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悪役令嬢――それを捨てるなんて、とんでもない!

作者: 月白ふゆ

「悪役令嬢の断罪」は、物語として分かりやすく、読む側も“期待する役割”が揃っている便利な舞台です。

ただ、その舞台が整っているほど、ひとつだけ気になっていました。


――本当に“捨てていい”のだろうか。


国の秩序、家の責任、積み上げてきた実務、誇り。

それらを背負って立ってきた令嬢が、感情劇の一幕で「悪役」に仕立てられ、切り捨てられる。

そんな雑な損失が、現実には一番怖い。


だから今回は、断罪そのものはテンプレのままに、そこで主導権を奪う第三者を置きました。

そして、救われるのではなく“選び直す”令嬢にしました。


氷だったのではありません。

鍵を渡していなかっただけ。

その鍵を受け取れる男が現れた瞬間、彼女は初めて、甘くなれる。

どうぞ、最後までお付き合いください。

凍てつく冬の朝、王都アルステルの石畳には薄氷が張りつめていた。

白い息が一拍遅れてほどけ、馬車の車輪が軋む音だけがやけに大きい。


王立学園の正門前には、妙に整列した人だかりができていた。


生徒だけではない。近衛騎士、宮廷の侍従、どこか匂い立つ噂を嗅ぎつけた貴族の随員たちまでが、立ち止まっている。


その中心に、ペイシェンス・アインフェルトは立っていた。黒髪は端正にまとめられ、青磁の瞳は凍った湖面のように澄み、表情に揺れがない。公爵家の令嬢にふさわしく、背筋は一本の剣のようにまっすぐだった。


彼女の前に、王太子アルベルトがいた。隣には、白百合を束ねたような微笑みの少女――聖女セシリア。背後には攻略対象として名を連ねる貴公子たちが、同じ方向を向いて並んでいる。視線は一点に集まり、空気は露骨に「断罪」の形をとっていた。


「ペイシェンス・アインフェルト」


アルベルトの声は、観衆に向けて響くように張られている。王家の人間が、他人の人生を裁く時の声だった。


「あなたはこれまで、セシリアを執拗に貶め、学園内で陰湿な嫌がらせを繰り返した。私の婚約者という立場を盾にし、彼女の名誉を傷つけ、信仰を侮辱した。もはや看過できない」


噂は、噂のまま列を成している。彼女が扇子で冷たく笑った、礼拝堂で水をかけた、廊下で肩を突き飛ばした――どれも見た者がいると言い、見た者の名はいつも曖昧だった。


「よってここに、婚約破棄を宣言する。今後、あなたは王太子妃の座にふさわしくない。処分については、王宮にて――」


ペイシェンスは瞬き一つしなかった。泣かず、弁明せず、唇の端すら揺れない。観衆はそれを「追い詰められた沈黙」と受け取り、セシリアは胸の前で指を組み、祈るように目を伏せた。


ただ、ペイシェンスは思っていた。


――ここまで、形を整えるのにどれだけ時間をかけたのだろう。


冷たいのは冬の空気だけではない。自分が見てきた半年間の宮廷の手口は、寒さよりも骨に沁みた。王太子は甘い言葉を受け取る才能はあっても、現実を読む才能がない。聖女は、その「優しさ」を武器にすることを、いつの間にか覚えてしまった。攻略対象の男たちは、波の向きを見て、ただ乗り換えたにすぎない。


――そして私は、もう十分だ。


ペイシェンスは、心の奥に鍵をかけたまま、静かに息を吐いた。白い息が薄氷の上に落ちる。何も、言う必要はない。言ったところで、結論は決まっている。ならば、自分の品位をこれ以上、彼らの舞台装置にする理由もない。


