースの網目に入り込んだ先端が、張りぼての枝に隠れて見えない。
王子は首を傾けた。
王冠が滑った。
邪魔になった王冠を外し、空いている上のフックへ掛ける。
それから、さらに身を乗り出した。
背中のマントが、反対側の枝に掛かった。
王子が立ち上がろうとした。
立ち上がれなかった。
木を挟んで、王子と白雪姫が並んだ。
収納が完了した。
「……森田さん」
王子が小声で言った。
「はい」
「これ、枝ごと外れませんか」
「外れます。幹の布をめくると、根元に留め具が」
「なるほど」
王子は無理に引っ張らず、首元の留め具を外した。
マントだけを枝に残し、自分は自由になる。
「姫、少し袖を緩めていただけますか」
白雪姫は目を閉じたまま答えた。
「私は今、眠っています」
「そこは存じ上げております」
王子の敬語が、仕事中のものになった。
女王が戻ってきた。
出番ではない。
完全に、助けに来た高橋さんだった。
ただし、顔は女王のままである。
「あらあら。こんなところで、どうなさったの?」
嘲笑しながら近づき、俺たちの間へ顔を寄せる。
「一回、幕を閉めましょう。布を引っ張る前に」
最後の一文だけ、貸出品の管理者だった。
舞台袖で、佐伯先生が幕へ手を掛けた。
俺と目が合うと、小さく頷いてくれる。
止めていい。
閉めれば、全部外せる。
それから、やり直せばいい。
俺は赤い紐に触れた。
胸の金文字を思い出した。
〈本日の主役〉
白雪姫の劇で、木の中からあの服を着た父親が出てくる。
すずは、どう思うだろう。
客席では、子どもたちが笑っている。
俺の失敗で、劇が止まりかけている。
汗が、首から背中へ流れた。
いいから、まず出よう。
そう思って、息を吸った。
そのとき、王子が剣を抜いた。
「この木には、きっと呪いがかかっている!」
柔軟な切っ先が、床を指した。
即興で、幕を閉めるまでの間をつなごうとしているのだ。
「ならば、この剣で木を切り倒し、姫をお救いしよう!」
王子は俺に目配せした。
倒されたふりをすれば、劇の流れで退場できる。
ありがたかった。
これなら、失敗を失敗に見せずに済む。
王子が、スポンジの剣を持ち上げた。
「だめ!」
客席から声がした。
すずだった。
椅子から少しだけ身を乗り出し、俺を見ていた。
「その木、ずっとおひめさま、たすけてた!」
王子の手が止まった。
「かくしてた!」
別の子が言った。
「りんごもとった!」
「わるい木じゃないよ!」
俺は幹の穴から、客席を見た。
すずは怒っていた。
俺が間違えたことにではなく、俺が切られることに。
俺が必死に位置を直している間、この子たちには、木が白雪姫をかばっているように見えていたのだ。
りんごを取り上げたことも。
眠った姫から、もう一度りんごを取ったことも。
どれも、俺の失敗だったのに。
俺は、握っていた赤い紐を見た。
それから、王子を見た。
「……そうですね」
王子は剣を下ろした。
「この木は、姫を守っていたのですね」
女王が俺を見た。
目が合った。
高橋さんは、にやっと笑った。
「では、この騒ぎを起こした悪者は、いったい誰だというの!」
俺は、今度はカードを見なかった。
「女王さま、あなたです」
遊戯室がどっと沸いた。
「そこは黙っておいで!」
「ほんとうのことしか言えません」
「あんた、鏡だったの!?」
「兼務です」
保護者席で、誰かが手を叩いた。
女王は額に手を当てた。
「この森、人手が足りてないわね!」
二人の小人が、舞台袖で深く頷いた。
五人は変わらず笑っていた。
俺は幹の内側の白い曲面を見た。
それから、舞台脇の看板を見た。
「高橋さん」
小声で呼ぶ。
「俺を、かぶに変える呪いって使えませんか」
女王の目が輝いた。
まずいことを思いついた人の目だった。
言い出したのは、俺だが。
「いいわね。ちょうど、布をめくらないといけないし」
女王は先生のほうへ顔を寄せ、「かぶ、やります」と短く伝えた。
先生は一度だけ瞬きをした。
そして、幕から手を離した。
女王が舞台の中央へ向き直り、両腕を高く掲げた。
「わたくしの邪魔をする生意気な木よ!」
溜める。
「お前など、大きなかぶになってしまえ!」
呪いの方向性が、ずいぶん台所に近かった。
女王が茶色い布を外した。
