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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第10話 父親の席

 春の匂いがする。


 雪の下から顔を出した薬草の、青くて苦い匂い。土の匂い。水の匂い。冬の間ずっと凍りついていた地面が緩んで、世界が息を吹き返している。


 薬草園の畝に、小さな緑が並んでいた。霜に耐えた株から新しい芽が伸びている。白蘇、蜂蜜草、月見薬。一つも枯れなかった。全部、冬を越えた。


「お母さん、見て! 芽が出てる!」


 ルカが走ってくる。頬が赤い。冬の間ずっと赤かった頬が、春になってもまだ赤い。健康の証拠だ。


「ほんとだ。強い子たちね」


「ルカが毎日お水あげたからだよ」


「そうね。ルカのおかげね」


 胸を張った顔。この子のこの顔を見るたびに、連れてきてよかったと思う。何度でも、思う。



 行商人が一通の書状を運んできた。辺境行政区からの正式な通達。


『辺境第七区における薬草診療所の設立を認可する。管理者:リネット・ヘルダーリン殿』


 グスタフが通達を読み上げて、鼻をすすった。


「あんたのおかげだ。この村が、もう一回生き返った」


 水車は回っている。診療所には毎日患者が来る。近隣の村から移ってきた家族が二組。廃屋だった家に煙が上がり始めた。


 マルタが私の頬をぱしぱし叩いた。


「ほら、泣かないの。せっかくの認可状が滲むよ」


「……泣いてません」


「嘘おつき」



 カスパルからの手紙が届いた。


 あの日、馬車の前で振り返った人。ルカの健康な姿に動揺した人。裁定の場ではディルクの側に立ち、ルカの公爵邸時代と廃村での暮らしを比較して証言してくれた人。


『リネット殿。太夫人の蟄居後、太夫人のもとに集まっていた人脈が次々と距離を取っております。侍医ヴェルナーは辺境への追放が執行されました。公爵家の家政は現在、閣下ご自身が再編を進めておられます』


 手紙を折り畳んで、しまった。


 フローラのことを考えなかった。あの人がどうなったかを聞いても、胸がすく気持ちにはならなかった。ただ──もう、あの人の影に怯えなくていい。それだけで十分だった。


 ルカの笑い声が、窓の外から聞こえる。グスタフと一緒に畑を耕しているらしい。この村の、一番小さな村人。


(──来ないかもしれない)


 ふと、思った。裁定から二週間。あの人は「まだ、だ」と言った。「まだ」は「いつか」を含んでいたのか。それとも、あれが最後の言葉だったのか。


(……待っている自分が、いる)


 認めたくなかった。でも、認めないと嘘になる。あの人の声が震えた瞬間から、ずっと。



 馬の蹄の音がした。


 凍った道ではなく、春の泥を踏む柔らかい音。


 顔を上げた。村の入口に、黒い馬が一頭。護衛なし。従者なし。いつも通り、たった一人。


「父上!」


 ルカが畑から飛び出した。全力で走った。泥だらけの手を広げて。


 ディルクが馬を降りた。


 ルカが駆けてくる。三歩、二歩、一歩──。


 ディルクの手が動いた。


 今度は──止まらなかった。


 大きな手がルカの体を受け止めた。そのまま持ち上げた。初めて。この人が息子を抱き上げたのを、初めて見た。


「父上、重い?」


「……いや」


 ディルクの声が掠れた。


「軽い。こんなに軽かったのか」


 ルカが笑った。ディルクの肩に顎を乗せて、「ルカ、いっぱい食べてるよ」と言った。


 私は診療所の入口に立ったまま、動けなかった。


 あの手が──止まらなかった。六話前に伸ばしかけて止めた手が。震えていた手が。今、小さな体を抱き上げている。



 薬草園に、三人でいた。


 ルカが少し離れたところで蝶を追いかけている。春の蝶。白い羽。ルカの笑い声が畝の間を跳ねていく。


 ディルクが、私の隣に立っていた。


 沈黙。春の風が吹いた。新芽の匂い。


「……もう一度」


 ディルクの声が、低く、静かに落ちてきた。


「隣にいることを、許してもらえるか」


 心臓が跳ねた。


 この人の口から、こんな言葉が出るとは思っていなかった。命令ではない。要求でもない。許しを求めている。自分の過ちを知っていて、それでも、ここに立っている。


 ──あの大広間で握りしめていた手。旅費に混じっていた紋章のない金貨。夜の薬草園に来ていたこと。「よく育っている」と言った時の声。ルカに伸ばしかけて止めた手の震え。「丁寧な字だ」の呟き。法務官の前に立ちはだかった背中。振り返らなかった街道。裁定の場で震えた声。


 全部が、繋がった。


(この人は──ずっと、こうしたかったのだ)


 長い沈黙があった。


 私は答えなかった。代わりに、声を上げた。


「ルカ」


 ルカが振り向いた。蝶を追うのをやめて、こちらに走ってきた。


「なあに、お母さん」


 しゃがんで、ルカの頭を撫でた。泥だらけの髪。春の匂いがする。


「この子の父親の席は、ずっと空けてありましたよ」


 ディルクを見上げた。


 灰色の瞳から、雫が一つ落ちた。


 音もなく。


 ──見なかったことにした。


 ルカの髪を整え続けた。泥を払って、寝癖を直して、また泥がつくのを承知で、丁寧に。


「お母さん、くすぐったい」


「じっとして」


「父上も髪やってもらいなよ。お母さん上手だよ」


 ディルクが何か言おうとして、言えなかった。


(……不器用な人)


 でも──来た。振り返れなかった分だけ、ちゃんと来た。


 薬草園に三人で立っている。春の陽が薬草の新芽を照らしている。水車の音が遠くに聞こえる。ルカの笑い声。ディルクの、まだ少しだけ硬い横顔。


 この家族のやり直しは、きっとまだ始まったばかりだ。


 不器用で、ぎこちなくて、言葉が足りなくて。


 でも──始まったのだ。ようやく。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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