第12話 鉄の鎖(アイゼン・ケッテ)
祝杯の熱気が嘘のように、商会長室は氷のような沈黙に包まれていていた。俊が突きつけた、あまりにも残酷で、そして巨大な真実。その言葉の重みが、その場にいる全員の肩に、ずしりとのしかかっていた。
最初に沈黙を破ったのは、ラッドだった。彼は、震える手でテーブルの上の報告書を掴むと、まるで獣のように、低い声で唸った。
「……『鉄の鎖』、だと……?」
ラッドは、その名を憎々しげに繰り返した。
「……じゃあ、バルテルスが俺たちの商会を食い物にしていたのも、二十年前にゲルトさんが全てを失ったのも……全部、こいつらの仕業だって言うのか……!」
その瞳には、もはや恐怖はない。あるのは、父の、そして誠実な職人たちの誇りを踏みにじった、見えざる敵への、燃え盛るような怒りの炎だけだった。
「ラッド商会長、お気持ちは分かります。ですが、お気を確かに」
カスパールが、冷静な声でラッドを制する。
「もし、俊殿の言うことが真実ならば、我々の敵は、もはや一商人や、ギルドの一派閥などという生易しいものではない。この王国の根幹に巣食う、巨大な怪物です。下手に手を出せば、我々など一飲みにされますぞ」
「そうだ」とマルコも続けた。「奴らは、二十年以上も、この王都の闇に潜み続けてきた。その力も、繋がりも、俺たちの想像を遥かに超えているはずだ。正面から戦いを挑むなど、自殺行為に等しい」
二人の言葉は、あまりに現実的で、そして正しかった。しかし、俊は静かに首を横に振った。
「いいえ。俺たちは、戦います」
その静かな、しかし揺るぎない一言に、全員が息を呑む。
「もちろん、正面からの殴り合いなどしませんよ。それは、ただの犬死にだ。俺たちが仕掛けるのは、俺たちが最も得意とする、『情報戦』と『経済戦争』です」
俊は、まるでチェスの盤面を眺めるように、テーブルの上の王都の地図を見つめていた。
「考えてもみてください。奴らがなぜ、二十年以上も闇に潜み続けているのか。それは、奴らの力が、光の中では無力だからです。奴らの力の源泉は、不正な取引、情報の独占、そして恐怖による支配。……その全てが、俺たちがやろうとしている『誠実で、透明な商売』とは、水と油の関係にある」
俊は、立ち上がると、壁に掛けられた『再建への道標』を指さした。その木の頂点には、「四億リル」という果実が、もうすぐ手の届く場所に実っている。
「年間売上四億リル。俺たちがこの目標を達成した時、何が起きると思いますか?」
俊は、問いかける。
「フォルクナー商会は、名実ともに、王都で最も影響力のある商会の一つになる。俺たちのやり方……誠実な商売でも、いや、誠実な商売だからこそ、巨大な成功を収められるのだという事実を、王都中の商人たちに見せつけることになるんです」
「それは、奴らが築き上げてきた、腐敗した経済圏への、宣戦布告そのものだ。俺たちの成功は、奴らの存在意義を、根底から揺るすことになる」
その壮大なシナリオに、ラッドも、カスパールも、マルコも、言葉を失っていた。
「だから、俺たちの最初の戦いは、変わらない。まず、この四億リルという目標を、圧倒的な速さで達成する。これが、俺たちの最初の『勝利』です。その勝利で得た金と、そして何より『信用』を武器に、俺たちは次の戦場へと向かう」
俊は、改めて四人の顔を見渡した。
「ラッドさんは、引き続き、この商会の『顔』として、光の当たる場所で、誠実な商売の象徴であり続けてください。カスパールさんとマルコさんには、その裏で、水面下で、奴らの不正の証拠を、一つずつ、確実に集めてもらう。そして、ティア」
俊は、静かに寄り添うティアに、優しい、しかし覚悟を求める目を向けた。
「ティア、君には俺のサポートを頼みたい。これから始まる戦いは、これまでとは違う。危険な役目になるかもしれないが、それでもいいか?」
ティアは、何も言わずに、ただ強く、頷き返した。
「そして、俺は……この戦争の、全てのシナリオを描きます」
それは、フォルクナー商会の、新たなる船出の夜だった。年間売上四億リルという宝島を目指す航海は、いつしか、王国の深い闇に潜む巨大なクラーケンを討ち倒すための、壮絶な戦いへと、その意味合いを変えていた。
その日から、フォルクナー商会は、二つの全く違う顔を持つことになった。
昼の顔は、光に満ちている。俊の指示のもと、ラッドは『生産者フェア』と名付けた、新たなイベントの準備を始めた。フォルクナー商会が取引する、誠実な農家や職人たちを本店の前に招き、自分たちの商品を、自分たちの言葉で、直接お客様に販売してもらうのだ。
これは、商品の品質の高さを証明すると同時に、『鉄の鎖』による搾取的な取引とは真逆の、生産者と共存共栄するという、新生フォルクナー商会の理念を、王都中に知らしめるための、強力なメッセージとなるはずだった。
しかし、その裏側で、夜の顔は、静かで、そして危険な闇へと深く潜航していた。カスパールとマルコは、裏社会との繋がりを駆使し、水面下で『鉄の鎖』の情報を集め、その断片的な情報は、毎夜、俊の元へと届けられた。
そして、数日が過ぎた深夜。俊は、商会長室にラッドたちだけでなく、ルーカスとフィンも呼び出した。
その顔は、これまでに見せたことのないほど、険しいものだった。
「カスパールさんたちの報告だと、どうやら敵は、俺たちの『信用』そのものを、もう一度、内側から破壊しようとしているらしい」
俊は、工房【ノクチルカ】の生命線である、二つの素材の供給ルートを地図の上で指さした。
「次の一手として、奴らは必ず、俺たちの工房の生命線……月長石と、鎧蜘蛛の糸の供給元を、潰しにかかってくるだろう」
俊は、まずルーカスに向き直った。
「ルーカス。君に、最も重要な任務を頼みたい。すぐに故郷の鉱山へ向かってくれ」
「僕が、ですか?」
「ああ。商会の費用で、鉱山と輸送路を守るための護衛を雇うことを、君自身の言葉で、君の家族に提案するんだ。これは単なる取引じゃない。君が、フォルクナー商会の一員として、家族を守るという覚悟を示す、最初の戦いだ」
そして、俊はフィンに目を移した。
「鎧蜘蛛の糸も同じだ。供給源は、お前の親父さんただ一人。彼の工房も、いつ狙われるか分からない。お前の言葉で、彼にも身辺警護の重要性を説き、俺たちの保護を受け入れてもらう必要がある。親父さんを説得できるのは、お前だけだ」
「「はい!」」
二人の瞳には、恐怖ではなく、自らの手で仲間と家族を守るのだという、確かな決意の光が宿っていた。
その時だった。商会長室の扉が、荒々しくノックされた。
息を切らして飛び込んできたのは、血相を変えたラッドだった。
「俊! 大変だ! グランツのブレンナーから、緊急の連絡が入った……!」
その一言で、部屋の空気が凍り付く。俊の脳裏に、最悪のシナリオが、瞬時に描き出されていた。
『鉄の鎖』による、最初の反撃。それは、彼らの予想を、遥かに超える速さで、そして何よりも残酷な形で、始まろうとしていた。
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