「……反論はないのか」


アルベルトが苛立ちを滲ませた。観衆の期待は「泣き叫ぶ悪役令嬢」だ。だが彼女は揺れない。王太子の立ち位置が、微妙に不安定になり始める。


「特にございません」


ペイシェンスは簡潔に言った。氷の刃のように、短く切れる音だった。


その瞬間、ざわめきが一段大きくなる。人は理解できない沈黙を恐れ、理解できない冷静さを「悪」と呼びたがる。


アルベルトは勝利の台本をめくり損ねたように目を細め、セシリアはわずかに唇を噛んだ。


「ならば、これで――」



「少し、よろしいでしょうか」


割り込んだ声は、場違いなほど落ち着いていた。拍手の入りどころを失った空気が、音の方向へと吸い寄せられる。


人垣の外側から、一人の青年が歩み出る。身につけた外套は上等だが誇示する派手さはなく、立ち姿だけで育ちの良さが分かる。銀灰の髪、切れ長の眼差し。侯爵家の紋章が、胸元に控えめに光った。


カシウス・レイヴンハルト。王太子の取り巻きでも、攻略対象でもない。学園でも目立たず、社交界でも必要以上に口を開かない、けれど「いなくなると困る」人間――そういう種類の男だった。


「レイヴンハルト侯爵令息。これは王家の問題だ」


アルベルトが即座に牽制する。だがカシウスは軽く一礼しただけで、王太子の言葉を真正面から受け流した。


「ええ。だからこそ、発言を許していただきたいのです。これは王家の問題であると同時に、この国の問題ですから」

その言い方が、すでに挑発だった。


カシウスは視線を動かし、ペイシェンスを見た。次いで、王太子と聖女と、周囲の貴公子たちを見る。ひとりずつ、丁寧に、逃げ場を潰すように。


「婚約破棄を宣言するのは構いません。ですが、確認したい。殿下は、アインフェルト公爵令嬢がこの半年、何を担っていたかをご存じですか」


「……婚約者としての務めを――」


「務め、という言葉は便利ですね。具体的に伺います。秋の徴税改革案、どなたが条文を整えましたか」


アルベルトが言葉を詰まらせる。周囲の誰かが、咳払いで助け舟を出そうとして失敗した。



カシウスは淡々と続ける。


「北方諸侯との穀物価格の調整。港湾税の見直し。軍需の入札の透明化。さらに、聖堂への寄進に紐づく監査の仕組み――」

一つひとつが、王都の貴族にとっては耳が痛い。だが、国にとっては必要なことだった。


「それらを、誰が回していたか。殿下は、本当に把握していらっしゃるのですか」


「公爵家の影響力が強すぎるからこそ、私は――」


「影響力、という言葉も便利です。では質問を変えます」


カシウスは一歩、踏み込んだ。薄氷を割る音はしない。だが空気が割れた。


「殿下は、この国の財政が今、何割の赤字で推移しているかご存じですか」


「……」


「国庫が持ちこたえている理由を、ご存じですか」


沈黙が落ちる。観衆のざわめきが、引き潮のように消えていく。ここにいる貴族たちは、噂話は好きだが数字は嫌いだ。だが数字は現実で、現実は逃げない。


カシウスは、最後に短く息を吐いた。



「――それを捨てるなんて、とんでもない」



その一言は叫びではなかった。怒鳴り声でもない。むしろ静かで、だからこそ重い。薄い氷の下に押し込まれていた真実が、ゆっくりと浮かび上がるような音だった。


「アインフェルト公爵令嬢は、殿下の婚約者である前に、この国の実務を支えていた人間です。冷たいのではない。余計な感情を挟めば、国が傾く場面が多すぎただけです」


セシリアが、はっと顔を上げる。慈愛の仮面が一瞬だけずれた。


「カシウス様……それは、ペイシェンス様の、立場を利用した振る舞いで――」


「聖女殿。あなたは優しい」


カシウスは、刃物を布で包むように言葉を選んだ。けれど中身は刃だ。


「優しさが悪いとは言いません。しかし、優しさだけで国は動きません。あなたが救えるのは目の前の一人かもしれない。けれど、彼女は万人を救うために、万人から誤解される役を引き受けていた」


セシリアの頬が、わずかに強張る。


カシウスはアルベルトへ視線を戻す。


「殿下。婚約破棄をなさるなら、構いません。ですが、その決定が何を失うかを理解した上で、署名なさってください。理解できないのなら――それは、国を導く者として致命的です」


