第18話 敵の懐
その夜、俊は完成した「小麦の販路開拓案」を携え、ヴァロワ侯爵の書斎を訪れていた。
「……ほう。これが、シュンの考えた『新たな販路』か」
侯爵は、分厚い羊皮紙の束を受け取ると、値踏みするように俊を一瞥し、それからゆっくりと報告書に目を落とした。
書斎には、蝋燭の燃える音と、羊皮紙をめくる乾いた音だけが響く。ティアは、俊の後ろに侍女として控え、生唾を飲むのを必死でこらえていた。
初めは退屈そうに読んでいた侯爵の目が、ページが進むにつれて、徐々に見開かれていく。
「……馬鹿な。このルートは、わしと取引しているあの連中ですら手を出なかったはずだ。警備が厳重すぎる……。……なに? 警備隊の交代の『隙間』を狙うだと? ……この港は! まさか、宰相閣下の息がかかった連中を、こうやって買収すると……?」
侯爵の喉が、ゴクリと鳴った。
そこに書かれていたのは、アヴァロンの鎖国体制を根底から揺るガす、完璧な「密貿易」の計画書だった。
警備ルートの分析、買収すべき役人のリスト、利益の試算、そして取引相手や宰相の目さえも欺き、不正な利益を正当なものに見せかけるための方法まで。
そのどれもが、俊がこの屋敷で得た限られた情報と、前世のマーケティング・ロジスティクスの知識を組み合わせて導き出した、恐ろしく緻密で、悪魔的なシナリオだった。
「……素晴らしい」
最後のページを読み終えた侯爵は、恍惚とした表情で呟いた。その目は、報告書ではなく、目の前の「シュン・ベルク」という男に注がれている。
「シュン。貴殿は……わしの想像を遥かに超える『知恵』を持っているようだ。これさえあれば、わしは……いや、我がドールは、王都の連中やあの連中の言いなりにならずとも……!」
侯爵は、自らの野心が実現する未来を幻視し、興奮に打ち震えていた。それは、俊の「餌」に完璧に食いついた瞬間だった。
俊は、その熱が冷めやらぬうちに、本題を切り出した。
「恐れ入ります、侯爵様。ですが、この計画には一つ、大きな穴があります」
「……穴、だと?」
侯爵の顔から、興奮がわずかに引いた。
「はい。それは『警備』です。特に、砦と、この屋敷周辺の。計画がいかに緻密でも、足元から情報が漏れては意味がありません」
「……ふむ。確かに、その通りだ」
「そこで、お願いがございます」
俊は、恭しく頭を下げた。
「以前拝見した書類などから、警備責任者の方はバルツ殿だと記憶しております。この計画の精度を上げるため、バルツ殿にいくつか確認させていただきたい点がございます。……もしよろしければ、次回の警備報告の折にでも、私も同席させていただくわけにはまいりませんか」
「……何?」
侯爵の目が、再び鋭くなった。客人が、それも軍事に関する衛兵隊長の定例報告に同席するなど、前代未聞だったからだ。
「……シュン。それは、どういう意図かな?」
値踏みするような視線が、俊を射抜く。
俊は、顔を上げると、完璧な「客人」の笑みを浮かべた。
「この計画書は、まだ机上の空論に過ぎません。バルツ隊長の『現場の感覚』を直接伺い、計画の精度を上げたいのです。例えば、この計画書で私が提案した『密輸品の搬入時刻』が、実際の警備状況から見て本当に安全、つまり手薄なのか、といった点を」
それは、侯爵の利益のため、計画をより完璧にするためだという、非の打ち所のない理由だった。
「……なるほど」
侯爵は、満足そうに頷いた。この男は、ただ夢を語るだけでなく、その実現のためにどこまでも現実的なのだと、改めて感心した。
「……ふむ。バルツの定例報告は、ちょうど明日の昼食後だ。よかろう。貴殿の同席を許可する。バルツにも、貴殿がわしの『経済顧問』のようなものだと、あらかじめ言い含めておこう」
「はっ。ありがたき幸せ」
俊は、ティアと共に書斎を下がった。
扉が閉まる直前、ティアが見た侯爵は、手に入れた「悪どい計画書」を眺め、ほくそ笑んでいた。
自室に戻った瞬間、ティアは崩れるように壁に手をついた。
「……はぁ……。心臓が、止まるかと思った……」
「お疲れ、ティア。だが、最大の山場は明日だ」
俊は、書斎での恭しい態度とは打って変わって、冷徹な現実主義者の顔に戻っていた。
「舞台は整った。侯爵は、俺の『知恵』が生み出す『利益』に夢中になっている。あの計画書に夢中である限り、彼は俺たちの行動を『すべて自分の利益のため』と、都合よく解釈してくれるだろう」