白く丸い胴体が現れる。
子どもたちが歓声を上げた。
「かぶだ!」
「おおきなかぶ!」
佐伯先生は舞台脇の看板を裏返した。
〈おおきなかぶ〉
演目が変更された。
経費を節約しておいて、本当によかった。
「このかぶを引き抜くことができたなら、呪いは解ける!」
女王が宣言した。
王子が訊いた。
「なぜ、解き方まで教えてくれるのですか?」
「対象年齢を考えなさい!」
王子は納得した。
ただし、引き抜く前に、片づけるべきことがある。
俺は寝台を見た。
一人、非常に戦力になりそうな人が寝ていた。
「白雪姫、いったん起きてください」
近藤さんは目を閉じたまま答えた。
「合図が、まだです」
俺は王子を見た。
王子も、俺を見た。
二人の間で、ようやく正しい業務が引き継がれた。
「姫、お目覚めください!」
白雪姫が、ぱちりと目を開けた。
空になった自分の襟元を触り、枝のりんごを見た。
佐伯先生が、力強く語る。
「魔法の木が、りんごを取ってくれたので、白雪姫は目を覚ましました!」
白雪姫は俺を見上げた。
「今度は、わたしがあなたを助けます」
そして、まだ袖をつかんでいるフックを見た。
「まずは、ここからですね」
頼もしかった。
白雪姫が、自由なほうの手で枝を支える。
女王は、カバーの下から現れた根元の留め具を外した。
枝が動かせるようになると、布を突っ張らせずにフックを抜けた。
王子のマントが掛かった反対側の枝も外し、取り外したものはまとめて寝台へ置く。
「破れていません」
女王が小声で報告した。
「よかった」
白雪姫が立ち上がった。
大きく肩を回す。
戦力が復帰した。
枝を外された俺は、短い葉っぱだけが頭に残った、立派なかぶになっていた。
王子が近づき、縁へそっと手を添える。
俺は小声で言った。
「二回失敗して、三回目で出ます。去年と同じで」
「了解です。動くのは半歩。本当に引っ張らないようにしましょう」
配送の打ち合わせとしても、非常に適切だった。
王子が後ろへ伝える。
女王が王子につかまった。
「あなたまで、手伝うのですか?」
王子が訊いた。
「抜けたかぶは、城へ持って帰ってスープにするのよ!」
俺は、第三の職種が食材になる可能性を知った。
二人の小人が続く。
最後に、白雪姫が加わった。
佐伯先生が語り始めた。
「王子が、かぶを引っぱって」
王子が腰を落とす。
「女王が、王子を引っぱって」
女王が腰を落とす。
「小人が、女王を引っぱって」
二人が腰を落とす。
「白雪姫が、小人を引っぱって」
舞台全体の重心が、ぐっと低くなった。
「うんとこしょ、どっこいしょ!」
俺は動かなかった。
まだだ。
佐伯先生が続けた。
「それでも、かぶは抜けません」
白雪姫が、俺にだけ聞こえる声で言った。
「本気なら抜けます」
「本気は出さないでください」
もう一度。
「うんとこしょ、どっこいしょ!」
かぶは抜けない。
二人の小人が、舞台の端に並ぶ五枚のパネルを見た。
「七人いるのに!」
「五人が動かないからだ!」
保護者席から、疲れた人に特有の深い笑いが起きた。
佐伯先生が客席へ向き直った。
「最後に、小さなねずみさんが来てくれたら、抜けるかもしれませんね」
俺は、前の列を見た。
すずが、膝の上で手を握っていた。
幹のカバーがなくなったので、俺の顔は葉の間から見えている。
すずと目が合った。
俺は頷いた。
すずが口を開いた。
「……ちゅう」
小さな声だった。
けれど、先生はちゃんと聞いた。
「あっ。ねずみさんが来てくれました!」
隣の子が言った。
「ちゅう!」
後ろからも聞こえた。
「ちゅう!」
「ちゅう、ちゅう!」
遊戯室が、ねずみの大所帯になった。
衛生管理の話ではない。
劇の話だ。
「みんなで、声を合わせましょう!」
俺は黒いペダルを上げた。
赤い紐を握り直した。
白雪姫が振り返り、客席へ笑いかけた。
「せーの!」
「うんとこしょ、どっこいしょ!」
列が半歩だけ下がるのに合わせて、俺も台を押した。
かぶが、するりと前へ動く。
台を止め、俺は紐を引いた。
べりべりべりっ。
正面が開く。
王子が横へよける。
俺は、その中から一歩出た。
黒いTシャツ。
汗で額に張りついた前髪。
胸に輝く、金色の文字。
〈本日の主役〉
