第16話 芝居はとっても難しい
俊が「ペルソナ」という、あまりに異質な概念を提示した翌日の夜。
屋敷の書斎は、これまでにない奇妙な熱気に包まれていた。
「……違う。この場面の『カイト』は、まだ恋人への未練を引きずっている。その感情的負債が、彼の判断を鈍らせているんだ。だから、ここのセリフは、もっと弱々しく言うべきだ」
「いや、待て。彼の第一目標は『村の再生』だ。私情よりも合理性を優先するはずだ。ここは、あえて感情を殺し、冷徹に言い放つ方が、彼の『ペルソナ』として整合性が取れる」
そこにいたのは、もはやオリヴィエの指導に怯える大根役者たちではなかった。俊のアドバイスを受け、自らの得意分野である「分析」と「論理構築」で完璧な役柄を「設計」しようと目を輝かせて議論する、王都一のエリートたちの姿だった。
彼らは夜を徹して、自分たちが演じる役の生い立ちから思考の癖、果ては将来の夢に至るまで膨大な『ペルソナ設定資料集』を勝手に作り上げていたのだ。
「……面白い」
オリヴィエは、その光景を、腕を組んで興味深そうに眺めていた。
「いいわ。理屈は分かった。では、その素晴らしい『ペルソナ』とやらを、わたくしの前で披露してごらんなさいな」
その言葉に、文官たちの熱狂がピタリと止まった。
「……では、参ります」
座長であるアルフォンスが、一歩前に出た。 彼は、自分が構築した「論理」への絶対的な自信をみなぎらせていた。
「ああ! なんということだ! この村には、もう、何もない……!」
その声は、完璧な発声だった。しかし、その完璧さゆえに、まるで心がこもっていない、ただの美しい「報告書」のように響き渡った。
オリヴィエの、完璧な眉が、ぴくりと吊り上がる。
「……次」
「は、はい! ……ああ! なんということだ! この村には、もう、何もない!」
「次!」
「あ、ああ! なんという……!」
「ストップ!!!」
オリヴィエの、劇場中に響き渡るような、鈴の音のごとき、しかし氷のように冷たい声が、全てを中断させた。
「……なるほど。よく分かりましたわ」
彼女は、心底うんざりしたというように、深いため息をついた。
「あなた方がやっているのは、芝居ではありません。ただの、『完璧な嘘』の発表会ですわ。感情が、魂が、一欠片もこもっていない。そんなもので、人の心が動くと、本気で思っているの?」
その、あまりに的確な、そしてあまりにも痛烈な一言。文官たちの顔から、急速に血の気が引いていく。
俊が提示した「論理」という武器が、オリヴィエが求める「感情」という壁の前で、いとも簡単に打ち砕かれた瞬間だった。
「……特に、あなた」
オリヴィエの、氷の視線が、座長であるアルフォンスを射抜いた。
「あなたは、一番ひどい。主役でありながら、一番『嘘』が上手だわ。そんな薄っぺらい絶望で、観客を騙せると思ったら、大間違いよ」
「……っ!」
アルフォンスは、何も言い返せなかった。エリートとして生きてきた彼が、これほどの完璧な挫折を味わうのは、人生で初めてのことだった。
その日のお稽古は、それまでで最も重苦しい空気の中で、幕を閉じた。
その夜。文官たちが、沈んだ顔で帰っていった後も、アルフォンスは一人、書斎に残っていた。
(……なぜだ。分析は、完璧だったはずだ。カイトのペルソナも、その行動原理も、論理的に破綻はない。なのに、なぜ……)
彼は、何度も、何度も、問題のセリフを繰り返す。
「この村には、もう、何もない……」
だが、その声は虚しく響くだけで、オリヴィエが求める「魂」には、到底届きそうもなかった。
「……もう、やめたらどうだ」
書斎の片付けをしていた俊が、呆れたように声をかけた。
「あんたは、根本的に間違っている。そんなやり方じゃ、一生かかっても、彼女には認められない」
「では、どうすればいいのです、シュン殿!」
アルフォンスは、初めて声を荒らげた。
「私には、分かりません! あなたが教えてくれた通りに、完璧に分析し、構築したはずだ! なのに、なぜ……!」
「……もう、帰るぞ」
俊は、それ以上何も言わず、アルフォンスを書斎から追い出した。
一人残された書斎で、俊は、アルフォンスが残していった『ペルソナ設定資料集』を手に取り、静かに呟いた。
「……答えは、全部ここに書いてあるのにな。……まあ、それに自分で気づかなければ、意味がないか」
屋敷を追い出されたアルフォンスは、行く当てもなく、月明かりに照らされた王都の夜道を、たださまよっていた。
(……なぜだ。なぜ、伝わらない……)
無意識のうちに、彼の足は、王立劇団『暁』の劇場へと向かっていた。もう真夜中だというのに、劇場の窓からは、ぼんやりとした明かりが漏れている。
(……まさか、まだ稽古を?)