王太子の顔色が変わる。貴族たちが互いに視線を交わし、ひそひそとした声が起こり始める。それは先ほどまでの下卑た「悪役令嬢の末路」への期待ではない。現実への恐れだ。


ペイシェンスは、その光景を静かに見ていた。胸の奥で、何かが微かにほどける音がした。


――この人は、分かっている。


彼女は初めて、真正面からカシウスを見た。銀灰の髪の奥、目の奥にあるのは虚栄でも憐れみでもない。理解と、決断と、責任。それを背負う覚悟が、まっすぐに立っていた。



ペイシェンスは一歩、前に出た。


「殿下」


アルベルトが、救いを求めるように彼女を見た。今さら何を言っても遅いのに、彼の目は「何とかしてくれるはずだ」と訴えている。ペイシェンスは、その甘さに、かつては自分がどれだけ疲弊していたかを思い出した。


「婚約破棄の件、承知いたします。処分についても、王家のご判断に従いましょう。ですが」


彼女は視線をずらし、カシウスに向けた。ほんの僅か、声が柔らかくなる。自分でも気づかないほどの変化だった。


「私には、選び直す自由があると理解してよろしいですね」


周囲の貴族が息を呑む。ペイシェンスは「捨てられる側」ではない。「選ぶ側」だと宣言している。


アルベルトの唇が、かすかに震えた。


「ペイシェンス……?」


ペイシェンスは、もう王太子を見なかった。代わりに、カシウスの前に立つ。距離は一歩。だがその一歩が、世界を変える。


「レイヴンハルト侯爵令息」


カシウスが、わずかに目を見開いた。彼はこの場で公爵令嬢を救ったつもりはない。事実を言っただけだ。だからこそ、彼女が自分に向かってくることは想定外だった。


「あなたは、私を捨てるほど愚かではないようですね」


ペイシェンスの声は静かで、しかし甘さを含んでいた。氷の表面が、春の陽に触れて一筋だけ溶けるような声。


「……ペイシェンス嬢」


「呼び方が違います」


その言葉に、周囲がざわつく。いま、彼女が「訂正」をしたこと自体が衝撃だった。冷たい公爵令嬢は、訂正などしない。必要がないからだ。だが彼女はいま、必要を感じている。


カシウスが息を整える。


「……公爵令嬢」


「いいえ。私の名前を」


ペイシェンスは微笑んだ。それは小さく、控えめで、それでも確かに「甘い」。観衆の背筋がぞわりとする。今まで見たことがない種類の表情だった。


カシウスは、ゆっくりと言った。


「……ペイシェンス」


それだけで、ペイシェンスの頬がほんの少しだけ柔らかくなる。誰も気づかないはずの変化を、彼女の侍女だけが見て、目を丸くした。


「よろしい。では――私を、あなたの側に置きなさい」


命令の形をした、選択だった。


カシウスは一拍遅れて膝を折り、礼をした。


「恐れながら。私があなたを“置く”のではありません。あなたが私を選ぶなら、私はその選択を、命を懸けて守ります」


ペイシェンスは、そこで初めて、ほんの少しだけ目を細めた。満足の色が、淡く滲む。


「合格です」


誰かが、呻くように息を吐いた。ここまでを見ていて理解できる。ペイシェンスは救われたのではない。自分で決めたのだ。そして、決めた瞬間から、もう迷わない。


王宮の会議室は、冬でも温い。暖炉が焚かれ、赤い絨毯が敷かれ、そこにいる者は皆、温度が「当然」と思い込んでいる。だがその当然が、国庫の血を吸っていることを、彼らは普段考えない。


