13.思い出のスケッチ
「クララ」「外」「行こう」
ニアの頭に乗った三人がクララの背に声をかけると、クララは振り向きもせず答えた。
「今日はそんな気分ではないわ。あなたたちだけで行って来て」
クララはビクターが帰って来てから、塞ぎこむことが増えた。領主の息子として議員として立派に仕事をこなすビクターと自分を比べてしまうのだ。
妻としてやるべきことを。期待されることを。やらなきゃ。やらなきゃ。
何も言わないクララの背から、そう聞こえてくる。
ロロ、ミミ、ススは悲しそうにその背に視線を投げかけた。ニアがクララの足元まで歩き、うずくまる。
クララは何かに急き立てられるように、ピアノやダンスの練習に打ち込み、文学作品を読み、絵画を学んでいる。招待を受けた社交の場にも全て参加していた。
クララの目の下にまた隈ができ始めている。顔色もくすんで、表情も消えてしまった。
今は必死にスケッチブックにデッサンを描いている。カリ、カリ、カリと乱暴な音が響いた。カーテンを閉め切り、窓際で丸まった背には影が出来ている。
足元で心配そうなロロ、ミミ、ススにも気づいていない。
ニアが欠伸をして、顎下を前足で掻いた。落ちそうになる三人を、クララが慌てて手のひらに乗せた。椅子から立ち上がった拍子に、鉛筆が床に落ちて転がる。
「ありがとう」「大丈夫」「いつものこと」
「そうなの」
鉛筆を拾い、また描き始めようとするクララを止める。
「天気良い」「アイデア」「外にある」
「アイデア…」
花瓶に挿した花束の絵はありふれた単純なスケッチだ。クララは、ふう、と息を漏らした。とてもじゃないが他の貴婦人たちに披露できる作品ではない。前回の社交では絵画の見せ合いがあり、奥行きや陰影を意識した令嬢たちの作品と比べると、気絶したくなった。
「そうね。少し疲れたわ」
「休む」「何もしない」「ぼおっとする」
何もしないでいると心が潰されそうになる。何かしないと、と頭がそればかり考えてしまうのだ。やっぱりデッサン道具を持っていこうかしら。
引き返そうとするクララを、ニアが頭を足に押し当てて邪魔した。前にいくぞ、という意思を感じる。
「にーあ!」
ニアに促され、身一つで部屋を出た。
高い生け垣は最初はあんなに好奇心を刺激されたのに、今日は全く心が動かなかった。木のアーチも、殆ど目に入っていない。ただニアの後ろを追うだけ。
部屋に戻りたくなったが、一人では道が分からず、諦めた。
木々が解けてできた穴を通ると、足元に赤、オレンジ、黄色の落ち葉がこれでもかと敷き詰められていた。カエデやオークの木が縦一列に並んで、クララたちに道を示している。奥に広がった道に、グラデーションの葉っぱ。
わあ!すごく芸術的!
クシュ、クシュと歩く度に音がする。いつもの固い地面とは全然違う。
あ、金木犀の香り。
甘い香りを辿ると、黄色の花が慎ましやかに咲いていた。家の近くにもあったな、と懐かしい香りを堪能する。
「クララ」「下」「綺麗」
先を行くニアの頭から声がする。ニアは立ち止まって、座り込み、三人は一斉に落ち葉の床に飛び降りた。
「ふぁさふぁさ」「楽しい」「ふっくら」
落ち葉遊びをする三人に、やっと追いつく。その先の道が途切れていて、眼下は崖だった。ずっと真下で葉を染めた木々が揺れている。視界が赤、オレンジ、黄色に埋め尽くされた。その木々に囲まれるように大きな湖がある。木々を映して、湖まで色づいていた。
風で色つきの落ち葉が空へと舞う。
すごい!
