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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第8話 父親面をしないで

 法務官の馬車には、太夫人の紋章が燦然と輝いていた。


 あの方は、まだ諦めていない。


 カスパルの次は、法の専門家を送り込んできた。馬車から降りたのは五十がらみの男。背が高く、痩せていて、鷹のような目をしている。手には革装の書類鞄。


「リネット殿ですね。法務官ブルーノと申します。太夫人フローラ様の代理として参りました」


 丁寧な口調だが、隙がない。カスパルとは格が違う。この人は、法で戦う人間だ。


「単刀直入に申し上げます。現時点において、リネット殿にはルカ様の養育権がございません。公爵夫人の地位は婚姻破棄により失効しており、継母としての法的根拠もなくなっております。ルカ様は公爵家の嫡子であり、公爵家のもとへお戻しいただく必要があります」


 整然とした論理だった。法律の言葉で、私からルカを剥がそうとしている。


(……この人は、フローラの不正を知らない)


 目を見ればわかる。有能な法律家が、依頼人の指示に従っているだけだ。悪意はない。だからこそ、厄介だった。


「ブルーノ殿。いくつか確認させて──」


「その件は、俺が話す」


 声がした。


 診療所の裏手から、ディルクが歩いてきた。


 ……まだ、いたのか。ハインツ先生が去った後も、水路の補修を続けていたのは知っていた。でも、ブルーノが来ることを知っていたかのようなタイミングだった。


 ブルーノの目が見開かれた。


「──公爵閣下」


「この件は領主裁定に持ち込む」


 ディルクの声は硬かった。硬くて、冷たくて、大広間にいた時と同じ声。でも──向いている方向が、違った。


「母上の代理人では話にならない」


 ブルーノの顔色が変わった。


「閣下、太夫人のご意向は──」


「母上のご意向は聞いた。俺の意向を言っている」


 ……この人が、母に逆らった。


 公爵家の全てを取り仕切ってきたフローラに。政治も社交も家政も丸投げしてきた母に。初めて、公然と。


 ブルーノが困惑して私を見た。私は記録の写しとハインツ先生の所見書を差し出した。


「ブルーノ殿。これをお読みください。公爵家の侍医ヴェルナーが半年間にわたりルカに投与していた処方の記録と、辺境巡回医師ハインツ・メルツの所見です」


 ブルーノは書類を受け取り、読んだ。丁寧に。法律家の目で。


 読み終えるまでに、長い沈黙があった。


「……これが事実であれば」


 ブルーノの声が、初めて揺れた。


「太夫人の命令は、不正の隠蔽に当たる可能性がある」


 書類を閉じた。鞄にしまった。


「──依頼を辞退いたします。太夫人には、別の代理人をお探しいただくようお伝えください」


 一礼して、馬車に戻っていった。来た時と同じ速さで。法律家としての良心が、ここに留まることを許さなかったのだろう。



 馬車が去った。


 診療所の前に、私とディルクだけが残った。冬の風が吹いて、薬草園の枯れ枝が軋んだ。


「裁定に持ち込む」


 ディルクが言った。前を向いたまま。


「医師会の報告書が届けば、母上の関与は隠せなくなる。俺が証言する。ルカの処方が異常だったことを、この目で見た記録があると」


「……なぜ」


「なぜ?」


「なぜ、今さら」


 口を開いたら、止まらなかった。


「三年間、あなたはルカのそばにいませんでした。咳が止まらない夜も、熱が下がらない朝も、あなたはいなかった。追放の時だって、一言も反対しなかった」


 ディルクが、こちらを向いた。灰色の瞳が、真正面から私を見ていた。


「あなたが守ってくれなくても、私はルカを守れます。ここまで一人で守ってきました」


 ──言ってしまった。


「今さら父親面をしないでください」


 ディルクは反論しなかった。


 唇が一度だけ動いた。何かを言いかけて、飲み込んだ。


 長い沈黙。


「……わかった」


 それだけ言って、背を向けた。



 ディルクが馬に跨った。


 街道に向かって歩き出した。一人で。いつも一人で。


(──振り返って)


 心の中で、思った。


 振り返ってほしかった。一度でいいから。この村を、私たちを、見てほしかった。


 ディルクは振り返らなかった。


 黒い外套が街道の向こうに小さくなって、冬の靄に溶けて、消えた。


(……やっぱり、ここまでの人だ)


 そう思おうとした。思い込もうとした。でも胸の奥が痛くて、その痛みの正体がわからなくて、ただ立ち尽くした。


「お母さん」


 ルカが私の手を握った。いつの間にか隣にいた。


「父上、怒ってた?」


「……いいえ」


 しゃがんで、ルカの目を見た。灰色の瞳。父親と同じ色。


「きっと悲しかったのよ」


 ルカが小さく頷いた。


「お母さんも、悲しい?」


 ……この子は、本当に鋭い。


「少しだけね」


「少しだけ?」


「少しだけ」


 嘘だ。少しじゃない。でも、それを言葉にしたら、自分が何を感じているのか認めなければならない。


 夕方、マルタが来た。行商人から聞いた話だという。


「公爵家から裁定院に書類が出されたらしいよ。太夫人の名前で、あんたの育児放棄と家事放棄を訴える報告書が」


 ……偽造だ。


 育児放棄。毎晩ルカの枕元で記録を取り続けた私が、育児放棄。


(──最後の手段に出たのね、あの方は)


 怒りは不思議と湧かなかった。代わりに、胸元の記録に手を当てた。半年分の看病記録。毎晩書いた。一日も欠かさなかった。


 育児放棄の報告書と、半年分の看病記録。


 裁定の場で並べれば、どちらが真実かは明らかだ。


 ルカの寝息を聞きながら、暗い天井を見上げた。あの人は今頃、馬の上だろうか。凍った街道を、一人で。


(──振り返らなかった)


 その事実が、刺のように胸に刺さったまま抜けない。

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