ペイシェンスは、王家からの呼び出しに応じていた。婚約破棄の手続き、処分の協議――名目はそうだ。

だが実際には、王太子が失ったものを確認する場になる。


長い机の向こうで、国王が低い声で言った。


「ペイシェンス・アインフェルト。お前の働きは、認めている」


それは、王家が公に言ってはいけない種類の言葉だった。

なぜなら王家は、感謝することで自分の不足を認めることになるからだ。

それでも国王は言った。

焦りがあった。


ペイシェンスは一礼し、淡々と答えた。


「恐れ入ります。職務ですので」


国王の隣で、王太子アルベルトが沈黙している。彼はまだ、現実から逃げる場所を探している顔をしていた。


そこへ、扉が開く。侍従の案内で、カシウスが入ってきた。侯爵家としての正式な装い。だが目の奥は同じだ。冷静で、責任を引き受ける目。


「レイヴンハルト侯爵令息。ここは王家の場だぞ」


アルベルトが声を荒げる。国王が手で制するより早く、ペイシェンスが口を開いた。


「殿下。彼は、私が後ろ盾になります」

会議室が静まり返った。国王の眉が動く。


「後ろ盾?」


「婚約破棄後、私は王家の支配から自由になります。公爵家として、どの家とどのように結びつくかは、我が家の裁量です」


そう言ってから、ペイシェンスはほんの僅かだけ、カシウスを見た。視線が柔らかい。国王の側近が目を見開く。侍従が息を止める。


――あの公爵令嬢が、誰かを見る目を、あんなふうに変えるのか。


国王は、しばらく沈黙した後、低く言った。


「……つまり、アインフェルト公爵家は、王太子妃の座から手を引き、レイヴンハルト侯爵家と――」


「ええ」


ペイシェンスは微笑んだ。会議室の空気が揺れる。冷たい微笑ではない。砂糖を溶かした紅茶のような、柔らかい微笑だ。


アルベルトが、椅子の肘掛けを握りしめる。


「ペイシェンス、待て。そんな話は聞いていない」


「殿下。あなたが婚約破棄を宣言したのです。ならば、私が次の道を選ぶのも当然でしょう」

その言葉は正しい。正しさほど残酷なものはない。


国王が、ゆっくりと息を吐いた。


「……条件を聞こう。アインフェルト公爵家は、国を見捨てるのか」


ペイシェンスは首を横に振った。


「見捨てません。ですが、私の労力が、無自覚な浪費に消えることはもうありません。国が本当に必要とするなら、対価と権限を明確にしていただきます」


それは脅しではない。契約だった。国王は、その言葉が「国を守る現実」だと理解している。理解していないのは王太子だけだった。


カシウスが一歩前に出る。


「国王陛下。レイヴンハルト侯爵家は、アインフェルト公爵家と協力し、国政の安定に寄与します。ただし、公爵令嬢の名誉を傷つける者には、相応の責任を負わせていただく」


アルベルトが叫びかけたが、国王が重く言った。


「アルベルト。黙れ」


王太子が黙る。それだけで会議室の権力の線が見える。国王は、息子より国を選ぶ。


ペイシェンスはその光景を見て、胸の奥で薄い膜が剥がれるのを感じた。


――私がずっと欲しかったのは、これだ。感情の保護ではない。責任の所在だ。



会議が終わり、廊下へ出た瞬間、ペイシェンスは一度だけ足を止めた。誰もいないと思った角で、ふっと肩の力を抜く。

カシウスがそばに来る。距離は、会議室より近い。


「……無理をしていないか」


そう尋ねる声が、彼には珍しく柔らかい。ペイシェンスはその声に、思わず笑みをこぼした。声が甘くなる。


「していません。むしろ、軽いくらいです」


「公爵令嬢は、いつもそう言う」


「……ペイシェンス、と呼びなさい」


カシウスが目を瞬かせる。彼女が会議室では見せなかった表情を、いまは見せている。甘えの輪郭がある。それを「甘え」と呼べるほど、これまで彼女は誰にも許さなかった。


「ペイシェンス」


呼ばれた瞬間、ペイシェンスの表情がほどけた。侍女が背後で硬直し、次いで、感動したように口元を押さえる。


「よろしい」


ペイシェンスは、それだけで満足そうだった。そして唐突に、カシウスの袖を摘んだ。指先だけ、ほんの僅か。だが、それは公爵令嬢が世界に対して下ろすはずのない盾を、彼の前でだけ下ろした証だった。


