フローティング・ピープル(たゆたう人)
フローティング・ピープル(たゆたう人)
石川安泰
パソコンのモニターには、アバターと呼ばれるアニメの人物が6体、野外で円陣になっている。芝の地面に青い空が開けていて解放的である。それぞれのアバターの出立や表情から、人物像や内面までを想像するのは難しかった。多くは濃いスーツを着ていた。墓の周りに喪服の人々が集い、棺が埋葬される海外映画の1シーンが安原の頭にフラッシュバックした。
それぞれはデッキチェアに座り、その横には大きな白い画用紙の乗ったイーゼルが据え置かれている。画用紙には参加者の名前が書かれている。
ドローンのカメラから全体を眺めるように映し出されていた画面が降りてきた。正面には「カウンセラー1」「山本ひろみ」と画用紙に書かれた白衣を羽織った女のアバター、その右隣には「カウンセラー2」「原田正一」と書かれたブルーの作業衣を着た若い男のアバターである。
山本ひろみのアニメが口を開いた。パソコンと無線で繋いだイヤホンから声がした。自分と同じくらいの年齢だろうと安原は想像した。横を向いた時、髪の一部を後ろで束ねポニーテールにしているのが見えた。
「皆さん、こんにちは。これからグループセッションを担当させていただくカウンセラーの山本ひろみです。そして横にいるのがアシスタントとしてメモを取るなりサポートしてもらうアシスタントの原田さんです。私は多くの方とは直接個別にお会いしていますが、一部の方は他の私の同僚カウンセラーがお会いしているかと思います。お会いした、あるいは同僚から聞いているイメージで皆さんそれぞれのアバターは用意しています。恐らくそんなに違和感ないかと思いますが、アバターにご不満の方いらっしゃれば選び直すことは可能ですのでまたお教えください。因みに、今回は初対面ということで皆さんスーツ姿ですが、次回からはビジネスカジュアルとさせていただきます。私どもも次回からは白衣や作業衣ではございません。さて私かその同僚からインテーク(事前面談)でお伝えしてますが、これから20回に渡ってセッションを進めて行きます。長丁場となりますので、よろしくお願いいたします。事前に皆さんともお会いさせていただき、同じような属性といいますか、類似した方を集めさせていただきました。皆さんは社会人経験も長く、それなりのポジションにいらっしゃる方々です。上司やトップの信任も厚くなければそのポジションには付けない方々ばかりだと思います。ですが、その一方で、部下なり周りの方々とハレーションを起こすなどし、会社側からこのクリニックをご紹介された方々です」
山本カウンセラーは一息入れた。
「会社のこれまでのポジションに戻られるには、当クリニックの診断結果が必要となります。企業様の思惑は既にご理解とは思います」
セッションに緊張感を持たせ、参加者に真剣に向き合うように仕向けているのが分かる。その試みは成功していた。
「アスペルガー症候群の方々というのは、脳の一部機能が偏っているために社会、人間関係の中で大変な生きにくさを抱えていらっしゃいます。ですが皆さんもご存知のように、一方で、そのような類の方々は起業家や芸術家を含めた偉人に多数いらっしゃるのも事実です。神がそのような特異で突出した感覚を持つ方々を社会の中に投入して人類を攪拌し、化学反応を起こすことで人類が進歩してきたのも事実だと思います」
また山本カウンセラーは言葉を置いた。
「ですが企業はその攪拌によるコストをそのまま負担することを良しとしないということだと思います。現有の組織を守りつつ、コストを最低限に抑えつつ、化学反応を起こし、企業を進歩させたい・・・それと合わせ、もし皆さんを抱えるコストが進歩を上回ってしまうのであれば、企業は今のポジションの見直しなどに手を付けざるを得ないのでしょう。先ほど申しましたように、皆さんはそれぞれそれなりのポジションにいらっしゃいます。皆さんの上司は皆さんを買っていて、ここまで重宝されたはずです。自分が認めてきた人物を自分で切ることができない、切りたくない、というのも根底にある本音だと思います。なのでその判断を外部である我々クリニックに委ねているとも言えるのでしょう。皆さんを認めてきた方々に応えるためにも、これからを前向きな意義のあるセッションにできればと願っております。このグループを作るにあたり、グループワークに適さない方は外させていただいたつもりです。つまりグループの進行を乱したり攻撃的な傾向を持ち、他の参加者を遠ざけてしまうことが予想される方です。セッションを進める中で、そのような方が出てこないことを期待しております。もしそのようなことが起これば、グループの方は脱会いただいて、個人セッションなどに変更となります」
参加者の沈黙が緊張感を表していた。山本カウンセラーの思惑は成功していた。
「皆さんに自己紹介をいただきたいと思いますが、まず私から。このクリニックで働いて10年になります。私は40歳、IT企業に勤めております夫と、丁度10歳になる娘がおります。このクリニックで娘と一緒に私もカウンセラーとして育ってきました。今の趣味は娘と夫と行くグランピングでしょうか。キャンピングだと少しハードルが高いので。では原田さんも一言」
カウンセラーは想像していた通り安原と同い年だった。
正面に原田カウンセラーのアバターが来るように画面が回った。
「メモなり何なりとさせていただく原田です。まだ27歳と皆さんと比べると若輩もので、勉強をさせていただくことばかりと思います。若輩であるが故にストレートに言い過ぎたり失礼なこともあるかと思いますがご容赦ください。構えずに様々ご相談なりして頂ければと思いますのでよろしくお願いいたします」
思った通り若かった。アバターの豊かな髪はサラサラ流れて見えた。
「皆さん、拍手の場合は、画面下に拍手のマークがあると思いますので、そちらを押してくださいね」
右下ボタンを押した。画面のそれぞれのアバターが拍手をし、拍手の音が耳に届いてきた。
山本カウンセラーが口を挟んだ。
「一言、仕事に関して言う場合はプライバシーの点から個人を特定できないレベルで共有頂ければと思います。皆さん、それぞれご責任のあるポジションの方だと思いますので。アバターでのご参加も、念のためということでもあります。もちろん忌憚ないコミュニケーションができれば、ということはあるのですが・・・では宜しくお願いします」
画面が回った。正面には「曽根雄一」と画用紙に書かれたアバターが映った。画面の左上に山本カウンセラーの画用紙が映るようになっていた。画用紙には「自己紹介の例」その下に、「年齢、家族構成、職業(特定されないレベルで)、趣味など」と書かれていた。
アバターの口が動く。口髭があった。小太りで頭には白髪が少し混じっている。
「曽根雄一です。53歳です。妻と子供二人が東京におりますが単身で大阪に来ております。電機メーカーで経理の部長をしております。趣味は仕事とラーメンを食べ歩くことです。よろしくお願いします」
「単身でいらっしゃるということで塩分の取りすぎにはご注意してくださいね」
アバターたちから笑いが起こる。
次は自分のアバターのところに回ってきた。平均的な中年のサラリーマンが映っている。アバターがイメージと合っているのか自分では分からなかった。
「安原克己です。40歳です。独身で一人暮らしです。いくつかの業態の会社を束ねるホールディング会社のCFOをやっております。以前は不動産会社にいました。その業界文化もよく分かると思います。会計士でもありますので、趣味は会計です。よろしくお願いします」
「趣味が仕事と直結されている方が多いですね。また不思議と経理財務畑の方が重なっていました。どうしてでしょうか。またその理由はこれから手繰っていくことにしましょう、というところですが、実は同様の環境の方を集めたことがあります。皆さん既に認識されていると思いますが、アスペルガーの人には経理など専門的でこつこつと集中して行う業務は比較的向いている、一方でコミュニケーションが最も必要とされる管理職などは最も不向きと言われています。同様のところで秀でてらっしゃって、それが故にこだわりが強くなり苦労されている方々であれば、お互いにアドバイスしあったり気付きがあるかも、ということですね」
次は「持田宏」だった。白髪である。染めるという考えはないようだった。背が低いのが座っていても見て取れた。
「50歳です。独身で母と二人暮らしです。食品メーカーで広報マネージャーをしています。趣味は、どうでしょうか。誰に聴かせる訳でもない一人ギターと、ラジオドラマ用のシナリオを書くことです」
「クリエーターでいらっしゃいますね」
最後は女性のアバターだった。濃紺のパンツスーツで、きっちりと合わせた膝に両手を置いている。髪は肩までは届いていない。
「上林すずと申します。43歳です。バツイチです。中学生の息子がいましたが、今私の元にはおりません。人材紹介会社のマネージャーをしております。趣味は、これといったものはありません。かつては私も息子の成長を見るのが趣味でした。今は敢えて言うなら仕事でしょうか。よろしくお願いします」
山本カウンセラーが言った。
「ありがとうございました。この4名、プラスカウンセラーの山本と原田の6名で、画面上ですが青空の下で輪になって、ヘキサゴンの形になって、皆さん主体で進めて参りましょう」
アバターたちから拍手が起こった。
それぞれのアバターの特徴は脳に残った。聴覚過敏の傾向が強ければ人の顔が見分けられない場合が多いとも聞いていたが、安原は視覚過敏が勝って強いと自分でも理解していた。一度見たシーンは記憶の倉庫に仕舞われる。それが時と場所に関係なくフラッシュバックすることになるのだった。
安原克己の会社は大阪の本町にある。御堂筋本町駅から西に行った大阪国際ビルの4階に事務所はある。社員は今のところ若干6名である。応接と会議室、社長室と二つの狭い事務室で構成されていた。
会社はメーカー3社と小売2社を子会社に持つホールディング会社である。このホールディング会社を上場させることを使命として、安原はCFOポジションで1年前に採用されていた。代表の松崎は東大を卒業後、アメリカでコロンビア大のMBAを取得したインテリで、これまで投資銀行で経験を積んだあと、自らいくつかのファンド経営を行っていた。そのファンドの一つから出資する形でホールディング会社を設立し、将来有望でありながら埋もれている中小企業5社を買収し傘下に収めたのだった。松崎は65歳である。
安原は以前、不動産会社に勤めていた。安原はその不動産会社の上場に関わった経験を買われて松崎に採用された。企業経営の面では松崎に歯が立たなかったが、会計士として会計のプロであることに、また不動産会社の上場を成功させたことに自負を抱いていた。上場を機に新天地で活躍を願う、と当時の社長から言われ、上積みされたボーナスと共に不動産会社を去った。当時上場準備というストレスの掛かる業務のために抗うつ薬と睡眠剤を飲むことにはなったが、やり切った達成感があった。
松崎は経営管理に対して甘えを許さない性格で、安原も仕事は細部に至るまで突き詰めるのは同様だった。松崎は会計基準がどうであろうと経営の観点から自分を曲げることはない。それなりのストレスはあるが、松崎は安原の能力を買ってくれているようだった。
子会社は未上場の中小企業ばかりで、会計品質やガバナンス、業績管理の能力が整っていなかった。また適した人材も備わっていなかった。そのためスケジュールを引き、必要なテンプレートを作成し、外部の会計アドバイザリーと契約も行い、子会社の統制を進めていた。
それぞれの子会社の担当者からは、時間がないなどの声も聞かれたが、甘えを許すことはできなかった。安原自身も過去に乗り越えてきた作業だった。甘えに対して、子会社メンバーも同様やり遂げる必要があるのだと理解を求めた。
2月にも関わらず春のような陽気の日の夕刻、松崎から声を掛けられ、会議室に二人で入った。
松崎が言った。
「昨日、子会社の経理部長と電話で話した際に君は怒鳴り声をあげ、電話機を叩きつけ、机の上にあった書類を払って床にばら撒いたようだが」
安原は応えた。
「そんなことはあったかもしれませんが、大したことではありません」
「これまでもよく似たことがあったと皆から聞いている。それぞれの子会社の経理メンバーからも、契約している産業医の先生に話があったようだ。一度ここに行って診てもらってくれ」
松崎は一枚のパンフレットを安原に手渡した。名刺には「梅田メンタルクリニック」とある。梅田駅前第四ビルの3階になっていた。
心外だった。与えられた責務をストレスに抗いながら着実にこなしてきている。組織を動かしていくに際し使用される少々の強権行使は必要悪である。松崎の理解は得られていると安原は思っていたため、ひどく残念に感じた。
松崎とのシーンはまた自分の記憶の倉庫に仕舞われる。倉庫からは突如、前触れなくフラッシュバックされるはずだった。安原は憂鬱になった。
二日後は季節通りの寒い曇天に戻っていた。安原は地下鉄でクリニックに向かった。騒音は苦手である。いつものようにブルートゥースのイヤホンを耳にして、ヒーリング音楽を流す。御堂筋地下鉄はいつものように混んでいたが、ラッシュ時ではないので肩が触れ合うレベルではない。
いつも人混みを歩く場合や地下鉄電車の中で感じることがあった。車両の中は水で満たされていて、自分だけが床を離れて浮遊し始めるような感覚に囚われるのだ。自分の頭が人の上になる。さらに登って車両の天井に付きそうになる。周りを見渡すと人々の頭頂部が並んでいる。自分のように浮遊している者はいない。自分だけが浮遊する。
梅田に着いて車両から吐き出され、地下街を歩き、エスカレーターで3階に上がった。壁のマップで位置を確認して進んだ先に、クリニックの名前のプレートがあった。すりガラスの壁を通してクリニックの淡い明かりが漏れていた。
カウンターで予約確認を済ませて待った。名前を呼ばれて部屋に入ると、
「カウンセラー、臨床心理士とも言いますが山本ひろみです」
そう彼女は名乗った。ソファに促され、向かい合って座った。彼女は白衣などは羽織っていなかった。栗色のクルーネックセーターにグレイのツイードのパンツを履いていた。髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。
「まだ会われていないと思いますが、担当の精神科医は木下先生になると思います。尚、クリニックでは精神科医とカウンセラーの協働作業になります。精神科医は病気、病的な状態に視点を置き診断を行います。そして薬物の処方などは医師でないとできませんね。一方の私共カウンセラーは人間理解という観点から見立てを行います。あ、因みにカウンセラーは医師ではないので診断と言わずに「見立て」という言葉を使うんです」
彼女の面談を日を分けて2回受けることになった。これまでの困っていることやトラブル、子供の頃の成績表と友達関係と1日の行動、病歴と通院歴を聞かれた。それほど昔のことを聞くのですね、と安原は質問をした。
「最近は仰るように、過去に遡って体験を分析するのは時間がかかることもあって、今時点にのみ注目して現在を改善しようとすることに重きを置く傾向はあるのですが。私たちは今現れている症状だけに焦点を当てた対症療法でなく、根本的な要因に目を向けて治療を確実にしたい、そのようなスタンスを取っています。クリニックや医師やカウンセラーそれぞれの考え方はあるとは思いますが」
一般的な身体検査と脳のMRIも受けた。症状に肉体的な要因が影響していないか判断するためだった。
2回目の訪問では、カウンセラーから幾つかの長時間のテストを受けた。うつのチェックの後、言葉や計算や図形を使った知能検査、性格・人格検査が続いた。
3回目の日に、精神科医の木下から診断結果を聞いた。山本カウンセラーの部屋と同様、パソコンの置かれた事務机の前にソファがあった。木下は60歳くらいの白髪の紳士である。白衣でなくブルーの作業衣を着ていた。患者あるいはクライアントの精神状態を和らげるための色ということは知っていた。
アスペルガー症候群―ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の二種類が存在するがーそのASDということだった。発達障害の診断経験のある医療機関は限られていることから、これまでかかった医者では発見できなかった。以前処方を受けた睡眠薬と抗うつ剤は、アスペルガー症候群による二次障害の結果への対処法であった。
巷で知られ始めていた障害であり、驚きはなかった。これまで抱えてきた、社会の中にいて抱く違和感の根幹に触れ、これで処方の仕方に目を向けることができるという安堵はあった。
「人口の2パーセント弱がアスペルガー症候群の方と言われています。少なく感じるか多く感じるかは人によるでしょうが、消して稀な障害ではありません」
そう木下医師は言って続ける。
「今の医学では根本的な治療法はありません。ただ世の中の対処法を身につけて、生きづらさを解消していく手助けをすることはできると思います。既に社会的地位も高い皆さんにはプライドも大変重要なものだと思います。そういった側面も大切にしながら、皆さんに寄り添って」
その後、別の部屋で安原はカウンセラーの山本ひろみから治療計画の説明を受けた。自分はカウンセラーで医師ではないので、木下医師とチームで治療に当たる、投薬を含めた治療計画は最終的に医師の判断が必要となるが、安原の場合、投薬は不要ということだった。精神的には常に安定していたので、投薬という言葉が出ること自体が安原には残念だった。
カウンセラーからは、アスペルガー症候群のASD(自閉スペクトラム症)に対する週一回、合計20回のグループプログラムを提案された。
ーオンラインで、またメタバースで行いたいと思います。参加される予定の方々は皆さんお忙しいので、どこでもパソコンがあれば参加できるオンラインが良いと考えています。
ーメタバースと言ってもゴーグルを頭に付けて行う大げさなものではありません。ゴーグルをいつも持ち運ぶこともできないと思いますし。パソコンやスマホやIPADなどがあれば参加可能です。またアバター、つまり皆さんの姿はアニメになります。それなりに社会的地位のある方ばかりになりますのでプライバシーの観点からです。
ーグループプログラムの目的は、お互いの思い、悩みを共有し、自分を客観的に知り、社会を生きるための自分にあったスキルを習得することです。
ー安原さんにとっては、自分に似た特徴を持つ複数メンバーと会うのは恐らく初めてだと思います。同じ境遇の仲間がいることで安心が生まれます。自分と同じような悩みのある人がこんなにいるのだ、と。
ーグループで行うのは、他のメンバーとのやり取りを通して、他のメンバーを観察することで、鏡を見るように自分の考え方のパターンに気付いたり、新しい考え方や対処法を発見することができます。また一方で誰かの役に立てば自信に繋がり、発言は増え、メンバーの関係性は強まることになります。グループは社会の縮図なので、社会の中での対処の仕方に繋がるとも言えます。
ーカウンセラーとの一対一のセラピーとは異なり、同じ問題を抱える仲間の生の声から、自発的な気付きが生まれます。カウンセラーのアドバイスより、メンバーからのアドバイスの方が何倍も納得感があります。因みに、メンバーによるアドバイスを、ピアサポートと私たちは呼んでいます。
ーメンバーの中にはADHD(注意欠如・多動症)の症状を併せ持つ方もいらっしゃいます。ADHDのためのプログラムもあるのですが、そのような方にはまずこのASDのプログラムを受けていただくことにしています。安原さんには関係ないですが。
ープログラムは、コミュニケーションスキル、ディスカッション、心理教育の3つのカテゴリからなっています。社会的経験の長い皆さんにとって、こんな単純なことまで、と思われるようなことも行いますが、スポーツなどと同じで基礎を繰り返し身体に覚え込ませるようなものだと考えて頂ければ。
ーリアルの、対面で行うグループプログラムに対して、オンラインは言わば生活するという面が希薄になることや、ノンバーバルのコミュニケーションが取りにくいなどデメリットはありますが、すでに社会人経験の長い安原さんや他メンバーの方々がスムーズにリアルの社会に移行できることを期待しています。もしうまくできないことがあったとしたら、リアルの別プログラムなどもご用意できますので。
