第15話 北の鉱山都市の改善計画
俊の指示通り、アルフォンス率いる視察団は、夜明けと共にアイゼンブルクを後にした。その手には、ギルド長ゲルハルトへの置き手紙だけを残して。
「……本当によかったのでしょうか、シュン殿。我々は、敵地の真っ只中に、あなた方二人だけを残していくのですよ」
出発の直前、アルフォンスは不安を隠しきれない声で俊に問うた。
「ああ。問題ない」
俊は、落ち着き払った声で答えた。
「むしろ、君たち視察団が全員、いつまでもこの街に留まっている方が不自然だ。君は、国王陛下から命じられた視察団のリーダーとして、一刻も早く王都に戻り、報告書をまとめる義務がある。だが、俺は違う。ただの書記官だ。報告書作成の手伝いという名目で、この街に残っても、誰も怪しまない」
俊は、王都の方角を見つめながら、静かに言った。
「それに、俺の仕事はまだ終わっていない。俺が仕掛けたこの賭けが、この街の空気をどう変えるのか、それをこの目で見極める必要があるからな。……ここからは、俺たちの戦場じゃない。王都で次の手を打つ、君たちの戦場だ。頼んだぞ、アルフォンス。君の一手が、この戦いの勝敗を決める」
その言葉の重みを受け止め、アルフォンスは固く頷くと、王都への帰路を急いだ。
十日後。国の駅逓制度を利用し、不眠不休で馬を乗り継いで王都へと帰還したアルフォンスは、休む間もなく、次なる一手のために動いていた。
彼は、商業ギルドの巨大な公的掲示板の前で、ごく自然を装って、一枚の羊皮紙を貼り出した。それは、アイゼンブルクのギルド長へ送られた『取引提案書』の、控えめな写しだった。
『アイゼンブルク鉱山ギルド、国王陛下より異例の取引提案を受け、現在検討中』
その、たった一行の見出し。しかし、その一行が持つ破壊力は、絶大だった。
最初に気づいたのは、情報に聡い商人たちだった。
「おい、見たか? あの若き王が、ついに動いたらしいぞ。しかも、相手は宰相派の牙城、アイゼンブルクだ」
「三倍での買い取りだと……!? ということは、これまでリヒター男爵の息のかかった商会は、一体どれだけ安い値段で買い叩いていたんだ……?」
「しかも、利益の半分はギルドと鉱夫たちに還元……か。あの若き王は、本気で宰相派と事を構えるおつもりらしいな」
噂は、瞬く間に王都中の商人たちの間に広まり、そして、その日の夕方には、宰相派の耳にも届いていた。
宰相の執務室。報告を受けたリヒター男爵は、怒りに顔を真っ赤に染め、テーブルを強く叩いた。
「あの若造が……! 俺の領地で、勝手な真似を……!」
「落ち着け、男爵」
宰相は、静かに茶をすすりながら、その鋭い目で報告書を見つめていた。
「……面白い。実に、面白い手だ。国王陛下の権限を盾に、こちらの懐に直接手を突っ込んできたか。そして、その情報を、こうして公にすることで、我々の動きを完全に封じ込めた。……あの小僧、ただのお飾りではなかったというわけか。どこで、このような悪知恵を身につけたのやら」
宰相は、リヒター男爵に命じた。
「すぐにゲルハルトに連絡を取れ。何があっても、その提案を呑むな、と。国王の甘言に乗れば、どうなるか、分っているだろうな、と、釘を刺しておくのだ」
その頃、アイゼンブルクのギルド本部では、まさにそのゲルハルトが、人生で最も重い決断を迫られていた。
「……どう思う、諸君」
幹部たちを前に、ゲルハルトはアルフォンスから突きつけられた提案書を広げてみせた。その場は、賛成派と反対派で、真っ二つに割れていた。
「馬鹿な! 男爵様を裏切れと申すのか! 我々は、これまで男爵様のおかげで……」
「おかげで、だと!? この街の惨状が見えんのか! 俺たちは、ただ搾取されてきただけじゃないか!」
「だが、国王陛下一人の力で、本当に宰相派に勝るとお思いか!?」
議論は、平行線を辿るだけだった。
ゲルハルトの心も、揺れていた。リヒター男爵への恐怖と、目の前にぶら下げられた莫大な利益と名誉。その二つの間で、彼の心は激しく引き裂かれていた。
その、膠着した空気を破ったのは、執務室の扉を叩く、二つの、全く違う知らせだった。まず飛び込んできたのは、リヒター男爵からの早馬の使者だった。
「ギルド長! 男爵様からの、緊急のご伝言です! 『国王の甘言に乗るな。もし裏切るようなことがあれば、お前の一族郎党、街のネズミの餌食になると思え』と……!」
その、あまりに直接的な脅迫に、ゲルハルトと幹部たちの顔が青ざめる。しかし、その震えが収まらぬうちに、今度は王都の商人組合から、別の知らせが舞い込んだのだ。
「ギルド長! 大変です! 王都の商業ギルドの掲示板に、我々への取引提案が、すでに公に張り出されているとのこと……!」
(……やられた)
ゲルハルトは、全てを悟った。もはや、選択の余地はない。
自分は、あの若き役人の掌の上で踊らされていたのだ、と。男爵の脅しに屈して提案を断れば、王都中の商人たちと、そして何より、この街の全ての鉱夫と鍛冶屋を敵に回すことになる。
「……決まった」
ゲルハルトは、乾いた声で呟いた。
「我々は……国王陛下の、ご提案を受ける」
その日の夕方。ギルド長ゲルハルトの名で、街の広場に、全ての鉱夫と鍛冶屋たちが集められた。
広場を埋め尽くす、諦めと、不信に満ちた瞳。その視線を一身に受けながら、ゲルハルトは、震える声で、しかしはっきりと、国王陛下からの提案の全てを語った。
買い取り価格、三倍。利益の半分は、鉱夫たちの給金と、鍛冶屋への新しい鉄の供給に充てられる、と。
最初は、誰もがその言葉を信じられなかった。しかし、ゲルハルトが、国王陛下の印章が押された正式な契約書を掲げた瞬間、広場の空気は、一変した。
うおおおおおおっ!
誰からともなく上がった雄叫びは、瞬く間に広場全体を揺るがす、爆発的な歓声へと変わっていった。
人々は抱き合い、涙を流し、何十年ぶりかに訪れた希望に、歓喜の声を上げた。
その翌日から、アイゼンブルクの街は、生まれ変わった。鍛冶工房からは、夜が明ける前から、活気ある槌音が鳴り響き、鉱山へ向かう鉱夫たちの足取りは、驚くほど軽く、そして力強かった。
彼らの目には、もう諦めの色はない。自らの手で、この街を、そして自分たちの未来を、もう一度作り上げるのだという、誇り高い職人の光が宿っていた。
宿屋の一室で、その槌音を、俊は静かに聞いていた。
「……最高の、音楽だな」
「うん!」
その隣で、ティアもまた、窓の外の活気を取り戻した街を、満面の笑みで見つめていた。
「みんな、やっと笑ってくれたね、俊さん」
俊が仕掛けた、国家再生のための、最初の小さな一手。それは、凍てついた鉱山都市を根底から覆し、新たな希望の熱を呼び覚まそうとしていた。
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