第17 旅芸人一座・みなみ風
宿屋に戻った一室は息詰まるような緊張感に包まれていた。アルフォンスがもたらした「黒い蛇の紋章」という情報。俊は、その不吉な響きに眉をひそめた。
(……黒い蛇? ヴァロワ侯爵家のものではない、謎の紋章。それが、この街の不正な小麦の流通に使われている……。アイゼンブルクのリヒター男爵とは、また別の腐敗のルートか? それとも……)
「俺たちの定量調査で見つけた『五年も収穫量が全く変動していない』という、あの不自然な数字。あれは、ヴァロワ侯爵がこの土地の本当の収穫量を王都に偽って報告し、余剰分の小麦をこの『黒い蛇』の組織に横流ししている動かぬ証拠だ。その見返りに、奴らから莫大な賄賂を受け取っているんだろう」
それは、豊かな穀倉地帯を舞台にした巧妙で悪質な搾取の構図だった。
「すぐにこの事実を陛下に報告すべきです!」
アルフォンスは興奮したように立ち上がった。
「これだけの証拠があれば、侯爵を裁くことができます!」
「いや、まだだ」
俊は、その興奮を冷静に制した。
「まだ足りない。俺たちが見たのはただの『紋章』だ。ヴァロワ侯爵は必ずこう言い逃れるだろう。『あれは、たまたま取引のあった一介の商会の紋章に過ぎない』と。……中途半端な証拠では、あの穏健な中立派の仮面を被った老獪な狐を仕留めることはできない」
「では、どうすれば……」
「必要なのは、彼らがこの『黒い蛇』の組織と取引しているという動かぬ『決定的証拠』だ。……その不正な取引が、いつ、どこで、どれだけの規模で行われているのか。その現場を、押さえる」
俊は、再びティアに向き直った。
「ティア。すまないがもう一度、君の力を貸してほしい。今度は市場じゃない。あの『黒い蛇』の荷馬車がどこから来て、どこへ向かうのか。その目撃情報を街の者たちからそれとなく聞き出してきてくれ」
「うん、任せて!」
ティアは事の重大さを理解し、力強く頷いた。
翌日からティアの地道で、しかし困難な調査が始まった。街中を歩き回り、人々の会話に耳を澄ませる。衛兵の詰所、馬車のギルド、そして酒場。あらゆる場所に顔を出し、持ち前の人当たりの良さで人々の警戒心を解いていく。
そして、三日目の夜だった。
一軒の薄暗い酒場で、荷馬車の御者たちが交わす会話をティアの耳が捉えた。
「……またかよ。明日も、街の外れにある古い砦へ小麦の輸送だ。あそこは、もう何十年も使われていないはずなのに、一体誰があんな量の小麦を食うってんだ」
「しっ! 大きな声で言うな。あの仕事は口外法度。侯爵様の大事な『お客様』用なんだとさ……」
古い砦。その情報を持ち帰ったティアの報告に俊の目が鋭く光った。
その夜、俊とアルフォンスは、闇に紛れて宿屋を抜け出した。
ティアが聞き出した街の外れにある古い砦。そこは、鬱蒼とした森に囲まれ人の気配が全くない、まさに密会にうってつけの場所だった。
二人が崩れかけた壁を乗り越えて内部に潜入すると、そこには信じられない光景が広がっていた。
中は、ティアの情報通り、厳重な警備が敷かれていた。そして、その広場には、アルフォンスがあの時屋敷で見たのと同じ、『黒い蛇』の紋章が押された小麦の袋が、山のように積まれている。
(……間違いない。ここが、奴らの巣穴だ)
俊とアルフォンスは、息を殺して物陰からその様子を窺う。やがて、砦の奥にある建物から、二人の男が現れた。
一人は、アルフォンスを追い返したあの傲慢な執事。
そして、もう一人。その顔を見た俊は息を呑んだ。
ヴェリディア王国で、フォルクナー商会の特別監査役としてバルテルスたちの不正な金の流れを追っていた時、その共犯者として突き止めた、あの商人ギルドの幹部の一人だったからだ。
「……これで、今月分は全てですな。ヴァロワ侯爵様には、くれぐれもよろしくお伝えください」
幹部の男が、執事に重そうな金の袋を手渡す。
「ふん。お前たちこそ、宰相閣下への『上納金』を、滞らせるのではないぞ」
執事が、冷たく言い放つ。
二人が、不正な取引の帳簿を突き合わせている。
(……間違いない。宰相、ヴァロワ侯爵、そしてこのヴェリディアの商人……全てが、ここで繋がっている!)
俊は、この瞬間、アイゼンブルクの宰相派も、ドールの中立派も、派閥は違えど、結局は同じ腐敗の構造に組み込まれているのだと、この国の病巣の全体像を、初めて正確に把握した。
俊は、アルフォンスに目配せすると、音を立てずにその場を離れようとした。
その時だった。二人が潜んでいた物陰のすぐ近くで、別の男の声がした。
「……ん? 誰だ、そこにいるのは!」
(見つかった!)
「お前は逃げろ!」
俊は、アルフォンスの背中を強く押し、自らは囮となって、反対方向へと駆け出した。
「侵入者だ! 捕えろ!」
執事の鋭い声が響き渡り、砦全体に警鐘が鳴り響く。
「くそっ!」
俊は、必死で闇の中を走った。だが、ここは敵のど真ん中だ。すぐに、屈強な衛兵たちに前後を塞がれてしまった。
「……ここまでか」
俊が、覚悟を決めた、その瞬間。
「……何を、騒いでいる」
砦の奥から、静かだが、全ての者を従わせるような、威厳に満ちた声が響いた。闇の中から現れたのは、美しい刺繍が施された高価な夜着をまとった、一人の優雅な男。この領地の主、ヴァロワ侯爵、その人だった。
「……ほう。ネズミが紛れ込んでいたとはな」
ヴァロワ侯爵は、月明かりに照らされた俊の顔を、値踏みするように見つめた。
「……見ない顔だな。一体、何者だ?」
その、絶体絶命の状況。しかし、俊の心は、不思議なほど冷静だった。
彼は、ゆっくりと顔を上げると、この国の、深い闇の象徴を、まっすぐに見据えた。
「……あなた方のような立派な方々に、名乗るほどの名は持ち合わせておりません。ただの、しがない雑用係ですよ」
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