ー会社様への報告は私どもからさせていただきます。その結果によっては会社様が最も良いと思われる人材配置にされる可能性もあるかと思います。適材適所ということです。会社は社会の縮図です。アスペルガーの方々とそうでない方々が、お互いを知り、調和しながら、活性化させていくことを会社、引いては社会は目しているのだと思います。どのような結果であろうと、安原さんが生きづらい状態からは脱せることができることを望んでいます。
ー差し支えなければ個人のメールアドレスをお教えいただけますでしょうか。今後の連絡の取り方はそのメールで行いたいと思います。またプログラムを進める中で参加メンバー通しでどうしてもやり取りが必要になる可能性もありますので、メンバーにはメールをシェアしたいと思いますが、よろしいでしょうか。直接会うなどのことはございませんし、その点は原則禁止とさせていただいておりますので。
山本カウンセラーは、違和感を「生きづらい状態」と表現した。
大阪国際ビルの事務所の6名のメンバーは、代表の松崎とCFOの安原を筆頭に、IRの50代女性、(子会社各社の)内部監査担当の50代男性、(同様子会社の)財務管理の40代男性、代表秘書の30代女性から構成されている。IR担当はニューヨーク大出身で英語が堪能であり、海外投資家を今後募ることも考慮して松崎が採用した。だが彼女は財務諸表がしっかりと読めず、また企業価値や株価の計算についての知識が乏しかった。海外投資家とのオンライン会議では相手と英語で会話をしていたが、これまで英語を必要とする業務に携わったことのない安原にとっては意味のない会議であった。
内部監査と財務管理、それぞれの担当は安原自身が面談した。内部監査は一部上場企業の内部監査室長出身で内部統制のプロだった。安原の言うことは何でも理解し従順だった。採用後、判断は誤っていなかったと安原は安堵した。
財務管理担当はベンチャーメーカーの上場に関わった経験があった。20代の時に福岡のロックバンドのギタリストとしてメジャーデビューした経験を持っていた。松崎が経歴に興味を持ち、他業種の子会社を配下に持つホールディングとしては多様性をアピールするのに適していると言った。安原には松崎の見解は理解できなかった。安原は音楽には詳しくなく、聞くものと言えばストリーミングのヒーリング音楽くらいである。ただ財務会計知識は悪くなく思えたため採用に賛同した。
その後、その元ミュージシャンを子会社の「真鍋スポーツ」に張り付かせることにした。スポーツ用品の販売を行う小売企業だった。子会社の会計品質の向上と、元ミュージシャンの能力を見極めるためであった。
返ってきた真鍋スポーツに対するレポートは「限られた陣容で、経験者が退職などもある中で、想定以上に対応できている」という内容だった。
安原のその時の感情は「疲れた」である。
真鍋スポーツの財務部長は上場企業を60歳前に退職した転職組である。前任がメンタルの問題を抱えて離脱していたため、後任を真鍋スポーツ社長が採用したいと安原に伺いを立ててきた際、安原自身も面接に加わり、スキルと経験は問題ないとして採用した。だが半年を過ぎても真鍋スポーツの会計品質がアップしているとは到底考えられないレベルに留まっている。
正さないとならない。安原にあるのはその責任感だけだった。
安原は元ミュージシャンと会議室に入った。元ミュージシャンは無駄に人を見下ろすように上背がある。
6人がけの楕円のテーブルに向かい合って座った。安原は身を乗り出すようにしてテーブルに腕を置き、元ミュージシャンに言った。
「真鍋スポーツの会計品質と会計処理のスピードをどう判断しているのですか?再度口頭で確認させてください」
「前任が休職になり、続けて会計の主担当が退職された後の部を引き継いでいらっしゃいます。過去の処理が分かる人間が誰もいない中で、財務メンバーをコントロールし、曲がりなりにも決算を締めてらっしゃいますので、できる限りのことはできていると思います」
突発的に湧き上がってくる感情がある。安原には目の前に小さなコップが見えた。感情はコップに満ち始める。もう少しで一杯になる。
「貴方が思う、というのはどうでもいいです。客観的にどうかということです」
椅子の背もたれに身体を預け、安原は努めて冷静に続けた。
「彼を真鍋スポーツの財務部長に迎えてから半年は過ぎています。どれだけメンバーが揃っていなくとも、どれだけ時間が無くとも、整えていくことがあの人の責務です。できないのは責任逃れです」
元ミュージシャンは安原より5歳上だったが関係なかった。仕事は真剣勝負であり、特に会計は間違いが許されない。ましてや上場となれば尚更厳格さが求められる。そもそも証券会社や東京証券取引所の審査も通らない。審査で正確性に注文が付けられるなどは会社の恥である。上場後に有価証券報告書に記載ミスがあって後から修正を出すなどは論外だ。恥の上塗りだ。自分が担当する会社でそのような不手際は許さない。
元ミュージシャンの言葉が耳に入ってくる。
「私自身も上場を経験しておりますが、当時私の管理していた経理部門と比べても悪くないレベルだと思っているのですが」
「私はまだ貴方を信用していないのです。貴方はこの程度のことが分かっていない程度なのです。自分で自分のレベルを理解をしていますか?」
突如、真鍋スポーツの財務部長と二人で直接話した記憶がフラッシュバックする。
午後からの取締役会に参加するために真鍋スポーツを訪問した日であった。取締役会前の会議室で、安原は財務部長に言った。
ーこれまでの時間一体何をしていたんですか。
―部門の責任者として責任が取れていないんじゃないですか。
財務部長は黙り込んだ。時間が経った。
財務部長は口を開いた。
ー貴方とはコミュニケーションが取れません。
正さなければならなかった。
ーコミュニケーションを放棄するんですね。
・・・
―そんなことが許されるのですか。私は親会社のCFOで、この会社の取締役でもあるんですよ。
・・・
―貴方は一体これまで時間をかけても何にも出来ていない。その自覚はありますか。
・・・
―貴方は部門の責任者ですよね。責任感はないのですか。
また時間が経つ。
財務部長は安原を向いて言った。
ーその言い方なのです。私は貴方とはもうこれ以上は話せない。今後ですが、新しい子会社の財務管理担当の方を我々の会社に派遣いただき、内情把握をしていただくのが良いと思います。
目の前のコップ一杯に注がれた感情が溢れそうになる。
私は何も間違ってはいない・・・
フラッシュバックが引くと、目の前には元ミュージシャンがいる。
中小企業で上場企業並みの管理体制や人材は揃っていない、そのような甘えは許されない。その人材にスキルが足りないのであれば補ってもらうか、新しい人に代わってもらうしかない。会社はママごとではない。仲良しグループではない。今の体制で何とかやりくりをしていくようなものではない。
オーダーが全て後出しで対応の時間がないとそれぞれの子会社の財務担当は言うが、それは私のせいではない。担当証券会社が求めるからであり、会社は対応しなければならない。松崎から自分に対する指導方針を、自分は子会社に向けているだけなのだ。
不動産会社勤務時も同じである。当時の社長の指示方法を踏襲して、部下の指導にあたっただけだ。社長を含めたオーダーは、事前に全て予想出来るものではない。経営は朝令暮改が前提のものなのだ。私がどうこう出来るものではないのだ。
コップに満ちた感情は、溢れた。
溢れ始めたものは残らぬように、全て流れてしまわなければならない。
流れ始めたものは、全て、全て、流れて、しまえ・・・
流れた水は安原を纏う。フラッシュバックは引いていく。安原は水の中にいる。プール深くの青い水の中にいる。
気付くと、元ミュージシャンを前にして30分が過ぎている。ミュージシャンは疲れた顔をしていたが、やむを得ない。分かるまで繰り返さなければならない。これまで自分はそうしてきた。自分は禍根を残していない。残さないために自分は誰に対しても平等であり根に持たない。元ミュージシャンもそれは分かるはずだ。
プログラムは毎週日曜日の15時に設定されていた。平日は都合の付けにくいメンバーが多かったことから、日曜日とされた。プログラムの内容が頭に残っている状態から月曜日の勤務がスタートするのは、理にかなっているとも捉えられた。
一週間にあった事を全員が順に一分間でスピーチを行うことから始まり、前回の復習を行い、20回に分割されたプログラムを実施した。プログラムの4回目からは、メンバーの一人が困っていることなどを発表し、他のメンバーからのアドバイスをもらうピアサポートが締めくくりに追加された。
パソコンモニターの青空の下にはアバターたちが集い、その姿を囲むように立つ桜の木々には花が芽吹いていた。
画用紙には『第4回プログラム 障害理解・発達障害とは』とあった。1回目は『オリエンテーション』、2回目に『コニュニケーションについて』、3回目の『挨拶・会話を始める』と続き、1ヶ月が経過していた。
当初聞いていたように、それぞれのプログラムは社会生活の基礎であり人間の土台をなすものだった。プログラムを終えない限り今の仕事を続けることは叶わないため、またこの社会が求める人間になるためには仕方がなかった。
2回目プログラム『コミュニケーション』の例題場面は会社だった。
山本カウンセラーが例題をメンバーを指名して読ませる。
「A君が挨拶する:Bさん、おはよう
Bさん:・・・(無言、挨拶は聞こえていたが家で夫と喧嘩していて機嫌が悪かったのです。その後、Bさんは昼食も友人とは取らず、席に座ったまま本を読んでいました)」
山本カウンセラーが言う。
ー二人の間で会話はされていませんが、二人の間には何らかのコミュニケーションがあったと言えるでしょうか?数分考えてみて下さい。
メンバーからの意見発表のあと、山本カウンセラーが纏めに入る。
ー自分が意識しなくとも、コニュニケーションが成立している場合もあります。Bさんは無言のメッセージを返したとも考えられます。たとえ言葉を発していなくても、他の人とコミュニケーションを取らないでいることはできない、と考えることができますね。
ー次は2番目の例です。
「Cさん:Dさん、悪いけど明日の会議資料のコピー手伝ってもらえないかな。
D君:無理です」
ー3番目です。
「Cさん:D君、申し訳ないけど明日の会議資料のコピー手伝ってもらえないかな。
D君:いつも大変ですね。悪いですけど、部長に明日朝渡さないといけない資料があるから今日は難しいです」
Dさん:無理言ってごめんなさい。他の人に頼んでみる。ありがとう」
ー例の2番と3番ではCさんの立場で考えた時、印象、感じ方はどのように違いますか?
ディスカッションの後、
ー少しの工夫で印象が変わることが分かりましたね。
ー次はノンバーバルです。
そう山本カウンセラーは言った側に、イラストが二つ現れる。
杖をついたおばあさんが、曲がった腰に手を当てながら急いで歩いている絵と、半袖の男の人が汗をかきながら走っている絵だった。
ー言葉を発していなくても、たくさんの情報を発信していることが分かりましたね。
3回目プログラム『挨拶・会話を始める』で山本カウンセラーが言う。
ー社会生活スキルトレーニング(SST)は、生活しやすいように、会話や考え方を工夫するための方法として利用されています。SSTでは6つのスキルが大切と考えられています。視線を合わせる、手を使って表現する、身を乗り出して話す、明るい表情、はっきりと大きな声、適切な内容、です。今のメタバース環境、アバターでは難しいところはあるかもしれませんが、この環境であるがゆえに考えるプロセスが加わることはメリットとも捉えて、楽しみましょう。
4回目は『障害の理解、発達障害とは』であった。基礎的な発達障害に対する知識を得、自己理解を深め、ディスカッションで障害を客観視し、同じような生きづらさを持つ仲間が存在することを知ることを目的としていた。
ー最近、DSM―5という診断基準が整備され、自閉症スペクトラムという概念が定着し、今後さらに一般化していくと思います。スペクトラムは連続体という意味で、重度の自閉症から、わずかなその傾向が見られる人まで明確な境界がなく連続的に繋がっている障害ということです。自閉症スペクトラムはASDと言われます。コミュニケーション面、社会面、興味行動の常同性・こだわりが特徴です。
ーコミュニケーションにおいては、文字通りにしか人の発言を理解できない、忖度が理解できない。相手がどう感じるかを理解できないので意識せずに失礼なことを言っている。視線を合わせられない。相手のノンバーバルな表情や声から感情を読み取ったり、自分の感情も理解できない。
ー限定した趣味と反復の傾向があります。こだわりが強く、自分なりのルール・やり方に固執してしまう。興味のある分野の知識の習得に没頭する。変化を好まない。
ー音、光、匂いや皮膚などの五感が過敏な場合がある。実行機能面で計画や見通しを立てるのが苦手、仕事などで適切に優先順位をつけることができない。過去の嫌な経験が蘇りやすい。
ー皆さんもいくつか当てはまると思います。またASDの人は睡眠障害やうつなど二時的な障害を起こしやすい。二時障害により発達障害と気付くこともあります。
ーASDを治す方法は、残念ながら現在はまだ開発されていません。薬物は二時的障害に対処するためのものです。ここにいらっしゃる皆さんは幸運なことに薬物は不要な方ばかりですが。
ー皆さんよくご存知のように、ASDの方の特徴はネガティブなことばかりではありません。こだわりが強いことはポジティブな面もあり、世に言う天才には多くのアスペルガーの人がいました。エジソン、レオナルドダビンチ、ピカソ、アインシュタインなど。神様が人類へのスパイスとして、人類を大きく発達させるために投入してきたとも考えることができます。もちろんアスペルガーに向いた場であったことはあるでしょうけれども・・・
こだわりが強い、五感が過敏という言葉は安原の頭に留まった。記憶にある映像が所構わずフラッシュバックされたり、自身の持つ視覚過敏の傾向は、会計や上場に対するこだわりには利点と言えた。一度見た数値は映像として貯蔵されてしまうのだった。
ピアサポートではアバターたちのヘキサゴンの形の輪が回り、持田が正面に来る。
持田は前回のセッションの最後に山本カウンセラーから指名を受けていた。強制ではないのでスキップしても良いと山本カウンセラーは言ったが、持田は大丈夫と応えていた。メンバーは発言された内容は決して口外しない約束になっていた。
持田のアバターは口を開く。
「会社で上司の部長がブランディング委員会というものを立ち上げています。私自身はブランディング委員会が出来たことを今の部署に異動で来るまで知りませんでした。我々の会社は商品を法人や個人商店に卸すB2Bビジネスなのですが、部長はB2Bであっても我々の会社ブランドをもっと世に広めたい意向があります。いわゆるサブブランド戦略です。インテルが自分の商品の入ったパソコンには、インテル入ってる、としているように、卸先の商品の中には、我々の商品が中に入っている、としたいのです。だがこの委員会がやろうとしているのは、私が10年前にブランディングに携わっていた時に、一旦結論付けされたものでした」
白髪のアバターは息を整えて続けた。
「以前より、我々の会社は会社の名前を全面に出さず、黒子に徹する、というのが方針でした。その方針の再設定の機会が10年前でした。私は卸先へのアンケートやインタビューにも参加し、卸先が彼ら自身のブランド展開を優先しているとの結果が出ました。また当社内でもあらゆる方面に商品を販売してシェアを確保している中で、敢えて我社の社名を出すことは逆にリスクになるとの判断となり、方針は変更なしとして引き継がれたのです。私が中心となってまとめ、10年前に決まったことを掘り起こし、再設定しようとする、今の部長の取り組みが私には容認できませんでした」
山本カウンセラーが言う。
「納得されなかったのですね。ではどのような行動を取られましたか?」
「10年前のブランディングでの取り組みを行った際の上司が今の社長なので、社長に直訴しました」
「社長はどう仰いましたか?」
「『自分もそう思うが、取締役会ではやってみようとなった』と社長は言いました・・・結果的にコロナウイルスの拡大で卸先が大きな被害を被り、当社だけのアピールに協力できるような環境ではなくなったため頓挫しましたが」
持田は山本カウンセラーに譲るように話を止めた。
「では皆さんのご意見を伺いましょう。質問でも良いですよ」
しばらく沈黙があり、一人のアバターから手が挙がった。口髭の曽根だった。
「どのようなプロセスで上司の部長さんはサブブランドを検討するようになったのですか?過去の方針決定はご存知なのですよね?」
「部長はまだこの会社に来られて2年のため過去のことは良く知りません。これだけ品質の良い商品を卸していれば、自社のアピールをしてもっと商品全体の嵩上げを行うことができるのではないか、と考えたということです」
「お一人でですか?」曽根が聞いた。
「マーケティング部と協働です」
「先ほどお聞きしましたが、進めることは会社で意思決定はされているのですよね?」
「取締役会で承認されてはいます」
「そうですか。機関決定もされているとすると、どうでしょうねえ・・・」
「社長ご自身も見直しが良いのか悩んでいたのです」
「悩んでいるが、見直しの検討には取締役会のメンバーとして同意された?」
「そうです」
曽根は少し黙ってから言う。
「マーケティング部も理解しているとすると、検討はしてみても良いかもしれない、とは思えるのですが。その上司も絶対にやり抜くという感じなのでしょうか?」
「検討はしてみて、それでも今まで通りに黒子に徹するという結論になるのであれば、それはそれで構わない。少なくとも検討はすべきでは、というスタンスです。でも私は違うと思いますし、社長自身が疑問を抱いていることですので、社長のいらっしゃる時に、私は賛同できないと直訴した訳です」
安原は自身のアバターの手を挙げた。
「自分の信念を通すところ、持田さんの気持ちも私には痛いほど良く分かります。私であっても同じ行動を取ると思います」
記憶の倉庫から割り当てられた持田はアニメのアバターから実写に変わっていて、安原には一つ一つのシーンが目に見えている。10年前には、持田は精魂を込めてブランディングを突き詰めたに違いない。自分の子供たち、分身と言っていいものを少しでもないがしろにされることは持田に取って許されてはならないことだったのだ。
山本カウンセラーのアバターが言う。
「共振というものですね。他の方も同じ考えでしょうか?先ほどASDの方の特徴として、「こだわりが強く、自分なりのルール・やり方に固執してしまう。興味のある分野の知識の習得に没頭する。変化を好まない」ということがありましたね。そのまま自分を通していいのでしょうか?曽根さんの、検討はしてみても良いかもしれない、というコメントもありましたね。また一方で、皆さんには「相手がどう感じるかを理解できないので意識せずに失礼なことを言っている。相手のノンバーバルな表情や声から感情を読み取ったりできない」特徴もありましたよね・・・持田さん、上司の方はどう思っているでしょうね?」
持田のアバターは黙っている。他のアバターも黙っていた。
「皆さん、同じようなご経験あるのではないでしょうか。マーケティング部も賛同している。過去の設定から10年経っている・・・取締役会には通っている。その上司の方は再検討を通すために大変なご苦労をされたでしょうね。そして部下には社長に止めるべきだと進言された。後ろから刺されたようなものでしょうか。上司の方の思いはいかがでしょうね」
上林すずのアバターが応えた。
「恨んでいると思います」
「他の方もそう思いますか?」
多くのアバターが「はい」のボタンを押した。
「結果的に、コロナのために計画は頓挫し、持田さんに取っては望んだ通りの結果となっているようですが、これで良かったのでしょうか。上司の方も、持田さんと同じように自分の信念を持って進められていたでしょうから。負かして終わりではないのではないでしょうか」
