第18話 敵の懐
「……侯爵様を、立ち会わせる?」
ティアは、俊の言葉の意味が理解できず、オウム返しに呟いた。その声は、不安と混乱でかすかに震えている。
敵の懐の、さらにその中心。監視されているこの屋敷の中で、敵の衛兵隊長の「弱み」を突きつけ、交渉する。
それだけでも普通ではない。だというのに、その現場に、自分たちを生かすも殺すもできる力を持つヴァロワ侯爵本人を、あえて呼ぶという。
あまりにも危険すぎる。まるで、虎の口の中に自ら頭を差し出すような行為に思えた。
「……正気なの、俊さん? もし、もしも交渉が失敗したら……? バルツ隊長が逆上して、侯爵様に『この男は私を脅迫してきた』と叫んだら、その瞬間、私たちは……!」
最悪の光景がティアの脳裏をよぎる。侯爵の冷たい目が、衛兵たちに合図を送り、自分と俊が血祭りにあげられる。そんな未来が、すぐそこにあるように感じられた。
「ああ、首が飛ぶだろうな」
俊は、ティアの恐怖をあっさりと肯定した。その冷徹な横顔に、ティアは息を呑む。彼は、自分たちが置かれた状況の危険性を、誰よりも正確に理解している。その上で、あえてこの道を選ぼうとしていた。
「だがティア、逆だ」
「……逆?」
「侯爵がいるからこそ、バルツは『叫べない』んだ」
俊は、床に広げた羊皮紙の一枚、バルツに関する記述がされたそれを、指先でなぞった。
「考えてみろ。バルツにとって一番恐ろしいのは、俺たち『謎の客人』に脅されることじゃない。雇い主であり、このドールの絶対的な支配者であるヴァロワ侯爵に、自分の不正がバレることだ。侯爵の目の前で『脅迫された』と叫べば、侯爵は当然こう聞くだろう。『何の脅迫だ?』と。その瞬間、バルツは自分の不正を自らばらすことになる」
「あ……」
「侯爵の目の前で、俺はバルツの『弱み』を、やつ本人にしか分からない『合図』で伝える。バルツは、俺がどこまで知っているのか、そして侯爵がどこまで知っているのか、その恐怖の中で極度に混乱する。……そこが、交渉のテーブルだ」
それは、あまりにも危険な綱渡りであり、常人には思いつきもしない、恐るべき心理戦の設計図だった。俊は、この状況でしか生み出せない「力学」――侯爵という絶対的な権力を「交渉の場を安定させるための重し」として利用しようとしていたのだ。
「侯爵は、俺の『知恵』が農作や経済だけだと思っている。だが、俺がやってきた『経営アドバイザー』の仕事の本質は、分析と戦略……そして、それを実行に移すための『最適解』を見つけ出すことだ。ヴェリディアでやってきたことと、何も変わらない」
俊は、床に広げられたティアの報告書…彼女がドールの人々から集めた、膨大な定性情報が記された羊皮紙を指差した。
「侯爵に、俺の本当の価値を理解させる。この『情報の海』から、敵の弱点を正確に抜き出し、最小限のリスクで内部から切り崩す……。その『技術』こそが、彼が喉から手が出るほど欲しがる『力』だと、骨の髄まで理解させるんだ」
ヴァロワ侯爵を、単なる監視者から、「共犯者」あるいは「支援者」へと変えさせる。
それが、王都からの救援が望めない今、この鳥籠の中から、あの恐るべき「魔石銃」が隠された砦を制圧する、唯一の道だった。
俊の揺ぎない瞳に、ティアの心の動揺が、ゆっくりと収まっていく。
(……そうだ。この人は、いつだってそうだった)
コルネ亭の時も、フォルクナー商会の時も、絶望的な状況の「本質」を見抜き、誰も思いつかない一手を打ってきた。そしてその根底には、いつだって、地道な「情報収集」と「分析」があった。
「……わかったわ、俊さん。私、アンナにもう一度、頼んでみる」
ティアは、強く頷いた。彼女の表情から、先ほどまでの怯えは消えていた。
だが、その決意とは裏腹に、彼女の心にはまだ一つの大きなためらいが残っていた。
「……でも、アンナは……」
「ああ。頼む。だが、絶対に無理はさせるな」
ティアの懸念を先読みしたかのように、俊が静かに告げた。