「私、少しだけ……あなたの側にいたい」


侍女が、息を呑む音を立てた。レイヴンハルト侯爵家の従者が、思わず視線を逸らす。周囲は驚く。驚くしかない。あの鉄壁の公爵令嬢が、そんな言葉を、そんな声で言うなど。


カシウスは一瞬、動けなかった。次に、ゆっくりと頷いた。


「もちろんだ」


それだけの言葉が、ペイシェンスには十分だった。彼女は袖を摘んだまま、ほんの少し、彼に近づく。


「あなたは……優しいのですね」


「私は優しいのではなく、合理的だ」


「では、合理的に――私を甘やかしなさい」


ペイシェンスが言うと、カシウスは苦笑した。だが拒まない。


「……努力しよう」


「ええ。期待しています」


その会話を、廊下の奥で偶然見ていた貴族がいた。彼は翌日の社交界でこう言った。


「公爵令嬢が、笑っていた。しかも、甘い声で命令していた」


誰も信じなかった。だが、噂は真実より速い。



数日後、王宮の夜会。シャンデリアの光が、宝石のように床に落ちる。音楽は優雅で、会話は軽く、笑いは薄い。社交界はいつも通り、誰かの失墜を甘く味わう準備をしていた。


彼らは期待していた。


婚約破棄された公爵令嬢が、憔悴し、暗いドレスで現れ、見下される姿を。


しかし現れたペイシェンスは、違った。


深い蒼のドレスは夜空のように落ち着き、銀糸の刺繍が控えめに星を散らす。背中は美しく、首筋は白く、歩みは堂々としている。何より――表情が柔らかい。


その柔らかさは、全員に向けられているわけではない。彼女の視線は、一点へ向かう。カシウスのいる方向へ。


カシウスが彼女の前に出る。手を差し出す。


ペイシェンスは迷いなく、その手に自分の指を重ねた。指先が触れた瞬間、彼女の表情がさらに甘くなる。周囲の令嬢たちが、言葉を失う。


「……信じられない」


「彼女が、あんな顔をするの?」


「レイヴンハルト侯爵令息、何をしたの」


囁きは波のように広がる。だがペイシェンスは、その波を恐れない。むしろ、彼の手を取って、少しだけ引き寄せた。


「今夜は、私の隣にいてください」


声が柔らかい。甘い。今までの彼女からは想像できないほど。


カシウスが微かに目を見開く。夜会の中心で、公爵令嬢が自分の意志で「近さ」を選んでいる。それは宣言に等しい。


「もちろん」


彼が答えた瞬間、ペイシェンスは満足そうに微笑み、腕を絡めた。周囲が硬直する。使用人がトレーを落としそうになり、侍従が慌てて立て直す。貴族の男たちが、息を呑む。


――あの公爵令嬢が、腕を絡める?


――しかも、自然に?


