第6話 手を伸ばしかけた人
馬の蹄の音が、凍った道を叩いた。
この辺りに馬で来る人間は、一人しかいない。
いや。一人もいないはずだった。行商人は荷車だし、近隣の村人は徒歩だ。馬で、しかも一頭だけで、冬の辺境を──。
洗濯物を干す手が止まった。
村の入口に、黒い馬が一頭。その背に、長身の人影。護衛はいない。従者もいない。冬の外套を纏った、たった一人の男。
降りた。
こちらを見た。
灰色の瞳。無表情。刃物のように鋭い顔の輪郭。──ディルク。
「……息子の様子を見に来た」
それだけ言って、馬の手綱を柵に結んだ。
三ヶ月ぶりに聞く声だった。あの大広間で沈黙していた人の声。低くて硬くて、感情の温度が読めない。
(──なぜ、今さら)
カスパルが手ぶらで帰った報告を受けて、確認しに来たのかもしれない。あるいはフローラに命じられて。どちらにせよ、この人が自分の意志でここに来るとは思えなかった。
「……どうぞ」
それ以外に、何を言えばいいのかわからなかった。
◇
ディルクは診療所に入った。
一言も発しなかった。
薬草の棚を見た。煮沸した布の束を見た。記録帳が整然と並ぶ棚を見た。壁に掛けた乾燥薬草を見上げた。窓を拭いた跡、床板を磨いた痕。
私はその後ろを、少し離れてついていった。何を探しているのか聞きたかったけれど、聞ける空気ではなかった。
(……監査でもしているつもりなのかしら)
公爵として、追放した元妻が何をしているか確認する。そういうことなのだろう。
診療所を出て、ディルクは薬草園の前で立ち止まった。
冬枯れの畝。霜に覆われた土。それでも、株元から小さな緑が顔を出している。春に向けて根を張り続けている薬草たち。
ディルクがしゃがんだ。
手袋を外して、土に触れた。凍った土の表面を、指先でそっと確かめるように。
「……よく育っている」
──声が、違った。
大広間で聞いた声でも、さっき「息子の様子を見に来た」と言った声でもない。硬さが抜けて、低い声がほんの少しだけ丸みを帯びていた。
(……何、今の)
聞いたことがなかった。この人の、こんな声。
ルカが「父上は夜に薬草園を見に来ていた」と言っていたのを思い出した。あの時は「監視していたのだ」と思った。でも今、この人が凍った土に素手で触れているのを見ると──。
いや。考えすぎだ。
「薬草のことはわかりませんが、冬を越せるよう手入れはしています」
「……そうか」
立ち上がった。手袋をはめ直した。また無表情に戻る。一瞬だけ見えた柔らかさが、外套の下に隠れるように消えた。
◇
「父上!」
ルカの声がした。
仮住まいの扉が開いて、ルカが飛び出してきた。頬が赤い。息が白い。走ってくる。全力で。
「父上、父上!」
ルカがディルクに向かって駆けていく。
ディルクが──手を伸ばした。
大きな手。剣を握るための、武骨な手。ルカの小さな体を受け止めるために、無意識に開かれた手。
……止まった。
ルカの肩に触れる寸前で、手が止まった。指が、開いたまま、宙に留まっている。
震えていた。
微かに。でも確かに。あの手が震えていた。
ディルクは手を引いた。拳を握って、体の横に下ろした。
「……元気そうだな」
ルカが少しだけ首を傾げた。でもすぐに笑って、「うん! お母さんのお薬でね、もう咳しないんだよ」と胸を張った。
「そうか」
……それだけ。
触れなかった。撫でなかった。抱き上げもしなかった。
(この人は、ルカにすら触れられないのか)
胸の奥が、きゅっと軋んだ。怒りなのか悲しみなのか、自分でもわからない。この子があなたに向かって走ったのに。全力で走ったのに。
ルカは気にしていない様子で、「父上、こっち! お母さんの診療所見る?」とディルクの外套の裾を引っ張った。ディルクはされるがままに、ルカに引きずられていった。
……あの手の震えは、何だったのだろう。
◇
日が傾き始めた。
ディルクが馬の傍に戻った。帰るらしい。滞在時間は半日にも満たない。馬で三日の距離を来て、半日で帰る。
(……この人は一体、何をしに来たの)
「リネット」
名前を呼ばれた。振り返る。
ディルクが馬の手綱を握ったまま、こちらを見ていた。灰色の瞳。無表情。でも──何かを言おうとして、言葉を探しているような、不自然な沈黙。
「……記録は、まだ持っているか」
「記録?」
「ルカの。看病の記録だ」
心臓が跳ねた。
なぜ、この人が記録のことを知っている。いや──記録を取っていたことは公爵邸の人間なら知っていておかしくない。でも、なぜ今、それを聞く。
(公爵家に不利な情報がないか、確認したいのか)
それとも。
「ええ。全て持っています」
ディルクが頷いた。それだけだった。
何も言わず、馬に跨った。背を向けた。
冬の道を、一頭の馬が遠ざかっていく。護衛もなく、従者もなく、たった一人で。
(──冷血公爵が、一人で廃村に来た)
その事実の意味を、考えないようにした。考えたら、期待してしまう。期待したら、裏切られた時にもう一度壊れてしまう。
「お母さん」
ルカが隣に来て、私の手を握った。
「父上、また来るかな」
「……さあ。わからないわ」
「来てほしいな」
ルカの声が小さかった。
ディルクの馬が街道の向こうに消えた。あの人が手を止めた瞬間の、指の震えが目に焼きついている。
──あの手は、何を掴もうとしていたのだろう。
答えは出ないまま、冬の空が暗くなっていく。マルタの家から夕餉の煙が上がっている。どこかで、カスパルの報告を受けたフローラが、次の手を打ち始めているはずだった。
風が冷たい。でも、ルカの手は温かかった。