閉め切った部屋では絶対に思い浮かばない光景だ。
どこか物悲しいのに、それすら愛しい。ただただ見惚れた。
風が髪や頬を撫でて気持ちいい。
「クララ」「これ」「食べる」
「え?今日は食べ物なんて」
いつの間にか三人は葡萄を一粒ずつ持っていた。ニアが紫色の葡萄の房を咥えて、クララに差し出している。一体、どこから…。
食べ物への嗅覚がすごい。
「ありがとう」
クララは笑って受け取った。ニアはすぐさまどこかに駆けて行き、葡萄を咥えてまた戻ってきた。
ムシャン、ムシャン、と歯を立てている。
クララも一粒、房から取り外し、食べてみた。
「美味しい」
「「「美味しい」」」
三人が真似をする。葡萄は瑞々しくて、甘くて、少しだけ酸味がある。三人はまだ一粒を食べている。じゅりゅっと葡萄の汁を飲む音が聞こえた。
「美味しい」「ジュース」「恵み」
クララも葡萄の水分を目いっぱい味わった。
恵み、か。その通りだわ。
紫色の粒が光っている。皮を剥くと中から黄緑色の宝石が覗いた。はち切れそうに潤っている。喉が渇いていたので嬉しい。
喉を通る果汁は濃いのに、甘さが残らず、すっきりとしている。
ニアが見上げてくるので、余った葡萄を渡すと、ぺろりと食べてしまった。ご機嫌で落ち葉に寝そべる。蜻蛉がニアの鼻に止まって、くすぐったかったのか、ニアが「ブヘッ!」と豪快なくしゃみをした。
その勢いで蜻蛉が逃げていく。
「「「ブヘッ」」」
三人が笑い転げ、クララも笑う。ニアはお腹を上に向けて、そのまま寝入ってしまった。両手は万歳している。三人はニアの上に登り、同じように横になった。
ニアみたいに生きられたらいいのに。
クララも真似して寝ころんでみる。雲の動きが速い。あんなに青かった空が、ピンクがかり始めた。
「あれ、時間!」
「まだ」「心配ない」「起きちゃだめ」
上半身を起こしたクララを、また寝かせる。
「でも、空が」
「目を瞑る」「音を聞く」「風を感じる」
戸惑いながらも、言われた通り、目を閉じた。
ニアのふう、ふうという寝息。
シャーシャーという木々のざわめき。
しゃり、という落ち葉を踏みつける音。
その傍で「ちゅるり」という鳥の鳴き声がする。
びゅるっと風が強く吹いた。カシャシャシャと落ち葉が舞う音が耳元で聞こえる。
「何も考えない」「心からっぽ」「ニアみたいに」
何も考えない?
そうは言っても脳内は忙しい。
時間は大丈夫なの?木の葉の音が気持ちいい、ビクターは遅いかも、こんなことをしていていいの?相応しくない、エルザが、ドレスを、スケッチは、令嬢なら、できない、ダメ、役立たず…
何をしていても、いつも頭で自分を責める声が沸き出してくる。
ダメダメ。何も考えない。
何も考えない、何も考えない、何も考えない…
今度は呪文のようにその言葉が繰り返される。
何も考えないなんて、無理だわ。ニアって、すごいのね。
無意識に眉根を寄せたクララに、ロロ、ミミ、ススが歌うように話す。
「息吸ってー」「吐いてー」「それだけ」
それだけ?
息を吸う。息を吐く。そんなこと今まで意識をしたことがなかった。
ゆっくりと、ただ呼吸する。冷たい空気が鼻を通った。風で揺れた木の葉が手を撫でる。
なぜか落ち着いてきた。
「エルザが、ドレスを、スケッチは、令嬢なら、できない、ダメ、役立たず…」
「令嬢なら、できない、ダメ、役立たず…」
「ダメ、役立たず…」
「役立たず…」
「…………」
脳内の言葉が薄れていく。
何も言わず、何も見ず、何も考えず、何も思わず。
ただ秋の風が心地よかった。
顔に影ができ、目を開ける。いつまでそうしていたのか、三人を頭に乗せたニアがクララを見下ろしていた。
ガバッと上半身を起こす。
「しまった!」
恐いくらいに空が真っ赤だ。あんなに色づいていた木々たちが存在感を消している。眼下の湖と同じくらい大きな夕日が、陽炎のように揺れながら閃光を放っている。立ち上がって眼下を見下ろすと、湖に夕日の光でできた一本線が映っていた。
「きれい」
そして幻想的だ。あんなに主役だった木々たちが、息を潜めるくらいに。
夕日がクララの顔を照らした。キラキラとした風が髪を揺らす。まるで夕日の一部になった気分。
眩しさに目を細めて、夕日を浴びながら帰った。
驚いたことに、木のアーチを抜けるとまだ太陽が高かった。
夕日とは違う光に、手で光を遮る。
「お帰りなさい、早かったですね」とアンが出迎えてくれるのを、信じられない気持ちで聞いた。
さっそく描いたスケッチは渾身の出来で、疲れて眠り込んだ三人と一匹との思い出とともに、キラキラしていた。