ペイシェンスは気づいている。周囲が驚いていることを。だからこそ、さらに一段甘くした。


「カシウス」


名前を呼ぶだけで、空気が震える。彼女の声が持つ威力が、方向を変えた。氷の刃ではなく、甘い鎖として。


カシウスは少しだけ苦笑し、低い声で言った。


「……周囲が見ている」


「見せているのです」


ペイシェンスは平然と言った。


「私があなたを選んだことを、曖昧にする理由がありません。あなたも、曖昧にされたくはないでしょう」


それは溺愛ではない、契約の言葉に見える。だが声は甘い。表情は柔らかい。ギャップが致命的だった。

カシウスが観念したように頷く。


「……その通りだ」


ペイシェンスは、そこで初めて、小さく笑った。誰も聞いたことがない笑い方だった。花がほころぶような、軽い笑い。


その光景を、遠くからアルベルトが見ていた。彼の隣にはセシリアがいる。だがアルベルトの目は、セシリアではなくペイシェンスに吸い寄せられている。


――あんな顔を、俺は見たことがない。


今さら気づく。冷たかったのではない。彼女が「自分に向ける価値がない」と判断していただけだ。


セシリアが気づき、微笑みの奥で歯を食いしばる。


「殿下……大丈夫ですか」


「……」


アルベルトは答えない。目が揺れている。揺れているのは、彼の「正義」だ。


夜会の中盤。ある伯爵令嬢が、勇気を振り絞るようにカシウスへ近づいた。噂の中心に触れたいのだろう。侯爵家の男と踊れば、社交界での価値が上がる。いつもの計算だ。


「カシウス様。次の曲、よろしければ――」


しかし伯爵令嬢の言葉は、途中で止まった。


なぜなら、ペイシェンスが一歩、前に出たからだ。表情は柔らかい。声も柔らかい。けれど、拒絶は絶対だった。


「ご用件は、私を通してください」


伯爵令嬢が硬直する。


「え……あ、あの……」


「今夜、彼は私の隣におります。お譲りする予定はありません」


言い方は丁寧だ。微笑みすらある。だが内容は「不可能」だ。


伯爵令嬢は、顔を赤くして下がった。周囲の令嬢が目を丸くする。


「あの公爵令嬢、嫉妬しているの?」


「嫉妬……というより、支配では?」


「でも、声が甘い……」


噂はさらに広がる。男たちが背筋を正す。ペイシェンスの独占欲は、激情ではなく秩序として現れる。だから誰も逆らえない。


カシウスが小声で言った。


「……少し、強い」


ペイシェンスは微笑んだ。


「強いのは当然です。あなたは価値が高い。価値が高いものを曖昧に扱うのは、損失です」


「恋の言葉とは思えない」


「私は恋を、損失で終わらせません」


その言葉が、妙に色気を帯びていた。合理性が、そのまま独占欲の肯定になる。カシウスは言葉を失い、ただ、彼女の指先を見た。彼の腕に絡む指が、ほんの少しだけ力を込めている。


ペイシェンスが、囁く。


「……逃げないでください」


その声は、驚くほど甘かった。


カシウスの背筋が微かに震える。彼は剣を握るより、今の方が難しいと思った。だが答えは簡単だった。


「逃げない」


「よろしい」


その一言で、ペイシェンスは満足する。まるで猫のように、少しだけ頬を寄せる。周囲の貴族が、目を疑う。


――公爵令嬢が、甘えている。


――あの氷の令嬢が。


それは夜会最大の事件だった。婚約破棄の噂など、もはや前菜に過ぎない。



翌日、王都の政務官たちは青ざめた。


北方からの報告が届いたのだ。凶作と寒波で、穀物の供給が不安定になっている。価格は上がり、暴動の火種が生まれつつある。王太子は混乱し、聖女は祈りを捧げ、貴族たちは寄進で名誉を買おうとする。


だが、必要なのは祈りではなく物流であり、寄進ではなく制度だった。


会議室に呼ばれたのは、結局、ペイシェンスだった。婚約は破棄された。だが国は彼女を手放せない。


国王が言う。


「ペイシェンス。力を貸してほしい」


ペイシェンスは、静かに笑った。冷たい笑みではない。あの日から、彼女の表情は確かに変わった。だが変わったのは、柔らかさだけではない。基準も変わった。


「条件を提示してよろしいでしょうか、陛下」


国王が頷く。


「……条件は」


「穀物流通の統制権限を、公爵家に委任。監査権を付与。さらに、供給確保のための緊急予算を、貴族の寄進ではなく、港湾税の一時転用で確保します」


反対の声が上がりかけたが、カシウスが一言で潰した。


「反対する方は、代案を。数字で」


誰も出せない。彼の声は穏やかだが、逃げ場がない。


ペイシェンスは、淡々と続ける。


「そして、レイヴンハルト侯爵家は物流の実行部隊として、港湾と街道の護衛を担ってください。あなたが動けば、誰も横流しできません」


カシウスが頷く。


「承知した」


二人の連携は、会議室の誰よりも速い。理解が前提にある。だから余計な確認がいらない。


会議後、廊下で侍従が小声で囁いた。


「公爵令嬢……いえ、ペイシェンス様は、相変わらず恐ろしい方だ」


別の侍女が、首を横に振った。


「いいえ。恐ろしいのは、彼女が“甘くなった”ことよ」


「甘く……?」


「ええ。あの方、レイヴンハルト様の前でだけ、溶けるの。溶けた上で、さらに強くなるのよ」


それは真実だった。



穀物危機は、三日で鎮められた。


港湾税の一時転用で緊急購入を行い、北方の貴族領から王都へ向かう街道を近衛と侯爵家の兵が守り、横流しの利権を狙った商会を監査権で締め上げる。市場への放出は段階的に行い、価格を崩しすぎず、飢えを防ぐ。


