第12話 鉄の鎖(アイゼン・ケッテ)
グランツでの『無料経営相談会』が、街の商人たちの間で大きな話題となってから、数週間が過ぎた。俊が灰の中から蒔いた種は、見事に芽吹いていた。
襲撃事件によって重い空気に包まれていた商会周辺も、以前とは比べ物にならないほどの活気を取り戻していた。相談会に参加した商人たちは、フォルクナー商会の従業員たちから教わった新しい商売のやり方をそれぞれの店で実践し、彼らを中心に、街には新しい風が吹き始めていた。
焼失した倉庫の跡地には、街の商人たちの共同出資による、以前よりも遥かに大きく、堅牢な共同倉庫の建設が始まっていた。その中心に立つのは、大火傷の痕が残ってしまったものの、以前とは比べ物にならないほど力強いリーダーの顔つきになった、ブレンナーその人だった。
王都への帰路、俊の耳に届くのは、グランツの成功を称賛する声ばかり。そして、彼が王都のフォルクナー商会本店の門をくぐった瞬間、彼は英雄として、熱狂的な歓迎を受けた。
その日の夕方、商会長室は、商会の全ての幹部と、若き才能たちが集い、歴史的な瞬間の訪れを、固唾を飲んで待っていた。静寂の中、経理部長となったカスパールが、一枚の羊皮紙を読み上げる。
「……以上をもちまして、今期のフォルクナー商会の総売上は、四億二千万リルに到達。契約の目標を、達成いたしました!」
うおおおおっ!
その瞬間、商会長室は、割れんばかりの歓声に包まれた。誰もが抱き合い、涙を流し、この奇跡的な復活を喜び合った。
「やったな、俊……! 本当に、やりやがった……!」
ラッドは、子供のようにはしゃぎ、俊の背中を力強く叩いた。その目には、大粒の涙が浮かんでいる。
その夜、商会では盛大な祝勝会が開かれた。誰もが笑い、飲み、歌い、この輝かしい勝利に酔いしれていた。
しかし、その熱狂の輪の中心で、俊だけが、一人静かに、冷徹な目で未来を分析していた。
(……ついに、ここまで来たか。だが、祝杯をあげるのはまだ早い)
彼のマーケターとしての冷徹な分析が、この完璧すぎる成功の裏に潜む、避けられないリスクを弾き出していた。
『鉄の鎖』。年間売上四億リルという目標の達成は、奴らにとって、俺たちの『宣戦布告』が完了したことを意味する。あの巨大な闇が、このまま黙って引き下がるとは、到底思えなかった。
その予感は、最悪の形で的中する。祝宴の熱気が最高潮に達した、その時だった。
血相を変えたマルコが、人混みをかき分け、俊の元へと駆け寄ってきた。
「俊殿! まずいことになった……!」
マルコは、声を潜め、俊の耳元で囁いた。
「裏の情報屋から、緊急の連絡だ。『鉄の鎖』が、あんたの首に、金貨一万枚の懸賞金をかけやがった……!」
「……!」
「奴らは、商会を潰すのを諦めた。代わりに、全ての元凶である、あんたを直接消すことにしたんだ。王都中の暗殺者どもが、今頃、あんたの顔を探して動き出しているはずだ……!」
その言葉に、俊の背筋を、冷たい汗が伝った。その時、彼のすぐ隣で、給仕をしていた一人の若い従業員が、ふらついた拍子に、盆の上の酒を俊の服にこぼしてしまった。
「も、申し訳ありません!」
「いや、気にするな」
俊は、濡れた上着を脱ごうと、若者に背を向けかけた。しかし、その瞬間だった。
「――伏せろっ!」
マルコの、獣のような怒声が響き渡った。俊が振り返るより早く、マルコはテーブルを蹴り倒す勢いで、俊と若者の間に割って入ると、若者の腕をあり得ない角度に捻り上げていた。
「ぐあっ!」
若者の手から、鈍い光を放つ一本の針が滑り落ちる。
悲鳴と、食器の割れる音。祝宴の音楽が、止まる。何が起きたのか分からず、呆然とするラッドたちの前で、マルコは若者を取り押さえたまま、吐き捨てた。
「……俊殿から離れた瞬間、懐に手を入れたな。素人の動きじゃねえ。……お前、どこの差し金だ」
俊は、床に落ちた毒針を拾い上げると、冷たい声で言った。
「……どうやら、宴はここまでのようですね」
その日の深夜。再び商会長室に集まった仲間たちの顔には、もはや祝祭の熱狂はなく、絶望的なほどの緊張が張り詰めていた。
俊は、窓の外の闇を見つめながら、静かに、しかしきっぱりと告げた。
「……俺は、この商会を去る」
「なっ……!何を言ってるんだ、俊!」
ラッドが、激昂して立ち上がる。
「ラッドさん、冷静に聞いてくれ」
俊は、ゆっくりと振り返った。
「敵の狙いは、もう商会じゃない。俺だ。俺がいる限り、あんたたち全員が、いつ命を狙われるか分からない危険に晒されることになる。俺の存在そのものが、この商会の最大のリスクになったんだ」
それは、あまりに冷徹で、しかし誰も否定できない、事実だった。
「だから、俺は消える。俺が『おとり』になるんだ。『鉄の鎖』の全ての注意を、俺一人に引きつけて、国外へ逃亡する。その間に、あんたたちは、俺が残した計画書通りに、この商会を、王都一の、いや、王国一の商会に作り上げるんだ」
それは、仲間たちを守るための、あまりにも過酷で、自己犠牲的な、最後のコンサルティングだった。
「ふざけるな! お前一人を行かせて、俺たちがぬくぬくと商台を続けろってのか!」
ラッドは、俊の胸ぐらを掴んだ。その目には、怒りと、そして涙が浮かんでいた。
「……ラッドさん。あんたはもう、俺がいなくても大丈夫だ。最高の仲間たちがいるじゃないか」
俊は、静かにラッドの手を解くと、部屋の隅で、全てを聞いていたティアに向き直った。
「ティア。君には、王都に残ってほしい。君のその力は、これからの商会にこそ、必要だ。……危険な旅に、君を巻き込むわけにはいかない」
しかし、ティアは、静かに、しかし力強く、首を横に振った。
「……嫌です」
その声は、震えていなかった。
「私も、行きます。俊さんの助手として、最後まで一緒に戦わせてください。……私も、もう守られているだけじゃなくて、少しは俊さんの役に立てると思うんです」
その瞳には、これから始まるであろう過酷な運命を、自らが選んだ師と共に乗り越えるという、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
俊は、何も言えなかった。ただ、その覚悟を受け止めるように、深く頷くことしかできなかった。
その夜、俊はラッドに、一つの頼み事をした。
『鉄の鎖』の影響が及んでいないであろう、最も安全な逃亡先。他国との交流が極端に少ない、東方の鎖国国家『アヴァロン』への、密航の手引きを。
そして、月明かりだけが照らす深夜。王都の片隅で、俊とティアは、ラッドたち数人だけに見送られ、小さな荷物一つで、闇に紛れるように、東へと向かう一台の荷馬車に乗り込んだ。
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