原田アシスタントカウンセラーが言う。
「負かしてスッキリしましたか?失礼な言い方ですみません」
「・・・溜まっていたわだかまりを吐き出しただけです。吐き出さないとおかしくなる限界だったのです」
山本カウンセラーが継ぐ。
「また持田さんは文章がお上手ということで、コミュニケーションにメールをお使いになることが多いとお聞きしました。書いていると没入してしまいますか?」
「はい。我を忘れて書いていることがあります」
「そうですよね。皆さんが持つ傾向、過集中ですね」
「上司の方ともメールでのやり取りは多いですか?」
「多いです」
「上司は何と言ってらっしゃいましたか?」
「極力直接話したい、とは言っていました」
上林すずのアバターが手を挙げる。
「文章に頼るとその瞬間では双方向に時差が出るだけでなく、またSNSでよく問題になるように攻撃的になりがちです。言葉の暴力に繋がる場合も・・・注意が必要ではないでしょうか」
持田は恐らく視覚過敏の度合いが自分と同じように強いのだろうと安原は考えた。ラジオドラマのシナリオを書いていると言った。恐らく記憶の倉庫にある映像を手繰っているのだ。言葉を口にするのは難しくとも、映像として保存しているものを切り出して文章に落としているに違いない。
アバターたちの沈黙の後、山本カウンセラーが言った。
「文章でのコミュニケーションの点もどこかで話題にできればと思います。では、とても参考になるケースだったので、来週また皆さんがどう考えられたかお教えいただけますか」
セッションは終わった。
自分なら感情がコップから溢れ出したとしても禍根は残さない・・・
その一方で、少なくとも自分と同じ側の人間がヘキサゴンにはいる、その安心感が安原には心地良かった。
現実世界は曇天だったが、アバターの集まる世界は晴天の野原だった。安原にはブルーの空が心地良い。恐らく他のメンバーも同じだった。
5回目の集いは『会話を続ける』であった。自分の情報を伝えるスキル、適度な自己開示について学ぶプログラムだった。自己開示の受け手はその受けた内容の程度に応じて自己開示を返しやすくなるというものだった。
ピアサポートのセッションでは、ヘキサゴンの輪は回転し、小太りで口髭を蓄えた曽根のアバターを映した。
「私はアバター同様に髭を生やしていますが、頭の髪はこれほど多くはありません」と言ってアバターは続ける。
「私は部下に私と同年代の副部長がおり、その下にマネージャーやスタッフを抱えているのですが、全体管理をするために副部長やマネージャーを通さずに直接スタッフから業務の進捗を聞きたいと部会でオーダーをしました。ごく当たり前のオーダーだと思います。がその後、一人の女性スタッフについて、副部長から『彼女の場合は自分を間に通して欲しい』という要望を受けました。私は『スタッフと直接話をしたい、その趣旨が分かりませんか』と告げました。副部長は、『よく理解しています、ですがその女性は部長から直接進捗管理を受けるには未熟で、相対的にメンタル面でもか弱いところがありますので自分が間に入るので自分から説明させてください』ということでした。私には全く意味が分かりませんでした」
曽根のアバターは、ほかのアバターの理解が追い付いてくるように一呼吸置いて続けた。
「確かにその女性はほかの人に比べて少し気弱に見えるところがありました。『その女性からそう言われたのですか』と私は聞きました。『はい』と副部長は応えました。『私には本人に直接聞く権利もないのですか』と私は聞きました。『少し時間を置いていただけませんか、それまでは私が間に入ることでお願いできませんか』と副部長は言いました。私は何度も同じように依頼をし、長く議論をしましたが、平行線でした。私はどうすれば良いか解決策が見当たりませんでした。なのでやむ無く、しばらくはその副部長から話を聞くこととしました。都度、『直接がダメなのはなぜですか』と聞くことも忘れませんでした。そのうち、私の上司である取締役から呼び出され、『副部長と女性スタッフを追い込むようなことは控えてもらえないか』と話がありました。寝耳に水でした。私は混乱しました。私は副部長を呼び出し、問いただしました。私にできることはそれだけでした。副部長は『このままだと財務部の組織が壊れるかもしれませんので、仕方なく取締役に相談しました』と言いました。『なぜ私が部下と話すことが組織を壊すことになるのですか?』『部長は業務に厳格でいらっしゃるので、私のような中間管理職は良いのですがスタッフだと萎縮をしてしまいます』と言いました。『それならばまず私を通すべきではないですか、私の上司に直訴するなどルール違反ではないですか』と話しました。『どんなやり方にせよ、組織が壊れるのは避ける必要がありましたので』副部長はその一点張りでした」
山本カウンセラーがほかのメンバーにどう思うかを尋ねる。
安原には曽根と副部長とのやり取りの一つ一つのシーンが映像として見えた。曽根はアニメから実写の人物に置き換えられ、副部長の前で曽根のストレスが膨らんでいく様がフラッシュバックする。
手を挙げたのは上林すずのアバターだった。
「先ほど曽根さんは仕事に厳格でいらっしゃるとお聞きしましたが、それだけでしょうか?どうして直接その女性スタッフは曽根さんと話ができないのでしょうか。心当たりはありますか?」
「全くありません。副部長が勝手に組織をコントロールしようとしているのではと」
「では取締役がその副部長の話を受けて、副部長の話をそのまま真に受けて、曽根さんに話をされたのだと思われますか?」
「副部長は取締役と日ごろから仲が良いように見受けられるので、取締役を取り込んでいるのではと想像できます」
「なるほど、あり得ますね。どんな時にそういう印象を受けますか」
「今日は人と会うから早く自分は帰る、明日の朝は病院に行くので遅く出社する、など取締役は個人的なことを逐一副部長には知らせます。そんな個人的なことをどうして取締役は副部長に話すのか理解ができません」
アシスタントカウンセラーの原田のアバターが口を開く。
「皆さんが苦手とする雑談感覚のコミュニケーションに思えます。恐縮ですが嫉妬に近い感情のようにも聞こえました。取締役と副部長の心が通じているようなところに。失礼な事を申し上げてすみません」
「それはないです」曽根のアバターが重なるように返す。
上林すずのアバターがまた口を開く。
「元に戻って、その女性が曽根さんとお話ができない根本要因は何でしょうか。副部長さんが間に入らざるを得ないと考えなければならなくなっている要因は。曽根さんはその要因を素直に聞くことができますか?」
「その用意はいつでもできています。だが彼らは私が少々厳格なのでとしか言わない。言おうとしないのです」
「それで彼らは十分に言っているつもりなのではないでしょうか・・・他に取締役は何か言われてはいませんでしたか?」
「他のメンバー全員とワン・オン・ワン面談をしたようです。その際、副部長と部長とどちらがコミュニケーションがやり易いか、と質問したそうです・・・」
「失礼なことですね」
「無礼です」
「そうですね、心中お察しします・・・質問の結果はどうだったのでしょうか」
「取締役によると、「全員が副部長の方が話し易い」ということでした」
「それを聞かれてどう思われましたか」
「大変残念でした」
「どうしてですか?」
「私ほど部員を気遣っている組織長はいないと思います。取締役が副部長と親密なところから部員が忖度したとも取れます」
「そうですか。取締役は他に何か仰られていましたか?」
「『業務や資料の作成に厳しいのはいい。厳しくなければならない時もある。だが君の目線は部員を向いていない。全部自分ばかりなのだ』と。『一方、副部長は常に部員側を見ている。副部長は部員皆から尊敬され、慕われている。君は尊敬されているかもしれないが、慕われてはいない』と」
「それに対してどう曽根さんは言われましたか?」
「『組織を預かる以上は組織で達成しなければならないタスクがあります。そこまで部員が理解しているかどうかです。取締役の貴方であればその点は考慮すべきなのではないですか』と問いました」
安原は賛同のマークを押した。
「取締役はどう応えられたのですか?」
「『もちろんその点は分かった上で、今話しています』ということでした」
曽根が取締役に詰め寄る情景が安原の脳裏に映る。今、曽根は落ち着いて話しているが、その時は涙も流しながら訴えているのが見えた。どうして自分のことが理解されないのだ、一方的に取締役は相手の肩を持つのだ・・・曽根の溢れた感情が頬をつたっていた。
山本カウンセラーのアバターが動く。
「ここで少し思い返してみましょう。皆さんの障害の特徴を申し上げました。文字通りにしか人の発言を理解できない、忖度が理解できない。相手がどう感じるかを理解できないので意識せずに失礼なことを言っている。相手のノンバーバルな表情や声から感情を読み取ったり、自分の感情も理解できないことがある・・・相手はコミュニケーションを発しているのですが、受け取れていない可能性はないでしょうか?」
アバターたちが黙る。
「その副部長は今も会社にいらっしゃるのですか?」原田アシスタントカウンセラーが聞く。
「辞めました」
「そうですか。取締役とも親しくしてらっしゃったというのに残念ですね」
「取締役も引き止めようとしたようですが」
取締役と親しかったのに残念、という言葉は安原には理解できなかった。
安原はプールの青い水の中にいて、揺れていた。ヘキサゴンの中にいて、曽根に共振し、揺れていた。
アバターたちのプログラムは『会話を終える』スキルだった。話のいい区切りまで待つ、一言断りと理由を伝える、お礼を伝える・・・いつも人間が行っていることだった。
ピアサポートのセッションでヘキサゴンは回り、安原で止まった。
「私には皆さんのような特別な話題の提供は難しいと感じています。私は確かにこだわる傾向にありますが、今所属する会社はグループで上場に向けて準備をしており、私のようなコントローラーを必要としています。上場の基準は10年前とは様変わりしており、その求められる基準、レベルは格段に上がっています。私のような経験と厳格さがなければ業態の異なる会社を束ねるホールディング会社を上場させるなど、そもそも不可能なのです。私は以前不動産会社に勤めておりましたが、当時も上場準備の中心メンバーでした。私はその時の経験を再びなぞっているだけとも言えます・・・そして今、皆さんと一緒にここにいることになりました」
息を整え、続けて何を言っていいか考えあぐねる安原に、山本カウンセラーが被せた。
「それでは私から・・・安原さんは不動産会社にいらっしゃったということですが、どのような企業文化だったでしょうか?」
「どういうことでしょうか?」
「私は企業人ではないので存じあげませんが、会社や業界により文化が全く違うと聞きます。これまで自分の育ってきた企業文化が、他のどの世界とも同一のはずだと考えてしまうことはないでしょうか・・・」
「私自身は企業の内部に入ったということでは不動産業しか経験していませんが、業績達成への執念は組織、社員の末端まで染み込んでいる業界、詰めが甘ければ生き残っていけない業界だとは思います。でも監査法人に所属していた際に様々な企業を外部から見ましたが、社会人は皆そんなものだとも思いますが・・・仕事の精度というものは企業文化とは違い普遍的なものだと思います。なので重箱の角ではないですが、徹底的に仕事は詰めます。丁度上場のためにはその程度で結果が収まるということだと考えています」
原田アシスタントが口を挟む。
「・・・パワハラが横行する余地もできてしまう、とは言えないのでしょうか」
「コンプライアンス遵守が上場では基礎の基礎になりますので、パワハラなどあってはなりません」安原は努めて冷静に応えた。
「しかし、安原さんがクリニックへの受診を命じられたのは、部下の方への怒号などが原因でもあるとお聞きしました。個人情報を明かしてしまい申し訳ありませんが」
「あの程度のことはパワハラではありません。単なる指導だと思います」
上林すずのアバターが手を挙げる。
「上司の方、代表は、今回当クリニックをご紹介されるに当たりどう言ってらっしゃるのですか?例えば、で結構です」
「例えば・・・『権力の取り違えをしないでもらいたい』など言われました」
「どういう意味でしょうか?」
「『これまで君は』、私のことですが、『社長や社長に次ぐポジションに就いたことはない。今回が初めてだと思う。そして私は財務や経理の専門家ではない。上場に際して当たり一遍の知識経験はあるものの、その専門分野の本当の苦労を知らない。だから君に任せてある。そして我々を担当する候補の証券会社から、このタイミングでここまで管理が整っているのは素晴らしい、と高い評価ももらっている』」
アバターたちは静かに聞いている。
「『その一方で、君は社長に次ぐというより、子会社に取って、今は社長、私と同じ立場とも言える。私自身は違うが、その力を使うのは甘味なものだと思う。そんな人間を何人も見てきた。真鍋スポーツの』真鍋スポーツとは子会社の一つですが『真鍋スポーツの前社長は他の会社から招聘したが、幹部ではあったが社長の経験はなかった。彼もやはりおかしくなった。彼を社長ポジションから替えざるを得なかったのはそれが理由だった』と」
安原は間を置いてから続けた。
「私は『そのようなつもりはありません。過去にもやってきたことを粛々と進めているだけなのです、この程度の統制をやって初めて上場は成り立つのです』と応えました」
「本当にそうなのでしょうか」すずのアバターだった。
「どういう意味でしょうか?」胸に込み上げてくるものがある。
「私たちに傾向の見られる過集中です。没入して周りが見えなくなる。少しでも自分が設けたレベルに達していないことがあるとストレスは膨れてメルトダウンを起こしてしまう」
「私がそうだと言われるのですか?」
「分かりません・・・失礼しました。お続けください」
代表の松崎から言われた言葉は次々とフラッシュバックする。
「『君は、統制という言葉でなく、子会社を「統治」していく、という言葉を使っている、とも伝え聞いている。君が言うように、上場基準というのは常に変わり続けていて、10年前のようなレベルではない、一つ稟議手続きが漏れているだけで、基準に達成できていませんね、来年出直してください、そう証券会社や東証は言う、上場準備は本当にそのような厳しいものかもしれない。だが、自分が分かっていることは全て分かっていないとならない、と子会社や部下に求めているように見える。対して、子会社や部下にも、君が持っていない部分がある、そうであればその部分を理解して尊重する謙虚さが必要ではないだろうか』」
安原は続けた。
「私は聞きました。『目標を達成するために必要なことを追求しているだけです。目標の完遂に繋がらない、人のスキルや人格に目を向ける必要はあるのでしょうか。そこは私にはわからない、子会社からはそんな発言があったのでしょうか』」
「代表はどう言われましたか」
「『久光化学』、グループの化学メーカーですが、『久光化学の社長にも君のことをヒアリングするために来てもらったんだ。すると、今日は首覚悟で来ました、と久光化学の社長は言った。君のことを告げ口することで自分は首になると彼は思っていた。私が君を大事にしていることが分かっているからね・・・私にそんな権力があるなど考えたことはなかったが、切ろうとすればそうできる、常に私はそう見られているということだ。自分を律さなければ、と常に私は思っている。君は子会社を統治すると言う。だが彼らは本当は我々のお客様なのだ。真実は、我々は彼らの会社を扱わせていただいているのだよ。君としては満足のいく形で自分の責務を完遂できているかもしれない。だが言葉が適切か分からないが、君が行く後ろには累々と屍が横たわり、そしてその周りの痩せ細った人々の目は憎しみを湛えている・・・人間はモチベーションでできている生き物なのだ。上場は、参加したメンバーの皆が、やって良かった、充実していたと思わなければ意味がないのだよ・・・私は上場には君が必要だと思っている。だから君にはまずコンプライアンス研修を受けてもらいたい。私自身も自分を律することを含めて受講する。私はどちらかというと性善説の立場で君に接していた。私自身も改めなければならない。そして関係者の皆に謝罪をしてほしい。そして障害と関係なく君には変わってもらいたい。屍が出るくらいなら、上場のタイミングをずらせば良いのだから』」
急に言葉に詰まった。一度詰まると続けて話せなくなった。不思議だった。身体の周りに水が纏わり始め、やがてブルーの厚い水で満ちたプールの中に安原はいた。
アバターたちは黙ったままである。
山本カウンセラーが口を開いた。
「話しにくいであろう話を本当にありがとうございました。このグループセッションで安原さん、そして安原さん以外の方も変わられるお手伝いができれば、と本当に思っております」
安原は画面から目を離した。自宅のマンションの白い壁に安原は囲まれていた。
プログラムは『表情訓練』であった。アバターセッションではお互いの表情を見ることはできないが、見えないからこそ恥ずかしがらずにできる利点もあります、と山本カウンセラーが言って、拡大された画用紙の上にアニメが流れ始めた。
割り箸を横にして上下の前歯2本ずつで軽く噛み、口角が割り箸より上がるようにする。指で限界まで口角を上げて止める。割り箸を抜いてキープする。イ、イ、と言いながら口角を上げ下げする・・・アバターたちの声が聞こえた。普通の人になるには必要なのである。
ピアサポートでは上林すずのアバターが画面のセンターに来た。
「私は注意欠如・多動症ADHDの傾向のあるASDだと診断されております。このグループセッションの後、ADHDのセッションも続けて受講する予定です。私の場合はクライアント、つまり転職を考えている人と、人を求めている企業様とのコミュニケーションが仕事の中で最も重要な部分になりますので、最も不得手な職業の一つを選んでしまっていると言えます。ですが転職されようとしている方々の職業選択という人生の岐路に立ち会い、寄り添う仕事には興味とやり甲斐を拭うこともできません。なので、これら皆さんとのセッションを通じて何とか自分自身の取扱説明書が完成できればと思っているところです」
アバターたちが拍手する。
「人との距離感が分からない点で苦労してきました。物理的な面でも心理的な面でもです。アスペルガーと診断を受けてから、物理的には人とは腕一本は開けるように自分の中でルールを作りました。これまでは近づきすぎて人を不快にさせたりすることが往々にしてありましたので。息子に対しては特に距離の取り方が分かりませんでした。過干渉で、世に言う毒親でした。でも仕方がありません。息子は私のものだと思っていたのですから。一方でクライアントの転職がうまくいかない時や企業様とのコミュニケーションが上手くいかないと落ち込みやすく息子に当たりました。今は事情があって息子は私の元にはおりませんが、どのように接すれば良かったのか考え続けています」
山本カウンセラーがアバターたちに意見を伺う。
過干渉、毒親という言葉に引きずられるように、安原はアバターの手を挙げていた。
「息子さんは今どこにいらっしゃるのですか?」
「・・・今は私の両親のところにいます」
「息子さんは今幸せでいますか?」
「・・・幸せだろうと思います」
「息子さんがどこかで解放される場を設けてあげることが必要だったのではないでしょうか。そう考えると今がその状態なのかもしれませんね」と安原は言った。勝手に口は動いていた。
「息子は私の生きがいでした」すずの口調は強くなった。
「今でも自分の元に戻したい、と思っていらっしゃる?」
すずは黙った。
「失礼しました。私には妻も子供もおりませんので」
アバターたちの沈黙が流れた。山本カウンセラーが十分な時間を待ってから言った。
「過干渉の反面、ネグレクトのようなことはありましたか?過集中のために息子さんのことを忘れてしまうなど」
「このクライアントはこの会社に合うのではないか、そう考え始めると晩御飯を作るのも忘れて集中することはありました。もともと料理は苦手なのですが」
