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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第7話 証拠

「これは治療ではありません」


 ハインツ先生の声は穏やかだった。穏やかなのに、診療所の空気が凍った。


「これは、緩やかな毒です」



 ディルクが村に残っていた。


 帰ると思っていた。半日で帰ったあの人が、翌朝も村にいた。


 何をしているかというと──水路の補修をしていた。グスタフと並んで、石を運んで、崩れた水路の壁を積み直している。翌日は屋根の修理。その翌日は薪割り。


 一言も説明がない。


「……何のつもりなんでしょうね」


 マルタに聞いてみたら、「あの男、仕事は丁寧だよ」と的外れな感想が返ってきた。


(公爵閣下が廃村で薪を割っている)


 絵面として異常だと思うのは、私だけなのか。


 ディルクは私に話しかけてこなかった。ルカとは少しだけ言葉を交わしていたが、それも「飯は食ったか」「うん」程度の会話で、触れることはしなかった。あの時と同じだ。手を伸ばしかけて、止める。


 三日目の昼過ぎ。


 行商人の荷車に乗って、一人の男がやってきた。



「お久しぶりです、リネット殿」


 ハインツ・メルツ。辺境巡回医師。三十五歳。王都の医師会所属でありながら辺境を飛び回っている変わり者。痩身で、丸眼鏡の奥の目が鋭い。


「手紙に書いた通り、銀花草の件を直接確認したくて参りました。記録を拝見してもよろしいですか」


「もちろんです」


 診療所の机に、半年分の記録の写しを広げた。


 ハインツ先生は黙って読んだ。一枚一枚、丁寧に。時折、指先で行を追いながら、小さく唸った。


 長い沈黙の後、先生が眼鏡を外した。


「リネット殿。銀花草は単独では去痰薬として有効です。しかし、小児に対して半年間、毎週投与を続ければ、気管支の粘膜に慢性的な炎症を引き起こします」


「……やはり」


「これは治療ではありません。微量であっても、この期間この頻度で投与すれば──緩やかな毒です。毒殺未遂に近い、と言っても過言ではない」


 わかっていた。わかっていたはずだった。銀花草を抜いてルカの咳が止まった時点で、この処方がおかしいことは確信していた。


 でも、専門家の口からはっきり「毒」と言われると、違う。


(──あの子は半年間、苦しまなくてよかったのに)


 手が震えた。怒りか。悲しみか。わからない。ただ、あの小さな体が毎晩咳き込んでいた夜を思い出すと、視界が滲んだ。


「リネット殿の判断は正しかった。銀花草を除外したことで、ルカ君は回復した。あなたの記録がなければ、この事実は埋もれていたでしょう」


 ハインツ先生が私の記録を指先で叩いた。


「この記録は、証拠になります」



 窓の外に、気配があった。


 ディルクだ。診療所の窓の下に立って、こちらを見ている。いや、正確には──ハインツ先生と私が机を挟んで記録を見ている光景を、見ている。


 その手が、腰の剣の柄に触れていた。


(……癖かしら)


 軍人だから、無意識に武器に手が行くのかもしれない。


「リネット殿、この第十二週の処方ですが──」


「はい。ここから銀花草の量が微増しています」


「ええ。段階的に増やしている。これは明らかに意図的です」


 ハインツ先生と私が記録に頭を寄せ合った、その時だった。


「父上!」


 ルカが外から駆けてきて、窓の下のディルクを見つけた。


「父上、ハインツ先生はお母さんのお友達だよ。すっごく頭がいいんだよ」


 ディルクが──硬直した。


 剣の柄から手を離して、ルカを見下ろした。「……そうか」とだけ言って、窓から離れていった。


(……何だったの、今の)



 日が暮れた。ハインツ先生はグスタフの家に泊まることになり、診療所には私だけが残った。


 ──いや、一人ではなかった。


「記録を見せてくれ」


 ディルクが入ってきた。


 断る理由がなかった。この人はルカの父親だ。ルカの処方に何が行われていたか、知る権利がある。


 机の上に記録を広げた。ディルクが隣に立った。近い。肩幅の分だけ、距離がない。外套の革の匂い。


 ディルクの指が、記録の文字を追った。一行ずつ。ゆっくりと。


「……丁寧な字だ」


 小さな呟き。聞こえなかったふりをした。


「銀花草、毎週。量が増えている」


「はい。ハインツ先生は、意図的だと」


「……誰の指示だ」


 沈黙。


 ディルクの声が、一段低くなった。


「母上の命か」


 この人は──知っていた。いや、疑っていた。だから記録のことを聞いたのだ。確証が欲しかったのだ。


「侍医ヴェルナーの処方です。誰の指示かは、私には断定できません」


 嘘は言わない。でも、この人が自分で答えに辿り着くべきだ。


「──ただ、証拠は揃いつつあります」


 ディルクの顔を見た。灰色の瞳。揺れている。


「あとは、あなたがどうするかです」


 初めてだった。この人に、対等な言葉を向けたのは。妻としてでも、追放された元妻としてでもなく。ルカの母として、ルカの父に。


 ディルクは何も言わなかった。長い沈黙。記録の紙が、二人の指の下で微かに震えていた。



 翌朝。ハインツ先生が出立の準備をしながら、私とディルクの前で言った。


「医師会に報告書を送ります。銀花草の継続投与が治療ではなく意図的な症状維持であった可能性について、正式な見解として提出します」


 ディルクを見た。


「公爵閣下。これが公になれば、処方を命じた人物──太夫人の関与も、追及されますよ」


 ディルクの顔が、凍りついた。


 文字通り、凍った。灰色の瞳から感情の全てが消えて、雪の彫像のようになった。


 ……この人は今、選択を迫られている。


 母を守るか。息子を守るか。


 ハインツ先生が馬車に乗り込み、手を振って去っていった。ディルクは見送りもしなかった。村の真ん中に立って、凍りついたまま動かなかった。


(──あなたが選ぶのよ)


 私はもう選んだ。ルカを守ると決めた。記録を持ち出した。銀花草を抜いた。この村で生きると決めた。


 あとは、この人だ。


 ルカが「父上、朝ごはん食べた?」と駆け寄った。ディルクは黙ってルカを見下ろして──今度は手を伸ばさなかった。伸ばしかけることすら、しなかった。


 拳を、ただ固く握っていた。

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