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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第1話 喜んで

「子連れで出ていきなさい。その子も、もう用済みですから」


 一瞬、耳が遠くなった。


 大広間の燭台が揺れる。秋の風が窓の隙間から忍び込んで、重たいカーテンの裾をかすかに揺らしていた。


 フローラ・フォン・レーヴェンハルト。公爵太夫人。この屋敷の全てを動かす女性が、微笑みを崩さないまま私を見下ろしている。


 追放。


 彼女の後ろには侍女が二人、目を伏せて控えている。そしてその隣に──。


 ディルクが、いた。


 レーヴェンハルト公爵。名ばかりの夫。氷を削り出したような横顔を、こちらに向けようともしない。


「聞こえていますか、リネット。あなたの婚姻は本日をもって破棄とします。退去の準備を」


 フローラの声は穏やかだ。慈善事業の報告をするときと同じ、柔らかな抑揚。社交界で「慈愛の太夫人」と呼ばれるその声で、嫁を一人、叩き出す。


 ……知っていた。


 この日が来ることを。嫁いで一年、この屋敷の中で私の居場所は最初からなかった。公爵太夫人の一声で全てが動くこの家で、男爵家の娘に発言権などあるはずもない。


 でも。


(──あの子は。ルカは、どうなる)


 ルカ・フォン・レーヴェンハルト。五歳。公爵家の嫡子で、前妻の忘れ形見で、この一年、私が毎晩枕元で看病記録をつけてきた子ども。


 「その子も用済み」と、フローラは言った。


 あの子のことを、そう呼んだ。


「──太夫人」


 声が出た。思ったより、平らな声だった。


「お言葉ですが、一つだけ確認させてください。ルカ様のことを仰っているのですね? 公爵家の嫡子を、私と共に屋敷から出せ、と」


「耳の聞こえは悪くないようね」


 フローラが目を細めた。余裕の笑み。泣いて縋るとでも思っているのだろう。一年間、この女性の前でどれだけ大人しくしてきたか。どれだけ反論を呑み込んできたか。


 ──知るものか。


 私は一瞬だけ目を閉じた。


 瞼の裏に、前世の景色がちらつく。白い壁。消毒液の匂い。小児科の病棟で、夜勤明けの私が子どもの手を最後に握った、あの朝。


(……ごめんね。もっと早く気づいてあげればよかった)


 あの日の後悔が、胸の奥で小さく疼いた。


 目を開ける。フローラの顔が見える。ディルクの横顔が見える。侍女たちの俯いた顔が見える。


 もう、いい。


「喜んで」


 沈黙。


 フローラの唇が、開いたまま止まった。


「……は?」


「喜んで、と申し上げました。退去いたします。ただし、ルカ様はお連れいたします」


 言い切った瞬間、大広間の空気が変わったのがわかった。侍女の一人が顔を上げ、もう一人が息を呑む音が聞こえた。


 フローラの頬に、かすかに赤みが差す。


 予定外。この人の台本にない返答だったらしい。


「──ちょっとお待ちなさい。あの子は公爵家の……」


「嫡子でいらっしゃいますね。ですからお連れするのです」


 ここで初めて、ディルクが動いた。


 正確には、動いたのは右手だけだ。膝の上に置かれていた手が、一度だけ、強く握りしめられた。


 怒っているのだろう。婚約者に恥をかかされた、とでも思っているのかもしれない。


(──この人は結局、何も言わないのね)


 もう期待しない。最初から、していなかったけれど。



 ルカの部屋は三階の奥にある。


 小走りに廊下を進む足音が、石の壁に響いた。背後から侍女の「お待ちくださいませ」という声。無視した。


 扉を開ける。


 薬の匂い。それから、小さな咳。


「お母さん……?」


 ルカがベッドの上で身を起こしていた。青白い顔。細い腕。五歳にしては小さすぎる体。


 この子はいつも咳をしている。公爵家の侍医が処方する薬を飲み続けて、それでも一向に良くならない。


(……良くならないんじゃない。良くさせていないんだ)


 それは、まだ確信ではない。けれど看病記録を半年つけてきた私の、前世の知識が囁いている。あの処方は、おかしい。


「ルカ。お母さんと一緒に、お出かけしましょう」


「お出かけ?」


「ええ。少し遠くに」


 ルカの大きな目が私を見上げた。灰色の瞳。父親譲りの色だ。


「……お屋敷の人たちが、怒ってた。お母さんが出ていくって。ルカも一緒に出ていけって」


 聞こえていたのか。この子は、聡い。病弱な体の中に、よく研いだ小さな刃物のような聡さを持っている。


「ルカはどうしたい?」


 しゃがんで、目線を合わせた。


 ルカの細い指が、私の手を掴んだ。


「お母さんと行く」


 ……泣きそうになった。泣かなかった。


 看護師は、子どもの前で泣かない。前世でそう決めていた。


「うん。行こうね」


 その手を握り返して立ち上がった瞬間、廊下の向こうから足音が聞こえた。侍女が二人、追いついてきたのだ。


「リネット様、若君をお連れになるのは──」


「太夫人のご意向ですよ。『子連れで出ていけ』と仰いました」


 侍女たちが顔を見合わせる。反論できない。フローラの言葉は、この屋敷では法だ。


(──ああ、あの方は本当に「用済み」と仰ったのよね。嫡子を。自分の孫を)


 ルカの手を引いて歩き出す。振り返らない。



 荷物をまとめるのに三十分もかからなかった。


 着替えが二組。ルカの防寒着。旅費の入った袋。それから──。


 看病記録。


 原本が、ない。


 私の部屋の書棚にあったはずの、半年分の看病記録帳が消えていた。


 ……やっぱり。


 ため息が出そうになるのを堪えた。代わりに、上着の内側に手を入れる。胸元に縫い付けた薄い布の中を指で確認する。


 ある。写しは、ここにある。


 半年分の記録の写し。毎晩、ルカが眠った後に書き写したもの。几帳面な自分に感謝する日が来るとは思わなかった。


 そしてもう一つ、この布の中には──父が「万一のために」と渡してくれた婚姻契約書の控え。


(お父さん、あなたの娘は今、そのまさかの真っ只中です)


 少しだけ笑った。笑えるということは、まだ大丈夫だということだ。


 屋敷の裏口から出ると、古い馬車が一台停められていた。御者が一人。旅費と馬車。最低限のものは用意されている。追い出す側の、形ばかりの体裁。


 馬車に乗り込む。ルカを膝の上に座らせる。


 車輪が動き出して、公爵邸の門が遠ざかる。


 ……振り返らなかった。


 腕の中のルカが、私の袖をきゅっと握った。小さな指が蝋燭の火みたいに頼りなくて、でも確かに温かい。


「ルカ。大丈夫よ」


「……うん」


「今度は私が、あなたを守る番だから」


 ルカが咳をした。一度、二度。私はその背中をゆっくりさすりながら、もう片方の手で胸元の写しに触れた。


 半年分の記録がある。あの侍医の処方は、絶対におかしい。投与量。投与間隔。使われている薬草の組み合わせ。前世で十年、小児科にいた私の経験が「これは治療じゃない」と叫んでいる。


 まだ確証はない。けれど──。


 馬車が揺れた。窓の外を、秋の枯れた畑が流れていく。


(……あの屋敷で何が起きていたのか、必ず明らかにする)


 ルカの手を、もう一度握り直した。


 小さな寝息が聞こえた。


 この子は、馬車の中で眠れるくらいには私を信じてくれている。


 それだけで、十分だった。

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