「そのような時は息子さんはどうされてましたか?」
「冷蔵庫の中にあるものやカップラーメンを食べてました」
「過干渉である時もあれば、急に放って置かれる。息子さんはどう思っていたでしょうか?」
「混乱していたでしょうね」
「先ほど仕事がうまくいかないと息子さんに当たることもあるということでしたが、どのように当たるのですか?」
「私は音に敏感なので息子に音を立てないでと言いました。ADHDにありがちなように、スマホのアプリを使っても道に迷いました。道に迷うストレスを息子に向けました。息子の使う曖昧な言い回しを問い正しました。皆に会うから遅くなると言うと、皆とはだれ、いつ、どこでと聞きました。皆が言っていたと言うと皆とは誰と聞きました。ますますストレスは高まりました」
「他にはありますか?」
「いつも最後に泣きました」
「息子さんの前でですか?」
「おかしいですか?」
「おかしくないです。そういう方多くいらっしゃると思います」
安原はまたアバターの手を挙げていた。
「息子さんは自分が悪いと思っていたでしょうね。自分が悪いからお母さんが泣いている。自分が悪いから自分をネグレクトする」
「・・・分かっています。人から言われたくはありません」怒気を含んだ言葉が被さってきた。
すずへの共振とともに記憶の倉庫から蘇ってくるものがある。むず痒かった。
適切な言葉か判断がつかないままに安原は言った。
「私には分かる気がするのです」
山本カウンセラーのアバターが今日のセッションは何だったかでしょうかと言った。画面の画用紙に「相手の気持ちを考える」があった。
「失礼しました」と安原は言った。
木下医師にはリアルで定期的に個別面談を受けることになっていた。水曜日の夕刻に事務所を出る。空はブルーに晴れている。苦手な地下鉄を避け、街路樹と彫刻を見ながら御堂筋を梅田に向かって歩く。
狭い部屋である。安原をソファに促し、回転椅子に座った木下は横の小型机にあるパソコンを向いた。
「グループセッションはいかがですか」と木下はパソコンから目を外し、想像通りの質問をした。
「順調です」
「生きにくさのようなものは和らいできていますか?」
「これまでの違和感が「生きにくさ」と同じ意味であれば、そう思います」
「客観的にも、安原さんは変わったと周りが認識してもらえればいいですね」
木下は画面に出ているであろう電子カルテに何かを打ち込む。
「今日は少し過去のこと、ご両親のことなどをお聞きしたいと思います。カウンセラーの山本からお聞きかと思いますが、我々のクリニックのスタンスは、少々時間がかかることは覚悟した上で、現在だけを向いた対処療法ではなく、根本的な要因を手繰って治療の確実性を高めたいと思っています。急がば回れで、結果的には、このクリニックに来られる方が満足できる結果につながる可能性は高まると思っています。またある程度グループセッションが進み、皆さんの心の壁のようなもの、あるいは我々に対する抵抗感のようなものが和らいだと考えられるようなタイミングで行っています。構えなくて結構ですので」
木下は前回同様ブルーの作業衣を着ている。患者の気分を和らげるための色であったが、自分には不要だと安原には思えた。
「お父様は何をされている方でしたか?」木下は聞く。
「大学教授です。経営学を教えていました。調べてもらえれば、その世界ではそれなりに名が知られていると思います」
「誇らしいお父様ですね」
「そうですね。学生や同僚を含め、誰からも尊敬されている、とは言えると思います」
「お母様はいかがですか?」
「父と母は離婚をしています。私は父側に引き取られました。その後母とは会っていません」
「お寂しいですね」
「そうでもありません。父がおりますので」
「そうですか。差し支えなければですが、どうしてお二人は離婚されたのですか?」
「私は子供でしたので詳しいことは良く分かりませんでした。ただよく口喧嘩はしていましたので、性格の不一致というような表現になってしまうのでしょうか。単純ですが」
「どちらに非があって、ということはないのですね。敢えて言うなら、どのような時にその口論があったかなど思い出せますか?思い出したくないところかもしれませんが」
「難しいですね・・・そうですね・・・敢えて、なら父は大学教授ということもあり、一度研究にのめり込むと周りが見えなくなるようなところはありました。厳格の度が増すと言いますか。怒りっぽく、癇癪と言えるようなものだったと思います・・・なぜかそのモードの時に起こっていたような気もします」
「何に怒っていたのでしょうか?」
「たとえば私の教育についてでしょうか。父は私に子供の頃から会計士になれと言っていました。私には当時会計士という仕事が何なのか分かっていませんでした。例えば弁護士なら何となく法廷などが頭に浮かんで想像がつくのですが。会計士が何かよく分からない、私が言うと父は母に、お前の教育が悪いからだ、と言っていました。母は私がまだ子供だから難しい、時間が経てば分かると思う、と言うのですが、父は心血を注ぐ世界を蔑ろにされているような気がして、我慢ならなかったのでしょう」
「お父様の気持ちがよく分かるのですね」
「そうです」
「そしてお父様の希望通りに会計士になられた。お父様も誇らしかったでしょうね」
「そうですね・・・」
「少し歯切れが悪いようにも感じますが、何か気になることがありますか?現在のお父様とのご関係はいかがですか」
「私は会計士の資格を取った後大手監査法人に勤めておりましたが、企業内部に入って会計士の知識を活かしながら企業経営に携わりたいという気持ちが段々と強くなって監査法人を辞めました。辞めたいと言った時に父は激怒し口論になりました。またその後に入った不動産会社を上場の区切りがついたということで辞めた際にも父は怒り、お前をもう息子とは思わない、と言いました」
「ショックだったでしょうね」
「私が父の描いたレールの上から脱線してしまったので仕方がないことです」
「お父様は安原さんが子供の頃も、癇癪を起こすことはなかったのでしょうか?」
「あったかもしれません。ですがごく当たり前のことです。打たれたりは躾としてどこの家庭でもあることでしょう」
「どこを打たれたのですか?」
「頭や頬や尻などです」
「何で打たれるのですか」
「頭や頬は平手で、尻はベルトです」
「どのくらいの力加減でしたか?」
「嗜める程度だったかと思います」
「あざができるほどではなかった?」
「そうです」
「尻の時もですか?」
「尻のときは・・・あざが出来たかもしれません・・・頬のときも少し赤くなったかもしれません」
「具体的には、どんな時に打たれたのですか?」
「成績が悪かったとき、父の質問に受け答えがきちんとできなかった時などです」
「理不尽ですね」
「いえ、私が不出来だったからです」
「他にお父様からされたことはありませんか?」
「・・・ベランダに出され、ガラス戸の鍵を閉められたことがありました」
「季節はいつですか?」
「冬もありました」
「どのくらいの時間ですか?」
「・・・思い出せません・・・数時間・・・」
「辛いですね」
「私に問題があったからです」
記憶の倉庫から、時間軸に関係なく映像がフラッシュバックする。
「本当にそうでしょうか・・・お父様はお母様にも手をあげたりはありましたか?」
あったかもしれない・・・急速に耳鳴りがし始める。今まで身体の隅々に隠れていたはずの黒い影のようなものが、安原の涙腺を遡ってくる。溢れ出たものが身体中に纏い付き始め、深いところに引き摺り込まれる。そして安原は青いプールの水の中にいて、揺蕩っている。
木下医師の部屋を出た。
待合室の椅子に座り、診察料の精算を待った。
「安原さんでいらっしゃいますか?」横から突然女性の声がした。
視線の先には40代くらいのパンツスーツのビジネスウーマンが立っていた。
「グループプログラムでご一緒させて頂いていると思うのですが・・・上林です」
安原は立ち上がった。
「普段アバターでしかやり取りさせていただいておりませんから、声だけではお分かりにならないでしょうけども」
声音の記憶を手繰る。確かに上林すずのアバターと繋がった。
「失礼しました。安原です。初めまして、というのもおかしいですが、面と向かって、ということでは、初めまして」
「こちらこそ初めまして」すずは笑ったが視線を外した。安原も視線を外した。
安原は一つ奥の席に座り、隣に座るよう促した。
「いつも人との距離感が分からないんです。少し親しくなると近くなりすぎる。安原さんはいかがですか?私は立っているときは腕を横に伸ばしたくらいに、座ったときは腕が触れない程度に人とは離れるように心がけています。心がけないと近くなります」
「私はそうでもないです。でも分かります」
「分かっていただけて嬉しいです」
「どうして私だとお分かりになったのですか?」安原は聞いた。
「木下先生のマイクの呼び出しがあったので。恐らくグループセッションの主治医は同じでしょうし、もしやと」
「そうですか。モニターで番号管理されるような、もう少し大きなクリニックだったら分からなかったでしょうね」
「ここは雑音がないので助かりました。もしうるさかったら、安原さん、という呼び出しも聞き取れなかったでしょう」
「「カクテルパーティ効果」が我々には当てはまらないですね。定型発達者なら複数の音の中から一つを切り取る事が出来るのでしょうけど」
「良かった。悩みが分かってもらえて・・・恐らく先生は私たちが鉢合わせしないようにスケジュールを組んでらっしゃるのでしょうが、先週の予定を私が変えてもらったのでこういう機会が起こりえるんでしょうね」
「これから診察ですか?」
「そうです。これからです。安原さんはもう終わられたのですね。もう帰られるのですか」
「精算が終われば帰ります」
「お疲れ様でした」
沈黙があった。
自然と安原の口から言葉が漏れた。
「終わられた後、少しお時間ありますか?誰かとちょっと喋りたい気分なのですが、待っていてもよろしいですか?クライアント、あるいは患者というべきでしょうか、メンバー同士は直接会うのは禁じられていたとは思いますが。もしご都合よろしければ」
すずはしばらく前を向いて思案した様子を漂わせ、言った。
「時間、大丈夫です。今日はもう仕事には戻りませんので」
すずの診察が終わるのを待ち、二人でビルの地下にあるセルフサービスの喫茶店に入った。カウンターですずはソフトクリームを頼んだ。
「ソフトクリームが好きなんです」とすずは言った。
「ソフトクリームが好きなんですね」と安原は鸚鵡返しをした。
「では私もソフトクリームにします」
カウンターに並び、安原が支払いをした。
「ありがとうございます」
「私が誘いましたので」定型発達者が使うであろう、こんな安いもので恐縮です、とは言わなかった。
すずが二つのソフトクリームの乗ったトレーを持って、二人掛けのテーブルに座った。
安原は向かいに座った人を正視するのが苦手だったが、すずも最初は苦手なのが分かった。二人ともお互いに視線を合わせなかった。
すずは言う。
「仕事柄、最初に相手の目を正視できないのはマイナスなんですよね」
「そうでしょうね・・・相手の目を見ずに話すことが許される社会に早くなって欲しいですね。溶けますので食べましょう」
二人で黙って食べる。コーヒーを置いたトレーを持ってスーツ姿の男がテーブルに着こうとしている。コーヒーカップと受け皿が音を鳴らした。すずが両手で耳を塞いでいた。右手にはスプーンを持ったままだった。
「疲れますよね。聴覚過敏」安原の言葉にすずが頷く。
「安原さんはそれほどでもないですか?」
「私もその傾向はありますが、視覚過敏の方が強いんです」
「そうですか。視覚過敏も疲れそうですね」
「何でも映像として記憶に仕舞われてしまいます。特にネガティブな記憶は所構わずフラッシュバックします」
「大変ですね」
「お互い様です。でもお互い冷たいものは大丈夫で良かったです」
「自己紹介のとき、安原さんは独身だと仰ってましたよね?」
「そうです。機会がありませんでした。いや結婚に至るまでの機会はあったかもしれません。後でこの障害、「脳の多様性」のためだったかと今になれば思います。上林さんは確か」
「そうです。バツイチです。私も後でこの障害が大きな要因だったと分かりました。結婚した時にはまだ障害を知りませんでした」
そして彼女は確か男の子供を持っていた。
「早く分かっていれば離婚していなかったかもしれませんか?」
「まず結婚していたかどうかですね。相手にはカミングアウトして理解を得て、またどのように対処できるかを十分に考えた上でないと。そもそも恋愛感情もなかったところで結婚してしまっていたのですが」
「・・・ADHDの要素もお持ちでしたよね」
「そうです。よく覚えてらっしゃいますね」
「グループで女性はお一人ですので記憶に残ります。そして映像で覚えます」
「アバターのイメージとは違いましたか?」
「いえ、思っていた通りの方でした」
「年齢より若く見えます、と定型発達者なら言うのでしょうね」すずは怒った様子もなく言う。
「ご年齢より若く見えます。私の方はアバターとは違いましたか?」
「声の調子から想像していたのと大体は合っていました。私は人材紹介のコンサルタントという仕事柄、電話で仕事を求めるクライアントと電話でよく話します。声の調子でどんな人か読むことができるようになりました。直ぐにメモしておかないと忘れてしまうんですけど」
「すごいスキルですね」安原は声に感嘆を含めて言った。
「どうでしょう。その一方でADHD、多動性の要素を抱えているので、クライアントとの約束の場所や時間を守れるかといつもヒヤヒヤです。そしてそもそものクライアントの顔を覚えておくのも大変でした。どの方も同じ顔になってしまうんです。スマホのマップアプリは本当に助かります。メモアプリでクライアントの特徴を入れておきます。それでも慣れるのに時間を要しましたが、スマホの時代でなければ私は終わっています・・・」
「お部屋も散らかってらっしゃる?」
「散らからないように余分なものを何も置かず、また追加しないようにしています」
「そうですか」
ソフトクリームの形が崩れてきている。
「溶けないうちに食べましょう」
二人で黙々と食べる。
「私と何か話したいと仰ってましたよね?」すずが聞く。
「何を話したい、ということではないのですが、木下先生に自分の幼少期を話すなかで、指摘されたことがあって・・・「ぼっち」になった時、いつも私はいつも水の満たされた深いプールの中にいます」
「分かります」すずが声に同調を含めて続ける。
「私も同じです。クライアントとのコミュニケーションがうまくいかなかった時など、私も「ぼっち」になって、いつも水に包まれます。ブルーに近い水色。安心します・・・思い出しました。私、後で手を洗ってきます。蛇口から水が流れるのを見ていると安心してしまいます。ずって見ながら手を洗い続けてしまっていることがあります」
「私も後で手を洗ってきます。木下先生との話はまた次の機会にして、話したい時にもう一度お誘いしても良いですか?」と安原は聞いた。頭を整理し落ち着いた時が適切な気がしていた。
「はい。私で良ければ」
二人でラインを交換した。
すずとは恋愛感情に発展するようなことはない、そのことが安原には分かっていた。お互いがそう思っている、すずとは共振することができる、すずとは一緒にブルーに近い色の水の中で揺蕩うことができる、ただそんな直感を抱いていた。
プログラムは認知行動療法を用いた『感情のコントロール』であった。人の反応には、認知、気分感情、身体反応、行動と4つのステップを踏む。同じ状況であっても、人によってその反応は異なる。認知から繋がる行動を変え、「不安」や「怒り」などの感情が続くのを避け、ストレスを軽減する技法を学ぶものだった。チェックリストが画面に現れ、どんな時に自分が不安を感じるのか自己アセスメントをした。
20項目のうち、敢えてとの前提で安原がチェックを入れたのは、「誰かに嫌がらせを受ける」「自分が他人からどう思われているのか気になって仕方がない」「新しい場所に行く」「期日が迫っているのに作業が捗らない」「予定が急に変更された」の5項目である。またその5項目の度合いを温度計に書き込んだが、極端に高い温度のものはなかった。メンバーでその「不安」を抑える対処法をシェアした。
ピアサポートの段ではヘキサゴンが回り、曽根のアバターで止まる。2度目だった。
「私には以前も申し上げたとおり子供が二人おります。二人とも男の子です。上の子供は勉強はそうでもないですが運動が良くできます。特に体操が得意なので本人は体育大学で体操をやりたいと言っています。会社でも機会があれば部下にもそのような話をします。ある時副部長が言いました。前回のピアサポートの際にも話した元部下です。学生の頃、私の子供が志望している大学のメンバーと居酒屋のアルバイトをしたことがあると。その居酒屋では副部長の出身大学とその体育大の就学生で代々先輩から後輩にアルバイトが引き継がれていたということでした」
曽根のアバターは一呼吸を置く。青空の下でヘキサゴンに並ぶアバターたちは黙って話の続きを待っていた。
「体育大に丁度体操部の人間がいたようです。彼は見た目は好青年ですが趣味が「喧嘩」でした。街のテキ屋などで態度や目つきが悪い者を見かけるとわざと因縁を付けて喧嘩に持ち込むそうです。普段強そうに見せているそのような連中を伸すのが快感だったそうです。ビール瓶で後ろから頭を殴られることもあったそうですが、その快感には勝てないからと・・・また体育大のリーダー格は空手部でした。いつも学ラン姿で頭はパンチパーマでした。でもこちらの趣味は「ナンパ」だったそうです。その人はナンパのやり方を副部長に滔々と教えてくれたそうです。喫茶店で気になる女の子を見つけた場合、必ず声をかけたそうです。電話番号を書いた紙を渡し、仕事が終わる時間を聞きます。仕事が終わる時間を教えてくれれば、じゃあその時間にここで待っているから、とまた紙を渡します。もし時間を教えてくれなくても、電話番号は渡せている。掛かってくる可能性がある。待つ時は少し長く待つそうです。すると本当に待っているのかなと思いながら女の子は来る。確率は低くないそうです。2回目に会えた成功率は8割くらいはあったそうです。「俺みたいに学ランにパンチパーマでおっさんみたいな奴がナンパしてくるのは珍しいみたいで、まさに珍味を食べたいと興味を持たせるのが肝だ」とリーダー格は言っていたそうです・・・おもしろおかしく副部長は表現しました・・・その後、副部長が話した内容が何度も反復して蘇るようになりました」
安原にも副部長が披露したそれぞれのストーリーと登場人物が、またそのストーリーを聞いた後の曽根の映像も目に見える。
「どういう感情を持たれたのでしょうか?」と山本カウンセラーが聞く。
「記憶が蘇るたびに腹の底から湧き上がってくるものがありました。すぐに発散させないといつもおかしくなりそうでした」
「その感情は何でしょうか?」
「「怒り」のようなものでしょうか」
「どうして怒りを覚えられたのでしょうか?」山本カウンセラーは聞く。
「副部長は馬鹿にしていると思えました。身体だけが取り柄の子供を持ってと。また私の子供は運動の世界で特別なエリートにはならない。話題に挙げたような人間のレベルにしかならないと」
「その副部長がその話をされた意図は他にはないでしょうか?おもしろおかしくとは言え」山本カウンセラーは続けて聞く。
「確かにその副部長さんは少し調子に乗っていたのかもしれませんが。どなたかご意見ありますか?」
上林すずが言った。
「武勇伝を共有することで、親近感、曽根さんの息子さんを通して曽根さんに対する親近感を示したかったかもしれないとも思えますね」
「また憧れ、そのような破天荒なメンバーに対する憧れなのかもしれませんね」原田アシスタントカウンセラーが言う。
原田の言葉に引き出されるように持田のアバターが言う。
「そのアルバイトで出会ったメンバーは大学を交錯して先輩後輩の関係になる、不思議なコミュニティが出来上がっていたようにも聞こえました。青春の時のノスタルジーのようでもあり、やはり親近感の現れのように思えます」