「アンナに危険が及ぶと判断したら、即座に引け。……彼女の兄が、王都に俺たちの密書を届けてくれた『借り』がある。彼女は、俺たちの命綱であると同時に、俺たちが守るべき『ドールの民』そのものだ。それを忘れるな」
「……うん。わかってる」
俊のその言葉が、ティアの最後の迷いを断ち切った。アンナを守るためにも、この戦いに勝たなければならない。
ティアは静かに部屋を出て、侍女たちの控室へと向かった。
それから、半日が過ぎた。
俊は、侯爵に「テスト」として課されていた「ドール産小麦の新たな販路開拓案」の報告書を、書斎で淡々と作成していた。
その内容は、アヴァロンの鎖国(表向きは禁じられている)を破り、隣国との「密貿易」によって侯爵個人の私腹を肥やすという、彼の野心を的確に刺激する、非常に緻Cで、そして悪どい計画だった。
そこには、どの警備ルートが手薄か、どの港を使えば『鉄の鎖』の(そして宰相の)目をごまかせるか、そして、それによって得られる莫大な利益が、いかにして侯爵「個人」のものになるか、というシナリオが、前世のマーケティング資料さながらに、緻密な計算と予測で書き連ねられていた。
侯爵の信頼を勝ち取り、彼を「交渉」のテーブルにつかせるための、俊が仕掛けた「餌」だった。
俊が「客人」としての役割を完璧に演じている中、夕刻、ティアが戻ってきた。
彼女は、俊の部屋に入るなり、緊張した面持ちで小さく頷いた。その目には、安堵と興奮が混じっていた。
「……アンナが、突き止めてくれた。バルツ隊長は、明日、週に一度の『屋敷周辺の警備状況』の直接報告のために、侯爵様のもとを訪れるそうよ。時間は、昼食の後」
ティアは、アンナがどうやってその情報を掴んだのかを簡潔に報告した。
侍女たちの休憩時間、バルツ隊長に気があるふりをしている同僚の侍女との会話。その中で、アンナが「隊長は明日もいらっしゃるの?」と、それとなく話題を振り、屋敷を訪れる正確な日時を聞き出したのだという。
「……アンナ、すごいわ。私、見ていてハラハラしたけど、本当に自然だった」
「……そうか。彼女に、とんでもない才能があるのか、それとも、俺たちの状況がそうさせているのか……」
俊は、アンナという一人の侍女が持つ潜在能力と、彼女をそこまで追い込んだ侯爵の圧政に、静かな怒りを覚えた。
「……明日か。上出来だ」
俊は、ペンを置いた。
勝負の時は、思ったよりも早く来た。
「ティア、お前は明日の昼、アンナと共に、侯爵の書斎に『食後の茶』を運ぶ段取りを整えろ。俺も、その時間に『報告書』を提出しに行く」
「……うん!」
「そして、お茶を運んできたお前とアンナは、侯爵の許可を得て、その場に残れ」
「えっ……? 私たちも?」
ティアは驚きに目を見開いた。俊一人の交渉の場だと思っていたからだ。
「ああ。バルツは、侯爵のほかに『部外者』、それも『女子供』がいれば、さらに油断するだろう。……そして何より、ティア」
俊は、ティアの目を真っ直ぐに見据えた。
「お前がアンナと集めた『情報』が、どれほどの『力』を持っていたか。お前が、この戦いの中心にいるんだということを、その目で、しっかりと見届けるんだ」
それは、ただの「雑用係の妹」としてではない。俊の唯一の「弟子」として、この交渉の行方を見届ける『証人』になれ、という厳命だった。
「……はい」
ティアは、ゴクリと唾を飲んだ。彼女の集めた情報が、今、アヴァロンの未来を左右する「武器」になろうとしていた。
俊は、完成したばかりの「小麦の販路開拓案」…その悪どい報告書を手に、静かに立ち上がった。
「さて。……明日の『交渉』の舞台を、侯爵にセッティングしてもらうとしようか」
すべては、このドールの地で、『影』を作り出すために。俊の、あまりにも無謀な賭けが、始まろうとしていた。
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