「……でも、本当に大丈夫なのかな。明日、バルツ隊長を目の前にして、俊さんはどうやって……? 侯爵様、とっても鋭い方だよ。変なことをしたら、絶対に……」
「ああ、お前の言う通りだ」
俊は、ティアの懸念を即座に肯定した。
「あの老獪な侯爵の前で、隠語や脅しめいたセリフを口にすることほど愚かな手はない。必ず見抜かれる」
「……じゃあ、どうするの?」
「俺は明日、侯爵とバルツの前で、この『計画書』について堂々と議論する。もちろん、すべて侯爵の利益を最大化するための、完璧な『経済顧問』としてだ。……そして、議論の途中で、こう言うんだ」
俊は、冷ややかに告げた。
「『侯爵様。この計画の警備ルートについて、バルツ隊長に直接ご確認いただきたい補足資料がございます』……と」
「……補足資料?」
「そうだ。侯爵にもあらかじめ『警備に関する、より詳細な資料です』と説明しておく。侯爵は、俺がバルツと打ち合わせをするための資料だとしか思わない」
俊は、ティアが集めてきた「定性情報」のメモ……その中にある「バルツがオールド・バレルという酒場に魔石を横流ししている」という『噂』が書かれた箇所を指差した。
「俺は、その『補足資料』の表紙の裏に、ごく小さな羊皮紙の切れ端を貼り付けておく。そこには、こう書く。『“オールド・バレル”の件』と。」
「……!」
ティアは息を呑んだ。
「俺がその『補足資料』の束をバルツに手渡し、バルツがその表紙を開いた瞬間、どうなる?……バルツは凍りつくだろう。『この男は、俺の不正のすべてを知っている』と」
「……そ、それなら、侯爵様に気づかれずに……!」
「ああ。バルツは、侯爵の手前、動揺もできず、俺にそれを問い詰めることもできない。完全に『詰む』。その上で、俺はこう言うんだ。『この警備の詳細については、また後ほど、隊長と“二人きり”で詰めさせていただきたい』と」
俊は、冷徹な目で続けた。
「バルツは、俺が『侯爵にばらす気はなく、取引(脅迫)する気だ』と理解するだろう。そして、俺からの『二人きり』の呼び出しに応じざるを得なくなる」
それは、老獪な侯爵の警戒心を完璧にすり抜け、ターゲットであるバルツの喉元にだけ、静かに刃を突き立てる緻密な作戦だった。
***
翌日。屋敷の空気は、いつもと何も変わらなかった。
だが、俊とティア、そして事情を知るアンナの三人だけが、肌がピリピリするような極度の緊張の中にいた。
昼食の時間が、永遠のように長く感じられた。
食事が終わると、侯爵の執事が現れ、俊を呼びに来た。
「シュン様、旦那様がお呼びです」
「……ああ、わかった」
俊は立ち上がり、ティアとアンナに目配せをした。
(……作戦開始だ)
侯爵の書斎。
重厚な扉を開けると、そこにはすでにヴァロワ侯爵がゆったりと椅子に腰かけていた。
「来たか、シュン。まあ、そこに座られよ」
「はっ」
俊が指定された席につくと、ほぼ同時に、扉がノックされた。
「侯爵様、バルツです。警備状況の定例報告に参りました」
「うむ、入れ」
重々しい足音と共に、屈強な体つきの、いかつい顔の男が入ってきた。衛兵隊長、バルツその人だ。
バルツは書斎に入り、まず侯爵に敬礼した。そして、当然のように書斎に座っている見慣れぬ男(俊)の姿を見て、わずかに眉をひそめた。
「……侯爵様、こちらは?」
「ああ、客人のシュン・ベルク、わしの『経済顧問』のようなものだ。……今日の報告は、シュンも同席される」
「……はっ」
バルツは、納得がいかないという表情を隠しもせず、硬い声で返事をした。
その時、再び扉がノックされ、ティアとアンナが、銀盆にティーセットを乗せて入室した。
「侯爵様、食後のお茶をお持ちいたしました」
ティアの緊張を隠した、完璧な侍女の声だった。 二人が手際よく茶を準備する。
「うむ。……アンナ、お前はティアが粗相をしないよう、壁際で控えていろ」
「……! は、はい!」
侯爵の指示に、アンナが緊張した声を上げた。
バルツ、侯爵、俊、そしてティアとアンナ。
運命の舞台に、役者が全員、揃った。
侯爵が、カップに口をつけ、芝居がかったように口を開いた。
「さて、バルツ。今週の報告を聞こうか」
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