すべてが、現実の速度で進んだ。


貴族たちは気づく。王太子が「正義」を叫んでいる間に、国は崩れかけていた。支えていたのは、捨てられたはずの公爵令嬢と、その価値を理解した侯爵令息だった。


そして王都では、別の噂が同じ速度で広がっていた。


「公爵令嬢が、侯爵令息を溺愛している」


「溺愛どころではない。あれは支配と甘えが同時に存在している」


「でも、笑うのよ。あの方が」


「声が甘いの。反則よ」


噂は羨望を呼び、嫉妬を呼び、恐れを呼ぶ。だがペイシェンスは気にしない。彼女はもう、見せる相手を選んだ。


冬の夜。レイヴンハルト侯爵邸の一室。暖炉の火が揺れ、窓の外は雪が静かに降っている。


ペイシェンスは、ソファに座っていた。昼間の凛とした装いではない。柔らかな室内着。髪は少しほどかれ、肩に落ちている。侍女は下がり、部屋には二人きり。


カシウスが、書類束を置いて息を吐く。


「……ようやく、今日が終わった」


「お疲れさまです」


ペイシェンスは、そう言ってから、ほんの少し首を傾げた。


「カシウス」


呼び方が、すでに甘い。カシウスは微かに笑い、彼女の前に座った。


「どうした」


ペイシェンスは、少しだけ視線を伏せる。今まで見たことがない仕草だった。公爵令嬢が、人前で視線を伏せるのは弱さに見える。だから彼女はしなかった。だが今は違う。彼の前なら、弱さは損失ではない。


