第10話 父親の席
春の匂いがする。
雪の下から顔を出した薬草の、青くて苦い匂い。土の匂い。水の匂い。冬の間ずっと凍りついていた地面が緩んで、世界が息を吹き返している。
薬草園の畝に、小さな緑が並んでいた。霜に耐えた株から新しい芽が伸びている。白蘇、蜂蜜草、月見薬。一つも枯れなかった。全部、冬を越えた。
「お母さん、見て! 芽が出てる!」
ルカが走ってくる。頬が赤い。冬の間ずっと赤かった頬が、春になってもまだ赤い。健康の証拠だ。
「ほんとだ。強い子たちね」
「ルカが毎日お水あげたからだよ」
「そうね。ルカのおかげね」
胸を張った顔。この子のこの顔を見るたびに、連れてきてよかったと思う。何度でも、思う。
◇
行商人が一通の書状を運んできた。辺境行政区からの正式な通達。
『辺境第七区における薬草診療所の設立を認可する。管理者:リネット・ヘルダーリン殿』
グスタフが通達を読み上げて、鼻をすすった。
「あんたのおかげだ。この村が、もう一回生き返った」
水車は回っている。診療所には毎日患者が来る。近隣の村から移ってきた家族が二組。廃屋だった家に煙が上がり始めた。
マルタが私の頬をぱしぱし叩いた。
「ほら、泣かないの。せっかくの認可状が滲むよ」
「……泣いてません」
「嘘おつき」
◇
カスパルからの手紙が届いた。
あの日、馬車の前で振り返った人。ルカの健康な姿に動揺した人。裁定の場ではディルクの側に立ち、ルカの公爵邸時代と廃村での暮らしを比較して証言してくれた人。
『リネット殿。太夫人の蟄居後、太夫人のもとに集まっていた人脈が次々と距離を取っております。侍医ヴェルナーは辺境への追放が執行されました。公爵家の家政は現在、閣下ご自身が再編を進めておられます』
手紙を折り畳んで、しまった。
フローラのことを考えなかった。あの人がどうなったかを聞いても、胸がすく気持ちにはならなかった。ただ──もう、あの人の影に怯えなくていい。それだけで十分だった。
ルカの笑い声が、窓の外から聞こえる。グスタフと一緒に畑を耕しているらしい。この村の、一番小さな村人。
(──来ないかもしれない)
ふと、思った。裁定から二週間。あの人は「まだ、だ」と言った。「まだ」は「いつか」を含んでいたのか。それとも、あれが最後の言葉だったのか。
(……待っている自分が、いる)
認めたくなかった。でも、認めないと嘘になる。あの人の声が震えた瞬間から、ずっと。
◇
馬の蹄の音がした。
凍った道ではなく、春の泥を踏む柔らかい音。
顔を上げた。村の入口に、黒い馬が一頭。護衛なし。従者なし。いつも通り、たった一人。
「父上!」
ルカが畑から飛び出した。全力で走った。泥だらけの手を広げて。
ディルクが馬を降りた。
ルカが駆けてくる。三歩、二歩、一歩──。
ディルクの手が動いた。
今度は──止まらなかった。
大きな手がルカの体を受け止めた。そのまま持ち上げた。初めて。この人が息子を抱き上げたのを、初めて見た。
「父上、重い?」
「……いや」
ディルクの声が掠れた。
「軽い。こんなに軽かったのか」
ルカが笑った。ディルクの肩に顎を乗せて、「ルカ、いっぱい食べてるよ」と言った。
私は診療所の入口に立ったまま、動けなかった。
あの手が──止まらなかった。六話前に伸ばしかけて止めた手が。震えていた手が。今、小さな体を抱き上げている。
◇
薬草園に、三人でいた。
ルカが少し離れたところで蝶を追いかけている。春の蝶。白い羽。ルカの笑い声が畝の間を跳ねていく。
ディルクが、私の隣に立っていた。
沈黙。春の風が吹いた。新芽の匂い。
「……もう一度」
ディルクの声が、低く、静かに落ちてきた。
「隣にいることを、許してもらえるか」
心臓が跳ねた。
この人の口から、こんな言葉が出るとは思っていなかった。命令ではない。要求でもない。許しを求めている。自分の過ちを知っていて、それでも、ここに立っている。
──あの大広間で握りしめていた手。旅費に混じっていた紋章のない金貨。夜の薬草園に来ていたこと。「よく育っている」と言った時の声。ルカに伸ばしかけて止めた手の震え。「丁寧な字だ」の呟き。法務官の前に立ちはだかった背中。振り返らなかった街道。裁定の場で震えた声。
全部が、繋がった。
(この人は──ずっと、こうしたかったのだ)
長い沈黙があった。
私は答えなかった。代わりに、声を上げた。
「ルカ」
ルカが振り向いた。蝶を追うのをやめて、こちらに走ってきた。
「なあに、お母さん」
しゃがんで、ルカの頭を撫でた。泥だらけの髪。春の匂いがする。
「この子の父親の席は、ずっと空けてありましたよ」
ディルクを見上げた。
灰色の瞳から、雫が一つ落ちた。
音もなく。
──見なかったことにした。
ルカの髪を整え続けた。泥を払って、寝癖を直して、また泥がつくのを承知で、丁寧に。
「お母さん、くすぐったい」
「じっとして」
「父上も髪やってもらいなよ。お母さん上手だよ」
ディルクが何か言おうとして、言えなかった。
(……不器用な人)
でも──来た。振り返れなかった分だけ、ちゃんと来た。
薬草園に三人で立っている。春の陽が薬草の新芽を照らしている。水車の音が遠くに聞こえる。ルカの笑い声。ディルクの、まだ少しだけ硬い横顔。
この家族のやり直しは、きっとまだ始まったばかりだ。
不器用で、ぎこちなくて、言葉が足りなくて。
でも──始まったのだ。ようやく。
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