「さすが持田さんはシナリオライターでらっしゃいますね。そうですね、さまざまな角度から見てみる必要があるかもしれません。コミュニケーションにおいては言葉を文字通りに受け取ってしまう傾向があることは学ばれたと思います。言い切れませんが、曽根さんのその場合も当てはまるのかもしれません」
安原はアバターの手を挙げた。
「その副部長をその後どのように扱われたのですか?」
「変わりなく、でした。私は業務には元々厳格です。その点は変わりようはないのです。ですが、先ほども言いましたように、副部長を前にする度、フラッシュバックのようにそのときの副部長の様子が何度も何度も蘇るようになりました。その都度私に満ちてくるものはありました。彼は『そのような意図ではなかったのです』などと言っていたかと思いますが。だが一度言ってしまったという事実は変わりませんし、言葉には責任を持つことが求められるポジションにいる訳ですから・・・」
「前回、辞められたともお聞きしたのですが」と原田アシスタントカウンセラーが口を挟む。
「副部長とのそのことは別にして、当時会社として人事評価制度が見直されるタイミングでした。副部長ポジションでパフォーマンスの悪い者について、下から5%の人員を毎年退職勧告していくという方針が出ていました。あくまで客観的な評価として、副部長の当時の会社への貢献度は下がってきていました。仕方なく勧告する候補として会社にも提示しました」
「本当に公平な評価だったと思われますか?」原田が言う。
「会社の方針に従って、あくまで公平な評価を下したまでです」原田が言い終わらぬうちに、曽根の強い口調が重なった。
画面の青空の下に沈黙が広がる。風の音が聞こえそうな静けさである。
すずのアバターが手を挙げる。
「経理など管理部門の業務は利益に直接繋がる業務ではないので、パフォーマンスを特別に良くは評価できない一方で、極端に低く付けることも難しい、とは聞くのですが」
「会計や財務で効率や精度をどれだけ上げることができたか、会社への貢献度を図ることは可能だと思っています。私も残念なのです。私が課長から副部長に引き上げた人間でしたので。私はその後も一貫しています。そうせざるを得ない場合、厳しい評価を部下には下すようにしています」
安原は継いだ。
「私にも曽根さんの気持ちが良く分かります。私も会計の心得があった上で、管理部門でも、効率を上げることで会社への貢献ができることを知っています。効率、効率、効率と追求していくことが求められていると思います。甘えが生じてはなりません。甘えという緩みが会社全体に伝播することは避けなければなりません。会社の中には前後、上下、左右に様々な糸が張り巡らされているのが私には見えるのです。このそれぞれの糸はピンと張っていなければなりません。どの糸も緩んでいてはならないのです」
アバターたちは青空の下で沈黙をしながら、持田が同じく納得の意思表示をした。
山本カウンセラーが言った。
「ここに来られたのも曽根さんの上司からの指示かと思いますが、副部長さんによって引き出されたものが曽根さんの心の堰を切った、曽根さんにスイッチが入ったようにも思えます。我慢しない、誰に対しても自分や自分の家族を馬鹿にすることは許さない、曽根さんのターニングポイントになっているかもしれません。評価については客観的で公平なものであったとしても。今回シェアいただいた内容は、曽根さんが過去を手繰り、絡まった糸を解いていく作業に入るための必要なプロセスだったと思えます。皆さんもご自身に照らし合わせる機会になれば幸いです」
プログラムが終わった後、すずに今日のピアサポートをどう思うかとラインをした。少し話しましょうと返ってきた。お互いの夕食後の8時にライン電話を約束した。
マンションの部屋で時間を待つ。テレビの音を消し、スマホから電話した。すずの声が聞こえた。お互いの顔は映さなかった。
「今日の曽根さんの話はどう感じましたか?」
「曽根さんの様子が私には良く分かります。メルトダウンと言うところでしょうか」と安原は言った。
「どのようにメルトダウンを起こすのでしょうね。安原さんもありますか?」
「やはりフラッシュバックと曽根さんが言われてました。悪い記憶が何度も何度もフラッシュバックするんです」
「そうですか。副部長の言い方も悪かったのかもしれませんが、山本カウンセラーが気にしていたように、言葉通りに取りすぎているようにも思えました。そのような意図で言っていないかもと・・・そして曽根さんは今後ことある毎に起こるであろうパニックを避けるために、副部長さんを排除されたようにも感じました」
「納得できないとその場に留まったままになってしまう。先に進むことができなくなる・・・曽根さんはただ先に進もうとした・・・」
「曽根さんは先に進めたのでしょうか。その後は誰に対しても同じように自分の判断基準で周りや部下に対しているような山本カウンセラーの言い方でしたね・・・何だか周りからは自分の子供や自分の分身と言えるものは大切にするものの、関係のない他人には容赦しない、自己中心的な人だと思われているのではないでしょうか」
「すずさんは良く分かっているのですね。私にはまだ分からない」
「そういう言い方をするのは良くないでしょうね」
すずの言葉には怒気がある。なぜ怒っているのか安原は分からなったので、
「怒っているのですか」と聞いた。
「私たちはマイノリティという立場で自分を許している、自分に甘えている所はあるかもしれない。私たちは被害者ではなく、客観的には暴力を振るう側、加害者になり得る・・・疲れますね」
「疲れますか」
「疲れます。お互いにではないでしょうか。また今度にしましょう。安原さんも寝てください。明日から月曜日です」
私も寝ます、という言葉をすずは残し、電話は切れた。
風呂に入った。腰をずらして頭から湯船に浸かった。安原はブルーの深く厚い水の中にいて、揺れた。
前回プログラムは『感情のコントロール』で「不安」の取り除き方が対象だったが、今回は「怒り」であった。画面の晴れ渡った青空に「怒り」は不釣り合いに安原には思えた。
例題を設け、その例題に対する怒りの度合いをそれぞれのメンバーが温度計に書き込み、その怒りを抑える対処法を共有した。
怒りは参加者皆の共通の最もセンシティブなテーマである。それが故に淡々と静かに、テクニックを学ぶ場としてセッションは進んだ。誰もが諦めと期待の間で行き来しているのが分かる。
ヘキサゴンの輪が回り、ピアサポートの題材提供はまた安原の順番になった。
「代表が心配していたように、権力は魔物になる。その一方で経営者は逃げずにその権力を手懐けて乗りこなさなければならないですので。そのために必要なのであれば、私は何でも受け入れようとも思っています。なので、少し過去を手繰ってみようと思います・・・先日申し上げましたように、私は以前、不動産会社で働いておりました。上場を任されておりましたので、財務部長なども私の管理下にありました。当初、会社の財務部長はいつも長続きしませんでした。長くても半年以内に代わっている状態でした。私の求めるレベルにはどの人も到達せず、彼らもそれが分かるので辞職するといったことが続いていました。かといって私は特別なことを強いていた訳ではないのです。単純です。常に効率を求めていって欲しいと彼らには要求してきました。『今の場所がAにあるなら、Bを目指してください。Bに到達したならCを目指してください』と。財務部長が辞職すると、次の部長が見つかるまで仕方なく私が財務を兼務しました。どの財務部長にも常にABCを指示してきました。そして『できないならできないと言ってください。できない場合は自分がやりますので』と言ってきました」
できないなら自分でやる、自分なら何だってできるのだ、誰よりも上手く、効率的に・・・
「財務部には相応のレベルに達したメンバーも揃っておりませんでした。課長が一人いたのですが、彼は全くの失格でした。話は通じないし依頼したことを全く理解できておらずコミュニケーションの時間ももったいなかった。財務の業務は一向に改善されずにAに留まったままでした。そのためその上司である財務部長には『課長をラインから外し、全て部長が私に報告してください』と依頼しました。ところが部長は言いました。『人が足らず、今の陣容では課長を使わざるを得ない、理解ください』と。『私がお願いしたのは、課長を外してください、ということです』すなわち、課長が居続けることは会社の金の無駄遣いなので、必要な判断をして辞めさせてください、という意味でした。彼がいないと回らない、のではなく、回らない時間は自分で回して新しい人に入れ替えてください、と伝えたつもりでした。それでも部長は言いました。『自分に任せてください、回すのに時間をください』『ではどれだけ時間があれば良いのですか』と聞くと『3ヶ月』などと惚けたことを言いました。私は課長と部長を会議室に幾度か呼びました。課長には『課長としての役割を果たせているのですか』と何度も問いただしました。『できていません、申し訳ございません』の一点張りでした。部長は横で聞いているだけでした。私は仕方なく、部長に部内の業務の洗い出しと業務の効率化を行なって今の陣容で求めている業務が行えるプランを持ってくるように指示しました。『1週間でやってください』と部長に言いました。部長は『分かりました』と言いました」
「本当に一週間で完成して持ってきたのですか?」山本カウンセラーが聞いた。
「持ってきました」
「その部長さんは大変だったでしょうね?」
「当然の業務でした。私はモニタリングのためにそのコピーを手帳に挟みました。毎日のように部長に進捗を確認しました。そして『このプランが実行できているのであれば課長を使っても業務は回るはずですね。また彼を含めて部員には決して残業はさせないでください』と念押ししました。『分かりました』と部長は言いました。ですが課長が終業時間以降も部屋に残って業務を行っている痕跡がメールなどに残っていました。私は即座に課長と部長を呼びました。私は部長を向きました。『分かっているのですか、あなたは部長でしょう、管理者としての責任感はないのですか。課長も含め残業しないで回せるようにする、貴方はそう言ったはずです。一体やる気はあるのですか。できないなら私が自分でやりますので言ってください』と私は言いました」
「その後、どうなりましたか?」
「『できませんので、お願いします』とついに部長は言いました」
「そして部長さんはどうされました?」
「会社を辞めました」
「なるほど・・・結果的には、課長ではなく、部長が辞めてしまったのですね」
その部長、課長と向かい合うシーンがフラッシュバックする。
「他の方、何かご意見ご質問などありますか」
安原は遮るようにアバターの手を挙げた。
「不動産業界に居たことがある人なら、この苦労が良く分かっていただけると思います。プロとしての自覚を部の隅々まで染み込ませようとする努力が、自分の行動に表れていたと思うのです」
山本カウンセラーが言う。
「そうですね。そのように思います。ただそのときの財務部のメンバーの多くが辞めて新しいメンバーに代わられたようにもお聞きしました。大変失礼ながらその後のアセスメントの結果も付合するようにも見受けられます。部員に対し、相当厳しく、あるいは険しく接していらっしゃったのであろうとは推察されます」
安原は言った。
「ただ、社員の中には期待のレベルに達していない人がどうしても存在します。言いましたように特に課長はその典型でした」
「では部長さんもレベルに達していなかったのでしょうか?安原さんにも心得のある会計分野という意味では」
「課長をコントロールできない点で落第だったのだと思います」
「与えられた陣容の中で、最大限、効率的に業務を行おうとしていても?」原田アシスタントカウンセラーのアバターが発言する。
「経営はその都度その都度の意思決定の連続だと思います。今、環境がどうなっているかなのです。与えられたと捉えている陣容は、変えられなければならないタイミングだったと思うのです」
「若輩者が失礼しました」原田は言い、山本カウンセラーが引き継いだ。
「安原さんの怒号が会議室からよく漏れ聞こえてくる、というような今の会社のコメントも幾つかアセスメントで見られました。仕方ないところはあるのでしょうけども、隅々まで自分の求めるレベルでないと許さない、そして達していないとメルトダウンを起こされる、そのような傾向はやはりお持ちかもしれません・・・安原さんが独り立ちをしていく、留まっているところから足を踏み出すためにも、この機会を有効に利用いただければと思います。もちろん会社の経営は私のような人間が口出しできる分野ではもちろんございませんが。失礼があればご容赦いただきたく思います」
今度はすずの方から、ラインで話さないかと連絡が入る。
また食事後の8時に約束をした。
風呂に入るのを後に回し、待った。電話が繋がる。やはりお互いビデオはオンにしない。
「安原さんは何年不動産業界にいらっしゃったのですか?」
「2年半です」
「割と短いのですね」
「上場がミッションだったので、上場を果たした段階で去りました」
「まだ会社に居たいとは思わなかったのですか?私たちの特性では環境の変化は好ましくないと思いますが」
安原は少し考えた。
「上場というのは簡単なことではありません。社員はまだその責任を理解していない、その会社全体の文化を変化させないとならなければなりませんでした。効率も追求しながら、一ミリの甘えも許されない、上場準備には少しのミスも許されないのです。私の会計の経験知識を注入できる良い機会でした。だから私は精一杯やった・・・」
「結果を認められなかったのですか?」
「結果は認められたと思います。ただプロセスが問題だったと言われました。だからそれなりにボーナスは弾むので次を考えてもらった方が良いということでした」
「残念でしたね」
「やるべきことをやるべき期間にやった。ただ上場後の席はありませんでした。やり過ぎだの何だのと当時の上司が言いました」
「理解されないというのは辛いですね」
「ミスの許されない業務でしたから、相応のストレスがかかりました」
「・・・今なら、安原さんはどのようにストレスを解消しますか?」
「走ります。ジムで筋トレします。ユーチューブで犬や猫の動画を見ます。風呂で潜って息を止めます。時に自分の腹を殴ります」
「殴るのですか」
「そうです。すずさんも感覚過敏だと思いますが、痛みを忘れるために自分の腹を殴ります・・・すずさんはどうですか?」
「好きな映画を何度も見ます。好きな音楽を繰り返し聴きます。そして時に風呂で泣きます」
「泣くのですか?」
「メルトダウンで泣く前に、自分で泣きます」
すずが風呂で泣くシーンが記憶の倉庫から引き出される。風呂の水は広がっていき、すずは広いプールの底にいて、水の中で泣いている。
「そうですか」
「はい・・・話せて良かったです」
「それは良かったです」共感を表すテクニックとして使ったのは鸚鵡返しである。
電話を切って風呂に入った。腰をずらして頭まで水に浸かる。すずの涙は青い水になりプールになる。青い色に引き寄せられて安原も沈んでいく。揺れながら、安原ははすずと同じ厚い水の中にいる。
すずと前回と同じ地下の喫茶店で会った。夕方の6時過ぎだった。梅田ツインタワーズビルの29階にある会社のオフィスから降りてきた上林すずは、事務所から見下ろす景色いいんですよ、と言った。
「この地下の喫茶店では景色は望めませんよね」と安原は言った。
「ソフトクリームが食べたかったから、いいんです」
「夕食前にいいんですか?」
「いいんです」
「では私も食べることにします」
面と向かったすずが安原を見ているのが分かったが、安原は相変わらず正視することはできない。
ソフトクリームを食べながら、安原はすずに父親の話をする。すずは黙って聞いた後、自分のマンションの部屋に見せたいものがあるので来ないかと言った。恋愛関係にはならないことは分かっている。すずは純粋に何かを見せたいのだと安原は思った。
「先に言っておきます。散らからないようにと、何も置いていない部屋です」
「散らかっていても、散らかっていなくとも気にしません」
「ソフトクリーム食べたばかりでお腹は空いていないかもしれませんけど、何か買って帰りましょう」
喫茶店を後にし、百貨店の地下で惣菜を買った。
デパ地下の音もちょっと苦手なんですけど、と言うすずの後ろに付いて回り、これはどうですか、と聞くのに安原は幾度も頷く。荷物は安原が持つ。夫婦ごっこをしているようで安原には新鮮である。
「普段の夕食はどうしているのですか?」
歩きながら聞く安原に、すずは応えた。
「普段は冷凍の宅配弁当です。料理は不得手なので。塩分や糖質も調整されていて健康の面でもいいので一石二鳥です」
地下鉄の騒音はやはり苦手なので、とすずはイヤホンを耳にして車両に乗り込んだ。では、と安原もイヤホンをしてヒーリング音楽をかける。やがて車内は水で満たされる。安原はすずと水の中にいる。二人で揺れて、乗客の頭を眺めていた。
すずのマンションは新大阪にあった。スーパーや商店街の見当たらない、敢えて生活感が漂うのを避けているようなエリアの中に、間口の狭い10階建のマンションが両脇のビルに挟まれるようにして建っていた。
すずは1階で部屋番号を押すためのテンキーの下の鍵穴に鍵を入れて回し、ガラスドアを開ける。エレベーターに乗り4階で降りる。左右に向かい合う部屋の一つを向き、ここです、とすずは言った。
ドアを開け、靴を脱いで上がり、すずは通路の電気を付けた。すずの後から明かりの点いたリビングダイニングに入る。右にキッチン、左がリビングダイニングになっていた。
「そこのテーブルに置いてください」とすずは言った。
何もない白い部屋である。
「物を置き出すと収集がつかなくなるので、基本は何も置かないことにしています。仕事の資料も全てパソコンの中です。外に出る服はパンツスーツばかりです。何も考えなくて良いように」
テレビとパソコンが背を付ける壁の斜向かいの小さなテーブルに、位牌と写真が置かれているのが目に入る。
「息子です」すずが何事でもないように言った。
安原はそのテーブルに近づいた。
「中学1年生でした」
安原は黙って写真を見た。少年が笑っている。小学生と中学生の境界にあるあどけなさを湛えている。
「息子の話は買ってきたものを食べながらにしましょう」
「・・・線香をあげさせていただいていいですか」
「どうぞお願いします。そこにあるマッチを使ってください」
毎日線香をあげている様子がその残り滓から窺えた。擦ったマッチから線香に火が渡る。砂の台の上に立てる。マッチの火は手のひらで扇いで消す。りんを鳴らし、両手を合わせて目を閉じる。
すずは買ってきた惣菜をテーブルに並べ、冷蔵庫からビールを出してきた。
「食べましょう。ソフトクリームから少しは時間がたったのでお腹は空きましたか」
「ありがとうございます。自分の分は払います」
「結構です。次回にお願いします」
「分かりました。次回は私が払います」合意を示すために同じ言葉を使った。
ビールの泡が苦い。二人で黙々と食べる。
「飛び降りでした」
すずは唐突に言った。
「そうだったのですね・・・」飛び降りだったのですね、とは言わない。
「家族で住んでいたマンションからでした。前にプログラムで言ったと思いますが、私は世に言う毒親でした。ネグレクトでなく過干渉の。私と夫はいつも喧嘩していました。私がアスペルガーということを夫も私も知らなかった時に。夫がいつも私のすることを非難しました。夫は家を出ていきました。マンションには私と息子が残りました。また今の仕事が私に残りました。私は仕事にさらに没頭し、ゾーンと言われる域に入っていきました。クライアントとのコミュニケーションがうまくいかない時、私は息子の方を向きました。お前がいるから仕事もうまくいかない、お父さんもだから出ていった。私は息子の前で涙を流して泣きました。息子は私のものでした。だから息子は私の言うことをそのまま聞き、また私が求めることには従う必要がありました。息子の学校の成績はずば抜けていなければなりませんでしたが平凡でした。私は布団叩きで息子を叩きました。お前ができないからお父さんも出ていったのよ・・・でも稀に満点近くを取って帰ってくることがありました。まぐれなのよ、お前には能力なんか何もないのよ。だから百点ではないのよ。これからうまく世の中を渡っていけるなどお前にはないのよ・・・」
