第13話 アヴァロンへの逃亡
一週間に及ぶ、過酷な船旅の果て。俊とティアが足を踏み入れた鎖国国家『アヴァロン』は、彼らが知る世界の、あらゆる常識が通用しない場所だった。
港町は、ヴェリディア王国の石造りのそれとは全く違う、木造の建物が整然と立ち並び、独特の瓦屋根が美しい景観を作り出している。
(……なんだ、この街は)
俊は、目の前に広がる光景に、息を呑んだ。
(この木組みの家屋、瓦屋根……。まるで、故郷の……日本の、古い街並みじゃないか……?)
空気中に特別な魔力を感じることはない。だが、この国の文化レベルが、故郷ヴェリディアとは全く違う次元にあることを、俊は肌で感じていた。
街角に立つ街灯は、炎ではなく、内部に埋め込まれた小さな青い石が淡い光を放っている。
「わあ、綺麗……。火を使っていないのに、どうして光っているのかしら」
ティアは、その不思議な光景に、素朴な感嘆の声を上げた。しかし、俊の目は、その光の正体を冷静に分析していた。
(……なるほどな。ラッドが言っていた『魔石』というのは、これのことか)
逃亡先を決める際、俊はラッドに『鉄の鎖』の影響が及ばない国について尋ねていた。
その時、ラッドが名前を挙げたのが、このアヴァロンだ。『あの国は、世界で唯一、魔石っていう特殊な鉱石が採れる。だから、その利権を守るために、他国との交流を極端に嫌うんだ』と。
目の前の街灯や、市場で見た魚を冷やす箱。それらが全て、その唯一無二の資源によって動いているのだと、俊は瞬時に理解した。
彼は、追われる者となった絶望よりも、未知の市場を前にした、マーケターとしての興奮を、わずかに感じていた。
アヴァロンに到着してから、数日が過ぎた。俊とティアは、港町の裏路地にある安宿を拠点に、身分を偽りながら、目立たぬようにこの国の空気を肌で感じていた。
ラッドが用意してくれた偽の身分証には、『シュン・ベルク』と『ティア・ベルク』という、偽名が記されている。追手を欺くため、二人は兄妹という設定にした。
日中は、ティアと共に市場を歩き、ヴェリディア王国とは全く違う食材や文化に触れる。二人は、市場の片隅にある、小さな食堂に入った。
そこで出された、焼いた魚の定食。食堂の主人が、小皿に注がれた黒い液体を、親しげに差し出してきた。
「兄ちゃんたち、旅のもんかい? この魚には、うちの特製の『醤』がよく合うぜ。試しにつけてみな」
その言葉に促され、俊は小皿から立ち上る、香ばしい匂いを嗅いだ。その瞬間、港町に降り立った時の、あの既視感が、確信へと変わった。
(……間違いない。この香りは……!)
彼は、恐る恐る、魚の身をその黒い液体に少しだけつけて、口に運んだ。次の瞬間、俊の全身を、雷に打たれたような衝撃と、そしてどうしようもないほどの懐かしさが駆け巡った。
それは、故郷、日本で慣れ親しんだ「醤油」に、あまりにもよく似た、芳醇な香りと、深い旨味だった。
(やっぱりだ……! この国には、醤油の原型となる食文化が、当たり前のように存在しているのか……! もしかしたら、味噌のようなものも存在するかもしれないな)
それは、この国が持つ「魔石」という物理的な資源とは全く別の、文化的な、そして俊にとっては計り知れない価値を持つ「宝」との、再会にも似た出会いだった。
そして、夜になると、俊は一人、街の様々な酒場に足を運んでいた。人々の本音が最も現れる場所。そこは、マーケターである彼にとって、最高の情報収集の場だったからだ。
その夜、二人が夕食のために選んだのは、船乗りや職人たちで賑わう、少し騒がしい酒場だった。片隅の席で、この国独特の、魚介で出汁をとった温かいスープをすすりながら、俊はいつものように、周囲の会話に耳を澄ませていた。
その時だった。
「よう、兄さんたち。見ねえ顔だな。旅のもんかい?」
不意に、隣のテーブルから、明るく、人懐っこい声がかけられた。見ると、年は二十歳前後、上質だが決して華美ではない服を着こなした、人の良さそうな笑みを浮かべた青年が、麦酒の入ったジョッキを片手に、こちらを見ていた。