一瞬、静かになった。
それから、保護者席が爆発した。
拍手と笑い声が重なった。
女王が俺の胸を指さした。
「最初から、そのつもりだったのね!」
「違います!」
今日いちばん大きな声が出た。
王子が胸に手を当てた。
「なるほど。あなたこそが、この森を守る――」
「木です!」
白雪姫が俺の肩に手を置いた。
「ただの木が、そんな服を着ていますか」
「妻が!」
客席で、妻が両手を叩いて笑っていた。
説明責任を、完全に放棄していた。
佐伯先生が、朗々と語った。
「かぶの中から現れたのは、森の木の精でした。木の精は、ずっと白雪姫を守っていたのです」
俺の知らない正体が、俺抜きで決まっていた。
子どもたちは、驚いていなかった。
そうだろう。
あれだけ動いて、しゃべって、果実を取り上げる木が、普通の木であるはずがない。
女王が残ったかぶを見た。
「……スープは?」
「作りません」
そこだけは、木の精として明確にしておいた。
最後の場面に戻るため、王子が寝台のほうへ行った。
外した枝からマントを取り戻し、王冠も外す。
ついでに、枝についていたりんごを剥がした。
両手の荷物をまとめようとした、そのときだった。
ぺたっ。
りんごが王冠の留め金にくっついた。
王子がそれに気づかず、王冠を持ち上げる。
「おうじもねちゃう!」
客席から声が飛んだ。
田所さんは手を止めた。
りんごを外し、真面目に言った。
「こちらは、お受け取りを辞退いたします」
白雪姫が深く頷いた。
「受け取らないのが一番です」
経験者の言葉だった。
王子と白雪姫は、木の精と森の仲間を城へ招いた。
女王は反省した。
「今後、りんごは普通に売ります」
と約束した。
七人の小人が、客席へお辞儀をした。
二人が屈み、五人のパネルがまとめて傾いた。
最後まで、二人が働いていた。
*
幕が閉じた途端、王子がその場に座り込んだ。
「この二十分で、一日分の配達をした気がします」
白雪姫が隣に座った。
「私は、寝ている間に演目が変わりました」
女王は衣装のレースを点検していた。
「本当に破れてない。よかった」
悪の敗北より、貸出品の無事を喜んでいた。
俺は空になった木を見た。
いや、かぶを。
どちらにしても、これほど多くの職種を経験した農作物は珍しいと思った。
舞台裏へ、すずが来た。
俺はしゃがんだ。
「ごめんな。お父さん、木なのにいっぱい動いちゃって」
「うん」
「しゃべったし」
「うん」
「最後は、かぶになったし」
「うん」
すずは俺の胸の金文字を指でなぞった。
「お父さん、へんだった」
「そうだな」
「でも、かっこよかった」
俺は返事をしそこねた。
すずは、外された茶色い布のところへ行った。
自分で貼ったテープを、慎重に剥がす。
〈おとうさん〉
そして戻ってくると、俺の胸に貼りつけた。
〈本日の主役〉の真ん中が隠れた。
妻がそれを見て、少しだけ笑った。
「そっちの役は、似合ってるね」
俺はテープの端を押さえた。
すずが、そっと耳元に顔を寄せた。
「お父さん」
「うん?」
「王子さま、剣いらなかったね」
「本人に聞こえないように言おうな」
背後で田所さんが、静かに咳払いをした。
帰宅後、保育園からメールが届いた。
今日のお礼と、保護者劇が子どもたちに大好評だったこと。
写真を後日共有すること。
そして、最後に一文。
〈来年は『桃太郎』を予定しています。森田さんには、桃の役をお願いできればと思っております〉
俺は続きを読んだ。
〈川を流れるだけです。台詞はありません〉
俺は返信欄を開いた。
去年より慎重になった社会人として、確認しておかなければならないことが、一つだけあった。
〈割れたあと、何になる役ですか〉
「木の役なら、何もしなくていい」
そんな安心感から始めて、木にできるだけ働いてもらいました。
結果として、鏡の仕事まで兼ね、白雪姫を守り、最後には演目の変更にも対応することになりました。
本人にとっては失敗の連続でも、見ている子どもには、頼もしい活躍に見えている。
その食い違いも楽しんでいただけたらうれしいです。
読み返したとき、序盤の何気ない注意事項が少し怖く見えたら幸いです。
なお、五人の小人からは、最後まで特に申し出はありませんでした。