「……今日は、皆が驚いていました」


「何に」


「私が、あなたの袖を掴んだことに」


カシウスは一瞬、言葉を失い、それから小さく笑った。


「あれは……確かに驚くだろう」


「私は驚かせたいわけではありません」


「では、なぜ」


ペイシェンスは、ゆっくりと顔を上げた。青磁の瞳が揺れている。揺れが、そのまま甘さになる。


「私は、ずっと一人で立っていました。誰にも寄りかからないことで、国を守れると思っていました」


「……」


「でも、あなたがあの日、言ったでしょう。私が、万人を救うために誤解される役を引き受けていた、と」


カシウスが頷く。


「事実だ」


ペイシェンスは、微笑んだ。


「なら、もう誤解される必要はありません。私は、あなたに理解されました。理解されたなら、私は……あなたにだけは、甘くしていいと思ったのです」


言葉の端が、震えた。彼女が自分の感情を言語化するのは、剣を抜くよりも難しい。だが彼女は言った。合理的に、そして正直に。


カシウスは、しばらく黙って彼女を見た。そして、ゆっくりと手を伸ばし、ペイシェンスの指先に触れた。昼の社交では見せない、静かな触れ方。


「……甘くしてほしい」


ペイシェンスの瞳が、少し大きくなる。


「命令ではなく、お願いだ」


その瞬間、ペイシェンスの表情が崩れた。今まで見たことのない柔らかさが、彼女の顔全体に広がる。喜びを隠す努力を、彼女はしない。しなくていいと知ってしまった。


「よろしい」


彼女はそう言って、指先に力を込めた。カシウスの手を引く。自分の方へ。


「では、ここにいてください。私の隣に」


「いる」


「逃げないで」


「逃げない」


そのやり取りが、二人にとっての契約書だった。署名は、指先と声で済む。


ペイシェンスは、ふっと笑った。暖炉の火より温かい笑い。


「……私、こういうことを言うと、弱い女に見えるのでしょうか」


カシウスは首を横に振った。


「いいや。強いままだ。強いのに、甘い。それが……君の恐ろしさだ」


「恐ろしいのは嫌です」


「皆にとっては恐ろしい。だが、私にとっては――」


彼は言葉を探した。社交界の言葉ではなく、自分の言葉を。


「……救いだ」


ペイシェンスの睫毛が揺れた。彼女はその言葉を、胸の奥に丁寧にしまう。そして、少しだけ顔を寄せた。


「なら、あなたは私の救いです」


その声が、あまりにも甘くて、カシウスは息を止めた。公爵令嬢の口から出る「救い」は、軽いものではない。責任の重さを知る者が、誰かに預ける言葉だ。



彼は、彼女の額にそっと口づけた。慎重で、誓いのように。


ペイシェンスは目を閉じ、そして小さく言った。


「……好きです」


あまりに短い言葉。だが、彼女にとっては長い道のりの末の一言だった。


カシウスが、静かに答える。


「私もだ」


ペイシェンスは、その返事で満足し、彼の袖を掴む。昼間のように、指先だけ。だが今度は、離さない。



春が来る前に、王太子アルベルトは「失った価値」を完全に理解した。


財政は一時的に安定した。穀物危機も鎮まった。だがそれは王太子の功績ではない。彼の手から滑り落ちた公爵令嬢と、第三者の侯爵令息が築いた秩序だった。


アルベルトは、王宮の庭でペイシェンスに出会った。偶然を装った必然だ。彼女は一人ではない。カシウスが隣にいる。二人の距離は近い。近すぎる。しかも自然だ。


アルベルトは、喉の奥が焼けるような痛みを覚えた。


「ペイシェンス」


呼ぶ声が震える。王太子らしくない。ペイシェンスは振り向いた。表情は穏やかだ。冷たくない。だがそこに、自分の居場所はない。


「殿下」


それだけ。敬意はある。愛はない。


アルベルトは言うべき台詞を探した。後悔、謝罪、未練。だがどれも遅い。


「……私は、間違っていた」


ペイシェンスは、少しだけ首を傾げた。


「そうでしょうね」


その返答に、アルベルトは息を呑む。怒りではない。断罪ではない。淡々とした事実。自分が彼女にしたことを、同じように事実として返される。


カシウスが一歩前に出る。表情は穏やかだが、目が冷たい。


「殿下。今さら、彼女を揺らすことはできません」


アルベルトが叫びそうになるのを、ペイシェンスが止めた。止め方が、優しい。


「殿下。私は、もう十分です」


そして、カシウスを見上げる。そこにだけ、柔らかい甘さがある。


「帰りましょう」


その一言で、全てが決まる。アルベルトは理解する。自分は捨てたのではない。捨てられたのだ。いや、もっと正確に言うなら――選ばれなかったのだ。


ペイシェンスは、カシウスの袖を掴んだ。指先が、春の芽吹きみたいに柔らかい。


カシウスが、彼女の手を取る。今度は袖ではなく、手そのものを。


二人は歩き出す。背中は並び、距離は近い。そこにあるのは、依存ではない。理解と契約と、そして溺愛だ。溺愛は甘さであり、同時に秩序でもある。


庭の風が吹く。薄氷の季節は終わる。


そして王都は、ようやく知る。


氷の公爵令嬢は、溶けたのではない。


鍵を渡す相手を、選んだだけだ。



――それを捨てるなんて、とんでもない。



あの日の一言が、国も、彼女も、未来も変えた。

お読みいただきありがとうございました。


本作で一番書きたかったのは、「ざまぁ」の快感を怒鳴り声や暴力で出すのではなく、価値の言語化で成立させることでした。


感情に寄りかかった断罪は派手ですが、現実を見れば、捨てられるのは“人”ではなく“機能”であり、“信頼”であり、最後には“国の足腰”です。


だからカシウスは、救済者ではなく、単に「理解できる男」にしました。


理解するとは、優しい言葉を投げることではなく、責任を引き受けること。


そしてペイシェンスは、救われる側ではなく、最後まで“選ぶ側”でいてほしかった。


溺愛についても同じです。


弱くなるのではなく、強いまま柔らかくなる。


誰にでも甘くなるのではなく、理解して壊さない相手にだけ甘くなる。


その落差こそが、周囲を驚かせる溺愛の正体だと思っています。


もし続きがあるなら、二人が並び立ったまま「社交界の旧態依然とした価値観」や「聖女の扱い」「王太子の再教育」など、もう一段深い“現実”に踏み込ませたいところです。


また別の形でお会いできれば嬉しいです。

月白ふゆ

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