第18話 敵の懐
ヴァロワ侯爵の屋敷での「軟禁」生活が始まってから、数週間が過ぎた。俊とティアに与えられた『客室』は、王城の一室と見紛うほどに豪華だったが、その扉の外には常に二人の屈強な衛兵が立ち、窓の外には侯爵の私兵たちが絶えず目を光らせていた。
「……まるで、鳥籠の中の鳥だね」
ティアは、窓から見える美しい庭園を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「ああ。だが、今はそれでいい」
俊は、侯爵から「自由に読むがいい」と与えられた、膨大な書斎の蔵書を、驚異的な集中力で読み解いていた。
「この屋敷は、敵の『巣穴』そのものだ。ここにいれば、いずれ必ず奴らの尻尾を掴むことができる。今は、この『客人』という立場を、最大限に利用させてもらうさ」
俊は、侯爵から与えられた最初の「テスト」…天候不順を理由にした収穫量の減少問題を、土壌の枯渇と土地を休ませるという完璧なレポートで切り抜けていた。その結果、侯爵は俊の『知恵』に一定の価値を見出し、彼を自室に呼び出す回数が日に日に増えていった。
「……シュン・ベルク。お前の『土地を休ませる』とかいう農法、部下に調査させてみたが、実に面白い理論だな」
その日の午後も、俊は侯爵の書斎に呼び出されていた。侯爵は、上機嫌な様子で、指先に嵌めた高価な指輪をもてあそんでいる。
「まさか、土地を休ませることで、次の収穫が倍以上になるとはな。……どこで得た知識かは知らんが、お前の知恵は金になる」
「お役に立てて、光栄です」
俊は、書記官として、完璧な笑みを浮かべて頭を下げた。
「そこで、お前に次の『仕事』をやろう」
侯爵は、一枚の新しい羊皮紙を俊に差し出した。
「アイゼンブルクだ。例の、国王陛下との取引で、あの街の鉱夫どもが、最近妙に活気づいているらしい。……気に食わんな」
その言葉に、俊の心臓が、かすかに高鳴った。
「あの街の『熱』を、陛下に気づかれぬよう、静かに冷ましてやりたい。何か、いい『知恵』はないかね?」
それは、俊の忠誠心を試す、第二の「テスト」だった。
俊は、一瞬だけ思考を巡らせた。
(下手に国王を庇えば、即座に命はない。だが、ここでリヒター男爵や宰相の利益になるような単純な策を提示しても、コイツは満足しないだろう。俺が試されているのは『忠誠心』じゃない。『俺の知恵が、コイツを勝者にできるかどうか』だ。……ここは、国王側にも宰相側にもよらない、侯爵自身の利益を最大化する案を出さねば…)
「……侯爵様。アイゼンブルクの熱狂は、放っておけばよろしいかと」
「何?」
「彼らの熱狂の原因は、ただ一つ。国王陛下が、買い取り価格を三倍にしたからです。その熱を無理に冷まそうとすれば、民衆の不満は、陛下ではなく、直接の領主であるリヒター男爵…ひいては、宰相閣下へと向かうでしょう。それは、侯爵様のお望みではないはず」
「……続けろ」
侯爵の目が、鋭く光る。
「むしろ、逆です」
俊は、悪魔的な提案を口にした。
「その熱狂を、利用するのです。アイゼンブルクが国王派の『手柄』として持て囃されるのであれば、侯爵様は、この『ドール』を、ご自身の『手柄』として、作り替えればいいのでは?」
「……どういうことだ?」
「アイゼンブルクが三倍の利益を上げたというのなら、侯爵様は、このドールの農民たちの税を、一時的に半分に引き下げるのです。それくらいなら、侯爵様が例の『砦』で得ておられる莫大な利益を、ほんの少し還元するだけで、十分お釣りがくるのでは?」
「……!」
「『国王陛下は、鉱夫たちを豊かにした。だが、我らがヴァロワ侯爵様は、我々農民の税を、半分にしてくださった!』……民衆とは、常に目先の利益に弱いもの。彼らは、より多くの恩恵を与えてくれる領主を、真の英雄として崇めるでしょう。そうなれば、王都での、あなたの発言力は、宰相閣下やリヒター男爵のそれを、遥かに凌駕することになります」
それは、宰相派と国王派の対立の中に、巧妙な楔を打ち込む、恐るべき策だった。侯爵は、しばらくの間、無言で俊を見つめていたが、やがて、喉の奥で、くつくつと笑い声を漏らし始めた。
「……面白い! 実に、面白いぞ、シュン・ベルク! お前は、俺の想像以上に使える!」
侯爵は、俊の策を、即座に採用することを決めた。
一方、その頃。ティアもまた、自らの戦場で、静かに戦果を上げていた。
「雑用係の妹」として、屋敷の侍女たちとすっかり打ち解けた彼女は、厨房での井戸端会議に紛れ込み、重要な情報を巧みに引き出していたのだ。
彼女が特に親しくなったのは、アンナという名の、口数の少ない若い侍女だった。アンナは、このドールの街の出身ではなく、侯爵の圧政によって土地を奪われた、小さな村の生き残りだった。
彼女は、家族の借金のカタとして、この屋敷で働かされていることに、深い絶望と、領主への隠しきれない憎しみを抱いていた。ティアは、自らの境遇(辺境の村で家族を失ったという偽の設定)を打ち明け、アンナの境遇に深く共感した。
人の痛みに寄り添う彼女の純粋な優しさは、心を閉ざしていたアンナの警戒心を、少しずつ解かしていった。二人の間には、危険な秘密を共有できるだけの、脆く、しかし確かな信頼関係が生まれ始めていた。
「ねえ、聞いた? また、あの『黒い蛇』の馬車が、砦に来るそうよ」
ある日の午後、アンナは、周りに人がいないことを確認すると、ティアにだけ、そっと囁いた。
「まあ、恐ろしい。あそこには、あのヴェリディアから来たっていう、いかにも裏がありそうな商人も出入りしているらしいじゃない」
「そうなのよ! しかも、執事様がその商人と、小麦とは別に、何か『宰相閣下へのお届けもの』について、こっそり話しているのを聞いた子がいるらしいわよ。なんでも、小麦以上に『ヤバい』ものだとか……」
もっと、ヤバいもの。 ティアは、アンナという得難い『協力者』から得たその重要な言葉を、決して聞き逃さなかった。
その夜。屋敷に戻った俊に、ティアは侍女たちから聞いた情報と、そしてアンナという侍女について、詳細に報告した。
「……小麦だけじゃない、か。そして、アンナ」
俊の目が、鋭く光る。
「……ティア、ありがとう。これ以上ない成果だ。侯爵は、俺の知恵を試すことに、夢中になっている。この隙に、俺たちは、奴らの本当の『心臓』を、掴み出す」
問題は、どうやって、この厳重に監視された屋敷から、王都のライオネルたちに、この決定的な情報を伝えるか、だった。
「……アンナに、頼んでみる」
ティアが、覚悟を決めた目で言った。
「彼女のお兄さんが、王都に野菜を運ぶ仕事をしていて、明後日、この屋敷に来るそうなの。その荷に、こっそり紛れ込ませることは、できるかもしれない」
「……危険じゃないか?」
俊は、一瞬ためらった。だが、これ以外に、道はなかった。
俊は、筆を手に取ると、ライオネルへの、次なる密書を書き始めた。それは、アルフォンスたち『チーム・アヴァロン』に対する、新たな、そしてあまりにも危険な指令だった。
『……砦の、見取り図を手に入れろ』と。
影の軍師は、虎穴の、さらに奥深くへと、その歩を進めようとしていた。
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