第2話 水車が回る
屋根のない家が三軒、壁の崩れた家が五軒。
井戸は枯れ、水車は朽ち、人の気配は草の匂いに負けていた。
……ここが、私たちの新しい家。
馬車を降りて七日。途中で御者に「ここから先は道がない」と言われ、ルカを背負って二日歩いた。公爵領の外れ、地図にかろうじて名前だけが残っている廃村。来る途中で行商人に聞いた「誰も住んでいないはず」の場所。
「お母さん、ここに住むの?」
ルカが私の手を握ったまま、不安そうに辺りを見回している。
……正直、私も不安だ。
屋根がない。壁が崩れている。井戸は枯れている。秋の風が遠慮なく吹き抜けて、ルカの細い髪を揺らした。前世の病院みたいに蛇口をひねれば水が出る、なんてことはない。当たり前だけど、ない。
(でも、ここなら誰も追ってこない)
公爵家の目が届かない場所。フローラの手が届かない場所。それだけで、この荒れ地には価値がある。
「大丈夫。住めるようにするから」
ルカの手を握り返して、もう一度村の全体を見渡した。
崩れた家屋。枯れた井戸。朽ちた水車小屋。
……水車。
足が止まった。
川はある。細いけれど、水は流れている。水車小屋の骨組みも、木が朽ちてはいるが構造自体は残っている。軸受けが外れて、水輪が傾いているだけだ。
(直せる)
前世で見た水車の構造が頭に浮かんだ。叔父の家の近くにあった観光用の水車小屋。理科の授業で習った、てこの原理。軸受けの角度を直して、水輪の重心を揃えれば──。
「ルカ、ちょっと手伝ってもらえる?」
「うん!」
ルカの顔がぱっと明るくなった。何でもいい、何かできることがあるだけで、子どもは安心する。前世で何百人もの子どもを見てきて、それだけは知っていた。
◇
軸受けに詰まった砂利を掻き出す。傾いた水輪を起こすために、石をかませて角度を調整する。腕が痛い。爪の中に土が入り込んで、指先がじんじんする。
ルカは川辺で小石を集めてくれている。「お母さん、これ使える?」と一つずつ見せにくるのが可愛くて、泣きそうになるのを堪えた。
「……何をしている」
声がした。
振り返ると、痩せた老人が立っていた。日焼けした肌。深い皺。警戒心を隠そうともしない、鋭い目。
その後ろに、丸い体つきの老婦人が一人。
「あの、こんにちは。私はリネットと申します。この村に──」
「この村は死んでいる」
老人が遮った。
「十年前に死んだ。あんた、何者だ。誰かに寄越されたのか」
十年。この村は十年も打ち捨てられていたのか。
「いいえ、誰にも寄越されておりません。追い出されたんです」
嘘をつく気にはなれなかった。
「……追い出された?」
「ええ。この子と二人で行くところがなくて、ここに辿り着きました」
老人の目が私とルカを交互に見た。ルカが私の後ろに隠れて、上着の裾をきゅっと掴む。
老婦人が一歩前に出た。
「グスタフ、この人、水車を直そうとしているよ」
「……見ればわかる」
「十年、誰も触らなかった水車を」
老人──グスタフが、水車小屋を睨むように見た。それから、私の土だらけの手を見た。爪の間に詰まった砂利を。
「……道具はあるのか」
「ありません。石と、手だけです」
長い沈黙。
グスタフが背を向けた。帰るのかと思った。
戻ってきた時、その手には錆びた鉈と、木槌があった。
「軸受けの木が腐っている。替えの材を切り出さないと話にならん」
……味方が、できた。
◇
グスタフは無口だったが、手は正確だった。腐った軸受けの木を鉈で削り出し、マルタが──老婦人の名前だ──川で砂利を洗い、私が水輪の角度を調整した。ルカは小石を運ぶ係を卒業して、マルタと一緒に水路の落ち葉を拾う係に昇進した。
日が傾く頃。
「いけるか」
グスタフが軸受けに新しい木を嵌め込んで、私を見た。
「……やってみます」
水路の堰を外した。
水が流れ込む。水輪に当たる。軋む音。木と木が擦れる音。重い、重い回転が──。
回った。
「お水だ!」
ルカが叫んだ。水路に水が流れ込み、乾いた溝を満たしていく。十年分の埃と落ち葉を押し流しながら、水が走る。
「……十年ぶりだ」
グスタフが呟いた。
その声が、ほんの少しだけ、震えていた。
マルタがエプロンの裾で目元を押さえている。ルカが水路に手を突っ込んで「冷たい!」と笑っている。
(……よかった)
私も、手が震えていた。できた。何もないところから、一つだけ、できた。
◇
日が暮れて、グスタフとマルタが夕食に粗末なスープを分けてくれた。この老夫婦は、村が廃れた後もここに残っていたらしい。「他に行くところがなかった」と、マルタが笑った。
仮住まいに使える廃屋を一軒、グスタフが見繕ってくれた。屋根はある。壁も、まあ、なんとか。
ルカを寝かしつけてから、荷物を整理した。
旅費の袋を開ける。公爵家から渡された最低限の金貨。数えると──合わない。渡されたはずの額より多い。
袋の底に、見慣れない金貨が数枚。
公爵家の紋章が、ない。
(……経理の数え間違いかしら)
公爵家ほどの大家が数え間違えるとも思えないけれど、他に説明がつかない。ありがたく使わせてもらうことにした。
──ふと、あの大広間のことを思い出す。フローラの微笑み。ディルクの横顔。あの人の右手が、一度だけ握りしめられたこと。
(……考えるのはよそう)
もう終わったことだ。
「お母さん」
ルカの声がした。まだ起きていたのか。
「ここ、好きになれるかな」
小さな声。不安を隠そうとして、隠しきれていない声。
「きっとなれるわ」
ルカの隣に横になって、薄い毛布を二人で分けた。天井の隙間から星が見える。公爵邸では見たことのないくらい、たくさんの星だ。
「ルカ。今日ね、水車が回ったでしょう」
「うん」
「明日は、薬草を探しに行こう。この辺りの山には、きっと色んな草が生えているから」
「お母さんの、お薬の草?」
「そう。ルカの咳にも効くかもしれないもの、見つけられるかもしれない」
ルカが私の腕の中でもぞもぞと動いて、顔を胸に押しつけた。
「……うん。楽しみ」
その夜の夕食の席で、グスタフがぽつりと言ったことが、頭から離れなかった。
「この村が廃れたのはな。公爵家の政策のせいだ。水源を上流で止められた。十年前に」
公爵家。
私たちを追い出した家。ルカの父の家。そしてこの村を見殺しにした家。
(……この村の水源問題も、公爵家が原因なのか)
ルカの寝息が聞こえる。穏やかな呼吸。でも時折、小さな咳が混じる。
胸元の記録の写しに、指先で触れた。
半年分の記録。あの侍医の処方。銀花草という、一つの薬草の名前が、ずっと引っかかっている。
──明日から、この子のための薬草を探す。
それが今の私にできる、たった一つのこと。