「息子さんは混乱された」
シーンは安原の記憶の倉庫から引き出されてくる。
少年はベランダに立っている。ベランダのガラス戸は閉じられている。鍵が掛かって部屋の中に戻ることができない・・・少年は自分になる。自分が少年に代わっている。カーテン越しに父の影が映っていた。やがて部屋の明かりは消えて、父の影は見えなくなる。部屋と逆を向いて夜空を見上げた。息が苦しくなる。空気を求めた。夜空を見ながらベランダの手摺りに手を掛ける・・・息が楽になる。手すりに身を乗り上げる・・・さらに息が楽になる・・・
「そう、息子は混乱しました・・・」
「カサンドラ症候群・・・」
「そうかもしれませんし、私と同じようにアスペルガーだったのかもしれません。とにかく息子はそうなりました。安原さんにもいつか言われましたよね。息子には逃げ場を設けておくべきだったと思います。祖父母の家が近かったりすれば息子もそこに避難することができたかもしれません。そして私も一人になれた・・・私にもスイッチを切っても大丈夫な場所が必要だった・・・親を見限って家を出ることができるまで生きていてくれていれば、と写真を見るたびに思います・・・マンションを変えてもベランダに出ることができません。洗濯物は風呂で乾燥させるか室内で干すしかできません」
「以前、ご両親のところに息子さんはいると言ってましたよね。そうであれば良かった、ということですね・・・」
「よく覚えてますね」
「映像として記憶しているんです。記憶の倉庫に保存しておいたのですが・・・」
「本当の映像であれば良かった・・・」
白い部屋に沈黙が充満する。
「どうして私に息子さんのことを教えてくれたのですか?」
「どうでしょうか。自傷行為のようなものでしょうか。安原さんが以前言ってらっしゃった、自分の腹を殴るように。話して忘れないでいることは痛み・・・痛みで解放されるためにする。まだまだ足りないですが・・・」
「・・・私は死ぬことがなくて良かったです」安原は言った。
「本当に安原さんは死ななくて良かったです・・・ご自身で、どうして安原さんは死ななかったと思いますか?」
「私には会計があった。面白かったのです。のめり込みました。他を忘れることができました。過集中ですね。過集中からずっとゾーンに入ってました」
「良かったですね。何かのめり込めるもの、言葉を換えれば逃げられる場所、音楽でもダンスでも、絵でも小説でもゲームでも勉強でも動物でも昆虫でも、何でもいいんですよね・・・息子にも何かがあれば良かった・・・」
「息子さんのお父さんとはもう?」
「繋がりは何もないです。息子が死んだことで繋がっていた一ミリも無くなりました。任したのは間違いだった、と。思い出すと殺したくなるらしいです。どうしてそんなに普通にしていられるのか、と我慢ならないようです。実際、私は普通の親とは異なるのですから仕方ないですよね・・・ですので私を記憶から排除したようです。それなりに時間はかかったようですが」
「安原さんはお父様とは?」
「縁を切りました。自分を守るために」
「そうですか。よく決心できましたね・・・安原さんは私より年下ですね」
「3才ほど違います」
「でも私よりしっかりしている」
「いいえ、お姉さんのようなものです」
「ではお姉さんのように思ってもらって、何でも相談してください・・・息子もケアできないのに、もしかして皮肉だと思っていますか」
「いいえ、思いません」
「皮肉なことに、人材紹介という分野ではありますが私はカウンセラーですので。最も不得手なコミュニケーションが仕事の中心にありますが、失敗したからこそ・・・実は今回のグループプログラムへの参加も、会社がそのようなサービスを利用していることを知ったので自分で志願しました」
「そうなのですね。どうりで」
「どうりで?」
「私より、一歩前を歩いているような感じがしていたので・・・では仕事の紹介を得たいときには相談させてもらいます」
「そうしてください。今の安原さんには紹介不要かもしれませんが・・・その時が来れば」
ビールを飲み、すずは続けてワインを出してくれた。赤か白かと聞くので、白がいいと答えた。白が好きなのかと聞くので、冷えたものが飲みたいので、と答えた。ワインは良く分からないので赤も冷やしてしまっています、とすずが言った。
「あなたも私を弟のように思って何でも相談してください」と安原は言った。
「そうさせていただきます。本来、社会は私たちのような脳の機能に偏りを持つ者も生きやすい環境を整えるべきですよね」
「途上の中では私たちが社会に添いながら」
「そのとおりです。でもそんな私たちが、加害者にもなる。表裏一体の身体です。私たち自身が、表裏一体であることに気付くことが必要だと思うんです」
少年の写真に手を合わせ、すずの部屋を辞した。
ミナミのマンションに戻り、風呂に浸かった。いつものように腰をずらして頭から水に潜る。地下鉄の水の中の映像が蘇った。人々の頭頂部が見える。いつか、この景色が変わることはあるのだろうかと考える。水が引いて、人々と同じ目線に降りていく・・・ゾーンを失う。ゾーンの至福を失う代わりに降りていく。それは幸せなことなのだろうかと考える。
金曜日の終業前、安原は松崎から会議室に呼ばれた。
グループセッションの効果はどうかと松崎は聞いた。自分でも気持ちが落ち着き、周囲との関係性も良好に進んでいるのではと思う、そう答えた。本心であった。
「事務所内と、この会議室に監視カメラを付けたいんだが」と松崎は言った。唐突である。
「これは君がどのように同僚と部下に対しているか、後で客観的に振り返ってもらうためのものだ。君は自分で自分がどのように振る舞っているかまだ理解できていないところがある。こだわりが強いことはいい面もあるが、行き過ぎているところがあれば、それを自分で見て気付いてもらいたいんだ」
安原を突発的に襲ってくるものがある。コップに水が溜まり始める。
「これまでうまくいっているとお伝えしたばかりですが。そこまで私を信用できませんか?」
「例えば今、君は膝をカタカタ鳴らしている。君はそのことに気づいてるだろうか」
貧乏ゆすりをするな、とよく父親から言われたものだった。父親から離れて指摘を受ける機会がなくなっていた。
「所作一つにしても、自分では結構気付いていないことがあるものだ。気分を悪くするかもしれないが、何も言わずに隠し撮りする方が更に気分が悪いと思うんだ。一旦は試しと思って受けとめてもらいたい」
所作・・・いつも留学経験の名残で英語が混ざる松崎なら、ビヘイビアと言うところである。今回は所作と言う。
「それは難しいですね」コップの水は一杯になりかけている。
松崎は戸惑った様子を見せる。
「森山君に子会社の財務メンバーの様子を伺ってもらっている。以前から君の様子が変わったとは森山君を通して聞こえてこない。またこのままでは森山君自身が辞めてしまうかもしれない。子会社の財務メンバーも同様の危機にある・・・私は権力を持っているように自分では全く思っていないが、一方で実際に子会社の社長を交代させることも出来る。私はそんなつもりはなくとも彼らは私を権力者と見ている。だから私は常に自分を戒めている・・・君は私に次ぐポジションにあり、時に私の代わりに、あるいは私と同じ権限を持ってグループをコントロールしていることになる。君は自戒しなければならない・・・前にも同じようなことを言ったかもしれないが、初めて企業のトップになった人にありがちなのだ。自分ではそう思ってなくともパワーの魅力に取り憑かれる。そのようなビヘイビアになってしまう・・・君も気をつけなければならない。もしそうなってしまっているなら、戻すのが私の役割でもある」
今度はビヘイビアと松崎は言う。
「スパイのようなことを元ミュージシャンにさせているのですか」
「君は森山君のことを元ミュージシャンと呼んでいるようだね。森山君は過去の経歴として誇りに感じているのだろうか」松崎は安原の質問を受け流す。
「そうだと思いますが」
「そうだろうか。私にはどちらか分からない。本人にしか分からないのではないだろうか。ミュージシャンであったことをもし誇りに感じているとしよう。もしそうだとしても、彼を個人の名前でなく、「元」を付けたミュージシャンという。ミュージシャンというのは一つの人格なのだろうか。物のように呼んでいないだろうか。失礼ではないだろうか」
「・・・分かりました。今後彼を名前で呼ぶことにします」
「分かってもらえればいい。君がきちんと彼を名前で呼んでいることもカメラを見ながら確認してもらえれば良い」
「ところで、私の質問に答えていただいておりません。そんなスパイのようなことを「元」いや森山さんにやらせていたのですか」
松崎の眉間に皺が入るのが見える。
「君のことを調べるのが目的ではない。我々は事業に直接関わっていないホールディングの会社だ。それぞれの事業会社の社員たちが、不満なくモチベーションを抱いた状態をキープしなければならない。我々のコントロールの方法が原因で子会社に不具合があってはならない。我々のような特異な形態のホールディングでは子会社を健康な状態に保つために、常に彼らと良好なコミュニケーションが取れる人材が必要なのだ。それが森山君なのだよ。「元」ミュージシャンで一面では一般社会の我々とは異なる華かな世界にかつて身を置いていて、しかしその世界に才能の限界に気付かされ、挫折を味わい、そこから道を変えて人生の立て直しを果たしている。人生の振れ幅が多いことは人格を豊かにする。だから彼に任せているんだ」
「代表は私でなく森山さんが大切なのですね。私には人生経験が浅いと」
これは嫉妬という感情だろうか。音響メーカーの曽根のピアサポートの時、副部長への嫉妬ではないかという発言があったことが蘇る。すると記憶からコップが引き出され、溜まり始めた水はやがて溢れ出る。同時に胃の底に留まっていたものが駆け上ってきて鼻腔と目尻から噴き出してくる。松崎の顔が霞んで見える。
「そうではない。君の知見と経験はこの会社グループを拡大していくために不可欠だ。だから君が補正すべきところがあれば気付いてもらいたい。カメラを付けることは君への依頼ではない。会社として必要なことなのだよ」
松崎はテーブルの上に安原に向かって紙を差し出した。
「いい機会だからついでに言っておく。これは森山君からもらったものだ。君が彼に出した指示書のようだね。ちょっと頭のところを読んでもらっていいかな」
安原は一瞥して自分がチャットで送った指示であることが分かった。考え抜いて書かれた、自分でなければここまで隅々まで配慮は至らないはずの指示書として、記憶の倉庫に仕舞ってあったものだ。
ー今後のグループ会社管理の仕方をレビューしており、その大前提として、以下重要ですので教えてください。
ー連結パッケージレビューはやったことない、又はどうやればよいのかわからないのというのが本音でしょうか?
ー以前エクセルの改ページプレビューでのページ操作やタイトル行の操作などを教えた時の要領や、会計ソフトのフリーに慣れてもらうのに時間を要したことからの印象ですが、正直言ってエクセル作業は苦手な分類に入ると思っているのですがどうでしょう?(いま入力必須にしていてもブランクになっているところが多数あるのですが、このまま期末に突入すると監査が終わらないのですが)
ーグループ会社へ連結パッケージの入力指導や説明会を開催していますか?あるいは準備していますか?
松崎が遮って言う。
「年齢をどうこう言うつもりはないが、森山君は君より年上であり、言葉遣いは一見丁寧そうに見えるが相手に対する尊重が見られない。この文章を自分ではどう思う?受け取った側はどう思うだろうか。私も色々と周りの人間にヒアリングをさせてもらった。君は時に、あるいはよく激しい癇癪を起す。君はそれで発散してしまうのか、その後はいつもケロッとしている。だが残された者はそうではないのだよ」
そこから松崎は自分で読み始める。
ー連結パッケージについて、「パッケージレビューをやったことがない・あるいはどうやればよいのかわからない」に関わらず、以下は出来る前提での質問となりますのでご了承下さい・・・
安原はその後に書かれていることも、全て映像として思い返すことができた。
ーエラー表示のうち、四半期のみ対応項目になっているものがあります。月次でもエラーが出ないようにメニューを変える必要があります。
ー開示資料はまだ運用していませんが、開示項目と連結パッケージの内容に関する相互関連性を理解していますか?
ーこのフォーマットは私が昨年春に作成したもので、開示基準が改定されるたびにアップデートする必要があります。これで基準に耐えられるのかどこかの時点で検証した、あるいはするつもりでしょうか?それとも検証の方法がわからないということでしょうか? このままではいずれ期末に炎上しますよ。
ー前期列には合計含め各項目が表示されていません。どうせ追加するなら2~3秒コピー&ペーストするだけで済みますよね。いずれ作業が必要ですよね。このような作業は目の前のことだけ済ませず、同じタイミングでやってしまった方が将来楽です。また、将来は備忘・思い出す・作業する時間が入りますから2~3秒で終わりません。脳内でTODOが残るだけでワーキングメモリーを無駄に浪費します。時間の無駄遣いなので、問題と認識できていないことが問題ですよ。
ー合計の数式も手入力が残っていますが、基本は手入力で対処する発想をやめましょう。難しい話でも大変になる話でもなくて、このようにしっかり作りこめばRPAなりで自動で連結精算表が作れると思いますよ。決算が遅い会社は、重要性や忙しさを理由に細部に手を抜いている会社が多いのです。どんな規模でも1円単位できっちり詰めている会社はシステム化など効率化する土台が出来上がります。規模が拡大しても人を増やす必要はなくなるわけです。属人的な作業は害と捉えています。
松崎はここで止めた。まだ半分にも達していなかった。
「読むのがつらくなる。言葉が悪いが、こだわりは「へびのような」という修飾語が付くのではないだろうか。そうは思わないかね?これを渡して、君自身は自分のこだわりを満足させることはできるだろうが・・・これはパワハラではないのだろうか。これを読んだ人は、辞めてください、と言われているのと同意だと取らないだろうか。君は同じようなことを子会社のメンバーに対しても行っているのではないだろうか」
ここまで目を皿にしてミスを潰す、あるいはミスが起こる余地を潰していることは、賞賛に値するはずだった。松崎は私を労うべきだった。それを松崎は認めない。むしろ嫌悪の表情を見せた。求められているレベルに達していない元ミュージシャンのスキルと知識を、あるべきところまで引き上げようと必死に努力しているにも関わらず・・・
この程度のことは不動産会社を上場させる時にも行った。だが自分が取り立てて先走った訳ではない。当時の不動産会社には社長の思いが企業文化として行き渡っていた。それを受け継いだのだ。受けて繋げただけなのだ。自分は川の流れのように受け継いだだけなのだ。
残念・・・無念・・・言葉たちが安原の頭を占める。会議室を出る。松崎の言葉は記憶の倉庫に仕舞われる。そしてこれから、繰り返しフラッシュバックすることになる。
デパ地下で惣菜を買ってミナミにある自分のワンルームマンションに帰った。
すずのことが頭に浮かんだ。帰っているか、食事中かは分からなかったがライン電話をした。すずは家にいた。
「作りだめしていたカレーを温めて丁度食べようとしていました。料理は苦手なのですがカレーくらいは作ろうと努力しています。普段は冷凍の宅配弁当を利用しています。あ、前も安原さんには言いましたよね」
「すみません。では食事の後に掛け直します」
「よろしければお互い食べながら話しますか?オンライン飲み会です」
同意した。7時にスタートで約束した。
テーブルに惣菜を並べ、記憶の中ですずの家に向かう。地下鉄に乗り新大阪で降りる。地下鉄の中は相変わらず水で満ちている。マンションの下に到着する。1階からすずの部屋をコールし、すずの声が耳に届いてドアが開く。エレベーターを4階で降りると、すずが部屋のドアを半開きにして待っている。すずの息子の位牌のところに行く。線香に火を付けて手を合わせる。すずは温めたカレーとサラダを前に並べている・・・ここで記憶を止めて現実に切り替える。
今回はお互いがスマホのビデオ機能をオンにしてテーブルの上にセットした。
画面越しにグラスを合わせた。
「何を飲んでいますか?」安原は聞いた。
「ビールです」
「私もビールです」
安原は代表に告げられた監視カメラについて説明した。
「代表がやろうとしていた子会社管理をそのまま引き取り、代わりに実践しているだけなのです。私のコントロールにより、子会社管理の質は良化しています。目覚ましくです。証券会社からも、よくぞここまで今の段階で統制が取れていますね、と賞賛を受けているくらいです」
「残念ですね。理解されないというのは・・・」
「その努力をよそに、代表は森山さんを買っています」
「森山さんとは確か・・・」
「部下の元ミュージシャンです」
「そうですか。以前も部下が優遇されていて、というピアサポートはありませんでしたっけ。確か・・・曽根さん」
「すずさんもそう思いますか。私も曽根さんを思い出しました」
「嫉妬のようにも聞こえると、確かアシスタントカウンセラーの原田さんが言いました」
「私は嫉妬していると思いますか?」
「嫉妬しているのかもしれませんね」
「それはないですが」
すずが沈黙の時間を用いてスプーンでカレーを口に運ぶ。そしてすすは言う。
「ところで睡眠は取れていますか?」
「寝れないです」
「寝れるといいですね」
安原の前の惣菜の多くが片付き、すずがカレーを平らげたところで、安原はパソコンを立ち上げて森山に書いた指示書をすずに送った。
「専門的な会計の話なので面白くないと思いますが」
「安原さんの気持ちを読みたいので大丈夫です」とすずが言った。
すずのテーブルのグラスはビールからワイングラスに変わっていた。
すずは届いた指示書をダウンロードし、ワイングラスを手に、黙って目を通していた。
安原には、すずがどこを読んでいるかが映像として見えている。頭の中で併読する。
松崎が読むのを止めたあたりに来た。
すずは画面の向こうで目元を押さえていた。涙を流しているように見える。安原は戸惑った。泣くような内容ではなかったからだ。だがすずは涙を流している。何かが通じている。すずが泣くことで、安原は誘われるように水の中に導かれる。
すずはさらに読み進む。
ーなぜ久光化学だけ変更履歴がないのですか?パッケージなので、各社個別の取り扱いはやめましょう。
ーバランスシートのセルやフォントを色付けしていたものは、戻しておいてください。見栄えが悪いのはもとより、翌月に確認してもらいたいセルが分からなくなります。また、わざわざ忙しいこの期間にやる作業ではありません。月末までにクリーンにしておいてください。
ー前期の数字、何とリンクさせていますか?エラーで見られませんでした。前も言いましたがリンク参照ははやめてください。期末監査の時間にこんな訂正入れていたら大変なことになりますよ。
ー関係会社は当社と久光化学のみではなく、全グループですよ。内部取引は当社と久光化学のみという発想を持ちかねず臨時的動きがあった場合に大きなミスにつながる可能性があります。頭ではわかっているというのは一切仕事での価値を持ちません。原因報告・改善提案の域に達しないものを私は受け入れません。業務中は対価が生じますから、行動・成果物で表現する必要があります。
ーなぜ孫会社が親である久光化学に売り上げる際、売上300万円に対して原価が400万円なのでしょうか。問題を感じませんか?内容・理由・経済的合理性を確認していますか?原因を詰めていますか?以前は私が何とか体制作ったのでそれ以降はお任せしているのですが。これで差異が生じるようなら、お任せしている体制を再検討しなければなりません。
ー各グループ会社でセグメント名称設定が異なっています。普通は注意をしていれば、チェックをしていれば生じないはずで、なぜこのような事象が放置されているのですか?
