第13話 アヴァロンへの逃亡
月明かりだけが、王都の石畳を冷たく照らしていた。
フォルクナー商会の裏門で交わされた、短い、しかし永遠のような別れ。ラッドたちの悲痛な表情を振り切るように、俊とティアを乗せた一台の荷馬車は、闇に紛れて東へと向かった。
祝勝会の熱狂は、もはや遠い世界の出来事のようだ。ゴトゴトと揺れる荷台の中で、二人はただ、押し黙っていた。
「……俊さん」
長い沈黙を破ったのは、ティアだった。
「後悔、していない?」
その問いに、俊はゆっくりと首を横に振った。
「後悔? ……している暇はないさ。それより、これからどう生き抜くかを考えないと」
その声は、いつもと変わらない、冷静なものだった。しかし、その横顔には、これまで見せたことのないほどの疲労と、そして仲間たちへの想いが、深く刻まれているように見えた。
「大丈夫だよ」
ティアは、無理に明るい声を作った。
「私、パンを焼く以外にも、結構役に立つんだから。俊さんの助手として、どこまでだってついていくよ」
その言葉に、俊は何も言わず、ただ小さく、頷いた。
ラッドが手配した密航のルートは、王都から東へ、人目を避けるように森や山を越え、国境の港町を目指すという、過酷なものだった。昼は荷台の奥で息を潜め、夜になってから移動する。食事は、ティアが持ってきた保存用のパンと、干し肉だけ。
数日が過ぎた頃、彼らは国境近くの、小さな宿場町に立ち寄った。つかの間の休息。しかし、その夜、二人の運命は再び、死の影に脅かされることになる。
宿の酒場で、夕食をとっていた時のことだった。隣のテーブルに座った、傭兵風の男たちの会話が、二人の耳に飛び込んできた。
「おい、聞いたか? あのフォルクナー商会を立て直したっていう男の首に、金貨一万枚の懸賞金がかかったって話」
「ああ、知ってるぜ。なんでも、黒髪の若い男で、シュンとかいう名前らしいな」
「見つけ次第、消せばいいんだろ? 簡単な仕事じゃねえか。一体、どこに隠れてやがるんだか」
俊とティアは、顔を見合わせた。その背筋を、冷たい汗が伝う。
『鉄の鎖』の追手は、彼らが思っていたよりも、ずっと速く、そして広く、その包囲網を広げていたのだ。
二人は、食事もそこそこに席を立つと、誰にも気づかれないよう、宿の裏口から闇夜へと滑り出した。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。
それから、二人の旅は、さらに過酷なものとなった。もはや、町に立ち寄ることすらできない。夜は獣の遠吠えに怯え、昼は追手の影に怯えながら、ただひたすらに、東を目指した。
そして、十日後。心身ともに疲れ果てた二人は、ついに、ヴェリディア王国の最東端、港町ポルト・リベルに到着した。
目の前に広がるのは、どこまでも続く、雄大な海。そして、その海の向こうに、霞んで見える、巨大な大陸の影。
あれが、二人が目指す、鎖国国家『アヴァロン』だった。
俊は、指定された波止場の、薄暗い酒場の扉を叩いた。中から現れたのは、片目に眼帯をした、海の怪物のような大男だった。
「……何の用だ、よそ者」
ラッドが手配してくれた、密航船の船長との合言葉を伝える。
「……東の空に、一番星は昇るか」
俊の言葉に、男はニヤリと、獰猛な笑みを浮かべた。
「ああ、今夜は、月も星も見えねえ、最高の闇夜だ。……船は、夜明け前に出る。遅れるんじゃねえぞ」
その夜、俊とティアは、小さな漁船の船底に身を隠し、故郷の地を後にした。
船旅は、想像を絶するほど過酷だった。出航して最初の半日は、追っ手を警戒し、魚と潮の匂いが混じった狭い船底で息を潜めた。港の灯りが完全に見えなくなり、外洋に出てからは、船長が用意してくれた、申し訳程度の小さな船室に移ることができた。
しかし、そこも絶えず波の音と船のきしむ音が響き、安らげる場所では到底なかった。
三日目の夜には、激しい嵐に見舞われた。天地がひっくり返るような揺れは二日続き、ティアは顔を真っ青にして嘔吐し続けた。
俊はそんな彼女の背中をさすることしかできず、自らの無力さと、彼女を巻き込んでしまった後悔に、何度も唇を噛み締めた。自分たちの選択は、本当に正しかったのか。何度も心が折れそうになる。
しかし、その度に、王都に残してきた仲間たちの顔が脳裏をよぎり、二人を奮い立たせた。
嵐が過ぎ去った五日目の朝、船室には穏やかな光が差し込んでいた。俊が目を覚ますと、衰弱しきっているはずのティアが、ぼろぼろになった彼の上着を、慣れた手つきで繕っていた。
「……ティア、無理するな」
「ううん。これくらい、させて。俊さんこそ、ずっと看病してくれてたんでしょ? 私、もう大丈夫だから」
その顔はやつれていたが、瞳の光は、少しも失われてはいなかった。「それに、言ったでしょ? 私はもう、守られるだけのパン屋の娘じゃないんだから」
その言葉に、俊は何も言えなかった。ただ、彼女のその強さに、救われた気がした。そしてアヴァロンの領海が近づくと、二人は再び船底へと戻り、息を殺して到着の時を待った。
どれほどの時間が過ぎたのか。一週間に及ぶ、長い、長い闇の旅の後、不意に船の揺れが穏やかになり、頭上から船長の低い声が響いた。
「……おい、着いたぞ」
二人が甲板に上がると、目の前に、圧倒的な光景が広がっていた。
巨大な城壁に囲まれた、荘厳な港町。行き交う船の形も、建物の様式も、そして人々の纏う衣服の色も、ヴェリディア王国とは全く違う。
空気が、違う。まるで、魔力が、この国では呼吸の一部であるかのように、濃厚に満ち満ちていた。
「……着いたな、アヴァロンへ」
俊の呟きに、ティアはこくりと頷いた。その瞳には、不安と、そしてそれ以上の、まだ見ぬ世界への、かすかな光が宿っていた。
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