愛する彼女
雨が静かに降っていた。東京の片隅、雑居ビルの屋上に続く錆びた階段を登りながら、私は傘も差さず、濡れた髪をそのままにしていた。彼女はそこにいる。いつもと同じように、煙草をくわえ、街の光を眺めているだろう。彼女の名は凛。初めて会ったとき、彼女のあまりのストレートさに私はたじろいだ。
「ねえ、あんた、なんでそんな暗い顔してんの? 死にたいならさっさと死ねばいいじゃん。邪魔くさいから」
初対面でそう言われた。カフェのカウンターで、注文を待つ間にぼんやりしていた私に、彼女は唐突に話しかけてきたのだ。怒る気にもなれず、ただ呆然とした。彼女の瞳は、まるで夜の海のように深く、鋭かった。そこに宿る何かは、私の心を掴んで離さなかった。
それから何度か、同じカフェで顔を合わせるようになった。彼女はいつも一人で、窓際の席で本を読み、時折、店員に無茶な注文を突きつけては笑っていた。わがままで、頑固で、まるで子供のようだった。でも、彼女のそんな態度に、私はいつの間にか惹かれていた。
「凛、なんでそんなこと言うの?」
ある日、思い切って聞いてみた。彼女は煙草の煙を吐きながら、ふっと笑った。
「知ってるよ。あんた、私のこと好きでしょ?」
その言葉に、心臓が跳ねた。彼女はいつもそうやって、私の心を暴く。隠したい気持ちも、隠せない気持ちも、全部見透かされている気がした。
「愛してるよ、凛」
初めてそう口にしたのは、冬の夜だった。雪がちらつく路地裏で、彼女のコートの裾を握りながら、震える声で言った。彼女は振り返り、いつものように少しだけ嘲るような笑みを浮かべた。
「知ってる」
それが彼女の答えだった。いつもと同じ、短くて、どこか冷たくて、でもどこか温かい。彼女の言葉は、いつも私の心を揺さぶった。
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凛には、私にだけ見せる顔があった。誰もいない屋上で、彼女は時折、子どものように泣いた。仕事のプレッシャーや、家族との確執、未来への不安。そんな話をぽつぽつとこぼす彼女の声は、普段の強気な口調とは別人のように脆かった。
「私、ダメなやつだよ。こんなんじゃ、誰にも愛されない」
そんなことを言う彼女を、私はただ抱きしめた。彼女の弱さは、私だけのものだった。そう信じたかった。
でも、凛の強さもまた、私を惹きつけてやまなかった。どんな困難にも立ち向かう彼女の姿は、まるで一本の槍のようだった。ある日、彼女が勤める小さな編集プロダクションが倒産の危機に瀕したとき、彼女は徹夜で企画書を書き上げ、クライアントを説得し、会社を救った。その姿を見たとき、私は思わず呟いていた。
「凛、ほんとにすごいよ」
彼女は疲れ切った顔で笑い、言った。
「知ってる」
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それから二年が過ぎた。凛は相変わらずだった。わがままで、頑固で、ストレートで。でも、私はそんな彼女を愛していた。いや、愛している。
ある夜、いつもの屋上で、彼女は突然言った。
「なあ、来世って信じる?」
「急にどうしたの?」
「もし来世があるならさ、私、あんたのこと、独占したいな」
彼女の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。私は笑って答えた。
「じゃあ、私も。凛の弱さも、強さも、全部独占させてよね」
彼女は一瞬、目を細めて私を見た。そして、いつものように言った。
「知ってる」
雨がやみ、空には星が瞬いていた。私たちは肩を並べ、言葉もなく夜を眺めた。来世なんて、ほんとうにあるのだろうか。もしあるなら、彼女とまた出会いたい。そして、今度こそ、彼女の「知ってる」以外の答えを、聞きたいと思った。




