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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第9話 母でございます

 裁定院の石の床は冷たく、ルカの手だけが温かかった。


 高い天井。石壁に並ぶ燭台。正面に裁定官の席。左手に傍聴席。右手に証言台。


 傍聴席にフローラがいた。黒い衣装に真珠の首飾り。背筋を伸ばし、微動だにしない。その周囲に、見覚えのある貴族たちが数名。太夫人に恩を売ってきた人たち。


 ディルクは別の席にいた。軍服ではなく、正装の黒い外套。腕を組んで、前を見ている。


「お母さん、ここどこ?」


「大事な話をするところよ。ルカはお母さんの手を握っていてね」


「うん」


 ルカの小さな指が、私の手を握った。



「では、太夫人側の主張を」


 裁定官の声が響いた。


 フローラの代理人が立ち上がった。ブルーノではない。別の法務官だ。ブルーノが降りた後、急いで雇ったのだろう。


「リネット・ヘルダーリンは、公爵夫人としての務めを怠り、家事放棄および育児放棄を行いました。これは太夫人が作成した報告書に記載されております」


 報告書が裁定官に提出された。


(……育児放棄)


 怒りは、もう通り過ぎていた。あの夜マルタから聞いた時に、全部使い果たした。今は静かだった。凪いだ水面のように。


「リネット殿。反論がありますか」


「はい」


 立ち上がった。胸元から記録の写しを取り出した。半年分。一日も欠かさず書いた。ルカの体温、症状、処方、食事、睡眠。前世の看護師が叩き込まれた記録の習慣が、この薄い紙の束になった。


「裁定官殿。これはルカの半年分の看病記録です。毎晩、この子の枕元で記録を取っていました。育児放棄どころか──一日も、この子のそばを離れたことはありません」


 裁定官が記録を受け取り、頁をめくった。丁寧な字が並んでいる。日付、時刻、症状、処方の内容。几帳面な、一晩の例外もない記録。


 傍聴席がざわめいた。


 フローラの代理人が口を開きかけたが、裁定官が手で制した。


「次に、専門人証の証言を求めます。辺境巡回医師ハインツ・メルツ殿」



 ハインツ先生が証言台に立った。丸眼鏡を直して、裁定官に一礼した。


「銀花草は単独では去痰薬として有効です。しかし、小児に対する半年間の継続投与は、慢性気管支炎を引き起こします。リネット殿の記録には、侍医ヴェルナーが毎週この処方を出し、段階的に投与量を増やしていた事実が記されています」


 裁定官が眉をひそめた。


「これは治療の範疇ですか」


「いいえ。これは意図的な症状維持です。毒殺未遂に近い、と私は判断します。この所見は医師会に報告書として提出済みです」


 法廷が静まり返った。


「侍医ヴェルナーを証言台に」


 ヴェルナーが呼ばれた。青い顔をしていた。証言台に立った時、足が震えていた。


「ヴェルナー殿。銀花草の処方は、あなたの判断ですか」


 沈黙。長い沈黙。ヴェルナーの目が泳いだ。フローラを見た。フローラは微動だにしなかった。


「──太夫人の、ご指示です」


 フローラの顔色が変わった。


 初めて見た。あの人の顔から血の気が引くのを。傍聴席の貴族たちが、わずかに身を引いた。目に見える距離の取り方だった。



「公爵閣下。証言がおありと伺っております」


 ディルクが立ち上がった。


 証言台まで歩く。靴音が石の床に響く。フローラの前を通り過ぎる時、一度も目を合わせなかった。


 証言台に立った。正面を見た。


「私が無能な夫であったこと、無力な父であったことは事実です」


 声が──震えていた。


 あの人の声が震えるのを、初めて聞いた。大広間で沈黙していた時も、「息子の様子を見に来た」と嘘をついた時も、「記録は持っているか」と聞いた時も。震えたことなど一度もなかった。


「しかし──あの子の母が誰であるかは、あの子自身が決めたことです」


 傍聴席がざわめいた。


(──この人は)


 握りしめた手。あの大広間で、追放を告げられた時に見た右手。あの時は「怒っているのだろう」と思った。


 違った。


(この人はずっと、手を伸ばしたかったのだ)


 ルカに手を伸ばしかけて止めた、あの震えと同じだ。声が震えている。言葉にできなかったものを、初めて言葉にしている。



「裁定を下します」


 裁定官の声が、法廷に響いた。


「リネット殿のルカに対する養育実績と、看病記録による証拠を認めます。辺境巡回医師ハインツ殿の所見、および侍医ヴェルナーの証言により、銀花草の継続投与が太夫人フローラの指示による意図的な症状維持であったと認定します」


 フローラが立ち上がりかけた。代理人が袖を引いた。


「太夫人フローラ・フォン・レーヴェンハルトの公爵家における家政権を剥奪し、王都への蟄居を命じます。侍医ヴェルナーの医師免許を剥奪し、辺境への追放を命じます。また、婚姻契約違反による賠償金をリネット殿に支払うことを決定します」


 傍聴席の貴族たちが、一人、また一人と視線を逸らしていった。フローラのほうを、もう誰も見ていなかった。


「では──この子の親権について」


 裁定官が私を見た。


「リネット殿。ルカの親権を主張されますか」


 立ち上がった。ルカの手を握ったまま。


 糾弾はしない。嘲笑もしない。この場で私が言うべき言葉は、一つだけだ。


「私は、この子の母でございます」


 ルカが、私の手を握り返した。小さな指に、力がこもった。



 裁定が終わった。


 廊下に出た。ルカが私の手を離さない。


 ディルクが、前方にいた。こちらに向かって歩いてくる。すれ違う。


 一瞬だけ、足が止まった。


 何か言おうとしていた。口が開きかけた。


 ……何も言わなかった。そのまま通り過ぎていった。


「父上」


 ルカが振り向いた。


「父上も、一緒に帰れるの?」


 ディルクの背中が止まった。


 振り返らなかった。でも──止まった。


「……まだ、だ」


 それだけ言って、歩き出した。


 ルカが私を見上げた。「まだ、って何?」


(──私にも、わからない)


 でも、あの人は「いいえ」とは言わなかった。


 裁定院の窓から、春の陽が差し込んでいた。冬が終わろうとしている。長い、長い冬が。


 ルカの手を握り直して、出口に向かった。村に帰ろう。私たちの村に。

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