併読の終わる時間は同じだった。
すずは目元を拭っていた。松崎が感じることのなかった所に、すずは触れている。すずは安原と同じプールの青く重い水に包まれて揺れている。
「私は会計は門外漢ですが、安原さんのこだわりと気付きが良く現れていますね。安原さんが集中して、安原さんの全てを注ぎ込めることなんでしょうね。安原さんに取って至福の時・・・」
そこですずは言葉を止めた。何かを言おうとしている。
「・・・こだわりすぎですか?ゾーンと言われるところに私は入っていますか?」
「読む限り、森山さんという方はミスが多いようにも見れますが、なぜでしょうね?単に能力の問題なのでしょうか?」
「資料の要求量が多くて、資料作成だけで手一杯になっている、チェックの時間などが全く取れない、と彼は言っていました」
「それは本当でしょうか?」
「言い訳に聞こえました」
「その方は部下ですものね。解放させてあげることはできませんものね。必要なことは対応してもらわないと仕方がありませんものね・・・私が息子にしてきたことを思い出してしまって・・・適切な言葉か分かりませんが、もし息子をあの時解放させることができていれば、そう考えてしまって・・・」
「・・・そうですか」
「息子は自分のものなのだから、何を言っても何をしてもいいと思っていました。その一方で息子が小さな成功をすると、息子を否定しました。嫉妬のような不思議な感覚でした。繰り返しました・・・そのうち事務所のカメラの中身も安原さんは見ることになるのですよね。どのように安原さんが振る舞って話しているか、ご自身でご覧になるいい機会だと思えば良いのではないでしょうか。自分がどんなことでどのように熱くなっているのか、冷静に、客観的に見ることができるのは、羨ましい。行動範囲のどこにでも置かれたカメラから見るようにして私は息子を見ていました。その私自身を見るカメラがあれば・・・劇中劇のように私自身の態度を見る機会がこれまでにあったなら、もしかすると未来は変わっていたのかもしれない・・・」
すずは目を逸らす。息子の写真を向いているのが分かる。
「いざとなれば・・・あくまでいざとなればですが、生き方を変えることを考えてもいいかもしれないですね。私は転職紹介のプロだから安原さんに合うかもしれないポジションの仕事にはいくらでもアクセスすることができます」
生き方を変える・・・
「・・・では私はラッキーなのですね」
「そうです、安原さんはラッキーなのです。こうして話しているのは、必然のラッキーなのだと思います」
日曜日の3時である。安原はミナミのマンションに戻っていた。プログラムは『上手く頼む』だった。上手く伝えるには、相手の状況を見極めて、「私メッセージ」と一緒に伝えることが肝要である。「私メッセージ」は相手を責めずに自分の気持ちを伝えるものである。あなたは私の言うことをやってくれない、でなく、あなたが私の言うことをやってくれないと私は悲しい・・・この仕事を手伝ってくれると私は助かります、私の代わりに行ってもらえると私は嬉しい・・・
ヘキサゴンが回り、ピアサポートは2回目の持田の番になった。白髪のアバターが説明し始める。
会社では、対外広報を持田が主体で、社内広報は持田の後輩女性が受け持っていた。後輩女性はこれまでのネット社内広報誌の枠組みを広げる試みを始めていた。全国に広がる事務所の一つを選んでインタビューを行い、インタビューを受けたメンバーはまた友達紹介のように地域外の事務所に繋いでいくというものだった。これまで3ヶ月ほどが経過し、社員のモチベーションに貢献はできていると部長も判断している、ということだった。全国社内広報誌コンテストが雑誌で紹介されているのを偶然見つけたのでエントリーしては、と持田は提案したが、時期尚早という言葉が部長から返ってきた。何度か提案を繰り返したが部長の返答は変わらないということであった。
「持田さんも、その取り組みは成功していると思うのですか?」
「成功しているようには見えます。なのでコンテストという客観的な評価軸が目の前にあるのですから、利用すべきだと思うのです」
「なぜ部長はまだ時期尚早だと言うのでしょうか?」
「まだ3ヶ月、つまり3箇所しか巡っておらず、またインタビューや紹介する内容など1年程度流してみて、社員からの意見を集めて磨きをかけていくので、それからのチャレンジにしたい、ということでした」
「そのタイミングでは持田さんは不満ということですね」
「そうです」
「なぜそのタイミングではダメなのでしょうか?」
「今チャレンジして、客観的な視点を早くに入れてもらい、そこから磨いていけばそれで良いのではないかと思うんです」
「そうですか。他の方いかがですか?」
安原の脳裏には実写版アバターの持田が現れ、部長と対する一つ一つの映像が流れていた。
曽根のアバターが手を挙げた。
「私は持田さんの気持ちはよく分かります。ですがどちらも尊重できる見解だとは思います。また、部長とその後輩女性の連携はとても上手くいってもいるのでしょうか」
「そうかもしれません。それが何か」
「二人の連携がうまく取れていて二人の意見は一致している。一方で持田さんの正当な提案は受け入れられない。その疎外感も左右しているのではないでしょうか・・・私も以前同じような指摘を受けましたので、申し上げました」
持田は沈黙する。
曽根が言う。
「持田さんは対外広報のご担当ということですが、会社が扱われている商品は食品、中でもお菓子関係だとお聞きしています。お客様のコアなターゲットは誰になりますか?」
「子供と家族だと思います」
「失礼ですが、それでは通常はメディアへのフロントは女性、持田さんの会社の場合は後輩女性がやられても、という気がしますが。リソースの問題でしょうか?」
「対外広報は女性である必要はないと考えています」
「部長さんも同じ考えですか?」
「いえ、当初彼からはフロントには女性を立たせ、私にはバックアップをして欲しいと言われました。私は納得が行きませんでしたので、現社長にも確認しました。社長は女性でも男性でも関係ない、というお立場でしたので、今の形に落ち着きました」
安原の頭には、会議室で、社長の前に部長、持田が並んで座る映像が映る。
持田は付け加えるように言う。
「部長は元々経営企画畑で広報のことはご存知ないのです。メディアは私のような白髪の男が出てきた方が愛嬌があってウケが良かったりもします。また例えば・・・タブロイド版夕刊紙に我々の商品を懸賞に出します。タブロイド紙は人の「頭から下の方」まで満遍なく扱いますから、懸賞は下の方、女性の裸などがあったりするページに掲載されます。でもこのページに置いておくと、孫思いのお爺さんなどがよく懸賞に参加してくれるのです。一見関係のないように見えてしっかりと目的としているところにリーチ出来ているのです」
「・・・部長は何か言ってらっしゃいましたか?」
「黙っていました」
「そうですか・・・コアターゲットを子供と家族にされていて、ブランディング的にはどうなんでしょうか」
「何がいけないのですか!人間は「頭から下まで」で出来ているんです」
アバターたちは沈黙する。
山本カウンセラーが言った。
「コンテストに戻りますが、これだけ良いアイデアを提供しているのにどうして貴方がたは受け入れないのか、というお考えですよね、持田さんは」
「そうです。繰り返しますが何がいけないのでしょうか。自分でも本当にグッドアイデアだと確信が持てますし、今の取り組みをプロも入って評価してくれるチャンスなのですから」
「本日のグループセッションは何だったでしょうか?」
山本カウンセラーのアバターの横の画用紙には「上手く頼む」と「私メッセージ」が書かれている。
「ではどのように提案すべきだったでしょうか?どなたかありますか?」
すずのアバターの手が挙がった。
「コンテストに出ないのは私には勿体無いと思えるのです、くらいでしょうか」
持田のアバターが直ぐに応える。
「どうでしょう、それでも彼らが受け入れたかは疑問です」
「答えは分かりませんね。本当に時期尚早なのかもしれません。ここはまた「相手の気持ちを考える」ですね。持田さんは本当に今コンテストに出るのが良いと信じてらっしゃると思うのです。でも客観的に見た場合、持田さんご本人の意図とは裏腹に、自分が信じることが全て正しいと意思を押し付けているように、自己中心的に見えているかもしれませんね。こだわって留まっている自分を顧みて、先に進むことを考えることも必要なのかもしれませんね・・・」
持田は黙る。
「ところで、その後輩の女性はその後どうなりましたか?」
「会社を辞めました」
「そうですか、残念ですね」
「吐き出してスッキリしましたか?」と原田アシスタントカウンセラーの言葉が続いた。
「しません」
「そうですか。ではやはり調和を図る必要がありそうですね」と山本カウンセラーが言った。
一週間カメラに蓄えられた映像を松崎と一緒に見ることになった。松崎はパソコンを会議室の大画面テレビに繋げた。
「プロのスポーツ選手が自分の動作を録画して、コーチと共に映像を見ながらチェックをするようなものだと思って欲しい。不具合があればどう補正すれば良いかを同じ画面を見ながら相談する。コーチは選手本人の気付きを引き出す。コーチが教えるのではない。選手が自ら気付くのに寄り添う。そういうものだと」
松崎はパソコンのマウスをクリックして映像をスタートする。誰が編集したのか気になった。
安原に取って自分の姿を映像で見ることは初めてであった。写真という静止画で見ることはあっても、動いている自身を見る機会はなかった。会議室の森山と自分が映し出される。動く自分は他人のように見える。ボタンダウンのシャツに紺のパンツを履いていることを除き、アニメーションのアバターと同じだと思える。
森山が言う。
ー安原さんは「真鍋スポーツ」の財務部長に資産除去債務の追加計上を指示してらっしゃいましたが、財務部長が監査法人と調整されて、監査法人から追加不要との回答をいただいたようです。
アバターは返す。
ーなぜですか。追加してください、そのように「真鍋スポーツ」と調整してください、と私は貴方に指示したつもりですが。将来のリスクを軽減するための措置ですが。
森山と目を合わさないアバターの口調が後半強くなっている。
ーですが、変えなくて良いと監査法人が言っているのですが。
―私は監査法人の担当を信じていない。貴方も全く信用していない。
変わらずアバターは森山を見ていない。
森山は口を半開きにしている。驚いた様子というものだ。彼は言う。
ー松崎代表もそこまで会計を厳密に行うことを求めているのでしょうか。
ー代表は会計のプロではない。会計は私に委ねられている。つまり会計においては会社は私なのです。貴方は私の言うことを忠実に実行しなければならない!
森山は口を噤んだ。その刹那、机の上を大きな音を立ててこぶしで叩き、安原の実写アバターは森山が書いたレポートを本人に投げつけていた。
ーやり直し!
松崎は最初の映像をそこで止め、どう感じるかと聞いた。
「テレビドラマで見る取調室のようにも見えましたが・・・一方で私の言っていることは尤もだとは思います」
「私も取り調べのように見えた。刑事の態度が豹変して、その変化の大きさで容疑者が自白に向いていくような・・・」
「不快ですか?」
松崎は安原の質問に答えない。
「君は監査法人もやらなくていいと言っていることを真鍋スポーツにやらせたのか?」
「今、保守的に計上しておけば、将来除去費用が低く収まったら利益が出ます。監査法人のスタンスはあるにせよ、会社としては最大限保守的に計上するべきと思います」
「ただ、スタッフも忙しいこの時期に無理にやらせるべきことなのかどうか。また金額インパクトも僅少だと聞いている。君にこだわりがあるのは分かる。納得できないと前に進めないのも分かる。ただ周りからは、全て自分の思い通りにならないと許せない、自己中心的なわがままに見えていることも確かなのだよ」
「僅少かどうかの判断は人によります」
松崎は安原の言葉をまた聞き流し、次の森山との映像をスタートした。
森山が言う。
ー子会社の決算を期末から稼働日6日で完了するようにとのことですが、税金計算は決算が閉まってからの計算になりますから、どうしてもその後になります。また子会社はマンパワーも限られていることから税金計算は外部税理士に委託しています。その点でも日程の調整をしたいのですが。
安原が応える。
ー以前言いましたよね。いくつもの業態の会社からなるグループで、我々はそれらを束ねるホールディング会社です。業態が大きく異なり、我々が事業に直接関わっていないために、子会社の決算は最短で仕上げておかないと決算開示には大きなリスクを伴うのです。できない、でなく、どのような形でできるかを考えて欲しい、そう以前から指示しているのですが。
ー会計コンサルの先生にも相談させていただきましたが、税金まで入れて完了するにはあと一週間くらい設けているのが普通ではないかと言うことでした。
ー我々は上場をしようとしているのですよ。貴方は上場ということがどれほど厳しいことか分かっていますか?
ーそうは言っても、我々親会社と子会社の取引は経営指導料のやり取りくらいで、売上仕入れもありません。連結と言っても基本は単純合算ではないでしょうか。連結に時間を置いておくのも分かりますが、ある程度は子会社の決算に期間を設けて、正確性を求めた方が良いとは言えないでしょうか。
ー貴方、会計のことが分かっていますか?分かっていないなら、分かっていないと正直に言ってください。できないなら私がやります。
アバターはまた机を大きく叩き、席を立った後は壁を拳で殴っている。
次に松崎が流したのは、子会社が提出してきた予算実績レポートの不備につき、アバターが森山とIR担当に説いている映像である。やはり机を叩き、資料を投げ返している。
「これらから、何を感じるかね」と松崎は言った。
「私が言っていることはやはり的を射ているとは思えますが・・・指示の仕方が強いかもしれません」
「そうだね・・・ストレスの吐き出しがやはりうまくできてはいないようだね。ストラッグルしているのが分かる。机を叩き、壁を殴る。そうすることで、痛みを利用することで気を鎮めようとしているのだろうとは思ったよ」
ストラッグル・・・また英語が出る。
「確かに許容量を超えて強いストレスがかかると、そのストレスを発散しようとする傾向はあります・・・私は今、会社が求めるポジションには不向きと仰っているのでしょうか」
「君は私の前にいるときと、部下や子会社に対する時では、態度が大きく変わるようだ。森山君や他のメンバーにもヒアリングをした。子会社の、特に財務メンバーにも聞いた。どの人も同じような反応だった。急にメルトダウンを起こす。アスペルガーの人の特性として、ただでさえストレスを感じやすい上に、そのストレスを蓄えることのできるコップの許容量が少ないから、容易にメルトダウンを起こしてしまう、ということも知っている。彼らからは大きな苦情として届いている。会社がこの状態を変えないと、君の周りの人間全員が辞めていくだろう・・・実のところ、まず森山君から辞めたいと申し出があった。このままだとメンタルに問題が起こる、そうまでして今の仕事を続けることはしたくないと・・・君の言う通りかもしれない。違うポジションなり違う業務に付いた方が良いのかもしれない、その選択肢は否定しない。定型発達者が多数を占める社会でバランスを取っていくには。だが今は、社会がその許容を模索している、そして君も歩み寄らなければならない、お互いが。ストレスと怒りとパニック、その構図を自身で理解し、回避できるようにすることだと思う・・・特に我々はグループで上場に向かおうとしている。君もよく知っているように、パワハラは致命傷になる」
パワハラ・・・私のビヘイビアはパワハラに当たる・・・私のアバターの行為が・・・
日曜日のグループプログラムは『社会資源の活用』だった。我々の手助けとなる制度や施設、人的サービスの理解だった。自立支援医療としては、継続的な通院医療を受ける場合に医療費の一部が公費で賄われる制度で、デイケアや薬代も含まれる。健康保険で普通3割負担のところが対象として認められた場合は1割負担となる。メンバーの中にはいないが、精神障害者保健福祉手帳があれば公共交通機関の割引、税金の控除などが可能になる・・・我々は今直接は必要がなくとも、社会によって用意されているセーフティーネットを理解しておくことは無駄ではない・・・
ピアサポートのセッションでヘキサゴンは回転し、正面のアバターは曽根になった。
財務部が予算編成と実績管理を行なっていたため、社内各部との調整は曽根が主体で行っているということだった。また曽根の徹底したコスト管理とスケジュール管理で、継続して営業利益を黒字化できてもいた。
新年度予算の編成に入っていたが、一つの事業部の統括部長から一次予算がギリギリになって提出された。だがその利益金額は曽根が想定していたものより低かった。
統括部長に対し、なぜこんなギリギリの提出になるのですか、また金額が想定と違うと告げると、納期通りの提出であるし金額も提示は受けていないため、できる最善のものを提出した、ということであった。
「そこで曽根さんはどうおっしゃったのですか?」山本カウンセラーのアバターが聞いた。
「『いつ頃に提出できそう、ということをどうして先に私に言わなかったのですか。また金額をどの程度見込んでおけば良いか、事前に私に確認しなかったのですか。当然のコミュニケーションではないのですか、他の事業部の責任者は私に問い合わせをしてきていますよ、貴方以外は』と言いました」
「相手の統括部長はどう答えましたか?」
「『すみませんでした。でも小手先の経費操作は一時凌ぎに過ぎませんので、一次予算としては実態に合った数値を出しました』と。私は言いました。『小手先であろうと、小手先でなければ今利益が確保できないのであれば仕方ないじゃないですか。それで前年は営業利益の黒字化が出来たのですよ』」
息を整えてから曽根は続ける。
「統括部長は言いました。『釈迦に説法で大変申し訳ありません。敢えて言わせていただくと、我々を担当する監査チームは、監査法人内では審査部を説得する必要があります。彼らが審査部を説得できるような情報を我々は提供すべきです。監査チームが我々を信用しサポートしてくれないなら、その会計は最終的には認められない可能性があります』私は『何のことを言っているのですか。財務部長は私ですよ。監査法人と調整するのは私ですよ』と言いました。彼は『粉飾に近い会計はいつまでも続けることはできません』と言いました。『私がやっていることが粉飾とでも言っているのですか』と私は聞きました」
「どのような口調で曽根さんは統括部長に言われたのでしょうか?」
「私は冷静でした。いつものように、努めて」
「そうですか・・・その時は統括部長とお二人で話されていたのですか?」
「統括部長の部下の女性も会議室で一緒でした」
「その女性の表情なり、何か思い出せることはありますか?」
「・・・両耳を手で塞いで、「あー!」と大きな声を出していました・・・おかしなことでした」
「その後は?」
「『もう聞きたくない、聞きたくない』と大きな声を出したと思います」
「何が起こったのでしょうか?その女性はどうなりましたか?」
「統括部長が『もういいから外に出ていてください』と言って、女性は出て行きました」
「そうですか・・・どなたかご意見ありますか?」と山本カウンセラーは言った。
安原は自分の実写アバターと重ね合わせていた。手を挙げた。
「私の経験からですが、ご自身の映像を撮られてみるのも自身の気付きを引き出すのに有効かもしれません」そう言った。
食事後の8時にすずとライン電話をした。
「ご自身の映像を見られたのですね?」とすずは言った。
お互いのスマホを置いたテーブルにはビールを注いだグラスがあった。安原はビールに口を付けてから話し始めた。
「自分ではないようでした。我々は今プログラムにアバターとして参加していますが、実写アバターを見るような感じです。ストレスの解消が外に出るとパワハラという形に変わっているようでした」
「ショックですね」
「自分と違うアバターが、自分の身体を借りて遠くで勝手に動いていて、そのアバターを周るようにして何かが立ち昇っていました。私の頭の映像の中では」
「何が立ち上っていましたか?」
「龍、ドラゴンです」
「ドラゴンですか・・・激しそうですね」激しそうであり、滑稽だった。
「勝手に動くアバターを、ドラゴンを纏ったアバターを、私は手懐けることができるのでしょうか?」
「・・・そのために、私もここにいるのだと思います。そして私も安原さんを見て、私も自分のドラゴンをどう手懐けるのかを考えるのです」
スマホの奥でビールを飲んだすずが言う。
「いずれは分かることなので、今、言っておこうと思います」
「何ですか?」
「以前、安原さんに、会社がこのプログラムサービスを利用しているのを知って自分で志願したと言いましたよね・・・もちろん本当でした。でもその後会社から相談がありました。同じような悩みを持つ人を調査してきて欲しい、と」
「どういうことでしょうか・・・」
「つまり、市場調査です。そのような悩みを持つ、ある程度ポジションの高い方々の状況を調べるのです。そしてそのような人々を人材紹介会社として適切な会社、ポジションに送り込むことができるか、またそのような人口がどれだけあるのか、調べるのです」
目の前のコップのビールは水に変わり、溜まり始める。溢れてはならない。
アバターがドラゴンを纏うのを避けなければならない。
コップを手に取り液体を口に含む。苦い・・・水はまたビールに戻っている。
「ビジネスですね」
「そうです。あくまでビジネスになるかどうかなどまだ全く分からないので、市場調査をして欲しい、ということでした」
スマホの奥に沈黙がある。
すずのこれまでの様々な発言、プログラムの中でのもの、こうしてスマホを通したもの、クリニックの待合室、地下の喫茶店、すずの部屋でのものが、時間軸に関係なくフラッシュバックし始める。私は実験台・・・実験マウス・・・
コップの中身はビールから水に変わり、またビールに戻る・・・繰り返す。
「怒っていますか?もう私を信じられませんか?」
ドラゴンがアバターの腰のあたりに現れて、首をもたげようとしている・・・
「怒るようなことではありません」
「私がこれまでプログラムの中で発言した内容や、安原さんとこうして話しているのはあくまでプライベートとしてです。このことだけは信じて頂きたいんです。だから後から分かった時に気まずくなるのが怖かったので、今こうして打ち明けています」
「分かっています。ただ・・・」
「ただ・・・」
「遅かったですね」
「遅いですよね。ごめんなさい。本当はもっと早くに言うべきでしたね」
また沈黙がある。
すずの言葉ー私も安原さんを見て、私も自分のドラゴンをどう手懐けるのかを考えるのです・・・
「怒ってますか?」
すずがどう言おうと、市場調査を行なっていたという事実は事実なのだ・・・私は滑稽である。ピエロである。
「怒ってますよね」
首をもたげたドラゴンが・・・昇り始める前に切り上げるべきであった。私の姿はピエロではない。
「今日は疲れました。また明日があります。寝たいのでこれくらいにしましょう」
「そうですね・・・」何か言いたそうなすずを置いて、安原は電話を切った。
本町の会議室で、松崎と安原は、証券会社の3名と向き合っていた。安原は人と向かい合うのは苦手だった。主幹事の受諾に向けた定期的なミーティングだった。午後3時になっている。
松崎が言った。
「上場タイミングは最短2年後と設定して動いているが、コンプライアンスなど万全を期してからと考えているのでその限りではない」
証券会社の3名はそれぞれが顔を見合わせる。
安原はこれまで彼らに定期的にレポートを行ってきた。その都度、会社の足元の業績結果と内部統制の準備度合いを報告した。
彼らは会社の進捗に満足し、賞賛していた。
ーよく今の段階で、ここまでグループで準備されていますね。
彼らは決まってそう言った。絶賛と言っても良かった。安原はその言葉に満足し、松崎も彼らの言葉を機嫌良く聞いていた。
その言葉が出てくるように、実質的にこのグループをコントロールしてきたのは自分なのだ、安原は自負していた。自分は結婚もしておらず子供もいないが、この企業グループを整えて計画通りにパブリックにする、この企業グループは安原に取って自分の分身、自分の子供のようなものだった。
だから松崎から上場を急がないと聞いた時には言葉を失った。
ーグループ会社のそれぞれのメンバーが、上場して良かった、そう思える状態で上場する。そのためには時間を要しても構わない。急ぐ必要はない。
ー私のせいだということですか?私がパワハラを行っているからということですか?
