第12話 鉄の鎖(アイゼン・ケッテ)
翌朝、港町グランツの空は、鉛色に曇っていた。一週間前に起きた襲撃事件がもたらした恐怖は、まだ街に重苦しい空気を落としていた。
すれ違う人々は互いに視線を合わせようとせず、不安げな表情で足早に行き交っている。商会がようやく活気を取り戻し始めた、まさにその矢先の出来事だった。不注意による火事だと言うには、あまりにタイミングが良すぎるのだ。誰もが口には出さないが、フォルクナー商会の復活を快く思わない、見えざる者の存在を肌で感じ、恐怖していた。
その異様な静寂の中心に、その場所はあった。フォルクナー商会グランツ支店。その店の前で、三人の従業員たちは、震える足で立っていた。
彼らの前には、俊が昨日指示した通り、一枚の大きな黒板が置かれている。そこに書かれているのは、たった一言。
『無料経営相談会、開催』
(……本当に、誰か来るのだろうか)
従業員たちの心は、不安で張り裂けそうだった。商品を失い、リーダーを失った自分たちに、一体何ができるというのか。
街の人々は、遠巻きに、好奇と、そしてそれ以上の恐怖が入り混じった視線で、店の様子を窺っているだけだ。見えざる敵からの報復を恐れ、誰もが一歩を踏み出せないでいた。
その重苦しい空気を破ったのは、店の扉を開けて現れた、俊の静かな声だった。
「時間だ。始めよう」
俊は、黒板の横に立つと、集まった野次馬たちに向かって、張りのある声を上げた。
「皆様、お集まりいただき、ありがとうございます。ご存知の通り、我々の倉庫は、何者かの手によって焼かれました。多くの商品を失い、そして、我々の仲間であるブレンナー支店長が、今も生死の境を彷徨っています」
その言葉に、群衆がざわめく。
「ですが」と俊は続けた。「我々は、決して屈しない。この襲撃は、フォルクナー商会だけへの攻撃ではない。この港町で、誠実に商売を営む、全ての商人たちへの挑戦だと、我々は受け取りました」
俊は、絶望に沈む三人の従業員の肩を、力強く叩いた。
「敵は、我々の商品を燃やすことはできた。だが、我々の誇りを燃やすことはできない。我々がこの数か月で培ってきた、この港町の誰よりも深い商品知識と、お客様を想う心を、奪うことはできなかった! 今日、我々はその全てを、この街の未来のために、無料で提供することを決意した!」
その堂々とした宣言は、しかし、凍り付いた街の空気を溶かすには至らなかった。誰もが、見えざる敵の報復を恐れ、一歩を踏み出せないでいたのだ。
気まずい沈黙が、流れる。従業員たちの顔が、再び絶望に曇り始めた、その時だった。
「……あの」
人垣をかき分けるように、一人の、年の頃はまだ若い、魚屋の青年が、おずおずと前に進み出た。
「俺……親父が倒れて、急に店を継ぐことになっちまって……。お客さんはいつもの安い魚しか買っていかねえで、せっかく仕入れた珍しい魚は、売れ残っちまうんだ。どうすれば、もっと色んな魚を買ってもらえるのか、分からなくて……」
その、か細い、しかし切実な声。俊は、頷くと、香辛料担当の店員に向き直った。
「……聞いての通りだ。君なら、彼にどんな助言ができる?」
促された香辛料担当の店員は、一瞬戸惑ったが、目の前の青年の、すがるような目を見て、意を決したように口を開いた。
「……あ、あの、それでしたら、ただ魚を並べるだけじゃなく、魚ごとに、おすすめの食べ方を提案してみてはいかがでしょうか? 例えば、こちらの白身魚なら、南から来た『海風のハーブ』と一緒に蒸し焼きにすると、風味が増します、とか。こちらの赤身の魚なら……」
最初はたどたどしかったその言葉は、自分の得意な分野の話になると、次第に熱を帯びていく。彼は、そのハーブを使った簡単な調理法や、子供でも食べやすくなる工夫まで、生き生きと語り始めた。
「へえ……! そんな食べ方が……! それなら、お客さんにも勧めやすい!」
魚屋の青年の目が、驚きと、そして感謝に輝いた。
その小さな成功が、連鎖反応を引き起こした。
「じゃあ、俺にも教えてくれ! 船乗りにおすすめの、潮風に強い頑丈な布を仕入れたんだが、どうすればもっと多くの船乗りに知ってもらえるんだ?」
「私の酒場でも、何か新しい名物になるような飲み物は出せないかね? 南国から珍しい果実酒を仕入れたんだが、船乗りたちはいつものエールばかりで、見向きもしてくれんのだ」
堰を切ったように、商人たちが次々と前に進み出る。 店員たちは、最初は戸惑いながらも、自らが持つ知識と経験を、必死で、そして楽しそうに語り始めた。
その光景は、異様だった。全てを失ったはずの店の前で、その店の従業員たちが、街の商人たちの未来を、生き生きとコンサルティングしているのだ。
街を支配していた恐怖の空気は、いつしか、新しい商売の可能性への、熱狂的な興奮へと変わっていた。人々は、フォルクナー商会を、もはやただの被害者として見てはいなかった。
絶望的な状況から立ち上がり、自分たちの成功の秘訣すら惜しげもなく与えてくれる、信頼に値する、得難い商売相手として、その姿を目に焼き付けていた。
その日の午後。診療所のベッドの上で、ブレンナーが、うめき声と共にゆっくりと目を開けた。全身を焼くような痛みが走り、昨夜の炎の記憶が脳裏をよぎる。
(……倉庫は……商品は……)
絶望的な思いで意識が遠のきかけた、その時だった。
窓の外から、不思議な音が聞こえてくる。街の喧騒。そして、その中に時折混じる、熱狂的な拍手と歓声。
(……なんだ……? この、騒ぎは……? 祭りでもあるのか……?)
彼は、まだ消え残る焦げ臭い匂いと、耳に届く陽気な喧騒との、あまりにちぐはぐな状況に、ただ混乱するしかなかった。
その頃、店の前で繰り広げられるその喧騒を、通りの向かいの建物の屋根から、『鉄の鎖』の密偵が冷たい目で見下ろしていることには、まだ誰も気づいていなかった。
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