常連なのだろう、店の主人とも親しげに言葉を交わしている。
「ああ。辺境の村から出てきたばかりでね」
俊は、設定通り、当たり障りのない返事をした。
「へえ、そうなのかい。道理で、この街の空気にはまだ慣れてないって顔をしてるわけだ」
青年はそう言うと、何のてらいもなく、俊たちのテーブルの空いた椅子に腰を下ろした。
「俺はレオ。この辺りで、しがない雑用係さ。あんたたちは?」
「俺はシュン。こっちは妹のティアだ」
「シュンに、ティアかい。いい名前だ」
レオと名乗った青年は、ティアににこりと笑いかけると、好奇心に満ちた目で俊に問いかけた。
「辺境から出てきたんなら、この港町の喧騒には驚いたんじゃないか? 村とは何もかも違うだろう。あんたたちの目には、この街はどう映ったんだ?」
それは、ただの世間話のようだった。
「ああ、すごい街だと思う」 俊は、正直に答えた。
「市場の品物は豊富で、品質も高い。人々も活気があって俺たちの村とは大違いだ。住みやすそうで、いい場所だな」
その答えに、レオは満足げに頷いた。
「そうだろう、そうだろう! 」
「だが」と俊は続けた。
「同時に、少しだけ、もったいない、とも思う」
「もったいない?」
レオの眉が、ぴくりと動いた。
「港を閉じてしまっていることが、だ」
俊は、レオの真剣な眼差しを受け止めながら、静かに続けた。
「例えば、昼間に食堂で味わった『醤』。あんなに素晴らしい調味料が、この国でしか味わえないなんてもったいない。もし、これを海の向こうの国々へ輸出したなら、あの小瓶一つが、金貨一枚の値で取引されるかもしれない。そうなれば、これを作っている職人たちの暮らしは、もっと豊かになるはずだ」
俊の言葉は、レオの心の、最も深い部分を的確に突いていた。彼が即位して以来、ずっと抱えてきた葛藤。国内の需要は飽和し、素晴らしい技術を持つ職人たちが、正当な評価を得られずにいるという、この国の構造的な問題だ。
「……面白いことを言うな、シュン」
レオの顔から、人の良い笑みが消え、真剣な眼差しが俊に向けられる。
「だが、この国は、外の世界との交流を固く禁じている。国の宝を、みすみす外国に売り渡す必要はない、とな。……あんたは、その考えを、どう思う?」
それは、もはやただの雑談ではなかった。身分を隠した青年が、心の底から求めていた、新しい「答え」の、ほんのひとかけらだった。
俊は、ジョッキに残っていた酒を、ゆっくりと飲み干すと、静かに、しかしきっぱりと言った。
「宝は、ただ箱にしまっておくだけでは、ただの石ころと同じだ。他の誰かに見せ、欲しがらせて初めて、その価値が生まれる。……鎖国とは、世界一の品揃えを誇る店が、シャッターを閉て、誰一人客を入れずにいるようなものだ。店の中は安全だろう。だが、そんな商売が、いつまでも続くはずがない」
その、あまりに的確な、そしてあまりに痛烈な比喩。レオは、雷に打たれたような衝撃に、言葉を失っていた。
自分が、凝り固まった重臣たちを説得するために、ずっと探し求めていた「論理」そのものが、そこにあったからだ。
「……あんた、本当にただの村人か?」
レオが、呆然と呟く。
「さあな」
俊は、にやりと笑った。「ただの、旅の者だよ」
その夜、酒場を後にしたレオは、一人、月明かりに照らされた石畳を歩きながら、先ほどの出会いを反芻していた。その足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽く、そして力強い。彼の心は、これまでに感じたことのないほどの興奮に包まれていた。
(……見つけた。ようやく、見つけたぞ……!)
あの男は、何者だ?ただの偶然か、それとも、この国を変えるために、天が遣わした使者なのか。
俊とティア。二人の逃亡者は、まだ知らない。
自分たちが、この国の、そして自分たち自身の運命を大きく左右する、巨大な渦の中心に、今、足を踏み入れてしまったことを。
執筆の励みになりますので、続きを読みたいと思っていただけたら、ぜひブックマークよろしくお願いします!感想や評価もいただけると嬉しいです。