彼は、何かに引き寄せられるように、劇場の裏口の扉に、そっと手をかけた。
鍵は、かかっていなかった。息を殺して中へ入ると、がらんとした客席の向こう、舞台の上で、信じられない光景が繰り広げられていた。
オリヴィエだった。彼女は、昼間の厳格な指導者としての姿ではなく、まるで何かに取り憑かれたかのように、一人、狂ったように芝居の稽古をしていたのだ。
それは、アルフォンスたちが練習している『豊穣の女神』の脚本ではなかった。もっと古く、もっと難解な、古典悲劇の一節だった。
「……なぜ、あなたは、わたくしを裏切ったのですか! あれほど、愛していると、誓ったというのに……!」
その声は、昼間の彼女とは別人のように、弱々しく、震えていた。その瞳からは、大粒の涙が、後から後から溢れ落ちている。
それは、もはや演技ではなかった。一人の女性としての、魂の叫びそのものに感じられた。
アルフォンスは、その姿に釘付けになった。
王の前ですら、一切動じることのなかった、あの氷の女王。その彼女が、舞台ではこれほどまでに無防備に、自らの感情を爆発させている。
(……これが、オリヴィエ殿の……『本気』……)
ドクン、と、自分の心臓が、大きく鳴るのを、彼は聞いた。それは、彼が、生まれて初めて経験する、不可解な、しかしどうしようもなく甘美な痛みだった。
どれほどの時間が過ぎたのか。やがて、オリヴィエは、まるで燃え尽きたかのように、舞台の上に崩れ落ちた。
その静かな寝息が、劇場に響き渡る。アルフォンスは、自分が着ていた上着を、そっと彼女の肩にかけると、音を立てないよう、劇場を後にした。
その帰り道、アルフォンスの頭は、不思議なほどに冴え渡っていた。
オリヴィエの、あの魂の叫び。その時、彼は、俊が言っていた言葉の、本当の意味を理解した。
(……そうか。俺がやっていたのは、カイトの『分析』じゃない。ただの『言い訳』作りだったんだ)
彼は、カイトのペルソナを、自分が演じやすいように、論理的に「捻じ曲げて」いた。だが、オリヴィエは違った。彼女は、役の苦しみを、自らの苦しみとして、そのまま受け入れていた。
(……論理じゃない。カイトが、なぜ絶望したのか。その、たった一つの『真実』を、俺が受け止めきれていなかったんだ……!)
その瞬間、アルフォンスの心の中で、何かが、音を立てて吹っ切れた。
翌日の夜。書斎に集まったアルフォンスの顔は、昨日までとは別人のように、穏やかで、しかし確かな覚悟に満ちていた。
「……シュン殿。昨夜は、失礼いたしました」
彼は、俊に深く頭を下げた。
「……オリヴィエ座長。もう一度だけ、チャンスをいただけますか」
オリヴィエは、何も言わず、ただ、その鋭い目で彼を見つめている。
アルフォンスは、舞台の中央に立つと、ゆっくりと目をつむいだ。
そして、目を開けた瞬間。彼はもう、アルフォンスではなかった。
全てを失い、それでも、愛した故郷の土を、踏みしめる男、『カイト』その人だった。
「…………ああ」
彼が、ただ、それだけを呟いた。たった一言。しかし、その一言には、万雷の言葉にも勝る、深い、深い絶望と、それでも消えない故郷への愛が、込められていた。
「…………」
オリヴィエは、言葉を失っていた。
(……何なの、この男は。たった一夜で、これほどまでに……!)
俊の『論理』が、オリヴィエの『感情』という炎で、ついに融合を果たした瞬間だった。
「……いいわ」
オリヴィエは、初めて、心の底から楽しそうな、そして満足げな笑みを浮かべた。
「最高よ、アルフォンス! その調子で、わたくしを、心ゆくまで楽しませてごらんなさい!」
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