第11話 ノクチルカ
俊が次なる一手、『月夜のタイ』の開発を宣言してから、フォルクナー商会は、水面下で、しかし熱狂的に動き出した。
リリアは、女性向けの『星』のデザインとは対照的な、静かで、しかし力強い『月』をモチーフにした、数十枚のデザイン画を書き上げた。フィンは、そのデザインに合う、月長石を埋め込んだ美しいタイリングの試作に没頭。ルーカスは、星詠みの布の技術を応用しつつも、より重厚で、紳士にふさわしい光沢を持つ、新しい布地の開発に取り組んでいた。
オーダーが止まったことで生まれた時間を活用し、職長たちと見習いたちは、来るべき量産再開に向けて、基本技術の徹底的な反復練習に励んでいた。工房の品質は、日に日に高まっていく。
そして、人材の増員と育成を任されマーサはは、工房で一番の成長株となったレオを伴い、貧民街へと足を運んだ。
炊き出しの列に並ぶ若者たちの前に立ったマーサは、しかし何も言わなかった。ただ、隣に立つレオを、厳しいながらも誇らしげな目で見つめるだけだった。
身綺麗な服を着て、背筋を伸ばして立つレオの姿に、若者たちは好奇と、そして少しの嫉妬が混じった視線を向ける。
「……レオじゃねえか。なんだい、その恰好は。こっちの暮らしを忘れたとでも言いてえのか?」
群衆の中から、レオのかつての仲間であろう青年が、揶揄するような声を上げた。
その声に、レオは静かに振り返った。その瞳には、以前のような荒んだ光はなく、穏やかで、しかし揺るぎない自信の光が宿っている。レオは、何も言い返さなかった。ただ、自らの傷だらけの手を、若者たちの前に、ゆっくりと広げてみせた。
「……この手は、変わっちゃいねえよ」
レオの声は、静かだったが、その場にいる全員の耳に、確かに届いた。
「相変わらず、傷だらけで、不器用なままだ。だがな、前とは違う。この手はもう、何かを奪うためじゃねえ。誰かを笑顔にするためのものを、生み出すための手になったんだ」
彼は、マーサの方を一度だけ見ると、再び若者たちに向き直った。
「俺は、字も読めねえ。だが、今は自分の仕事に誇りがある。……もし、お前らの中に、今の暮らしにうんざりして、自分の手で何かを掴み取りたい奴がいるなら、俺たちの工房の門を叩け。それだけだ」
その言葉は、どんな甘い言葉よりも、若者たちの心を強く揺さぶった。レオという「生きた証拠」の存在が、何よりも雄弁に、フォルクナー商会の『本気』を物語っていたのだ。
そして、三ヶ月後。運命の日が訪れた。
一時的にストップしていた『イニシャル・リボン』のオーダーが再開され、そして謎に包まれていた新商品が発表されるという噂を聞きつけ、新店舗【ノクチルカ】の前には夜明け前から、王都中の人々が殺到していた。
店の扉が開かれると、リボンの再開を待ちわびていた貴婦人たちが、フィンが作り上げた光と木が調和した幻想的な店内へと、期待に胸を膨らませながら吸い込まれていく。そして、その中央に飾られた、一つの商品に、全ての視線が釘付けになった。
『月夜のタイ』
深い夜の色を映した布地に、月長石のタイリングが、静かな、しかし圧倒的な存在感を放っている。
「本日より、『イニシャル・リボン』のオーダーを再開いたします。そして……」
フロアマネージャーのエラが、満面の笑みで高らかに宣言した。
「そのリボンと同じ星々の輝きと願いを込めて作られた、紳士たちのための『月夜のタイ』、ただいまより発売です!」
その言葉を合図に、店は熱狂の渦に包まれた。リボンのオーダーを待ちわびていた貴婦人たちが、我先にとカウンターに殺到する。その対応にあたっていたのは、マーサたち職長から厳しい指導を受け、今や見違えるように成長した、工房【ノクチルカ】の若き職人たちだった。
「はい、お客様! イニシャルのデザインはこちらの帳面からお選びいただけます!」
かつては俯いてばかりいたレオが、今では自信に満ちた笑顔で、客を巧みにさばいている。彼らの生き生きとした姿もまた、新生フォルクナー商会の、新しい力の象徴だった。
その隣では、貴婦人たちのパートナーである紳士たちが、『月夜のタイ』の、その魔力にも似た美しさに、心を奪われていた。
「……素晴らしい。このタイを締めて臨めば、明日のギデオン商会との商談も、成功するかもしれんな」
一人の裕福そうな商人が、そう言って『月夜のタイ』を手に取った。
俊が仕掛けた「商談が成功する」というジンクスは、すでに商人たちの間に、まことしやかに広まっていたのだ。
その日の夜。閉店後の静まり返った店内で、仲間たちは、信じられないという表情で、カスパールがまとめた売上報告を囲んでいた。
たった一日で、商会の月間売上記録を、あっさりと塗り替えてしまったのだ。
「……やったな、俊」
ラッドが、感極まったように声を震わせる。
俊は、その報告に静かに頷くと、壁に掛けられた『再建への道標』の前に立った。彼は、木の頂点にある「四億リル」という果実の、すぐ根本に、ひときわ大きく、そして力強く輝く、一枚の若葉の印を貼り付けた。
この勢いが続けば、今月中にはゴールに達する見込みだった。
「ええ。ですが、ラッドさん」
俊は、窓の外で、静かに輝き始めた王都の夜景を見つめていた。
「俺たちの本当の戦いは、ここからです」
その瞳は、もはや商会の未来だけではない。この王国の、深い闇の先にある、本当の『夜明け』を、すでに見据えているようだった。祝杯の熱気が冷めやらぬ、その深夜。俊は、ラッド、カスパール、マルコ、そしてティアを、改めて商会長室に呼び出した。
「皆、浮かれているところ悪いが、聞いてほしいことがある」
その、あまりに真剣な声色に、四人の顔から笑みが消える。
俊は、金庫から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、彼が特別監査役として、誰にも明かさずに続けてきた、極秘の調査報告書だった。
「特別監査役として、俺は商会の全ての記録に目を通す権限があった。バルテルスの件で浮かび上がった金の流れを追う中で、フィンの親父さん、ゲルトさんを陥れた二十年前の事件の記録に、偶然行き当たったんだ」
俊は、淡々と、しかし重い口調で語り始めた。
「最初は、全く別の事件だと思っていた。だが、カスパールさんたちの情報網と、ギルドに残されていた古い記録を照らし合わせていくうちに、奇妙な一致点が見つかった。金の流れ、消えた商人たちの行方……全てのピースが、ようやく一つに繋がったんだ」
俊は、報告書に書かれた、一つの名前を指さした。
「バルテルスも、ゲルトさんを裏切った商人も、駒に過ぎなかった。全ての背後で糸を引いていたのは、王国の経済を裏から牛耳る、一部の腐敗した大貴族と商人たちで構成された、巨大な裏組織……奴らは自らを『鉄の鎖』と呼んでいるそうだ」
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