ー見極めたいんだ。君のためであり、会社のためだ。君が会社、ひいては社会と調和できるのを待つためだ。
松崎はそう応えた。これまでの進捗を理解し、むしろ後退させるなと常にコメントをしていた松崎に、安原ははしごを外された思いがした。
その思いに至る前から、松崎に対する不信の芽は生まれ膨らみ始めていた。弁護士報酬の請求書を見たときである。毎月目にしていたものとは異なり多額だった。松崎に問い合わせた所、新しい子会社候補をグループに組み入れることについて相談したということだった。安原は子会社候補の存在について聞いていなかった。必ず安原には先に相談があるであろう内容だった。何かおかしいと思った・・・
上場準備の途中で自分を辞めさせる・・・そのための準備をしている・・・
その可能性に行き着いた。松崎のこれまでの態度を手繰っていけば間違いないと思えた。
記憶の倉庫から現れたコップに水が満ちそうになるのを抑えた。安原は何とかアバターの周りに現れたドラゴンに頭をもたげさせなかった。
証券のリーダーが言う。
「これまで最短でお願いしたい、というご意向でしたので、我々もそのタイムラインに沿うようにと考えておりましたが、慎重を期した準備ができますので、正しいご判断だと思います。決して気を緩めるという意味ではございませんが、そのタイムラインで我々もじっくりと会社様と歩調を合わせて上場準備を行いたいと思います」
証券会社側も安堵している様子が見える。主幹事を受諾するかどうかを判断する時間が稼げるため、ということが安原には分かっている。主要株主であるファンドが恒久的に株を保持するという、日本では珍しい形態の上場になる予定だった。上場後の一般株主は当然ながら株の売買が可能であるが、ファンドに対する投資家(LP:リミテッドパートナー)への還元は配当が原則となる。主要株主が恒久保持をする形態の企業グループの上場として、一般株主にそのフィロソフィーを理解してもらうことができるか、そして自分たちが想定の株数を売り切ることができるか、証券会社はそのハードルを吟味している段階だと推察できた。
「一方ですが、投資家の方のご意向は大丈夫なのですか?」
尤もなことを証券のリーダーは聞く。
「投資家の理解は得ています」と松崎はきっぱりと応える。
投資家に対する業績報告もこれまで安原が主体で行ってきた。細かい質問にも対応するために常にQ&Aを作成し、これまでの投資家を繋ぎ止め、これからの投資家候補を引き込むために、証券会社に対する以上に細心の注意を払いフロントとして実務を担ってきたのは誰なのか、自分ではないのか・・・安原は松崎の隣で正面の3名に向き合いながら、コップから溢れ出そうとするものを何とかコントロールしようと試みる。アバターに取り憑くドラゴンを消そうとする。風呂に映像は変わる。風呂に浸かり、腰をずらして頭を沈め、息を止める自分を思い描く。
すずがいなくとも、自分のアバターを御す・・・やれるのだろうか・・・やれる・・・はずだ・・・
すると水に包まれる。安原は青い水の中にいて、揺れている。
金曜日、朝の始業時間早々だった。グループの久光化学の件でと松崎から招集がかかった。
会議室には松崎と久光化学社長が既に向かいあって座っていた。
社長は会計に明るくない。社長業は会計を詳しくは知らなくとも財務数値に敏感である必要があったが、彼にはそれが欠けていた。だから安原は社長を信用できなかった。
安原が松崎の横の椅子に座ると、松崎は言った。
「社長、もう一度話してもらえますか」
社長は小さく頷いた。
「子会社の中国工場で問題がありました。中国人の購買担当者がキックバックを仕入れ先に強要し、自分の口座に送金させていたのです」
「横領ですか」
「そうです」
「横領ですね・・・」安原は繰り返した。
横領・・・これで上場は1年伸びるどころか、無期限の延期になる・・・自分がギリギリ守ってきた上場のための堰は壊れた。つまり自分が精魂込めて、自分の経験と知識を総動員して、眠れない日々を過ごし、身を削り、人生を賭したもの、まさに自分の分身のようなものだった・・・
ベランダに立つ自分がフラッシュバックする。ガラス戸は閉じられていてカーテンで視界は遮られている。部屋には入れない。部屋は既に暗い。夜空を向く。すると身体はベランダの手摺りに乗り出ている・・・
同時に身体の奥から噴き出てくるものがある・・・
押さえようとした。これまでの松崎の指摘、グループプログラム、すずのアドバイスの効果の発現を見る・・・水の入ったコップも、ドラゴンも、目の前にはない・・・大丈夫である。
「いつからですか?」
松崎が既に聞いているであろうことを安原は聞いた。先に金額を聞くべきところの順番を変えた。
「10年です」
「10年ですか。長いですね」
社長は黙る。
「金額はどのくらいですか?」と安原は聞いた。
「約2億円です」
「2億円ですか。大きい額ですね・・・百万円の束を重ねていくとどのくらいの高さになるんでしょうね」
コミカルに金額を表現した。冷静だった。
社長は、どのように中国人が横領を行っていたかを説明し始める。
百万円の束を重ねていく中国人の映像が頭を巡る。
コップがフラッシュバックし、水を湛え始める。
松崎が社長に何かを問い、社長が一つ一つ応えている。しかしその内容は何も頭に入ってこない。
百万円の束は積み上がっていく・・・
コップの水は一杯になり・・・溢れそうになる。
溢れてはならないのだ・・・
私は子会社を律してきた。甘えや気の緩みを許さなかったのは、このような不祥事を決して起こさないためである。滑稽だった。私を蔑ろにした結果がこれなのだ。当然の帰結なのだ。百万円の束を重ねていくとどのくらいの高さに・・・我ながら良くできた滑稽な表現だった。笑える。私が心血を注いできたことを一瞬にして無にしてくれた。笑える。私はピエロである。私が笑うのではない。私は笑われている。
「これまで一体何をしていたのですか、貴方は!」
社長が驚いた顔で安原を正視する。
「貴方は会社の責任者でしょう」
自分の声が遠い。自分はアバターになっている。アバターは机を叩きそうになる。アバターは言う。
「貴方には責任というものがないのですか!」
ドラゴンが現れてくる。アバターの周りにドラゴンが纏わりついている・・・
「その自覚がないからこんなことが起こる・・・起こる・・・」
社長の顔が霞む。息が苦しい。身体が抱きついたドラゴンに締め上げられる。部屋を離れ、気を鎮める必要がある。さらに息が切れる。ドラゴンが消えて過呼吸になった。
心臓が痛い。いつものストレスからくるものとは、感覚が、強度が異なっている。
「その自覚の欠如が・・・」
汗が吹き出してきた。これまで経験したことのない痛みである。
「気分が悪いのですみませんが、席を外し・・・」
大丈夫か、松崎が言う声が遠くなる・・・
「すみませんがタクシーを呼んでもらえますか・・・病院に行きたいのですが」
松崎は部屋を出ていく・・・
松崎が帰ってくる・・・
「下にすぐタクシーが来る。救急病院がいいと思う。私も行く。社長、また後で話そう」
松崎に伴われ、タクシーに乗り込んだ。安原はプールの水の中にいて、揺蕩っている。一人で浮いていき、下には人々の頭頂部が見える。胸の痛みが津波のように何度も襲ってくる。
タクシーを降りると作業衣たちが待ち構えている・・・
担架に乗せられる・・・
酸素マスクを口に付けられ、腕に注射を受ける。胸をはだけられ心電図の装置が装着される。
安原は目を閉じていた。ベランダが蘇る。暗くなった部屋と逆を向き、手摺りに手をかけ、身を乗り出す。身体が傾く。夜空から景色が変わる。落ちている。目の前に地面が見える。地面は間近にある。私は、地面と一体になる・・・
痛みは引いていき、水の満ちたプールの中で揺らいでいる。
少し寝て休んでください、という声がする・・・
気が付くとカーテンで仕切られた病院のベッドにいた。カーテンに手を触れて少し開ける。看護師の女性が安原に気づく。
「目を覚まされましたか。医師を呼んできますのでそのままお待ちください」
医師がやってくる。松崎もいる。
「軽度の心筋梗塞です。直ぐに入院が必要ではありませんが、薬物療法が必要かと思います。このご紹介する病院で治療をお受けください」と医師は言う。
「とにかく良かった、心配したよ」と松崎が言う。
山本カウンセラーに体調が悪いとメールし、日曜日のグループセッションをスキップした。
プログラムの題目は「相手への気遣い」である。
夕刻にすずからラインで連絡が入る。病院に運ばれたが今は大丈夫、と伝えた。
今度家に来ませんか、と返信があった。
少し考え、今から行っていいですか、と安原は打った。
大丈夫なのですか?
今は大丈夫です、プログラムに参加するほどの元気はなかったのですが。
ではお待ちしています。
では何か食べものを買っていきます、とラインした。
マンションを出て、デパ地下に寄り、地下鉄に乗った。
新大阪で降り、間口の狭い10階建のマンションに向かう。
1階で部屋番号を押す。すずの声がして、ガラスドアが開く。エレベーターに乗り4階で降りると、部屋のドアを半開きにしてすずが待っていた。
靴を脱いで上がり、買い物袋をテーブルの上に置き、すずの息子の写真と位牌に向かい、線香に火をつけ手を合わせた。
「ビールを飲んでも大丈夫ですか?」とすずが聞き、
「飲み過ぎなければ大丈夫です」と応えた。
2人でビールを飲み、惣菜を食べる。
「今日は実は息子の命日なのです。ですのでお墓に行ってきました」
「そうですか。そんな日にすみません」
「そんな日だから来てもらって良かったです」
「私もそんな日に来られて良かったです」安原は鸚鵡返しをした。
「提案があります」とすずが言う。
「何の提案か想像できます」
「分かりますか?」
「きっと私の転職先候補です」
「これから見繕いますのでまだ候補は見つけていないですが、そうですね、私が見つけます。言われたことは確かに一つ目の提案です。私も安原さんのセーフティネットになる。私が今の仕事を続けているのは、安原さんのような、あるいは私のような人のために、この仕事を続けているとも言えます。社会が私たちに対する理解が十分でなく、寛容であるとは言えない時代なのですから、定型発達者が大半を占める社会に私たちが自分で居場所を見つけていかなければならないのは仕方のないことです・・・でも安原さんは今の仕事とポジションを諦めることはできますか?」
「自分でもよく分かりません。この仕事はこれまでの私の経験の集大成でした。これをやり遂げられれば私のキャリアの完成になる、という覚悟ではいました」
「残念でしょうね。でも無理しないでください、今回のように心筋梗塞を起こすまで突き詰めないでくださいね。見ている「私も」辛い」
「・・・「私メッセージ」ですね」
「そうです。思わず使いました」
「お上手です」
「ありがとうございます」
「私も今回の件で、生き方を変える必要があると思いました・・・ようやく・・・遅かったでしょうか」安原は言った。
「遅くありません。安原さんは早い方だと思います・・・」
「そうでしょうか」
「死んでしまっては元も子もありません・・・グループプログラムは最後まで続けて卒業しましょうね」
「私にその意味があるのでしょうか」
「ありますよ」
「残っている題目は何でしたか?」
「ちょっと待ってください」すずは椅子から立ち上がり、テキストを持ってきた。惣菜の皿をずらしてテキストを開けて置く。
「非難や苦情への対応、ストレスの理解、自分の特性を伝える、相手を称賛する、で終わりです」
「残念です。肝心な題目がまだ履修できていませんでしたか。もっと早くにセッションが受けられていれば」
「遅くはありません」
「そうでしょうか?」
「そうですよ」
「プログラムの後は一人一人評価を受け、また会社にフィードバックされるのでしたよね」安原は聞いた。
「そうです」
「その結果によっては自動的にポジションが外れたり辞職になる可能性もある」
「その可能性はあるんでしょうね」
「会社は上場タイミングをずらして私が会社で上手く立ち回れるまで待つ、そのような言い方を代表がしました。我々がやりがちな『言葉通りに取る』ということを止めて考えると、このプログラムが終わると私を切る、ということでしょうか?」
「どうでしょう・・・」
このプログラムは元々再生というよりも、会社が判断するためのもの・・・すずも会社が決めた後のビジネスのために送り込まれた・・・私も一匹の実験マウスに過ぎない・・・
「このグループは曽根さんと私が会計畑で重なってましたね?」安原は独り言のように言った。
「山本カウンセラーが、属性が近い人を集めたとは最初に言っていましたよね」
「会計という専門的な知識を備え、一方でコミュニケーション力の問われるマネジメント職が大半・・・マネジメントポジションにこだわる必要があるのか、考えさせるためでしょうか?適材適所を我々自身に気付かせるためにも」
「どうでしょうか、定型発達者の社会にもまだ答えはないかもしれませんね。でも私たちは傷つき易く、反面、私たちは加害者にもなる。私たちは被害者で、加害者なんですよね。加害者になってはいけません」
私が加害者になる。私は既に加害者になっている・・・
「先ほど一つ目が転職と言われましたが、それ以外にあるのですか?」安原は聞いた。
「提案は、結婚です」
安原は外していた視線をすずに向けた。
「結婚・・・誰と誰がですか?」
「私と安原さんです」
安原はすずをじっと見た。
「唐突ですね」
すずもじっと安原を見ている。部屋に入ったときからずっと、じっと見ているように思える。多動性アスペルガーの人にはありがちで、男でも女でも近しい相手に対してはじっと見る癖があると言っていた。
「私たちは愛しあっているわけではありません。私には安原さんに対する恋愛感情はありません・・・安原さんはどうですか」
「私もありません。将来は分かりませんが」
「私も分かりません。今は、結婚という形態を取った、恋愛感情とは別の、恋愛を超えた姉弟のような、慈愛のようなものかもしれません」
「では、契約結婚ですね」
「そうです。契約です。家族になるのではありません。家族をやるのです。結婚という形態をとって、私は安原さんが生きやすい環境を整えます。できる限り。契約という形を取って私は安原さんにコミットします」
「冗談ですか?」
「冗談ではありません」
「では本気ですか?」
「本気です」
「どうしてそこまで私に関わろうとするのですか」
「どうしてでしょう・・・私たちは定型発達者とは異なるところにいて同じような悩みを抱えていますが、安原さんはお父様から受けた仕打ちで自分を肯定することができなくなり、劣等感・・・劣等感という響きはお嫌いかもしれませんが、その湖の中にいるのかもしれません。そのことがどこまで関係しているのかは分かりませんが、安原さんは受けたものを引き継いで、そのまま外の人に向けてはいけません。加害者になってはいけないのです。私は安原さんと同じ側にいる人間として、安原さんが生きやすいように、安原さんのそばにいる・・・そうすることが私自身の慰安になる。私は息子に酷いことをした。私にやり直させて欲しいんです」
すずは息子の写真に視線を向ける。
「勝手な思い込みでしょうか?勝手に安原さんを巻き込んで」
「いいえ・・・すずさんが生きやすいようにということでは、私には何ができるでしょうか」
「家族になるのでありません、家族をやりましょう、と先ほど言いました。私たちは生きづらさから外ではいつも気を張っていなければなりません。だから家に帰ってきたときにはそのモードをオフにしてしまいがちです。だから私も結婚を失敗しました。そして息子を亡くしました。家に帰ってもオフにはしないようにしてもらえますか。でもそれだと疲れます。だから私も安原さんも一人になる時間が必要です。逃げ場所を用意しておく、と言ってもいいでしょう。安原さんは部屋をもう一つ借りて食事が終わればその部屋に帰っていってもいいですね。お金はかかって非効率ですが、私たちは自分たちの特性をお互いが知っています。相手がどのような状態になっているのか理解できる。そこは利点なのです・・・そうだ、ペットを飼いましょう。犬がいいですね。私たちは共振する。貴方も私も犬を介して共振する・・・」
「犬ですか?」
「もしかして猫派ですか」
「いえ、犬で結構です。なんだか私はラッキーですね」
「そうです。貴方はラッキーなのです。そして私もパートナーがいてラッキーなのです・・・急ぎません。ゆっくりと考えてください」
記憶の倉庫から子犬の映像が引き出される。豆柴だった。豆柴はすずの膝の上に乗る。膝から降りた豆柴はすずの周りを走り回る。ベランダへのガラス戸が開いている。豆柴はベランダに走り出る。豆柴は急に背が伸び、すずの息子になる。すずの息子が目にしている景色が見える。私の目がすずの息子の目と入れ替わる。すずの息子は私になる。私がベランダの手摺りに手をかけている。私が身を乗り出す。
私の胴に腕が回っている。引き戻される。私は白い部屋の中にいる。すずの体温が背中にある。すずの吐く息が肩にある・・・胴にあるすずの腕の上に、自分の腕を重ねる。すると私は青い水に包まれる。
了




