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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第2話 水車が回る

 屋根のない家が三軒、壁の崩れた家が五軒。


 井戸は枯れ、水車は朽ち、人の気配は草の匂いに負けていた。


 ……ここが、私たちの新しい家。


 馬車を降りて七日。途中で御者に「ここから先は道がない」と言われ、ルカを背負って二日歩いた。公爵領の外れ、地図にかろうじて名前だけが残っている廃村。来る途中で行商人に聞いた「誰も住んでいないはず」の場所。


「お母さん、ここに住むの?」


 ルカが私の手を握ったまま、不安そうに辺りを見回している。


 ……正直、私も不安だ。


 屋根がない。壁が崩れている。井戸は枯れている。秋の風が遠慮なく吹き抜けて、ルカの細い髪を揺らした。前世の病院みたいに蛇口をひねれば水が出る、なんてことはない。当たり前だけど、ない。


(でも、ここなら誰も追ってこない)


 公爵家の目が届かない場所。フローラの手が届かない場所。それだけで、この荒れ地には価値がある。


「大丈夫。住めるようにするから」


 ルカの手を握り返して、もう一度村の全体を見渡した。


 崩れた家屋。枯れた井戸。朽ちた水車小屋。


 ……水車。


 足が止まった。


 川はある。細いけれど、水は流れている。水車小屋の骨組みも、木が朽ちてはいるが構造自体は残っている。軸受けが外れて、水輪が傾いているだけだ。


(直せる)


 前世で見た水車の構造が頭に浮かんだ。叔父の家の近くにあった観光用の水車小屋。理科の授業で習った、てこの原理。軸受けの角度を直して、水輪の重心を揃えれば──。


「ルカ、ちょっと手伝ってもらえる?」


「うん!」


 ルカの顔がぱっと明るくなった。何でもいい、何かできることがあるだけで、子どもは安心する。前世で何百人もの子どもを見てきて、それだけは知っていた。



 軸受けに詰まった砂利を掻き出す。傾いた水輪を起こすために、石をかませて角度を調整する。腕が痛い。爪の中に土が入り込んで、指先がじんじんする。


 ルカは川辺で小石を集めてくれている。「お母さん、これ使える?」と一つずつ見せにくるのが可愛くて、泣きそうになるのを堪えた。


「……何をしている」


 声がした。


 振り返ると、痩せた老人が立っていた。日焼けした肌。深い皺。警戒心を隠そうともしない、鋭い目。


 その後ろに、丸い体つきの老婦人が一人。


「あの、こんにちは。私はリネットと申します。この村に──」


「この村は死んでいる」


 老人が遮った。


「十年前に死んだ。あんた、何者だ。誰かに寄越されたのか」


 十年。この村は十年も打ち捨てられていたのか。


「いいえ、誰にも寄越されておりません。追い出されたんです」


 嘘をつく気にはなれなかった。


「……追い出された?」


「ええ。この子と二人で行くところがなくて、ここに辿り着きました」


 老人の目が私とルカを交互に見た。ルカが私の後ろに隠れて、上着の裾をきゅっと掴む。


 老婦人が一歩前に出た。


「グスタフ、この人、水車を直そうとしているよ」


「……見ればわかる」


「十年、誰も触らなかった水車を」


 老人──グスタフが、水車小屋を睨むように見た。それから、私の土だらけの手を見た。爪の間に詰まった砂利を。


「……道具はあるのか」


「ありません。石と、手だけです」


 長い沈黙。


 グスタフが背を向けた。帰るのかと思った。


 戻ってきた時、その手には錆びた鉈と、木槌があった。


「軸受けの木が腐っている。替えの材を切り出さないと話にならん」


 ……味方が、できた。



 グスタフは無口だったが、手は正確だった。腐った軸受けの木を鉈で削り出し、マルタが──老婦人の名前だ──川で砂利を洗い、私が水輪の角度を調整した。ルカは小石を運ぶ係を卒業して、マルタと一緒に水路の落ち葉を拾う係に昇進した。


 日が傾く頃。


「いけるか」


 グスタフが軸受けに新しい木を嵌め込んで、私を見た。


「……やってみます」


 水路の堰を外した。


 水が流れ込む。水輪に当たる。軋む音。木と木が擦れる音。重い、重い回転が──。


 回った。


「お水だ!」


 ルカが叫んだ。水路に水が流れ込み、乾いた溝を満たしていく。十年分の埃と落ち葉を押し流しながら、水が走る。


「……十年ぶりだ」


 グスタフが呟いた。


 その声が、ほんの少しだけ、震えていた。


 マルタがエプロンの裾で目元を押さえている。ルカが水路に手を突っ込んで「冷たい!」と笑っている。


(……よかった)


 私も、手が震えていた。できた。何もないところから、一つだけ、できた。



 日が暮れて、グスタフとマルタが夕食に粗末なスープを分けてくれた。この老夫婦は、村が廃れた後もここに残っていたらしい。「他に行くところがなかった」と、マルタが笑った。


 仮住まいに使える廃屋を一軒、グスタフが見繕ってくれた。屋根はある。壁も、まあ、なんとか。


 ルカを寝かしつけてから、荷物を整理した。


 旅費の袋を開ける。公爵家から渡された最低限の金貨。数えると──合わない。渡されたはずの額より多い。


 袋の底に、見慣れない金貨が数枚。


 公爵家の紋章が、ない。


(……経理の数え間違いかしら)


 公爵家ほどの大家が数え間違えるとも思えないけれど、他に説明がつかない。ありがたく使わせてもらうことにした。


 ──ふと、あの大広間のことを思い出す。フローラの微笑み。ディルクの横顔。あの人の右手が、一度だけ握りしめられたこと。


(……考えるのはよそう)


 もう終わったことだ。


「お母さん」


 ルカの声がした。まだ起きていたのか。


「ここ、好きになれるかな」


 小さな声。不安を隠そうとして、隠しきれていない声。


「きっとなれるわ」


 ルカの隣に横になって、薄い毛布を二人で分けた。天井の隙間から星が見える。公爵邸では見たことのないくらい、たくさんの星だ。


「ルカ。今日ね、水車が回ったでしょう」


「うん」


「明日は、薬草を探しに行こう。この辺りの山には、きっと色んな草が生えているから」


「お母さんの、お薬の草?」


「そう。ルカの咳にも効くかもしれないもの、見つけられるかもしれない」


 ルカが私の腕の中でもぞもぞと動いて、顔を胸に押しつけた。


「……うん。楽しみ」


 その夜の夕食の席で、グスタフがぽつりと言ったことが、頭から離れなかった。


「この村が廃れたのはな。公爵家の政策のせいだ。水源を上流で止められた。十年前に」


 公爵家。


 私たちを追い出した家。ルカの父の家。そしてこの村を見殺しにした家。


(……この村の水源問題も、公爵家が原因なのか)


 ルカの寝息が聞こえる。穏やかな呼吸。でも時折、小さな咳が混じる。


 胸元の記録の写しに、指先で触れた。


 半年分の記録。あの侍医の処方。銀花草という、一つの薬草の名前が、ずっと引っかかっている。


 ──明日から、この子のための薬草を探す。


 それが今の私にできる、たった一つのこと。

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