第16話 芝居はとっても難しい
翌日の夜から、俊の屋敷の書斎はその様相を完全に変えた。王立劇団『暁』の座長オリヴィエによる、地獄の演技指導が始まったのだ。
「まず、あなた方に叩き込むのは役者としての『基礎』ですわ。エリートだか何だか知りませんが、今のあなた方は舞台の上では赤子同然。いいえ、物言わぬ小石の方がまだ存在価値があるくらいです」
書斎の中央に杖を片手に仁王立ちするオリヴィエ。その圧倒的な存在感と一切の妥協を許さない氷のような視線に、アルフォンスたち『チーム・アヴァロン』の面々は生唾を飲むことしかできなかった。
最初の稽古は、「歩くこと」だった。
「ただの使用人が題材を提供し、ただの書記官が書いた、ただの恋物語。ですが陛下のご命令とあらば、これを王都一の演目に仕立て上げるのがわたくしの仕事。……いいこと、アルフォンス。まずはあなたがこの舞台の『座長』として、絶望の淵に立つ男に見えなければ話になりませんわ」
「は、はい!」
「では、そこからわたくしの前まで、絶望に打ちひしがれながら歩いてきなさい。……始め!」
「(ぜ、絶望……)」
アルフォンスはそろばんを弾くよりも真剣な顔で、眉間に皺を寄せ重い足取りで一歩を踏み出した。
「ストップ!!」
甲高い声が響き渡る。
「アルフォンス。それは絶望ではありませんわ。昨日食べたものが、まだ胃に残っている人の歩き方です。背筋が曲がりすぎ、視線が落ちすぎ。そんな男がどうやって国を憂い、女神に恋焦がれるというのです? 全く感情が読み取れません! やり直し!」
「は、はい!」
「次! あなたは確か村の長老役でしたわね。その貧相な歩き方では、村人に不審者と間違われて棒で殴られておしまいですわよ!」
「あなた! 恋する乙女の友人役でしょう!? なぜ市場で魚を選ぶ時のような顔で歩いているの!?」
オリヴィエの指導は、俊やエレオノーラの比ではなかった。彼女が要求するのは技術ではない。その役の「感情」そのものだった。
論理と数字の世界で生きてきたエリート文官たちにとって、それは生まれて初めて直面する、あまりにも高くそしてあまりにも理不尽な壁だった。
彼らが誇る「優秀な頭脳」は、ここでは何の役にも立たない。セリフは完璧に暗記できても、そこに感情を乗せることができない。
「なぜ、ここで彼は怒るのですか? 論理的な飛躍があります」
「この場面での涙は、彼の目的達成において非効率的では?」
彼らが繰り出す反論は、全てオリヴィエの「感情がこもっていませんわ!」の一言で、木っ端微塵に砕かれた。アルフォンスはその厳しさの中に、一切の妥協を許さない彼女の舞台への純粋な情熱を垣間見て、初日に感じたのと同じ、奇妙な圧迫感を胸に感じていた。
数日が過ぎる頃には、彼らの自信とプライドは完全に地に落ちていた。特に座長であり主役であり、そして一番の大根役者であるアルフォンスの疲弊は、頂点に達していた。
「……ああ、女神アリア……。なぜ、君は、俺の、前から、いなくなって、しまったんだ……」
その日もアルフォンスの棒読みが、書斎に虚しく響き渡る。
「ストップ! ストップですわ!」
オリヴィエはついにこめかみを押さえて、天を仰いだ。
「アルフォンス。あなたのそのセリフからは恋人を失った悲しみではなく、今日の昼食が魚だったことへの、かすかな後悔しか伝わってきませんのよ!」
「も、申し訳……ありません……!」
もはやアルフォンスの声は、蚊の鳴くようだった。エリートとして生きてきた彼が、これほどの完璧な挫折を味わうのは人生で初めてのことだった。
その時だった。
「……オリヴィエ座長」
稽古中ずっと黙ってその様子を見守っていた俊が、静かに口を開いた。
「少し、よろしいでしょうか」
「何ですの、シュン・ヒナタ。この者たちの、あまりの才能のなさに、あなたも愛想が尽きましたか?」
「いえ、そうではありません。彼らの『才能』は、オリヴィエ座長が引き出そうとしているものとは、別のところにあるのかもしれない」
俊は真っ青な顔で俯くアルフォンスたちの前に立った。
「彼らは役者じゃない。この国で最も優秀な『分析官』です。……もしよろしければ、彼らのその才能を活かした、別のアプローチを試させてはいただけませんか?」
「……何ですって?」
オリヴィエの眉が鋭く吊り上がった。
「アルフォンス」
俊は、座長に向き直った。
「君は、その役……村を追われた男『カイト』になりきろうとするから失敗するんだ。……彼になるな。彼を分析しろ」
「……分析、ですか?」
「ああ。俺たちの『国家の解剖図』を思い出せ。あの作業と、何も変わらない」
俊は脚本の一節を指さした。
「この時カイトは何歳だ? 彼の育った環境は? 家族構成は? 恋人と出会う前の最大のコンプレックスは何だ? 逆に彼の最大の武器は? 彼が何を動機として行動するのか、その原理を、数字で分析するように徹底的に洗い出すんだ」
「……!」
アルフォンスの目に光が戻った。それは彼が最も得意とする、論理の光だった。
(そうだ、これだ。このやり方なら、俺は……俺は、あの人に、認めてもらえるかもしれない!)
「感情で演じるな。データに基づいてカイトという一人の人間像を構築しろ。どのような生活をし、何を好み、何に悩み、どうしたいと願っているのか。それを『ペルソナ』という。そして、それを『再現』するんだ。……君たち文官にしかできないやり方で、この役に憑依してやれ」
そのあまりに異質で、しかしどこまでも合理的な俊のアドバイス。アルフォンスはまるで天啓を得たかのように、その場で脚本に凄まじい勢いでメモを書き込み始めた。
他の文官たちもまた、目の前の霧が一気に晴れていくのを感じていた。
その様子をオリヴィエは、呆然と見つめていた。
(……何なの、あの男は。芝居を……このわたくしの神聖な舞台を、数字と論理で『解剖』するですって……?)
それは彼女の芸術家としてのプライドを根底から揺るがす、冒涜的な、しかしあまりにも鮮やかな「演出」だった。
「……シュン・ヒナタ。あなたは、本当に、何者ですの……」
オリヴィエが初めて俊という男に、強烈な興味を抱いた瞬間だった。
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