第18話 敵の懐
アルフォンスたちが王都へ向かう馬車を見送った後、俊とティアはヴァロワ侯爵の衛兵に「護衛」され、あの古い砦から、街の中心にそびえる侯爵の屋敷へと移された。彼らに与えられたのは、王城の一室と見紛うほどに豪華な、しかし窓には鉄格子がはめられた「客室」だった。
「……これから、どうなっちゃうんだろうね、俊さん」
ティアは、不安を隠しきれない声で、部屋の隅に置かれた天蓋付きのベッドを見つめた。
俊は、物色していた書棚から顔を上げ、彼女の不安げな瞳をまっすぐに見つめた。
「……すまない、ティア。俺のせいで、君をこんな危険な目に巻き込んでしまった」
「ううん」
ティアは小さく首を振った。
「私が、自分で選んでついてきたんだよ。だから、俊さんが謝ることじゃない」
「……そうか」
俊は短く言うと、再び書棚に目を戻した。その声には、いつもの冷静さが戻っていた。
「俺たちは、人質であると同時に、侯爵にとっては『利用価値』のある駒でもある。彼が俺たちを生かしておくという『利益』が、殺すという『リスク』を上回っている限り、俺たちの安全は保証される。だから心配するな」
その声には、彼女を安心させようとする、不思議なほどの冷静さが宿っていた。
(……むしろ、ここからが本番だ。敵の懐のど真ん中で、どれだけの情報を抜き取れるか)
その頃、王都へと帰還したアルフォンスは、休む間もなく王城へと参内し、ライオネルに俊から託された密書を手渡していた。書斎で一人、その密書に目を通したライオネルの顔は、みるみるうちに怒りと苦悩に染まっていった。
「……あの馬鹿者が!」
ライオネルは、拳で机を強く叩いた。
「自ら人質だと!? 俺の、この国の王の軍師が、敵の懐に飛び込むなどと……! 今すぐ近衛騎士団を総動員して、ヴァロワの屋敷なんぞ、踏み潰してくれる!」
「お待ちください、陛下!」
アルフォンスが、慌てて王を諌める。
「それこそが、シュン殿が最も恐れていた事態です! 我々が動けば、シュン殿とティアさんの命はありません。そして何より、宰相派に『国王が中立派の侯爵を不当に攻撃した』という、内乱の口実を与えることになってしまいます!」
「……!」
ライオネルは、悔しさに顔を歪め、大きく息を吐いた。アルフォンスの言う通りだった。俊は、その全てを分かった上で、自らの身を犠牲にして、王である自分に『動くな』という、最も過酷な選択を突きつけてきたのだ。
「……密書には、他に何と?」
「はっ。シュン殿は、こうも記していました。『敵の狙いは、我々の計画を頓挫させることにある。ならば、我々は立ち止まってはならない』と。……陛下、シュン殿は、我々に『第零段階』の続行を託されたのです」
ライオネルは、アルフォンスが持ち帰った、もう一つの報告書…アイゼンブルクの再生に沸き立つ、中立派貴族たちの反応が記されたリストに、目を落とした。
(……そうだ。俺が今やるべきことは、感情に任せて剣を抜くことじゃない。あいつが命懸けで稼いでくれたこの時間を、一秒たりとも無駄にしないことだ)
ライオネルの目に、王としての冷徹な光が戻った。
「アルフォンス。次の視察団を編成するぞ。アイゼンブルクの成功という『説得材料』を手に、次なる中立派の切り崩しにかかる。……シュンが戻ってくるまでに、この国の勢力図を、完全に塗り替えてみせる」
王都で、ライオネルとアルフォンスが次なる戦いを始めた、まさにその時。アヴァロンのもう一つの戦場、ヴァロワ侯爵の屋敷でも、静かな戦いの火蓋が切られようとしていた。
「シュン・ベルクとやら」
侯爵の執事が、俊の前に一枚の羊皮紙を差し出した。
「侯爵様より、お前に最初の『仕事』をくださるそうだ。……君の『知恵』とやらを、拝見させてもらおうか」
そこには、侯爵領の、ある地域の収穫量が、天候不順を理由に、年々落ち込んでいるという報告が記されていた。
一見すると、ただの経営問題だ。しかし、俊は、その裏に隠された侯爵の「テスト」の意図を、瞬時に見抜いていた。
(……なるほどな。俺がこの問題を解決できれば、侯爵は『利益』を得る。もし俺が、この数字の裏に隠された『不正』…例えば、侯爵の部下による横領の可能性でも指摘しようものなら、俺は『知りすぎたネズミ』として、その場で消される、か)
「……承知いたしました」
俊は、あえてその罠には乗らず、にこやかな笑みさえ浮かべてみせた。
「この解決策を考えるために、いくつか資料を拝見しても?」
俊は、侯爵の執事に、その地域の過去の天候データ、土壌の質、そして、農夫たちが使っている農具の種類や、種籾の仕入れ先といった、膨大な量の追加データを要求した。その、あまりに専門的で、的確な要求に、執事の目がわずかに見開かれた。
数時間後。俊は、たった一枚の報告書を、執事に手渡した。
「……これが、君の答えか?」
「はい。結論から申し上げますと、原因は土壌の『枯渇』です。解決策は三つ」
俊は、淡々と説明を始めた。
「第一に、作付けを休ませ、別の作物、例えば地力を回復させる豆などを植えることです。土地にも休息が必要なのです。第二に、現在の税収の一部を投資し、新しい水路を引くこと。そして第三に、これが最も重要ですが、収穫量が回復するまでの間、農民たちの税を、一時的に免除することです」
「……馬鹿な。税を、免除しろだと? それでは、侯爵様の利益が……」
「減りません」と俊は断言した。
「目先の利益は減るでしょう。ですが、二年後、三年後には、土地は以前の活力を取り戻し、収穫量は倍になる。農民たちの忠誠心も上がり、長期的に見れば、侯爵様の利益は、今の何倍にもなって返ってきます。……これは、ただの慈悲ではない。未来への、最も合理的な『投資』ですよ」
その、完璧なまでの論理と、長期的な視点に基づいた戦略。執事は、もはや反論の言葉を持たなかった。
彼はただ、目の前の、雑用係の服を着たこの底知れない男に、背筋が寒くなるような思いがしていた。
その報告書を受け取ったヴァロワ侯爵は、その夜、一人、自室で静かに笑っていた。
(……あの数字の裏に、俺の部下による不正な横領が隠されていることなど、少し調べればすぐに分かる。もしあの男が、正義感に燃えてその『不正』を指摘してきたなら、その時点で『正義感を振りかざす馬鹿』として消すつもりだった。あるいは、『天候不順なら仕方ない』などと凡庸な答えを返してきたなら、利用価値なしとして、やはり消していた)
「……面白い。実に、面白いネズミだ。俺の仕掛けた罠には一切触れず、その上で、この『土地の枯渇』という俺ですら知らない知識で、これほどの『答え』を返してくるとはな」
侯爵は、俊が提案した『土地を休ませる』という、聞いたこともない農法に、強い興味を惹かれていた。
「……セバスチャン。あいつらの監視を、さらに厳重にしろ。だが、決して手を出すな」
侯爵は、闇に潜む執事に命じた。
「あのネズミが、どうあがくのか。……存分に、楽しませてもらおうじゃないか」
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